第四章 オルレアンの少女
シノンより、いざオルレアンへ!
ジャンネットがシノンに到着してから2ヶ月が経過した。
その間ポアチエに移動し審問委員会に有された期間は約1ヶ月。残る約1ヶ月は顧問官会議の判断に有された時間であった。そして遂に4月22日、遠くヴォークリュールのメッツ宛てに100ルーブルが還付されると同時に、ジャンネットのトゥール行きが命ぜられた。
トゥールはシノンより北東40km、ロワール河畔にある街である。1417年、放蕩なイザボウ妃がアルマニャック派によって追放されたところでもある。川を更に遡ると、ブロア、ボージャンシィ、マン、更にその先にオルレアンが存在する。
この地でジャンネットのために新しい甲冑と軍旗がつくられた。
軍旗は一般に身分の低い騎士の持つもので、ペノンと呼ばれるものだった。形は細長い二等辺三角形になっている。ジャンネットのペノンには、全体的にクリーム色に染められた布に、二人の天使が王家の紋章を両手で支えつつ飛んでいる図が描かれていた。
「ジャンネットには似合わないな」
旗を見たラソワの感想はこの一言だった。
“確かに俺は天使のイメージじゃあないよな”
彼女もそう思った。決して趣味がいいとは言えない。だが託された権利は大きなものだ。ペノンを持つことができる権利はペノネージと呼ばれ、名目的にも実質的にも小部隊を指揮することができる。言わばジャンネットは、オルレアン補給部隊の一翼を担う責任者となったのである。
旗と甲冑が出来上がったトゥール出発の前夜、ジャンネットは夢を見た。
彼女は逃げていた。
何から逃げているのか、何が襲ってきているのか・・・はっきりしない。
実体のない何者かから彼女は逃げようとしていた。
“ラソワ―――!”
走る先にラソワの姿があった。周囲が闇に閉ざされている中、光を背後に、黒いシルエットを浮かべた彼の姿。
ジャンネットはそれに向かって必死に走った。
途中ジャンネットの足が縺れた。
彼女はその場に転びそうになった。
何者かの力が加わり、彼女が転ぶのを防いだ。
振り返ると―――
血塗られた青白い顔があった。
その顔には苦悶の表情と絶望感が見え隠れしていた。
そして何より彼女が驚愕したのは、それがジャンネット自身だったからである。
“ラソワ―――!”
ジャンネットは光の方向に眼を向けた。
そこにはラソワの姿は既になく、教会があった。
何処かで見たことがある。
教会の姿は次の瞬間変わっていた。
五つの十字架が刻まれた剣―――それがジャンネットの手に実体化した。
無我夢中で彼女は剣を振り回した。
彼女の身体に圧力を与えていた力は弱まり・・・
気が付けば足元に彼女とラソワが血を流して横たわっていた。
肩で息をしながらゆっくり振り返ると、光の中に笑顔を浮かべるラソワがいた。
ジャンネットは何故か無性に悲しくなった。
そして暗転―――
翌朝、ジャンネットはラソワとともにサント・カトリーヌ教会に足を運んだ。シノンに入城する前に直営した場所の教会が、彼女が夢で見た教会だった。
「何だかやらせ臭いよ」
ラソワは祭壇の近くの土を掘り返しながら言った。
「俺もそう思う。演出がすぎるからね」
教会の司祭とともに土が掘り返される様子を見守りながらジャンネットは頷いた。彼女のドムレミイ村出発から何らかの意志が働いているというのは漠然と理解できたが、神剣の出現に至ってはやりすぎだと彼女は思った。
「まっ、くれるというのは貰っておくよ」
「神様も気前がいいねぇ」
間もなく土の中から五つの十字架を刻んだ、長さ1mばかりの錆びた剣が出てきた。ラソワはそれをジャンネットに手渡した。
「なまくらじゃあないかな」
彼女はハンカチーフで剣を磨いた。土と錆びは綺麗に落ち、妖しく光る剣の素顔が見えた。ジャンネットが歯に沿って指を走らせると、それ程力を加えたわけではないのに指先がパックリ切れ、血が流れた。
彼女の背中に悪寒が走った。
とてつもない悪意が感じられ、彼女は眉をひそめる。
“こりゃやばいな”
ジャンネットは思った。
教会の僧侶達は彼女に赤いビロードの鞘を贈った。またトゥールの司教は話を聞き、金の布で作った鞘を贈ったが、彼女は別に革製の丈夫な鞘にそれを収めた。実用的でないし、何よりももったいないと彼女は考えたのだった。
「武具は武具だからね」
二つの鞘をラソワに預けながらジャンネットは言った。
風が吹いた。
淀んだ空気を吹き払うように清涼な風が北の平地に吹き、ロワール河を渡っていく。風は南岸の崖に当たり、上空に吹上げられ、トゥールの街に至る。
復活祭を過ぎたフランスは、花冷えと言われる時期に入る。春の訪れを感じさせるぽかぽか陽気から一転して再び寒さをぶり返すのだ。ジャンネットのトゥール出発の日、4月26日もそんな季節の中の一日だった。
河岸に立つジャンネットの髪が、冷たい風によって微かに乱れた。
彼女は新調した甲冑を身に付け、「自分のイメージではない」と評したペノンを片手に白馬に跨っていた。
「それじゃあ行こうか」
ジャンネットの一声で、一行はロワール河を渡りはじめた。従者のクート、レイモン、特別司祭のパスクレル、そしてラソワが今回の一行の陣容だった。
ジャンネットの出発の噂を聞いたトゥールの民衆が集まる中、彼らは進んだ。ラソワはふと、ジャンネットに何のリアクションもないのを不思議に思った。ヴォークリュール、オーセール、ジアン、そしてシノンでの彼女の行動を見ていれば、今回は嫌に素っ気無い気がした。歓呼の声に愛想よく手を振っているものの、そこには彼女の芝居めいた演出は全く感じられなかった。ロワール河を渡り終え、北岸の道をブロアに向けて歩きはじめて。ラソワはそのことを尋ねた。
「元来俺は狂信ってものを好きになれない」
ジャンネットは言う。
「自分を認めさせる武器としてそれを使ったけどこれからはあまり必要ないだろうからね」
「でも、それはこれかも十分武器として使えない?」
「駄目だよ、ラソワ・・・」
遠くを見る眼をしてジャンネットは頭を振った。
「狂信っていうものは健康な精神を蝕んでしまう。今まではどうにかうまくやっているけど、どこかでつまずいた時、それにたよりすぎていると反動は大きくなる。恐らく味方によって殺されるぐらいでは済まないだろうね」
そう言ってジャンネットは微笑した。そこに痛々しいものがあるのをラソワは感じ取った。彼女は自分の未来をも知っているのではないかと彼は思った。
