承前
オルレアン解放戦始まる!
5月4日、水曜日の朝。
あくびを噛み締めたラソワ、クート、レイモンが宿舎を出るのと入れ替わりに、ジャンがジャンネットを訪ねてきた。
「ジャンヌ、君の目的は何だ」
彼は寝起きと二日酔いの状態でボサボサした頭を掻くジャンネットを前に詰問した。
「奇跡だよ」
彼女はあくびしながら言った。
「オルレアンの民はそれを望んでいる。そうじゃあないのか?」
「だが君のしていることは危険だ。夢を見るのも結構だが、オルレアンの民の安全を夢と同レベルにしてもらっては困る」
ジャンの言葉は冷静であったが、その底には怒りが感じられた。けれどもジャンネットはそれを感じつつも惚けてみせた。
「俺が何をしたって? ワインを飲む以外何もしていないよ」
「何もしていない!? では聞こう。今日、敵の砦を攻めるという噂は何だ? 君の従者達が吹聴して回っているようだが、これは君の仕業ではないと言うのか?」
「敵の砦を攻める? 誰がそんなことをするんだ。また勇気のある奴だな」
「いい加減にしろ!」
ジャンは勢い良くテーブルを叩いた。しかしジャンネットは動揺しない。
「落ち着けよ、ジャン。確かにその噂は俺も耳にした。でも噂ではジャンヌ・ラ・ピュセルが敵を攻撃するなんて一言もなかったぜ」
彼女の態度にジャンは嘆息を漏らし、肩の力を抜いた。ここまで言われればどうしようもない。彼は正直なところを話しておくべきだと思った。
「ジャンヌ、君がオルレアンに来てくれたことには敬意を表している。オルレアンの民も精神的な拠り所として君を受け入れている。それに私は君の要求に応えるために先の日曜日、ブロアに援軍を求めた。これからもでき得る限りの協力をしていきたいと思っている」
ジャンの述べたことは事実だった。彼は今朝、ブロアから連れてきたジル・ド・レ、サン・セベールの部隊とともにオルレアンに入城したばかりだったのだ。ブルゴーニュ門の歩哨に噂のことを初めて聞き、とりもなおさず急いでジャンネットのもとに来たという実情であった。
真摯に語るジャンを彼女はジッと見ていた。
「いや、否応もなく協力せざるを得ないのだ。私の得た情報によると、敵はパリにオルレアン攻囲軍の援軍を集結させつつあるらしい。私の率直な意見を言わせて貰えば、総力戦になった場合のことを考え、兵力は少しでも温存させておきたいのだ」
ジャンネットは小さく頷いた。納得してくれたのかとジャンは一安心した。しかし返ってきた彼女の言葉は正反対のものだった。
「もっともらしい説明だ。けどな、ジャン。俺も正直なところを言わせて貰おう。おまえ達はルーヴレイの大敗から戦闘を恐れている。いや、過去のヴェルヌイユの悪夢にまだとり憑かれている。政治的な駆け引きなしで勝利できる事実を見誤っている。それはおまえ達の責任ではないが、俺はその目を覚まさせるためにここに来た。噂のことは知らない。だが、噂をはびこらす温床が、オルレアンの現状の中にあるとは思わないのか?」
二人の間に接点はなかった。が、ジャンはジャンネットの言葉に考えを改めさせるものを見出し、この場は大人しく引き下がった。
「個人的に君の意見は分る。分るが私はこのオルレアンの守備隊長として公的な意見を述べる義務もある。戦闘が万が一起こった場合の私の行動は、言わずとも分って貰えると確信している。いや、ジャンヌ。今日は失礼した」
一礼してジャンは部屋を出て行った。
ジャンネットは窓から通りに出る彼の後ろ姿を見ながら呟いた。
「これから俺がやろうとすることは夢でも奇跡でも何でもないんだがなぁ。同等の兵力でも、分散している兵力と集結している兵力ではどちらが強いか、子供でも理解できるのではないか。まっ、悪いのはジャンじゃあなく、宮廷のお偉方、そしてそれを統括すべき人物にあるのだからどうしょうもないけど、宮使いはつらいねぇ」
10数メートル離れた場所で、ジャンがくしゃみする様子が伺え、ジャンネットはクスッと笑った。
その日の午後、午睡をしていたジャンネットは半鐘の音で目覚めた。
“はじまったのか”
彼女はベッドから飛び起きると、甲冑を身に付けて通りに出た。民衆が口々に叫び声を上げながらブルゴーニュ門へと殺到している。彼女は事の始まりを理解し、民衆に混じって走った。重さ20㎏もの甲冑を着用していることを感じさせない軽やかな走りだった。彼女の心は昂ぶっていた。
「ジャンヌ! 旗を!」
計画が実行される日であったため、宿舎に待機していた司祭のパスクレルが背後で叫ぶ。
「そんなもの、いらない!」
ジャンネットは振り向きもせず走行速度を上げた。
1429年5月4日、水曜日の午後。
ジャンネットのオルレアン解放戦の幕は開けた。
最初の標的はオルレアン東に位置するサン・ルウの砦だった。この砦は中途半端に終わったオルレアン攻囲の中でも、一番間の抜けた砦として存在していた。
説明を加えよう。
オルレアンを中心に四方を見ると、南には東から西に川幅400mのロワール河がある。そしてその南岸には、イギリス軍の拠点、トゥーレルをはじめ3つの砦がオルレアンを囲む。次に北から西を見てみよう。そこにはジャンネットが伝令使の返還を要求しに出向いたラ・クロア-ボアセの砦を含め、6つの砦がある。さて、問題は北から東の包囲軍だ。ここには何とサン・ルウの砦ひとつしかない。しかもその場所は、オルレアンの入城門であるブルゴーニュ門から直線距離にして700m、街道沿いの南にあった。
この孤立した砦は簡単に落ちる。
ジャンネットはそう考えた。サン・ルウの砦から一番近いサン・ジャン・ル・ブランの砦にしてもロワール河を挟んだ対岸にあり、援軍を派遣するには時間がかかる。また北から西にかけて築かれた砦から援軍を送る場合、正規の街道はオルレアンを通じているが為に大きな迂回が必要となる筈だ。
そもそもルーヴレイの戦いでは戦術上の誤りを犯していた。
この戦いではサン・ルウに向かって兵を出すには出したが、目的はオルレアン攻囲軍への補給を阻止するものであった。後に「鰊の戦い」と称されるこの戦闘で、実際戦闘を交えたのはイギリス補給軍とアルマニャック軍で、結果は先の通りである。アルマニャック軍は補給軍と戦うべきではなく、補給軍の到着前にサン・ルウの砦を陥落させておくべきだったのだ。
こんなことに戦術はいらない。
ジャンネットの結論はそこに辿り着いた。今回の補給で士気の上がっているオルレアンの民の暴走だけでこと足りる。系統だった指揮は必要ない。噂を流布し、アジテーターにより攻める場所を指定させるだけで充分だ。
こうしてラソワ達の工作がはじまったのである。
そして結果は彼女の思惑通りになった。
10対1の戦闘は短時間で終わった。
