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死神少女が命の源  作者: 和泉 きよ


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10/25

10.死んでも消えない未練

 人は、死んだら何も残らない。


 湊は、以前そう思っていた。


 肉体がなくなる。


 声がなくなる。


 笑った顔も消える。


 名前だけが残る。


 写真だけが残る。


 記憶だけが残る。


 そして、その記憶さえも、時間が経てば薄くなる。


 だから。


 死んだら、全部終わる。


 それでいいと思っていた。


 むしろ、そのほうがいいと思っていた。


 けれど、死神の仕事を始めてから、その考えは少しずつ変わっていた。


 死んだ人間は、案外、たくさんのものを残していく。


 プリン。


 シュークリーム。


 授業のプリント。


 読みかけの本。


 誰かへの謝罪。


 返せなかった借り。


 言えなかった「ありがとう」。


 そして。


 どうでもいいような記憶。


 今日、ミコと向かった場所は、古いアパートだった。


 二階の部屋。


 そこに、一人の女性がいた。


 三十代くらい。


 窓のそばに座っている。


 彼女はずっと、スマートフォンを見ていた。


「何をしているんですか?」


 ミコが聞く。


「待ってるの」


「誰を?」


「弟」


「いつ来ますか?」


「今日」


 女性は答えた。


「今日、来るって言ってたから」


 湊はスマートフォンを見る。


 画面には、短いメッセージが表示されていた。


『今度の土曜日、姉ちゃんの好きなケーキ買ってく』


 そのメッセージは、何日も前のものだった。


「弟さんは?」


 湊が聞いた。


「仕事」


「じゃあ、もうすぐ?」


「うん」


 女性は笑った。


「だから待ってる」


 ミコが湊を見る。


 何も言わない。


 湊も何も言わなかった。


 死者は、明日の話をしない。


 そう聞いていた。


 でも。


 この女性は「今日」の話をしている。


 弟が来る今日。


 ケーキを食べる今日。


 何かを話す今日。


 死んだことを知らないまま、待っている。


「弟さんに、何か伝えたいことはありますか?」


 ミコが聞いた。


 女性は少し考えた。


「別にないよ」


「何も?」


「うん」


「でも、待っているんですよね」


「待ってる」


「どうして?」


「弟だから」


 それだけだった。


 湊はその答えを聞いて、少し変な気持ちになった。


 理由になっていない。


 でも、理由としては十分なのかもしれない。


 人間は、ときどき。


 「好きだから」


 「家族だから」


 「嫌いだから」


 「なんとなく」


 そんな説明にならない説明で、生きている。


 女性は窓の外を見た。


「ねえ」


「はい」


「弟、ちゃんとケーキ買ってくるかな」


 ミコは答えられなかった。


 湊も答えなかった。


 しばらくして。


 遠くから、車の音がした。


 女性が立ち上がる。


「あ」


 嬉しそうな声。


「来た」


 けれど。


 車は通り過ぎていった。


 女性は少しだけ残念そうな顔をした。


「違った」


 それから、また窓のそばに座った。


「じゃあ、もう少し待つ」


 湊の胸が苦しくなった。


「ミコ」


「はい」


「この人は……」


「はい」


「弟が来るまで待たせてあげられないの?」


 ミコは首を横に振った。


「死者は、生者の時間には戻れません」


「でも」


「彼女が待つことも、彼女の未練です」


「じゃあ、どうするの?」


「見送ります」


「待ってるのに?」


「はい」


「弟が来るかもしれないのに?」


「来るかもしれません」


「じゃあ……」


「それでも」


 ミコの声は静かだった。


「私たちは、待つことを終わらせなければなりません」


 湊は女性を見る。


 彼女はまだ窓の外を見ている。


 来るはずのない弟を待っている。


 でも。


 それは、本当に無意味なのだろうか。


 湊には分からなかった。


「最後に」


 ミコが女性に言った。


「弟さんに、何か伝えますか?」


 女性は少し考えた。


 そして笑った。


「ケーキ、楽しみにしてるって」


 それだけだった。


 ミコが頷く。


 女性は立ち上がる。


 窓の外をもう一度見る。


「じゃあ、行こうかな」


 そう言って。


 彼女は消えた。


 部屋には誰もいなくなった。


 テーブルの上には、スマートフォンだけが残っている。


 湊は画面を見つめた。


 弟からのメッセージ。


『今度の土曜日』


 その土曜日は、もう来ない。


 少なくとも。


 彼女にとっては。


 部屋を出る。


 外は夕方だった。


「ミコ」


「はい」


「未練って、なくしたほうがいいのかな」


 ミコは歩きながら答えた。


「分かりません」


「またそれか」


「死神ですから」


「便利だな」


「はい」


 ミコは少し笑った。


「でも」


「うん」


「未練があるから、人間は誰かを覚えていられるんじゃないでしょうか」


 湊は黙った。


 自分にも、未練がある。


 学校。


 漫画。


 コンビニ。


 プリン。


 ミコとの時間。


 そして。


 まだ名前も知らない誰かとの、これから。


 以前なら、それを弱さだと思った。


 何かに執着しているから、苦しくなる。


 だから。


 何も期待しないほうがいい。


 何も好きにならないほうがいい。


 何も失いたくないなら、最初から何も持たなければいい。


 そう思っていた。


 でも。


 それは、生きることと少し似ている。


 生きているから、失う。


 好きになるから、傷つく。


 期待するから、裏切られる。


 それでも。


 何かを好きになってしまう。


 人間は、そういう面倒くさい生き物なのかもしれない。


「湊」


「ん?」


「あなたにも未練がありますか?」


「……あるよ」


「何ですか?」


 湊は少し考えた。


 以前なら答えられなかった。


 でも今は。


「明日」


 そう答えた。


「明日?」


「うん」


 ミコが笑う。


「それは、未練とは違うんじゃないですか?」


「そうか?」


「未練は、過去に残したものです」


「じゃあ、俺のは何?」


「未来への期待」


 湊は少し考えた。


「……期待か」


「はい」


「怖いな」


「何がですか?」


「期待すると、外れるかもしれない」


「そうですね」


「嫌なことが起きるかもしれない」


「はい」


「それでも?」


 ミコは頷いた。


「それでもです」


 湊は空を見た。


 夕焼けが薄くなっている。


 夜が近づいている。


 でも。


 夜のあとには朝が来る。


 朝が来れば、学校がある。


 学校があれば、嫌なこともある。


 嫌なことがあれば、逃げたくなる。


 それでも。


 冷蔵庫にはシュークリームがある。


 明日の自分のために。


 湊は笑った。


「じゃあ、帰るか」


「はい」


 二人で歩き出す。


 死んでも消えない未練がある。


 そして。


 生きているからこそ生まれる未練もある。


 その違いが、湊には少しだけ分かってきた。


 未練は、人生を縛るものだと思っていた。


 けれど。


 もしかすると。


 未練とは、


 「まだここにいたい」


 と、人生に触れた跡なのかもしれない。


 その夜。


 湊は冷蔵庫からシュークリームを一つ取り出した。


 一口食べる。


 甘かった。


 昨日と同じ味だった。


 でも。


 昨日とは少し違う味がした。


 湊は思った。


 明日も食べよう。


 その考えが浮かんだ瞬間。


 胸の奥に、小さな何かが灯った。


 希望と呼ぶには、あまりにも小さい。


 でも。


 確かに。


 消えなかった。


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