「それに、これからオルレアンでは嫌というほど熱狂的な民衆の感情とぶつかることになる。それまで少しの間は大人しくしたいのさ」
確かに破天荒なジャンネットの行動に彼自身振り回され、しかし結局は彼女自身の技量で難事を乗り切っている事実にラソワは気付いた。そしてそのことで、彼の内部で信頼と呼べるものとは違ったものに変容しつつあるジャンネット観を発見して驚いた。
それが裏切られた時―――ジャンネットが失敗を犯した時―――自分がどういう行動をとるか考えてみて、彼はゾッとした。それが安易に憎しみに変わることを理解したからである。だが、もともと民衆を煽ってジャンネットを出発させたのは彼だった。自戒すべきだとラソワは思った。
ドムレミイ村にいた頃のジャンネットへの愛しみを取り戻そう。たとえ誰からも理解されないとしても・・・
「ジャンネット・・・」
ラソワは先を行くジャンネットに呼び掛けた。
「ン?」
彼女は立ち止まって振り向いた。
「好きだよ」
その一言でジャンネットはズッこけた。思わず落馬しそうになる。
「何だよ、急に」
怒ったように言うジャンネットの眼は反面笑っていた。そこには先程の暗さを漂わせていた微笑の影はなく、ラソワは内心ホッとした。
トゥールからブロアまでは約70kmの行程である。
ジャンネット一行は翌日の4月27日にブロアに着き、待機していた部隊と合流して28日にオルレアンへと向かって出発した。総勢12000・・・・補給部隊という性格上、実兵力は3000程度であった。
オルレアン攻防戦。
それは1428年10月12日に始まる。イギリス軍指揮官はサルスバリイ伯爵。兵力は4000の弓兵と1000の騎士団から成り立っていた。
この戦いの目的ははっきりしない。
当時のオルレアンは王太子の直轄領ではなく、オルレアン公領の首府である。そして当のオルレアン公シャルルはイギリス軍の捕虜として、アザンクールの戦い以後囚われていた。高額の身代金を要求されて・・・。騎士道から言えば、領主が既に捕虜となっている領国には攻め込まないという暗黙の了解が存在していた。その前例を犯してまでオルレアンを急襲した理由は、後の歴史家をしてイギリス軍のフランス全土掌握が目的と言わしめているが、それは間違っている。
フランスの占領地を統括していたベットフォードは述べる。
「オルレアンの攻囲はいかなる意見によるものか、神のみぞ知る」
と。即ち、最高責任者である彼の知らないうちに兵が動いたのだ。彼はこれ以上南に版図を広げることの危険性を知っていた。
攻勢終末点。
国力、動員力、生産力、輸送力等によって決まる戦略上の限界線を彼は理解していたのだ。潜在的に残るフランスの資金力は、現段階のイギリス占領軍の5倍あると言われていた。たとえこの数字が誇張であるにしろ、決して無視できるものではない。彼はできることなら占領地の地固めをしたかった。外へ触手を伸ばすよりも、内の統制と国力の増強を第一義と考えていた。
では何がオルレアン攻防戦にイギリス軍を駆り立てたのであろうか?
それはイギリス王室内の不和と陰謀に他ならない。幼少のヘンリー6世を補佐するベットフォードと大司教ウィンチェスターの間は不仲であった。この軋轢の中政策は混乱し、急進的な貴族が突っ走った結果、オルレアン攻防戦が起こったのではないかと考えられる。
「上兵は謀を伐つ。その下は城を攻む」
最上の戦争は敵が陰謀を巡らせているうちに破ること。最もまずいのは敵の城を攻めることである。孫子の兵書に書かれていることであるが、急進的な貴族が動いたが為に、イギリス軍はオルレアンを急襲するに当たって作戦らしきものを描いていなかった。
ただ攻めるのみ。
10月17日、オルレアン市内に124発の砲弾が撃ち込まれた。この頃の大砲は一発を撃つのに一時間以上を要することを考えると、これは大変な物量戦を意味していた。オルレアンにも大砲が備えられていて、イギリス軍に応戦することで戦闘は苛烈を極めた。オルレアンの守備隊長は書を王太子に送り、急を告げた。
2週間後、激しい戦闘の中、イギリス軍の将サルスバリイ伯爵はオルレアン城壁から撃たれた砲弾に倒れる。飛来した砲弾が彼の顔面を直撃し、左顔面を無くした彼は暫く立ち尽くしていたものの、血煙のなかにゆっくりと崩れ落ちた。この時イギリス兵は防備の確立した城を攻めることの愚を知った。指揮官の死が、当時から2000年前に東洋の戦略家が残した言葉を彼らに理解させたのである。
指揮官が死んだその日、ロワール河に架かる橋の橋頭堡トゥーレルを奪取し、オルレアンと南の自由地域を繋ぐ道を切断することに成功。これ以後イギリス軍はそこを頑丈な砦に改造する。イギリス軍の指揮はサルスバリイに代わりシュリュウスベリイ伯タルボットが当たった。彼は手に入れたトゥーレルを拠点にオルレアン周辺に砦を築く。更に部隊を分散させ、河に沿った上流のジアルジョー、下流のマン、ボオジャンシィに拠点を確保する。彼はオルレアンの補給路を断ち、兵糧攻めを決め込んだのだった。
しかし、彼は過ちを犯していた。
確かに戦術的にオルレアンを孤立させるという考えは間違っていない。が、戦略的に見てこの作戦には兵力が絶対的に不足していた。攻城戦を仕掛ける場合、圧倒的な戦力で敵の補給路を断ち、加えて外からの圧力に耐えなければならないのだ。けれども、タルボットの望む援軍は得る術がなかった。最高責任者のベットフォードから望まぬ戦いである。彼は遠征軍の責任代理をサフォークに決め、黙認した。責任を押し付けられたサフォークは混乱する政局の中、全く動けなくなってしまった。このことにより、オルレアンの包囲軍は完全ではなく東のルートを開けてしまうことになる。
ここから第一のオルレアン援軍、私生児ジャンが入城する。
また孫子の言葉を引用しよう。
「勝兵はまず勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵はまず戦いてしかる後に勝ちを望む」
だが一方のフランス軍も足並みは揃わなかった。
戦争の勝利には3種類のものがある。実戦力がぶつかり合い。勝敗を決する戦術的勝利。国力、動員力、生産力、輸送力等のすべての面を勘案し、作戦を組み立て、長期的な視野から最終的に勝利を手にする戦略的勝利。自国の国益上の攻防を、戦力を使わずしてテーブルの上で行い勝ち取る政治的勝利がそれである。オルレアンがイギリス軍の攻撃を受けた時、王太子とその側近が選んだ道は三番目の道だった。彼らの頭には1424年に行われたヴェルヌイエ戦の惨敗の記憶が強く苦く残っていて、正面からぶつかり合うことを避けようと考えた。