サン・ルウの戦闘はイギリス軍にとって不意打ち以外の何物でもなかった。彼らの頭にはオルレアン市民が攻めてくるという状況は考えられなかった。いや、頭の片隅にはあったかも知れない。しかしオルレアン攻防戦開始から半年、双方直接砦を攻めるという戦闘は行われていない。イギリス軍に心の隙があったのは否めないところではないだろうか? 敵司令官のタルボットはサン・ルウに殺到するオルレアン市民の知らせを受け、増援部隊を組織したが間に合わなかった。途中の道で砦に火が放たれた様子を目撃した彼は増援を中止した。
この時、彼の頭の中にはこの突発的に起こった戦闘に対して「何故」という疑問が浮かんだであろう。そうして一人の人物の名前が鮮やかにされる。
ジャンヌ・ラ・ピュセルという少女の名前が。
それはオルレアン攻囲軍の責任者、サフォークにとっても同様であった。
ジャンヌ・ラ・ピュセルとは如何なる少女か。
イギリス軍に暗い影が落とされた。
ジャンネットがサン・ルウの砦に到着する前に戦いは終わっていた。彼女は道の途中、暗い顔をして歩いてくるラソワと出会った。彼女は立ち止まった。横を数人のオルレアン市民が走り去っていく。
「ジャンネット・・・」
ラソワは弱々しく言った。
「作戦は大成功だよ・・・もう帰ろう」
青ざめた表情をした彼はジャンネットの手を握り、オルレアンの街の方へ引っ張って行こうとした。
「ちょっと待てよ、ラソワ」
彼女はラソワの手を振り解いた。
「直接俺は戦闘には加わっていないが、結果を見定める必要があるんじゃないか」
「そんな必要はない!」
ジャンネットの言葉にラソワは感情を露わにして叫んだ。普段には考えられない彼の感情の暴走にジャンネットは驚いた。
「どうした・・・」
疑問を口にしようとするジャンネットの行動を妨げるような悲鳴がその時聞こえてきた。ラソワは顔を背ける。苦悩と悲しみに満たされた顔がそこにあった。
「虐殺だよ」
彼はポッリと漏らした。
「虐殺が行われている」
暫くの間、ラソワの言ったことの意味が分からず呆然としていたジャンネットは、意を決し口を開いた。
「行ってみよう」
そうしてサン・ルウの砦に向かう。ラソワは何か言いかけたが、何も喋れず、黙って彼女について歩いた。砦に近付くに従って、死体が見られはじめた。最初はオルレアン市民の矢に射抜かれて息絶えている死体。石の砲丸に頭を割られている死体があった。戦争に犠牲はつきものだという論理が仮に成り立つにしても、彼女はいい気持ちがしなかった。いや、そんな論理が成り立つものが戦争であるならば、戦争こそなくなればいいと思った。
死体の数は徐々に増えていった。
二人はサン・ルウの砦に着いた。
そこでは捕虜となったイギリス兵が二つの集団に分類されていた。一方の集団は身なりの整った騎士。もう一方の集団は見るからにみすぼらしい人々によって構成されていた。
「身分の高い奴は身代金の要求ができるものとして利用価値がある。しかしそれ以外の者は・・・」
ラソワが説明している間に身分の低い者達の集団は一列に並べられ、オルレアン市民によって殴殺されていく。絶叫が少し離れたところにいるジャンネットの胸に刺さった。
「見るな!」
血しぶきが飛び、脳漿が街道を汚す場面をジャンネットに見せたくなく、ラソワは彼女の頭を身体ごと抱えた。だがジャンネットはそれに逆らい、彼の身体を押し退けた。
「戦闘を仕掛けたのは俺だ。俺には見届ける義務がある」
鉄棒によって頭蓋骨を陥没させられる者。
斧によって頭を叩き割られる者。
剣で首を跳ねられる者。
短剣で首筋を切られる者。
助けを乞う声と叫び声。
オルレアン市民の憎しみに満ちた顔という顔。
狂気・・・
「これが戦争か・・・・」
ジャンネットは呟いた。その瞳に涙が浮かんでいるのをラソワは見た。彼がはじめて目にするジャンネットの涙だった。
1429年5月5日、木曜日。
昇天祭の日。当時の慣行として、宗教上の祝祭日には戦闘は行わないという約束事があり、この日は平穏な日になる。ただジャンネットは昨日はじめて大規模な戦闘を体験し―――実際立ち会ったのは虐殺という残務処理のみだったが―――改めて戦争の無益さ、空しさ、狂気を感じ、一刻も早く戦争を終わらせたいという想いに駆られていた。彼女はイギリス軍に送る降伏を勧める文書と、それをトゥーレルの砦に矢で打ち込むための弓を持って、敵の核となっている砦から離れたところに立った。4月30日に受けた砲撃を彼女は忘れていなかったのである。
イギリス兵の見張りの者がジャンネットの姿を発見し、砦の城壁には再び彼女を見ようとする者達で溢れた。彼等の表情には以前の馬鹿にした感情はなく、恐れと憎しみによって強張っていた。
彼女は文書を結び付けた矢を放った。それは弧を描いて飛び、トゥーレルの砦の中に姿を消した。
ざわめきが起こった。
「我、ジャンヌ・ラ・ピュセル! イギリス攻囲軍に告ぐ! 直ちに軍を解体し、この地を離れよ! 無益な殺生はこれ以上したくない! こちらの要求をのむ場合、我らは先のサン・ルウの戦いで捕らえた捕虜を返還する用意がある!」
ジャンネットの申し出にひとりの男がトゥーレルの城壁に立った。
いかつい身体つき、歴戦の勇姿は遠目の彼女にも理解できた。彼はトゥーレルの砦の指揮官グラスデールだった。
「おまえの手紙、確かに受け取った! だが、おまえの申し出には承諾しかねる! おまえは常に正義はフランスにあると言う。フランス王としての正当性はシャルルが戴くと言う。しかしジャンヌ、おまえは血統の正当性を知っておるのか。そもそもバロア家はカペー家の正当性を排除し、フランス王として君臨した。カペー家の血統はイギリス王エドワード3世にあった。おまえは我等のことを野盗と呼ぶ。ではおまえ達は何なのだ!」
「貴族達の争いを抜きにして言えば、我は民衆の苦しみを憂う者。おまえ達がこの国を踏み荒らさなければ、我らは平和に暮らしていた。その平和の営みを壊したのがおまえ達なのだ。何故だ! それ程まで領土を広げ、富を得たいのか。欲深く他国の民衆の生活を犯してまで貫き通す正義とは、もはや正義とは言えない! まずはオルレアンを解放せよ! そしてパリに帰りベットフォード公に進言せよ! 身分の賤しい者達の中から神が天使を遣わされた。我々は撤退すべきだと!」
「納得できぬ! ジャンヌ、おまえの言い分は王政をも否定している。おまえは我々の存在を否定し、尚、自国の王権すらも軽んじる嫌いがある。おまえこそ権力を手中におさめようとしているのではないのか」
「違う!」
ジャンネットは叫んだ。同時に政治の民主化という言葉が頭に浮かんだ。また、数々の情報が流入する。哲学、思想、科学思想―――近代経済学に至る道筋。
アダム・スミス。
デビット・リカード。
トーマス・マルサス。
ジョン・スチュアート・ミル。
カール・マルクス。
アルフレッド・マーシャル。
ジョン・メイナード・ケインズ。
一人の絶対者に社会が左右されず発展する可能性が見えた。けれどもジャンネットにはそれらのことが全く理解できなかった。
あまりの情報の多さに彼女は暫く呆然とした。
“神の啓示か―――何だ! 何だ、これは!”