そこで内部の急進派達を宮廷から追放し、ブルゴーニュ公フィリップとの和解工作をもって彼をイギリス軍から分断しようとした。反ブルゴーニュ公先鋭のアルマニャック派の解体が密かに行われることになる。これを実行したのは王太子の母后―――ジャンネットが恐れたヨランド・ダンジョー妃だった。彼女はまずリッシュモン伯爵を宮廷に復権させた。リッシュモンは百年戦争当時、数奇な運命に踊らされていた。彼はブルターニュ公爵の兄弟でありながら、一方で妃をブルゴーニュ公家から迎え入れていたのである。立場上彼は王太子派でなければならなかったが、そのことを理由に宮廷を追放されていたのだ。そんな彼を拾い上げ、ヨランドは彼に大督軍の称号を与えることで、ブルゴーニュ公との和解を謀った。
イギリス軍とブルゴーニュ公との関係は、この当時、とても友好的とは言えなかった。イギリスランカスター家のフランスにおける勢力は年を経る毎に強大化し、ブルゴーニュ公の領地であるフランドル地方の税収入に対しても悪影響を及ぼしていた。彼はこれ以上ランカスター家がヨーロッパ大陸でその権力を拡大することを恐れ、ベットフォード公の暗殺指令を出していたことは歴史上に知られている事実であった。
オルレアン攻防戦がある程度早急に決着していれば、事態はここまで深刻化しなかったであろう。イギリス軍が勝てば、王太子はドーフィネ地方に難を逃れるか、スコットランドに亡命するかをして、歴史はジャンネットの登場を許さなかった筈だ。更にはイギリス軍が攻勢終末点を越えることで、今度はブルゴーニュ公とイギリス軍との戦闘が開始されていたかも知れない。反対にフランス軍が勝てば、すぐさまベットフォード公が戦後処理を行い、フランス南部への版図の拡大を早急に諦め、ランカスター家内部の体制の確立と国力の強化をそれこそ喜んで行ったに違いない。
だが、前述のタルボットの戦略が災いして、中途半端な膠着状態に陥ってしまった。動けないフランス軍とイギリス軍、そして事態を静観するブルゴーニュ公軍の三竦みの状態がオルレアンで半年間続いたこれが所以である。
オルレアン攻防戦は奇妙な戦争だった。
政治的な勝利を願うフランス側は、ジャンネットが出発する前までに一度しか援軍を送っていない。それもオルレアンの外のサン・プェール、サン・ヴァイサン、サン・ウーベールの村々の住民がオルレアンに逃げ込んだために必要となった補給物資と軍需品を送る補給部隊のみなのだ。この時、オルレアン軍指揮官、私生児ジャンも入城するのであるが、彼らにしてみればイギリス軍とブルゴーニュ公軍を引き離す時間稼ぎと、ブルゴーニュ公を刺激しない配慮があってのことだろう。
もっと酷い話も伝わっている。
1428年12月のクリスマスの日、イギリス軍司令官であるサフォークは、ジャンに吟遊詩人を貸して欲しいと丁重に頼んでいる。この願いに応えジャンはバイオリン弾きを送った。また或る日はサフォークの方が、オルレアンの役人やジャンのもとに無果花やなつめやしなど珍しい果物で一杯の籠を届けさせる。その代わりに彼は自分の部屋着の裏地に使う黒いビロードの布を所望している。
何とものんびりした戦争であったことだろう!
事態が風雲急を告げたのは1429年2月に入ってからだった。
動かないイギリス軍に対してオルレアン市庁は、ブルゴーニュ公フィリップに休戦の調停依頼を申し込んだ。態度の軟化しつつあるフランス宮廷の内情もあり、フィリップは奔走した。だがそれはベットフォード公に一蹴される。彼にしてみれば、動きのないフランス軍が苦し紛れに休戦を望んでいると見做し、オルレアン陥落が間近いと錯覚したのだ。この仕打ちに腹を立てたフィリップは、攻囲軍のうちから傭兵として派遣していた300名のピカルディ人を撤退させ、溜飲を下げた。
この報復に驚いたベッドフォード公は、慌てて部隊を組織し補給物資とともにパリからオルレアンに援軍を送る。
ジャンネットがヴォークリュールを出発したその日、その援軍とフランス、アルマニャック派軍との間でルーヴレイにおいて戦闘が起こった。俗に言う「鰊の戦い」である。
イギリス援軍指揮官はフォールスタッフ。彼はヘンリー5世に仕え、アザンクールの戦いに従軍し数多くの武勲を立てた。またヘンリー6世の治世にはノルマンディの統治を命ぜられる。大変勇敢な武将だったという記録が現在にも残る。
それを迎え撃つフランス軍には統一された指揮官はいない。彼らは徐々に宮廷内の立場を追われつつあることに苛立ち、現状を打開するために軍を動かしたに過ぎないアルマニャック派の貴族達だった。よって彼らは戦術すらも持っていない。
結果は目に見えて明らかであろう。
予想を裏切ることなくアルマニャック派軍は大敗した。内部で混乱と不和が生じ、特にクレルモン伯爵は職務を放棄し、翌日にはすべてを見捨てて、更には自分の部隊に多くの仲間を引き込んで戦場を去る。
「我は必ず帰ってくる」
オルレアンを去る時になされた彼の宣言は二度と実現されることはなかった。
オルレアンの無名市民の手による「篭城日誌」には、この頃からイギリス攻囲軍の強化と、それに伴い補給路の確保が難しくなりつつあることが書かれている。そしてまた、救国の乙女、ジャンヌ・ラ・ピュセルの噂が流れ、オルレアンを救うのは彼女しかいないという意識が芽生え始めたということも。
宮廷から外へジャンネットを追いやった大法官ルニョーの措置は結果的に正しかった。それは彼女を支持するヨランド妃やルネと全く同じ立場の判断だったのである。彼らの目的は、イギリス軍とブルゴーニュ公軍を反目させ、最終的にブルゴーニュ公と手を結び、イギリス軍を撃退することにあった。ジャンネットは単にそれまでのオルレアンの精神的な補給物資でしかなかった。
彼女が勝ってしまうまでは。
「さぁ、敵を蹴散らすぞ!」
ジャンネットは意気揚々、オルレアンの道を進んでいた。
「違うだろ、ジャンネット。まず降伏を勧告するのが先だって」
ラソワは訂正する。何とものんびりした会話であることか。苦虫を潰したような表情をして二人を見たのは、部隊の実質上の指揮官ラ・イールだった。彼の本名はエティエンヌ・ド・ヴィニョールというガスコーニュ生まれの歴戦の騎士である。
「あのなぁ・・・おまえ達・・・」
彼は楽天的な二人に向かって口を開いた。
「この部隊の性格を知らんのか。飽くまで補給を目的とした部隊でしかない。実戦力は四分の一にしかすぎん。戦闘を仕掛ける余裕などない」
ラ・イールの言葉にジャンネットの瞳がキラキラと輝いた。どうやら彼女は自分の作戦を聞いて貰いたくて、うずうずしていたらしかった。
「いい作戦がある! 聞いてくれるか!」
彼女には実戦経験がない。戦争の―――特に大部隊の戦力を操る機会がなかったことは言うまでもない。経験者に自分の組み立てた戦術を分析して貰う機会を彼女は待っていたのである。
ジャンネットの勢いにラ・イールはたじろぎ、そして苦笑した。
その表情には、こんな小娘にどんな作戦が立てられるのかという馬鹿にした感情がありありと浮かんでいたが、興奮していたジャンネットは気付かなかった。
「まず指揮系統を中央に、実戦部隊を八方に布陣する。次にその周辺を補給物資で固める」
“ほぉ、とすると、まずおまえさんが外翼にいることになるな”
ジャンネットの従軍の理由をある程度知っているラ・イールは思った。
「敵が攻撃を仕掛けるまでは動かない。持久戦になった場合は補給物資で食いつなぐ。そうして業を煮やして敵が攻めてきた時は、八方に布陣した部隊を右、もしくは左に旋回させて弓で突進する敵側面を波状攻撃する。家畜やその他の物資が急激な旋回に巻き込まれる中で、敵は混乱し、我々は短時間のうちに勝利する」
「馬鹿な」
ラ・イールはジャンネットが描いたシナリオに対して頭を振った。彼の頭では彼女の戦術はナンセンス以外の何物でもなかった。彼の頭には従来の重装騎兵の突撃による戦術しかインプットされていない。そのスタイルを変えることは彼にはできなかった。いや、彼だけではなく、これまでヨーロッパで名を馳せた偉大な傭兵家達もジャンネットの戦術には異を唱えるだろう。それがヨーロッパでの戦術であったのだから。
だが、古くは中国の三国時代、ジャンネットが提案した戦術を確立させた軍事的天才がいた。
名を諸葛孔明という。
素人ながら彼女の軍事的センスは本物だった。
理解はされなかったが。
「駄目かな」
ジャンネットは肩を落とした。その落ち込み様があまりにも大きかったのでラ・イールは慌てた。彼自身、美人を泣かせる趣味はなかった。
「いいや、ジャンヌ、細部を詰めればいい戦術になりうる。まっ、気を落とすな」
彼はそういい残し、逃げるようにその場から離れた。
「いい作戦だと思ったんだがなぁ」
「いい作戦でも部下がそれに従わなければどうしようもないよ」
ラソワの言葉は正論だった。
「今の状態じゃあね」
そう、ペノンを持たされたとは言え、ジャンネットには部隊の指揮権がないに等しかった。民衆の支持を得て部隊には彼女を信頼する動きがあるにはあるが、どうも歴戦の騎士達には猜疑心が残っている。尚且つ敵と正面からぶつかることを考えず、ブルゴーニュ公との和解を進めている宮廷内の事情を知る者にとっては、短絡的なジャンネットの考えには同調できない。自然と不協和音が生じることになる。
「勝てるんだけどなぁ」
ジャンネットは何度目かの愚痴を漏らした。
彼女は飽くまで戦って勝つことを考えていた。
オルレアン到着と同時に起こるであろう戦闘を想定しての、ラ・イールへの進言だった。だから、北側、ロワール河の対岸にオルレアンが見えた時には、唖然とすると同時に怒った。
「何故敵を攻めないんだよ!」
政治的な事情を知らない彼女はラ・イールに詰め寄った。
「最初に言った筈だ。この部隊は補給を目的としている」
ラ・イールは冷やかに言った。
「戦うことが目的ではない」
部隊は大きく迂回してロワール河岸に出て、そこから船でオルレアンに向けて出帆する。言わばイギリス軍の手薄となっている東のブルゴーニュ門から入城する予定となっていた。
「それはおかしいぞ!」
ジャンネットは執拗だった。
「実戦兵力は3000いる。これだけいれば十分じゃないか。敵の兵力は多いと言っても、オルレアン周辺に幾つもの砦を築いて待機しているだけに兵力は分散されている。そこを各個撃破すれば道は開ける筈だ!」
ラ・イールは返答に困った。ジャンネットの言い分は確かに正しい。本当に勝つつもりである程度の犠牲に目を瞑るとするならば、彼自身もそうするだろう。しかし宮廷からは待てとの指令が出ている。彼にしてみれば、安全に補給物資をオルレアンに運び込み、しばしの間持久戦に入るのが最善の道なのだ。
この時ジャンネットは戦術のみを述べていた。だがラ・イールには戦略と政治がそれに加わり、身動きできないでいたのである。彼は説明に窮した。
その時、間に入ったのはラソワだった。
「まぁまぁジャンネット」
彼は興奮する牛を扱うように彼女の背を叩いた。
「何だ、ラソワ! 邪魔をするな!」
ジャンネットはラソワを押し退けようとした。だが、飽くまで彼は譲ろうとしなかった。
「言いたいことは分るよ。でもしばらく待ちなよ」
彼はジャンネットの手を引いてその場から去った。
「本当に素人は困りますな」
事の成り行きを見守っていたラ・イールの補佐官が言った。けれども、彼は上の空でその言葉を聞き流した。現在この部隊の中に、嫌、オルレアン、宮廷内でもいい。各個撃破という考えを持っている人間が果たしていくらいるだろう? 部隊の指揮官はジャンネットのセンスを認めはじめていた。
彼の額から汗が流れた。
「どうして止めたんだ!」
ジャンネットは怒りの収まらない表情でラソワに詰問した。彼は鼻の頭を掻きながらノホホンとした様子で答えた。
「部隊がまとまらない戦争に勝利はないよ」
ラソワの正論だった。
「しかし勝つのは分っているんだぞ!」
ジャンネットは主戦論者だ。
「・・・勝つことを望んでいないのかも知れないね・・・」
ポッリと漏らしたラソワの一言にジャンネットは衝撃を受けた。
「何だって!」
「まぁ考えてみろよ、ジャンネット。宮廷内で得た情報によると、敵兵力は5000程度だ。オルレアンにもその程度の兵力はある。最近になって敵は補強したらしいけど、今度の補給で戦力はバランスする。ところでジャンネット、君なら勝つためにどうする?」
そこまで言われてジャンネットは気が付いた。もっと効率の良い勝ち方を。
「イギリス軍を絶対的な兵力をもって包囲するね。そしてオルレアンの現存戦力と一体化してその内外から挟撃する」
「だろうね」
「そうか、この部隊が補給部隊ということは、短期戦でなく長期戦を考えていることだな」