知らない間に涙が流れていた。ジャンネットはトゥーレルの砦に背を向けその場を去った。背後から「魔女」「淫売婦」と叫ぶ声すら聞こえなかった。
宿舎に帰るとジャンネットは寝室に入り、そのままベッドに倒れ込んだ。
“何か得体の知れないものが自分の内部にある”
彼女は思った。
“冗談じゃないぞ”
パッと身を起こし、彼女は頭をかき乱した。自分が何者なのか? ままするとアイデンティティを欠落させている自分に気付く。
「俺はジャンヌ、生まれはドムレミイ村、父はジャック、母はロメ、兄妹が・・・」
ジャンネットは自分を取り戻そうと呟く。彼女の内部で何かが芽生えかけていた。
この「何か」とは「理性」と呼ばれるものであり、更に言えば客観的な「世界」「宇宙」を司る「法」「法則」であった。それが形を成さず、彼女の心の中で蠢いていたのだ。
「ジャンネット・・・」
不安気な表情をしたラソワが部屋の入り口に立っていた。
「大丈夫かい? 帰ってから様子が変だけど」
ジャンネットは妙なところを見られたと、頭を掻きながら照れ笑いを浮かべた。
「まぁ座れよ、ラソワ」
ラソワはジャンネットの横に腰掛けた。
「実はね、凄いものを見せられたんだ。信じられるかい。ラソワ。空を飛ぶ乗り物なんて」
「それって何? 順を追って話してよ」
「・・・啓示を受けた・・・何だか理解できなかったけど、たくさんの人の名前が頭の中に流入してきた。そしてたくさんのビジョン・・・・馬が引かない馬車みたいなもの。帆のない大きな船。凄いスピードで走る長い乗り物。空に届くかと思われる程の高い建物の集まり。固い石でできたみたいな広い道。夜でも昼間のように明るい世界という世界。光の洪水―――。デカルト、ベーコン、ロック、ベンサム、パース、デューイ、カント、コペルニクス、ガリレオ、エジソン、フォイエルバッハ、ダーウィン、ニーチェ、サルトル、ハイデッカー―――だめだ、それ以上は思い出せない」
ジャンネットは首を小さく振った。再び見せられた強烈なビジョンが頭の中を走った。彼女の瞳から涙が溢れた。
「星々も見えた。星々に行く船も見えた。暗い空間に浮かぶ青い宝石があった。それは何か奇跡のように美しく輝いていた・・・ごめん、ラソワ。俺にはうまく説明できない」
その様子から、ラソワはジャンネットが何かとんでもないものを見せられたことは漠然と分った。しかし彼女の話には荒唐無稽すぎて何のコメントもできない。
「ドムレミイ村を出る前にも俺は啓示を受けた。それは破滅の啓示だった。灼熱と閃光に包まれた地獄のビジョンだった。その時受けた啓示と今日のものに何の関連があるのか? そもそも俺みたいな奴に何ができるというのか?」
話をしている間にもジャンネットの感情は激してきた。
「サン・ルウの砦は陥落させた。数多くの死者が出た。いや、それは寧ろこれから戦闘の中では、ささやかな犠牲でしかないのかも知れない。だが何のために! 俺はフランス王家を守る志などさらさら持っていない。ただ安穏と暮らす人々の生活を壊されたくないだけだ。そのために戦争を長引かせたくないだけだ。でもそのことで新たな戦争を巻き起こし、平和な生活を脅かすのはナンセンスだ。俺は・・・俺は・・・」
ラソワは彼女の肩を抱いた。しかしジャンネットは彼の手を払い、顔を背けた。
「今日見せられた掲示も、ドムレミイ村を出る前に見せられた啓示も、どちらの未来の行き着く先のような気がする。俺は、俺の行動が未来に開かれた道を示すものか、自らの道を閉ざしてしまうのか答えが出せない」
ジャンネットの内部では自問自答がリピートされ続けていた。もっと具体的な啓示が欲しいと思った。理解できないものに振り回されるのは嫌だと、何度も心の中で叫んだ。
肩を強く掴まれて彼女は我に返った。
「ジャンヌ・・・」
声はラソワのものだったが、それは彼の意志によって発せられたものではなかった。第一ラソワはジャンネットのことをジャンヌとは呼ばない。彼女はそのことに気付き彼に顔を向けた。
ラソワの身体は淡い暖色の光に包まれていた。その瞳も発光している。頬に微笑を浮かべた「彼」は、ジャンネットの額にゆっくりと人差し指を当てた。
光の洪水がジャンネットの身体を照らし、大きな意志の流入がはじまる。そのすべては理解できなかったものの、一方的に押し付けられていた啓示はよりクリアな形となって心の中に飛び込んでくる。
歓喜と感動に身を任せていた彼女は大きな嘆息を漏らす。
気が付けば・・・
ラソワはベッドに横になり、穏やかな寝息をたてていた。ジャンネットは彼をそっと寝かせておいた。彼女の口元が自然にほころんだ。
目を覚ましたラソワは、意識を失っている間に何があったのか全く憶えていなかった。彼はそのことをジャンネットに訊ねた。
彼女は笑った。
そこには既に暗い影はなかった。彼女は返事せず、ただサント・カトリーヌ教会で手に入れた剣を彼に手渡した。
「もう俺には武器はいらない。おまえが預かっておいてくれ」
ジャンネットは言った。
「でも、それは啓示があって手に入れものじゃあ・・・」
ラソワの言葉に彼女は首を振る。
「力には力。剣を受け取った時に受けた啓示にはそういった意味が含まれていた。けれども同時にね、それを使うことは自らの身を滅ぼす程の不幸を呼ぶ。俺だけじゃあない。それは大切なものも巻き込んでしまうのさ。そんなものを行使するのは最終手段としてだけでいい。いいや、絶対に使いたくないね」
「大切なものって、ひょっとしてボクのこと?」
ラソワの顔面に枕が飛んで来た。彼はジャンネットの顔が紅潮しているのを視界の隅で見た。意識を失っている間に何があったのか。ジャンネットは教えなかったが、彼は彼女の迷いが消えていることを素直に喜んだ。
晩課が終了し、席が移された。
オルレアン防衛軍の指揮担当者たる主要メンバーは、今後の作戦をたてるために会議室へと集まった。オルレアン守備隊長のジャン、補給部隊の指揮官ラ・イールもメンバーの中にいた。メンバーの大半は先日のサン・ルウの勝利について無関心を装っていた。自分達の作戦にない行動で得た勝利に何ら価値はない。それどころか、政治的な駆け引きをしている現段階においては、事態の悪化と見るべきではないか?
サン・ルウの話題が表面化されない理由は、このような考えがメンバーを支配していたからである。
「昨日・・・」
総督のゴークールが声を出した時、遂にサン・ルウの話題になるのかと一同ドキッとして彼の方を見た。が、彼は特更にそれを無視するかのように言葉を続けた。
「守備隊長がプロアから更なる援軍を連れてきた。こちらにいるジル、セベール両名の率いる部隊である。パリでは敵の増援部隊が組織されているという情報は、みなもう存じていると思うが安心せよ」
一瞬緊張した空気はホッと緩んだ。
「これで敵と互角に戦えますな」
「オルレアンは決して陥落しますまい」
という声がざわめきに混じって聞こえた。ジャンは必要以上の苛立ちを感じていた。こいつ等はサン・ルウ陥落の意義が分らないのか? こいつ等は白痴か?
「茶番だな」
彼の横に坐るラ・イールがそう呟く声がジャンに聞こえてきた。同様な想いを抱く人物の存在にジャンは驚き、彼の方を見る。
「聞こえたのか。こりゃ失礼」
ジャンは意を決し発言を求めて席を立った。味方がいるとは心強い。
「意見があります!」
ジャンの声に会場のざわめきは消え、静寂に包まれた。
「先日、敵サン・ルウの砦にオルレアンの民が攻撃を加え、これを陥落させたという事実に関することです。みなさんも数日前からとある噂を耳にしていたとは思いますが、これは極めて計画的に流布され、実行されたものだということをお知らせしておきたい」
苦虫を噛み潰したような顔が一様に彼に向けられた。その顔を向けるひとりの人物が、ジャンを挑発するかのように言った。
「ほぉ、あの暴走は義憤にかられたオルレアンの民の意志によって行われたのではない、と君は言うのかね」
「そのとおりです。噂の出所を探っていきますとジャンヌの従者達に行き着きます。何ら証拠のないことですが、このことは彼女によって計画された可能性を濃厚にしております」
ジャンの言葉に反論が飛び交った。
曰く、「可能性の域を出ない」
曰く、「救国の乙女と称する者に対する甘い憶測だ」
彼等は自分達が何も行動できなかったことへの劣等感があった。
「まぁ、ジャン、起こってしまったことをそう深く詮索しても仕様がない。敵の増援部隊の派遣問題もあることだし、これからの作戦こそが我々に必要じゃあないのかね」
ゴークールの意見だった。これはもうジャンネットの話題は止めようね、という合図のようなものだった。列席している者達への神経の逆撫でもいいところだ。彼はそう思っていた。
「しかし・・・」
「いやいやそのとおりですな。ではこれからの純作戦的なことに話を進めましょうか」
話題を変えようとしないジャンに続いて席を立ったのは、横に坐っていたラ・イールだった。
「サン・ルウの砦が陥落していた事実が皆さんの口から出てこなかったので忘れていたのかと思いました。このことは、これからの我々の作戦にとっても重要なことです」
皮肉な彼の言葉は、更に列席者達の神経を逆撫でした。怒りで顔色の変わっている者もいたが、ラ・イールは無視した。
「イギリス軍がパリから増援を出した場合、必ずサン・ルウに物資を集結させ、そこから各砦に運搬をしていました。サン・ルウ陥落の事実は次の敵部隊の補給が、どの砦になされるか考察する必要性に迫られているということでもあります。さて、いみじくも、プロアから私と同行したジャンヌは言いました。勝つつもりで闘うなら、オルレアン攻囲軍を各個撃破するべきだと。今回、幸いにも―――誰の手によるものか神のみぞ知ることでしょうが、敵の重要拠点であるサン・ルウの砦は陥落しました。私はこの興味深い相関関係から、ジャンヌに意見を聞いてみるべきだと思います」
反対意見が見境なく出された。
「軍事上の作戦はジャンヌに何ら寄与しない」
「会議に出席してあいつは発言できるのか」
「身分の賤しい、神のみぞその過去を知る娘に、どうして我々が教示される」
「売春宿で働いていた淫売婦」
これらの誹謗、中傷はイギリス軍より性格が悪かった。何故なら、彼等は一様にジャンネットの「力」を正当に評価していなかったからである。彼女に対して、恐れ、憎しみを抱くイギリス兵達の方が、よっぽどマシに彼女を評価していた。
「そもそも」
ジャンネットを淫売婦と呼んだ一人の領主が口を開いた。
「我々の目的はイギリス、そしてブルゴーニュ公との和平条約にある。作戦はそれを前提として立案されるべきものだ。主戦論をして会議を混乱させるべきではないと思うが」
列席者達は頷いた。
「ですが、彼女にその作戦を正確に伝え、納得させない限り、第二、第三の暴走が起こる可能性があります。我々はそれに対して責任が負えますか?」
ジャンの言葉に部屋は静まり返った。先の暴走がジャンネットの起こしたものとの認識が全員にあったからである。それにもしオルレアンが陥落すれば、責任はすべてこの会議の列席者達にある。彼等はことの重大さにはじめて気付いた。
「分った、ジャンヌを呼ぼう」
総督が渋々折れた。今度は何の反論も出てこなかった。ただ全員の想いは一致していた。「宮廷のバカヤロウ!」この一言に尽きた。
ジャンネットの宿舎に伝令が遣わされて15分程で彼女はやって来た。