頭に血が昇って見えていなかったことが理解できた。であるならば、必然的に宮廷は時間稼ぎがしたいのであり、その目的は和解工作に他ならない。そう分ると彼女は自分に課せられた使命の意味が飲み込めた。
「俺はマスコットか!」
「多分ね。宮廷が考えそうなことだよ。実績のないジャンネットを抜擢するわけはこれくらいのもんだ」
道理で兵が動かせない筈だ。
「小賢しい真似を」
ジャンネットは呟く。彼女の眼が妖しく輝いているのを見て、ラソワはビクッとした。その様子から彼女が何をたくらんでいるのか、大体の察しはついた。
「見ていろよ!」
ラソワは頭を掻いた。どうやら協力せずにはいられないらしい。
部隊は予定通りオルレアンを迂回してロワール河上流、ブーシュ港に到着した。この場所から船で河を下りつつ、北岸のオルレアン付近まで行く。当時最も安全だと言われていたオルレアンの入城ルートだった。上陸予定のロワール河北岸、オルレアンの東には敵砦は一つしかないのである。部隊の到着先、ブーシュ港には私生児ジャンが待ち受けていた。
先にも説明したが、彼はブルゴーニュ公によって1407年暗殺されたオルレアン公ルイとその愛人との間に生まれた私生児で、アザンクールの戦いの時に捕虜となり、今も尚捕囚の身であるオルレアン公シャルルとは異母兄弟に当たる。この時彼は25歳、オルレアンの守将として左往右往していた。物資不足から起こる士気の低下、突出するアルマニャック派と反アルマニャック派との軋轢。主戦論と反戦論が入り乱れ、若い彼を苦しめていた。そんな彼を更に苦しめる一因がここに転がり込んできた。
「おまえがオルレアンの守備隊長か!」
ある程度の事情は飲み込めていたものの、ジャンネットは感情的に言葉を吐き捨てた。一言言わなければ気が済まなかった。
「そうだ、ジャンヌ。よく来てくれた」
審問委員会と顧問委員会の報告をある程度聞き、ジャンネットの性格を知っていたのであろう。ジャンは動じることなく答えた。
「おまえだな。こんな命令を下したのは」
彼女は刺すような視線で彼を見た。彼は肩を竦めた。
「直接命令を下したのは確かに私だか、これは王太子の意向でもある」
文句があるならシャルルに言えということか。ジャンネットは歯軋りした。今ではもう遅い。
「勝ちたくないのか!」
彼女は思わず叫んだ。同時にジャンの右手が動き、ジャンネットの頬が鳴った。
「物資を船に積め!」
呆気に取られたラ・イール、ラソワにジャンは命令した。
ジャンネットは叩かれた頬に手をあてがいながら微かに笑った。ジャンが現状に満足していないことに気付いたからだ。
我に返った人々によって、速やかに荷は船に積み込まれた。
だが、皮肉なことに風は逆風だった。
このブーシュ港から北岸オルレアンに向かうには、風が南西から吹かなければ身動きがとれない。うかうかしていると敵に気付かれ、西のサン・ジャン・ル・ブランの砦から急襲される恐れがある。ロワール河を背に退路を断たれた戦闘を誰しも望んではいなかった。ただ一人を除いて。そういった状況に置かれても、ジャンネットは勝つと信じていた。
「風が反対じゃあないのか?」
からかうようにジャンネットは言った。
「分っている!」
苛立ちを見せてジャンは口を開いた。
「今から戦闘をはじめるか?」
「馬鹿な! この状況では戦えない」
「ではひとつ提案なのだか」
意地の悪い笑みを浮かべたジャンネットだった。
「俺が風向きを変えたら、兵士を千人指揮させてもらえないだろうか」
「無理だ。第一兵士はすべて他の騎士によって指揮されている。ジャンヌ、君が指揮権を発揮できる兵士の余裕はない」
ジャンは頭を振った。
「傭兵を雇え」
ジャンネットは相変わらずニヤニヤ笑っていた。風向きは一向に変わる様子がない。ジャンの苛立ちは高まった。
この時のジャンの心の迷いを責めるのは酷だ。彼はふとジャンネットが本当に風向きを操っているのではないかと考えた。そして彼女の「奇跡」を試してみようと思った。
「よし、時間をくれ。そうすればどうにかしてやろう」
ジャンは言ってはならないことを口にしてしまった。
同時に、暴風とも呼べる強い風が南西から吹いた。
「約束を忘れるなよ」
ジャンネットは爆笑した。その姿がジャンには悪魔のように見えた。
途中、補給部隊であるこの部隊の実兵力部隊は密かに解体され、ブロアの補給基地に帰って行った。ジャンネットとラソワはロワール河を渡る喧騒の中、このことに全く気付かなかった。先に河を渡るジャンネットとブロアに引き返す部隊を交互に見ながら、ジャンは再び彼女のために部隊を組織する時期と必要性を天秤にかけていた。
「さてさて、総督のゴークールが何と言うか・・・」
彼は総督のいかつい顔を思いながら苦々しく笑った。
それは諦めにも似た笑いだった。
補給物資を陸揚げし部隊をまとめると、ジャンはシェシィ近く右岸にあるルイイーの城に泊まり、オルレアン入城は明日にすると明言した。この時、ジャンネットは部隊の実兵力がすっかり欠落していることに気付いたが、敢えてジャンに詰め寄ることはしなかった。彼の心の奥底に眠る勝利への熱望がある限り、部隊は必ず帰ってくると信じていたからだった。
彼女は大人しくジャンの言葉に従った。
翌日部隊はオルレアンまで8㎞というこの場所でぐずぐずしていた。
「何故だろうね?」
ルイイーの城の窓からロワール河を見ながらラソワが言った。
「馬鹿だなぁ、ラソワ・・・答えは簡単、俺が怖いのさ」
ジャンネットは彼の傍らに立ち、豪快に笑った。
「何とまぁ情けない話じゃないか。こんな田舎娘が怖いなんて」
彼女の言うとおりだった。ジャンは恐れていた。彼女のカリスマ性を。ジャンネットの噂はオルレアン城内にも届いており、昼間のうちにオルレアンに入城すれば民衆の暴走も起こしかねない。狂気の集団がイギリス軍を襲い、多大な損害を被ることを彼は危惧していた。それが故に部隊のオルレアン入城を夜と決めていたのだった。
「狂気、狂騒、狂信・・・・すべてが俺の周りで吹き荒れる・・・ラソワ・・・」
ジャンネットはふと悲しげな瞳を幼馴染みの少年に向けた。
「ラソワ・・・俺は、俺は悪魔なのだろうか?」
彼女は迷っていた。戦争が現実のものとなった時、彼女の心に浮かんだのは限りない殺戮と悲惨な状況だった。その姿は、先日フランス宮廷の思惑を知って怒りを顕にしたジャンネットと明らかに違っていたが、ラソワにはそれが彼女の本来の姿のように思えた。
「ジャンネット、すべてを投げ出して逃げるかい?」
ラソワは真剣に尋ねた。