息を乱した彼女は席にもつかず、ゴークールの説明を聞いた。ゴークールは彼女に対する列席者達の感情を除き、極めて客観的な情勢と、これからの対応について説明した。苦笑を禁じえなかったのはジャンとラ・イールだった。先程までの彼女に対する悪口雑言を思い出す都度に二人は吹き出しそうになった。
「いゃあ、何とも節操のない連中だ」
「うむぅ、呆れてものも言えませんな」
小さな声でジャンとラ・イールは囁き合った。昨日の勝利によって、この二人の心はジャンネットに傾倒していたのである。
ジャンネットは部屋の中を行ったり来たりしていた。やがてゴークールの一通りの説明が終わると、彼女は立ち止まって言った。
「話はよく分った。要するにおまえ達は勝ちたくないんだな」
「そのとおり」
「良く分っていますね」
再び囁き合うジャンとラ・イール。
「おまえ達の戦術なんてナンセンスの何物でもない。敵の増援部隊が来るのを、指を咥えて待つ? ナンセンスだ。もう既に我々が勝てるということはサン・ルウの戦いで実証済みじゃあないか」
「では聞こう、君の戦術とやらを」
ゴークールの顔は小娘に馬鹿にされたことで引き攣っていた。列席者達も一様にざわめく。そのほとんどはジャンネットに向けられた非難だった。
「勝ちを求めないおまえ達に教えてやることなんて何もないね。せいぜい知恵を絞りな」
彼女は冷たく引き離す。遂に我慢の限界になったのか、列席者の一人であるジャン・シャルティエは席を立って叫んだ。
「この無礼な輩の言葉など聞く耳持たん! 私は失礼させて貰う!」
それが合図となり、怒りを見せていた人々は席を立ち、次々と部屋から出て行った。
「次はあそこだな」
「多分そうでしょう。それ以外には考えられません」
「それじゃあ俺達の部隊は何時でも動けるように待機しておこう」
「そうですね、私もそうします」
ジャンとラ・イールは席を立ち上がりながら小声で確認しあった。
ジャンネットは肩を怒らせて部屋を出た。後に残ったのは総督のゴークールだけになった。彼は悪い予感を抱いていた。ジャンネットは何をするつもりなのか? 今夜は不安で眠れない夜になりそうだった。
1429年5月6日 金曜日。
オルレアン市民は吹き鳴らされるラッパの音を耳にした。それはジャンネットの宿舎から聞こえてきた。と、言うことは・・・昨日の勝利の美酒に酔った人々は彼女の宿舎に期待を込めて集まってきた。
ラッパは従者のレイモンが吹いていた。その前に徐々に人だかりができる。人々はジャンネットの宿舎を見上げた。遂に救世主のお出ましか。彼等は興奮を隠し切れないでいた。
「ジャンネット、もう数え切れないくらいの人だかりができている」
部屋の窓から外の様子を見たラソワが報告した。
「じゃ、そろそろ世紀の美少女の登場といきますか」
ジャンネットは武装し、顔当てのついていない兜をかぶりながら言った。
「自分で言うなよな!」
彼女は扉を開けて外へ出た。オルレアン市民の嵐のような歓声が響く。ジャンネットはその中をゆっくりと歩いた。彼女が進む方向にいた人々は次々に道を開けた。歓声はいつの間にか彼女への歓呼に変わる。
「ジャンヌ!」
「ジャンヌ!」
「ジャンヌ!」
ジャンネットは更に人が集まることができる場所―――マルトロワ広場に向かっていた。ラソワを含む彼女の従者達も後に続く。
「オルレアンの民よ!」
マルトロワ広場の中央に立った彼女は大音声を上げた。市民の歓呼の声は消され、周囲は静寂に包まれる。彼等は固唾を飲んで救世主の次の言葉を待った。
「我々の力によって、昨日、敵サン・ルウの砦は落ちた。審判は下されたのだ。だが我々はまだ自由ではない。オルレアン攻囲軍はまだその牙を隠し持っている。我々は我々の手によってその牙に立ち向かわなければならぬ。オルレアンの民よ、心して聞け! 我、ジャンヌ・ラ・ビュセル。本日、サン・ジャン・ル・ブランの砦を攻める! 我と思わん者は我に続け!」
ジャンネットの宣言に民衆は歓呼の声で応えた。マルトロワ広場は興奮の坩堝と化した。
その頃。
ジャンヌ動く。という情報は電光石火のごとく総督ゴークールの耳に届いた。彼は取り急ぎ分隊を組織し、ブルゴーニュ門へと向かった。
それとほぼ同時に、待機していたジャンとラ・イールにもその情報は伝わる。だが彼等は待機という姿勢を崩さなかった。総督が組織した分隊によって阻止される程の暴走であるならそれまでのこと。まずはジャンネットのお手並み拝見と彼等は決め込んでいたのである。
ジャンネット一行はマルトロワ広場を東に抜け、サントクロワ広場に入り、更に東のブルゴーニュ門へと向かっていた。民衆の数は次第に増え、門を前にした頃には2000の数を超えていた。大門は閉ざされていた。
昨日は虚をつかれた形で民衆の暴走を許し、開かれた門は、門兵とゴークールが組織した分隊によって守られていた。門は市当局の正式な許可がない限り開くことはできない。即ち、開門を拒むゴークールの許可が必要なのである。だがこの時の兵力はジャンネット一行2000を超える民衆に較べ、ゴークール支持の兵は100にも満たなかった。
“下手をすれば、内乱にもなりかねん”
次々と集まってくる人々を前に、ゴークールの喉はゴクリと鳴った。彼は悪夢を見ているような思いであった。
“これが奴の力か?”