「君にフランス行きを勧めた奴が何者なのかは分らない。ボクにも自分自身の行動が正しいのかどうか判断できる材料は何もない。ましてや今の君の状況は、フランス宮廷からも疎ましく思われている」
そして言葉を続ける。
「でもね、ジャンネット。フランスがフランスでなくなった時のことを考えるとボクは怖い。長い戦争はまだ終焉を見ず、ボク達の故郷を巻き込んで拡大していくに違いない。ボクは君が悪魔なのか、正義の使者なのか、何も言えない。けど君がこの戦争を終わらせようとしていることについては、間違っているとは思えない」
ラソワの真摯な顔をジャンネットは見た。彼女はそう在りたいと思った。そうであるべきだと思った。
「・・・分った・・・ラソワ・・・」
ジャンネットは決意を表す熱い視線を彼に向けた。
時に1429年4月29日 金曜日 午後8時。
ジャンネット一行は無事オルレアンに入城した。
ブルゴーニュ門から白馬に跨ったジャンネットが入城すると、時ならぬ歓声が起こった。手に松明を持った民衆がひしめきあい、一目でも彼女を見ようとする者、触ろうとする者でごった返した。彼女も、彼女の両翼に位置するジャンとラ・イールも余りの民衆の多さに立ち往生した。
それは群れた狂信者の集まりでもあった。
ほんの一瞬、ジャンネットは後方に位置するラソワに視線を移した。彼は微かに頷き、その動作で彼女は決心した。
「オルレアンの民よ、心して聞け!」
ジャンネットの叫びがざわめきをかき消した。周囲は静けさを取り戻す。民衆は救世主の次の言葉を期待して待った。その瞳はギラギラと輝いていた。
「我、ジャンヌ・ラ・ピュセル! 10日以内にオルレアンを解放させよう! オルレアンをこの窮地から救おう! 我に続け! 自由と正義と勝利は我らにある!」
ジャンネットが高々と右手を上げ、ガッツポーズを見せるとひときわ甲高い歓声が上がった。それまで動きを止めていた民衆は再び彼女に殺到し、彼女を取り囲んだ。その民衆の一人が余りにジャンネットに近付きすぎたために、手にした松明の火が彼女の持つペノンに燃え移った。彼女は慌てる様子もなく、馬に拍車を入れ、自然な動作で火を消す。そして剣を抜くと焼け焦げたペノンの先を切り取った。
周囲にどよめきが起こった。
ジャンネットが無意識に行った行為は、ペノンを持つペノネージより地位が上のバナレット騎士になる儀式に近いものだったからである。台形になったペノンはバナーと呼ばれる。
「ジャンヌ! ジャンヌ! ジャンヌ!」
民衆の熱狂は思わぬアクシデントに高まっていった。
ただ一人、ラソワだけがそんなジャンネットの仕草を心配そうに見詰めていた。
「狂信と言うものは、健康な精神を蝕む・・・か・・・」
彼はふと呟いた。
ジャンネットとラソワのために用意された宿舎は、オルレアン公の会計官、ジャック・ブーシェの家だった。二人は早速その夜からそこに泊まった。
さて、ここで現実の世界に戻ってオルレアンの街を散策してみよう。
通常の旅として鉄道を使い、我々はオルレアン駅に降りる。駅は市街地の北100m程に位置するが、この周辺は結構賑やかだ。交通網の中心としてバスターミナルもその横にあるからだろう。我々は駅舎を出て南に歩く。
80m程歩くとBoulevard Alexander Martinという大通りに出る。この通りはジャンネットが生きた時代には城壁であった。西にはBd.Rochep-latte Martinという大通りがあり、この二つの大通りが南ロワール河を底辺に変則的な七角形をしたオルレアンの西から北を取り巻く。
さぁ、大通りを横断し、街に入ってみよう。但し、この近くにあるインフォメーションで必ず街の案内図を確認すること。街路は入り組んでいて迷路のようになっている。知らないで入ると迷子になってしまうのは確実だ。
オルレアンは古くから東方の部族から何度も襲撃を受けてきた。それが為に防衛の一環として街の区画を複雑にしたのである。その名残が現在にも残っているわけなのだ。
では、街に入ろう。
インフォメーションから出た我々は南南西に伸びるRue de la Republ-iqueと呼ばれる通りを歩く。飽くまでここは直進。歩くこと300m程で賑やかな場所、マルトロワ広場に出る。ジャンネットがオルレアン入城の際、どのルートを通ってジャック・プーシェの家まで歩いたのかは不明ではあるが、地図で見る限りこのマルトロワ広場には立ち寄っていないだろう。ブルゴーニュ門からの直進ルートから広場はコースを離れているからだ。しかし、現在の街の中心とあって、またオルレアン自体がジャンネットゆかりの地とあって、この場所にも勇ましいジャンヌ・ダルク像が立っている。
マルトロワ広場に集まる道は大小10もある。よく方向を確かめた上で。その中の南西に伸びる道に足を運ぶ。30mも歩かないうちに三叉路に出る。そこから迷わず南に進もう。すると、マルトロワ広場の約半分の面積に当たる三角形の形をした広場に出る。その突き当たり正面にジャンネットが宿泊したと言われているジャック・ブーシェの家がある。またその家の裏手にはサンポール塔が見える。
視線を左に移す。
300mの真っ直ぐな通りが東に伸び、正面には小さくサントクロワ寺院を見ることができる。オルレアンのシンボルとされるこのフランボワイヤン式の教会は、ジャンネットの生きた時代にも存在していた。更に我々が眺めているこの通りは、Rue Jeanne d‘Arcと呼ばれている。オルレアン攻防戦の時に、彼女自身がこの道を左往右往していた姿が思い浮かべられる。通りの名称から、東はブルゴーニュ門から入城を果たしたジャンネットが、サントクロワ寺院のあるサントクロワ広場に立ち寄り、この通りを通って宿泊地に着いたことが想像される。
再び歩こう。
ジャック・ブーシェの家の前を北西から南東に走るR.du Jabourという通りを南東方向に進む。150m程進んだところで四辻に出る。我々はそこで右に折れて南に向かう。歩くこと約200m、我々の正面にロワール河とジョルジェ・サンク橋が広がる。
この場所から見えるロワール河は幅50m程しかない。
長さにして400m、幅にして50m程の中洲が正面に位置しているからだ。橋を渡って中洲を横切り、ロワール河を眺めると、そこからの川幅は250m程もある。その先にオルレアン攻撃当時、イギリス軍隊長サルスバリイが犠牲となってまで奪取したトゥーレルの砦の跡地がある。但し、橋は当時川上の100mのところにあり、現在とは場所のズレが生じている。