開門を拒む彼の力、権力、彼の支持者はあまりにも少ない。ゴークールはジャンネットと冷静に話し合うことがベストだと、遅すぎる結論を導き出した。
「ジャンネット! 姿を見せろ! 我々には話し合いと理解が必要だ!」
掠れた声で彼はジャンネットを呼んだ。ブルゴーニュ門を前にする民衆の中央に道が開き、その中に一人の武装した少女が立っているのが彼には見えた。ジャンネットはゆっくりとした足取りで開かれた道を歩き、ゴークールと対峙した。
「ジャンヌ、聞け。今は悪戯に兵力を分散している時ではない。来るべき総力戦を前に、温存させておくべきなのだ。あまりにも強引に起こしてしまった戦闘には多大な犠牲がついて回る。考え直せ」
「その話は昨日も、また守備隊長からも何度も聞いたよ。でも納得できないね。それは勝つための戦術ではない。本当に勝ちを望むなら、敵が集結する前に砦を各個撃破する! これしかない! 昨日はサン・ルウの砦を陥落させ、オルレアンの東のルートは完全に開かれた。残るロワール河南岸の砦を落とせば、攻囲軍は攻囲軍でなくなる。それにな、敵のロワール河南岸の砦兵力は、分散しているがためにここに集まっている数より少ない筈だ。後は西方に位置する砦から援軍が出てくるのを牽制すれば、奴等はやすやすと砦から離れられない」
ジャンネットの描いた作戦だった。
「しかし一方的に戦術を持たずして闘うことはあまりにも危険すぎる。ロワール河南岸への攻撃は、昨日のサン・ルウへの暴走のようにはいかんぞ!」
「大丈夫、そこんとこもよく考えているよ。けど、本当に分からず屋の爺ちゃんだね」
ジャンネットは大きく嘆息を漏らした。そして大きく息を吸い込む。それから・・・
「いい加減にしろ! この下司野郎!」
彼女は大声で叫び、右手を上げ、それを前方に振り下ろした。事の成り行きを見ていた民衆は、それが彼女の出撃の合図と分ると門に殺到した。ゴークールも門兵も、そして彼が連れてきた分隊も何の抵抗もできないまま門は開け放たれた。ブレーキの壊れたサン・ジャン・ル・ブランへの暴走はこうしてはじまった。
「ラソワ、先に行っていてくれ! 俺にはまだやることがある!」
ジャンネットは開放された門に殺到する人々に流されるラソワに向かって言った。
「でも! ジャンネット!」
流れに逆らい、もみくちゃにされた彼は不安げな視線を投げかける。
「大丈夫だ! サン・ジャン・ル・ブランは地理的にサン・ルウと同じだ! 簡単に砦は落ちる!」
彼女の言葉が届かぬうちにラソワは城外に押し出された。そこまで見届けてジャンネットは市長の姿を探し求めた。彼は門から少し離れた場所で腰を抜かしていた。
「ジャンヌ・・・罵声を浴びせられた時は殺されるかと思ったぞ」
気の毒にもこの初老の男は震える声で先ほどの感想を述べた。
彼の前に立ったジャンネットはニッコリ笑い手を差し伸べた。
「何を馬鹿な。私たちの敵はひとつの筈です。そんな気持ちはさらさらありません」
彼女はゴークールの手を握り、立ち上がらせた。
「お願いがあります。オルレアンの西の城壁に囮部隊を派遣してもらいたいのです。我々がロワール河南岸の砦を攻撃する間、敵の増援部隊が出撃できないように時間稼ぎをして下さい」
ゴークールはやれやれという様子で一息ついた。暴走がはじまった以上、彼女の指示に従う他はなかった。
「仕方ない。できうる限りやってみよう。だがジャンヌ、無理はするなよ」
彼はそう言い残すと、散っていった分隊を組織し直すべく、オルレアンの街中へと向かった。
門には一人ジャンネットが佇む。
城外の喧騒を背景に・・・
待つこと30分、ラ・イールとジャンが率いる部隊がブルゴーニュ門に到着した。彼らはジャンネットの姿がここにあることに驚きを感じた。騒ぎの張本人が何を悠長にこんなところにいるのか。
「割合早かったな」
ジャンネットは言った。
「ちょっと勝つために必要なものがあってね、おまえ達にちょっとそれを持ってきてもらいたいんだ」
ラ・イールとジャンはお互いに顔を見合わせた。
“この少女は一体何をやらかすつもりなのか?”
二人の顔にはその疑問が浮かんでいた。
こちらはラソワが飲み込まれた先発隊。
舟でロワール河を渡り、怒涛のごとくサン・ジャン・ル・ブランの砦に雪崩れ込んだオルレアン市民は呆気にとられた。そこには敵兵の姿が全くなかったのである。信じがたいことに、彼らは戦わずして勝ったのだ。ジャンヌの奇蹟・・・そこに居合わせた人々はそれを信じて疑わなかった。
歓声が周囲の空気を震わせた。
“奇蹟でも何でもないんだがなぁ”
そんなオルレアンの市民の様子を伺いながら、ラソワは腕組みをして考えた。
“サン・ルウの砦があれだけ短時間で陥落させられた事実を見せ付けられたら、イギリス兵も戦おうとは思わないって。ここにいた敵が、昨日の敗北の有様を正確に知っているんだから”
そう、ここはサン・ルウの砦から一番近い場所に位置する。
同時に、ラソワの頭にはブルゴーニュ門を出る前にジャンネットに告げられたことの意味が鮮明となった。
“一番近いオーギュスタンの砦ですらここから直線距離にして600m、支援部隊の到着までとても持ちこたえられないって判断したんだろうね。まっ、ジャンネットの作戦勝ちだ”
ラソワはフッと真顔になる。
“しかし問題はこれからだ。どう動けばいいんだ?”
早過ぎる勝利はラソワを困惑させた。そしてキョロキョロと周囲を見回す。彼の探すジャンネットの姿はここにはない。
その時、高らかなラッパの音が響いた。
視線をそちらに向けると、城壁に立ったジャンネットの従者の一人であるクートとレイモンが興奮した面持ちで立っていた。
「神は我々に勝利をもたらされた。これからもそうであろう! 行こう! オーギュスタンへ!」
クートの呼びかけに応える声が木霊する。ラソワはヤバイ雰囲気を感じとった。暴走のしすぎではないのか・・・喉まで出かかった言葉を彼は飲み込む。反論を許さない空気が充満していたからだ。下手をすれば裏切り者として殺されかねない。
「まずいよ・・・ジャンネット・・・何処にいるんだよ・・・」
彼は泣きそうな弱々しい声で呟いた。
「まずい!」
船で対岸に渡る間、サン・ジャン・ル・ブランの砦をジッと見詰めていたジャンネットが思わず叫んだ。砦からオルレアン市民が溢れ出て、オーギュスタンへと暴走をはじめたのが見えたからだ。
「ジャン! もっとスピードを上げろ!」
「精一杯だ!」
傍らに立つジャンも叫び返す。
先発隊に遅れること1時間、ジャン、ラ・イールとその他の指揮官の部隊とともにジャンネットはロワール河を渡っていた。総勢3000名、ジャン、ラ・イールを除いてはじまってしまった暴走に渋々動いた指揮官に率いられた部隊だった。この中には、ジャンネットのアジテートにより、そのほとんどの部下を奪われた指揮官もいた。
“今行っちゃあ駄目だ。敵にやられるぞ”
彼女は爪を噛んだ。オーギュスタンの敵部隊はサン・ジャン・ル・ブランの報告を受け、体勢を整えている筈だ。結果は目に見えて明らかだ。
サン・ジャン・ル・ブランの早過ぎる勝利はジャンネットにとっても計算違いだった。
オーギュスタンの砦はもともと僧院であったものを攻囲軍が要塞として改造したものである。道を挟んだ北側にはトゥーレルの砦があり、この二つの砦がオルレアン攻囲の戦略上の最重要拠点であった。今、オーギュスタンの砦ではサン・ジャン・ル・ブランの砦から逃げてきた兵力の建て直しと、突撃を続ける狂気の集団に対する防備がなされつつある。門の前には出撃部隊が編成されていた。
「門を出て、きっかり300を数えよ! 敵の数が多すぎる! それ以上外にいれば危険だ! 迅速に攻撃を加え、速やかに砦に帰還せよ!」
バナレット騎士は声を荒げる。
一方、城門では大砲と石弓が準備されつつあった。
「敵は闇雲に攻めるのみ! その中央に打ち放ってやるのだ!」
砦内部の至るところで怒号が巻き起こっていた。
オーギュスタンの兵力は約1000、一方のオルレアン市民による先発隊の数は約2000、数字上では大きな兵力差があったものの、防備の整った砦に何の戦術も持たずして戦うのはあまりにも無謀である。オルレアン市民はサン・ジャン・ル・ブランを発って15分後、身をもって思い知らされた。
大砲と石弓の有効射程距離に入ったオルレアン市民は、最初にその集中砲火を浴びる。敵の圧倒的な火力を前にして、彼等にはなすすべもなかった。パニック状態に陥った彼等はただ逃げ惑う状態となった。
そこに騎兵団が雪崩れ込む。
蹂躙――蹂躙――蹂躙――果てしない蹂躙が続く。一瞬のうちにその場は阿鼻叫喚の地獄と化した。
ラソワは集中砲火から離れた場所にいたものの、とたんに混乱する人の渦に巻き込まれた。辺りには土煙が巻き上がり、視界は完全に閉ざされた。頭上から降ってきたものを払いのけると、それは立派な人の腕だった。
「うわ~っ!」
彼の背中は総毛立った。恐怖が彼を支配し、向かって行く場所すら分からない闇雲な逃走がはじまる。砲撃に倒れた死体に躓き、彼は言葉にならない叫び声を上げながら走った。
何度目か躓きかけた時、突然前を走る男の身体が揺れたかと思うと、ラソワの方に倒れてきた。彼はそれを避けきれず、男と一緒に転倒する。すばやく起き上がろうとした彼が抱き抱えていたのは、とめどなく血を噴出している首をなくした死体だった。
「ヒッ!」
彼は引き攣った声を出し、その場で腰を抜かした。
土煙の中で敵の騎士が行った蛮行であることに気付くには暫くの時間を要した。
敵の攻撃は当初予定していたものとは多分に違っていた。
騎兵団の攻撃が長引いたためである。攻撃時間を5分間と設定していたものの、あまりにもあっけないオルレアン側の部隊に彼等は追撃を行った。部隊の行き過ぎを諌め、オーギュスタンへと部隊が帰還したのは20分後だった。
この時点でオルレアン市民による部隊はその兵力の4分の1を失っていた。
「このまま追撃を続けさせても良かったのではありませんか?」
攻撃から帰還した騎士の一人が指揮するバナレット騎士に進言した。
「敵は全くの素人集団です。今なら大きな打撃を―――いや、それ以上に壊滅させることは容易です」
オルレアンの先発隊はもはや逃走をはじめている。今なら追い詰め、河を渡る前に叩くことが十分可能なことを彼等は知っていた。
「よし! 次の攻撃は全軍出撃する!」
指揮官の決意の表明に大きな掛声が砦にこだました。
かくして部隊はオルレアン市民の追撃をはじめる。
サン・ジャン・ル・ブランの砦へ逃走するオルレアン市民は、砦まで約100mのところでその最後尾の人々が敵部隊に追いつかれ、なぎ倒された。機動力のある騎兵が逃走する部隊に雪崩込み、後方からはその周辺部に弓が放たれる。
ラソワの横を逃げる壮年の男が胸を射抜かれて倒れた。
“もう駄目だ!”
息を乱した彼は観念した。
と、同時に巻き起こるウォークライ
「全員反転して戦え! 勝利は我等にある!」
正面、サン・ジャン・ル・ブランの砦から1000の増援部隊を背にジャンネットが飛び込んできた。同時に逃げるオルレアン市民と追うイギリス軍を挟撃する形で、北と南からそれぞれ1000の部隊が殺到した。北からの部隊はジャンが、南からの部隊はラ・イールがそれぞれ指揮をしていた。
味方の増援を目の当たりにして、勇気付けられたオルレアン市民も反転し反撃を加える。
陣形としてはイギリス軍にとって最悪だった。コの字型に中央に誘い込まれた状況なのである。もしこれが五分の兵力であれば、中央突破を試み後に反転して包囲陣をとることも可能ではあったが。この時オルレアン軍との兵力差があまりにもあり過ぎた。しかも突破すべき中央には、ジャンネット率いる部隊と逃走をしていたオルレアン市民がいるのだ。
これでは勝てない!
咄嗟に判断したイギリス軍はオーギュスタンに反転する。
完全に形勢の逆転であった。
正しい選択をしたにも関わらず、オーギュスタンに逃げ延びたイギリス軍は、その部隊の3分の1を失った。
オルレアンの部隊はオーギュスタンの砦まで300mのところに移動した。
もはや始まってしまった戦闘である。指揮官達もジャンネットに対する非難もない。ただ暴走した一般市民についてはオルレアンに帰還される。最初の戦闘での疲労と、西の敵砦からの攻撃が危惧されたからだ。残る兵力は約3000となった。
とは言え、ジャンネットにはその指揮権は任されなかった。
サン・ジャン・ル・ブランの砦を陥落させたものの、戦闘についてはズブの素人という考えが、指揮官達の間で払拭できなかったのだ。
「今までの戦闘じゃあ駄目だ!」
ジャンネットは力説した。
「砦は短時間で陥落させないと、夜には他の砦から補給が来る! それに徒に突撃ばかり繰り返したところで、被害は大きくなるばかりだ!」
当時の慣行として、夜・宗教上の祭日・敵の指揮官が捕虜となっている領土で戦闘を行わないというものがあった。このままオーギュスタンを落とせずオルレアンに帰還すれば、サン・ジャン・ル・ブラン攻略の意味もなくなる。無傷で残された砦に再びイギリス軍が侵入することは十分考えられた。
だが、ジャンネットの意見は無視された。
指揮官達の頭にはこれまでの戦闘方法しか考えられなかった。即ち、実兵力を砦に向け、内部に侵入し、火を放つ。力対力のぶつかり合いこそがベストだと彼等は思っていた。
数回に渡って突撃が行われた。