振り返って見ると美しいオルレアンの街が一望できる。サントクロワ寺院の二つの塔、そして青い屋根が澄み切った青空に溶け込むように浮かんでいる。平和で穏やかな眺めだ。それは過去の惨劇を全く想像させない・・・・
しかしこの場所を舞台として1429年5月、戦闘が行われたのは紛れもない事実であった。しかもそれは、小説や戯曲に描かれている程ジャンネットが華々しく活躍したものでなければ、感動を誘うようなものでもない。フランス側、イギリス側、そしてブルゴーニュ公が冷静な駆け引きをしている間に嵐のように巻き起こった民衆の動乱と、それをアジテートしたジャンネットの狂的な姿―――それがオルレアン攻防戦の真実だ。この時に何が起こり、何が成されたかを、これから語っていこうと思う。
舞台をもとに戻して1429年4月30日土曜日。
既にジャンネットの噂はイギリス軍の耳に届いていた。彼女がイギリス軍の戦争責任者であるサフォークに二度、降伏を促す手紙を伝令使に持って行かせたからだ。だが、イギリス軍は返答を拒否し、それどころか当時の戦争の慣行を破り、伝令使を捕虜にしてしまった。ジャンネットはそのことに異議を申し立てるために、ラ・クロア-ボアセの方形堡の前に立った。
当時、イギリス軍はオルレアンの周囲に幾つもの大小の砦を構築していたが、ラ・クロア-ボアセの砦は、北から西にオルレアンを包囲する最も厚い包囲陣の一つだった。
彼女は3人の兵士を引き連れていた。
「今年の1月まではイギリス軍も礼儀を守っていたのですが・・・」
傍らに立つ兵士の一人が説明した。
「ブルゴーニュ公の和解工作が失敗してからというもの、彼らの蛮行が眼に余るようになりました」
とは言え、フランス軍のアルマニャック派の貴族達も似たり寄ったりであったのだが・・・。ジャンネットは黙って頷いた。そして決意を表明するかのように鋭い眼光で砦を見上げた。
「イギリス兵よ、聞け!」
ジャンネットの大音声は確実に砦の中に届いた。
ざわめきが城壁の上から聞こえてきた。イギリス兵の顔という顔がジャンネット達を見おろす。突然の来訪者に彼らの表情は好奇心に満ちていた。
「うほ~、いい女だぜ」
身を乗り出した敵兵が野次を飛ばした。
「我、ジャンヌ・ラ・ピュセル! 伝令使の返還を求めに来た! 正義と神の名のもとに、我の要求に応えよ!」
ジャンネットはイギリス兵の野次を無視し、凛とした口調で叫んだ。いや、無視をしたとは言えない。彼女は英語が理解できなかったのだ。これは逆のことも言えた。イギリス兵はジャンネットの話すフランス語が理解できない。双方の意志の一方通行だった。
ジャンネットはフランス語で常に正当性を主張し、イギリス兵は英語で彼女を囃し立てた。遂には彼女と同行した3人の兵士にまでその口撃は及び、
「おまえ達は女を首領にしているのか、この淫売野郎!」
と叫びだす始末だった。少なからず英語を理解できたフランス兵は辟易した。
「ジャンヌ、ここには話が分る奴はいないようです。別の場所に行きましょう」
この進言に彼女は従う他なかった。
続いてジャンネットが訪れたのはトゥーレルの砦だった。
トゥーレル砦はロワール河南岸、南からのオルレアン入城のために架けられたジョルジュ・サンク橋の橋頭堡としてあった。もともとトゥーレルはフランス側が築いたものであったが、イギリス軍が武力をもってこれを奪取、以後、難攻不落の要塞に改造した。トゥーレルは一辺30m程の規模の小さな砦であった。そこに高い城壁、壕、またその周囲に外囲いを築いたのである。更にはその南、10mの近接した場所にレ・ゾオギュスタンの砦を構築する。この二つの砦がオルレアンに打ち込まれた楔として存在していた。対抗上、ロワール河の中洲にあるサン・タントワーヌの砦が強化される。ジャンネット一行はこの砦を抜け、トゥーレル砦の前に立った。
この時、トゥーレルにはサフォークがいた。しかし彼はジャンネットのことなど歯牙にもかけておらず、対応は部下の兵士達に任せた。つまり結果はラ・クロア-ボアセの二の舞と言うことだ。
ただここにはフランス系の傭兵が数多くおり、彼等はジャンネットの心の中の火に油を注いだ。曰く、
「おまえは魔女だな。捕らえて火刑にしてやるからそう思え!」
後に続く言葉は「魔女」というシュプレヒコールだった。
ジャンネットの頭の中は怒りで真っ赤になった。
「この糞野郎ども! 今にみていろよ!」
彼女は吼えた。
それに応えたのは石弓から放たれた砲丸だった。単身突っ込んで行こうとする彼女を押さえつけ、同行した仲間の兵士達は逃げるようにその場から去った。
「何があってもおまえ達を許さんからな!」
ジャンネットの捨て台詞は何時までも続いた。
ジャンネットは現代においてジャンヌ・ダルク通りと呼ばれている街道を東に走り、サントクロワ広場に出た。彼女の目的はそこにある市庁舎に殴り込み、何としても近日中に彼女が指揮する兵を雇い、連れてくることを誓わせるためだった。当面の標的は守備隊長のジャン――彼にはロワール河を渡航した時の約束もある。
「やい! 守備隊長の部屋は何処だ!」
彼女は市庁舎に飛び込むや否や、その場にいる初老の男に突っかかった。
ジャンネットの怒りと勢いから彼は目を白黒させた。彼女は彼の胸ぐらを掴み、身体を前後に揺さぶる。老人は苦しげに廊下の10m程先のドアを弱々しく指差した。ジャンネットは彼を押し退けてドアの方向に走った。
「あれが救国の乙女か・・・やれやれ、宮廷も大変なものを押し付ける・・・」
老人は咳き込みながら呟いた。
彼こそがオルレアンの総督、ゴークールその人だった。
ジャンは自室の椅子に腰掛け、先程の総督との話を頭の中で反芻していた。
「ブルゴーニュ公との和解工作が失敗してからというもの・・・」
総督のゴークールはおもむろに口を開いた。
「戦況は苦しくなるばかりだった。だが今回の補給でしばらくは安心できそうだな」
「いえ、総督―――」
ジャンは首を振った。
「我々の補給の情報はイギリス軍にも入っています。彼らは、いや、この情報は未確認なのですが、包囲軍に対して援軍を派遣するようです。軍がパリに集結をはじめていると密使から連絡がありました。しかも今回の援軍を指揮するのはあのフォールスタッフ」
「何! また奴が来るのか!」
総督の声が上擦った。無理もない。2月12日、アルマニャック派の軍を不利な状況から打破した名将が、再度オルレアンに派遣されると言うのだ。彼が動揺するのも理解できよう。
「そこで総督にお願いがあるのです。ブロアから援軍を連れてくる許可をいただきたい」
「だが、それでは食い扶持が増えることになる。補給物資がアッという間に底をつくぞ」
「オルレアンが陥落すればすべておしまいです。短期決戦で片がつけばよいのですが、敵の砦の数は多い。ひとつくらい滅ぼしてもどうしようもありませんし、ましてや時間もありますまい。それに較べ、敵はひとつの砦、このオルレアンを落としてしまえばいいのです。敵の援軍が来襲した場合、今の戦力ではもちこたえられません。宮廷も短期決戦を望んでいませんし、尚のことオルレアン陥落を望んではいません。持久戦という作戦を採用する以上、どうしてもブロアからの援軍が必要なのです」
ジャンは故意にジャンネットとの約束を隠していた。しかし、彼が得た情報も確かであった。宮廷内の動きは別にしても、彼は援軍の必要性を感じていたところなのである。
“まぁ、ジャンヌに貸してやる兵力などないだろうが・・・それにしても宮廷は悠長すぎる”
彼は椅子にもたれかかり、溜息を漏らした。
ちょうどその時、雷にも似た轟音とともに、ジャンの執務室のドアが開かれた。あまりの音の大きさに、ジャンは椅子から腰を浮かした。ドアのところでは、ジャンネットが肩で息をしながら立っていた。
「ど、どうしたジャンヌ」
あまりに唐突な彼女の出現にジャンは吃った。
ジャンネットは彼の机の前まで歩み寄り、右腕を振り上げると、卓上に向けて力一杯振り下ろした。ドーン、という音と共に、ピキピキと卓上の表面に罅が走る。紙は宙を舞い、インクとペンは床に転がった。
「ジャン、約束だ。早急に兵を貸して貰おう」
ジャンネットは怒りに燃える眼で彼を見た。彼は彼女が敵の砦に向かったという情報を思い出し、素早くそこであったことを想像してみた。
「最悪すぎる・・・」
ジャンは浮かしていた腰を椅子に戻した。
「待て、ジャンヌ。確かに君には兵を与える約束をした。だがあまりに短絡過ぎる」
ジャンネットは慎重に言葉を選んで話す彼をジッと睨んでいた。
「その件に関しては先程も総督に話したばかりだ。まだそれについては宮廷の許可も必要だ。しばらく待てとしか今の私には言えない」
「敵が攻めて来てからでは遅い!」
ジャンネットは叫んだ。思わずジャンは彼女がフォールスタッフ指揮する敵の援軍について知っているのかと考えドキっとした。知っているのであれば明らかに正論ではある。
“それにしても、10日以内にオルレアンを開放させるという程の無茶を、ブロアからの援軍が来たところでできるわけはないのだが・・・”
ジャンは罅の入った卓上に両肘をつき、指を絡めてジャンネットの方に身を乗り出した。
「君の言うことは正しい。正しいが我々の目的は単に戦術的な勝利と言う一元的なものではない。この戦争には大いに政治的な駆け引きが係わっている。宮廷内の動向を無視してまで我々は動くことはできない」
彼はジャンネットに対して一歩も引こうとはしなかった。しばらくの間、二人の睨み合いが続いたが、やがてジャンネットはフンと鼻を鳴らして踵を返した。厄介払いができたとジャンは肩の力を抜いた。
けれども、ジャンネットが部屋から出て行く間際、言い残した彼女の言葉が彼の胸に突き刺さった。
「ジャン、俺が何故に入城した時にオルレアンの開放を10日以内に実現させようと宣言したと思う。今やオルレアンの市民2万人の殆どは俺の味方だ。これから起こることを楽しみにして貰おう。余り使いたくない手段だったんだがな」
妖しく光る眼と笑みを浮かべ、彼女は退場した。
「待て! ジャンヌ、君は何を」
呼び止めようとしたジャンはそのままその場に勢いよく倒れた。罅割れた机が前に身を乗り出したジャンの体重を支え切れずに壊れたのだ。
“全く・・・”
彼は起き上がろうともせず、倒れたままの姿勢で呟く。
「女にしておくのがもったいない」
そして笑った。ジャンはジャンネットを好きになりかけていた。
それからラソワが「地獄の3日間」と評する日々が続くことになる。
その夜、宿泊しているジャック・プーシェの家でジャンネットは荒れた。巻き込まれたのは同宿しているブロア出発のメンバー、従者のラソワ、クート、レイモン、司祭のパスクレルだった。事の起こりは役人がジャンネットのオルレアン到着を祝うという名目で持ってきたワインにあった。昼間の出来事もあり、ジャンネットはそれをガブ飲みした。当然のごとく、彼女はベロベロに酔った。
「おぉもぅしろっくなぁいぞぉっ!」
ジャンネットはラソワの首に右腕を絡ませ、ぐいっと引っ張った。
「おぉもぅしろっくぬぁいったぁら」
ラソワの身体はガクガクと左右に揺れた。
「まっ、のめ! らぁそわ」
彼女はラソワのグラスにドボトボとワインをついだ。酔っ払ったジャンネットはまともにグラスにつげず、テーブルにそれを零した。何が可笑しいのか、彼女はケラケラ笑った。
“ひどい絡み上戸だなぁ”
口に出せば酷い仕打ちを受けるのは眼に見えているので、ラソワも他の人間も何も言わない。彼はジャンネットがついだワインに少しだけ口をつけた。
「ぬぁんだぁ、あたしぃのしゃくじゃあのぉめなぁいのぉかぁ」
赤く染まった頬をした顔をラソワに向ける。その瞳は完璧に座っていた。彼は恐怖を感じ、無理してグラスを半分程空けた。とたんに天井と床がグルグルと回りはじめる。ラソワは小さく頭を振った。
「へらい、へらい」
ジャンネットは手を叩いて喜んだ。部屋のみんなは白け切っている。
一瞬その空気を感じ取ったのか彼女は急に真顔になり、しっかりとした口調で話しはじめた。
「みんなにお願いがある。明日から各自、これから指示する通りに動いてくれ。これは重要な作戦だ」
一同ジャンネットの変わり様に吃驚したが、その上に作戦と称される話の内容にはブッ飛んでしまった。こんなことをして無事に済むのか・・・。絶句を漏らし、それぞれに互いの顔を見合わせる。
ゴーンという音が響き、そちらに眼を向けると、ジャンネットがテーブルの上に沈没していた。
「ムニャ・・・たぁのむ・・・ごぉがぁつぅのぉよぉっかだぁ・・・」
助け起こそうとするラソワにジャンネットの呟きが聞こえた。
それから3日間、メンバーは昼間オルレアンの街を奔走し、夜はジャンネットのワインにつき合わされる日々が続いたのだった。
ご愛読ありがとうございます。
次回「承前」は9月15日UP予定です。