実兵力において4倍の兵力差があるものの、砦の自衛は固い。矢と砲撃に倒れる者。いざ砦近くまでたどり着いても、そこでなぎ倒される者が続出していた。馬鹿な、それでいて無益であることを知りつつ、この正面からの戦闘にジャンネットは果敢に挑んだ。彼女にしてみれば、士気の低下が恐ろしかったのだ。
こうして、夕刻まで行われた戦闘は結局実を結ばなかった。3000の兵力は2500まで落ちた。
「結局、攻めきれなかったね」
落陽を見詰めながらラソワは呟いた。彼にしてみれば、今日生き残れたことは奇蹟に近かった。オーギュスタンでの最初の戦いで、先頭に立っていたレイモンとクートは帰らぬ人となっていたのだ。
「戦術がまずいよ」
ジャンネットは無愛想に言った。
「頭が固すぎる・・・」
彼女は嘆息を漏らし、ガックリと肩を落とした。
「ジャンヌ・・・」
彼女が顔を上げると、そこには守備隊長のジャンがいた。彼は何か言いぬくそうな複雑な表情を見せていた。
「今日のところは失敗だ。これから部隊はオルレアンに撤退する。また日を改めよう」
「嫌だ! ジャン、俺にはまだやり残したことがある!」
ジャンネットは素直な感情を彼にぶつけた。
「たのむ! ジャン! おまえの部隊を貸してくれ! 最後の戦闘だ!」
「しかし今までのやり方じゃあ結果は見えているぞ」
「大丈夫! ちゃんと考えはある! おまえとラ・イールに持ってきて貰ったものを使う」
「だ、だがあれは・・・」
ジャンは驚き、言葉を失った。あれについては使えるチャンスがなきに等しい。それに何より危険すぎる。
「面白い、その話乗らせてもらおう」
気付かぬうちにラ・イールが傍らに立っていた。ジャンは二人を見て決心した。勝利に向かう気持ちは、ジャンネットやラ・イールに負けないものを彼は持っていたのだ。
ここで部隊は分裂する。
反ジャンネットの感情を持つ指揮官達は部隊の疲弊を理由に早々と撤退をはじめた。これ以上戦って犠牲を大きくしたくはなかった。彼等はサン・ジャン・ル・ブランへ、オルレアンの道を急いだ。
この動きをイギリス軍は察知する。
そして間違えた結論を導きだした。
残された部隊は急進的なアルマニャック派の部隊であると。
彼等さえ叩けば、今後戦闘は収まると彼等は考えた。
逆である。
反ジャンネットの感情はアルマニャック派の貴族達に根強く、去ったのは彼等の方だったのだ。この誤った認識が、後の彼等の敗北に繋がる。
とまれ。
親ジャンネット派の残された部隊は1000まで減り、オーギュスタンの砦に残るイギリス軍と兵力はバランスした。
そして唐突に戦闘ははじまった。
残されたフランス軍が一斉にオーギュスタンへ突撃をはじめた。砲撃の有効射程距離に入り、オーギュスタンら大砲が撃たれる。土煙が巻き起こり、フランス兵は次々と倒れた。前進でない。撃ち続けられる砲弾に兵力は減って行った。
30分後、フランス軍は転進する。その数は500まで減っていた。
先の撤退でフランス軍の増援はない。
部隊は既に河を渡っている。
そのことがイギリス軍の気持ちを先走りさせた。
またここにいるフランス軍がアルマニャック派であるならば、全滅させておけば、今後蛮行を起こそうとする野心がオルレアンからなくなるであろう。
兵力についても今ならこちらに分がある。
砦の門が開かれ追撃部隊が出た。
その直後―――
イギリス軍はこの時気付いていなければならなかった。砲撃によって倒れたフランス軍があまりにも多かったことに。500という数は、今日一日の戦闘でフランス軍が失った兵力の3分の1に相当する。
突然、轟音が鳴り響き、砦の門とともに追撃部隊はなぎ倒された。有効射程距離に短時間にセッティングされた大砲が一斉に火を吹いたのである。見せ掛けの逃走をしていたフランス軍は再び転進し、更にオーギュスタンの砦近くで死体に紛れて倒れ伏していた300の兵とともに、破壊した門から砦の内部に侵入した。
フランス軍の砲撃で受けた傷はあまりにも大きく、オーギュスタンの砦はあっけなく陥落した。
ジャンとラ・イールはジャンネットの考案した戦術に舌を巻いた。
紛れもなく彼女は軍事的天才だと彼等は確信した。
まず二人は大砲の使用は考えられなかったのだ。何故なら、有効射程距離に大砲をセッティングすることは、敵の有効射程距離に入ることを意味する。みすみすその行為を敵が見逃す筈はない。それを可能にし、しかも集中砲火をして敵を一掃する鮮やかさである。彼等はジャンネットに敬意を表さずにはいられなかった。
後にこのジャンネットの戦術は、イギリス軍のロングボウに対抗する戦術として洗練化されていく。ジャンとラ・イールは戦術面の新しい時代の幕開けを垣間見たのだった。
一方、西のラ・クロア-ボアセの砦に待機していたタルボットとサフォークは慌てた。
わずか一日でオーギュスタンの砦が陥落するとは思ってもみなかったのだ。今日の戦闘が終われば、トゥーレルとオーギュスタンに増援部隊を送る予定でいた彼等は、その思惑が脆くも崩れたことを知った。トゥーレルは堅牢とは言え、一辺がわずか30mの小さな砦にしか過ぎない。そんなところに大量の増援を出しても意味はないのだ。
そもそも何故オーギュスタンは自衛に徹せず部隊を外に出したのだ?
タルボットとサフォークは不吉な想いに捕らわれた。
彼等の頭の中で、ジャンネットは既に魔女のレッテルが貼られていた。
そして彼等の希望はただ一つ、パリからフォールスタッフの援軍が到着するまでトゥーレルの砦がもつこと。イギリス軍が2週間かけて砦を奪ったことを考えるとそれは不可能ではないとも思われた。
しかし、タルボットとサフォークは決して事態を楽観などしていられなかった。
「アハッ・・・また多くの犠牲者を出しちゃったね・・・」
完全に日が沈んだ西の空を見ながらジャンネットは呟いた。彼女の心はジャンやラ・イールの賞賛にも満たされないものがあった。それは陽動作戦をして失った数々の命に対する自戒の念のためだった。
ラソワはジャンネットの横顔を痛々しく見ながら、けれども何も慰めの言葉を口に出せないでいた。二人は化石のようにその場に佇んでいた。
「俺もこのままじゃすまないね」
再びジャンネットが呟く。
「明日は怪我することになりそうだ」
周囲を赤く染めた宵闇が、彼女の全身を不気味に浮かび上がらせた。ラソワにはそれがジャンネットの流す血のように見えた。
その日オーギュスタンの砦を陥落させた部隊は、翌日攻撃を予定するトゥーレルの砦を前に野営した。
1429年5月7日、土曜日
トゥーレル奪回戦の幕は切って落とされた。
もうジャンネットの能力に疑いを持つ者はいなかった。自分達が陥落させようにも攻め切れなかったオーギュスタンの砦を彼女は落としてしまったのである。オルレアン市民は歓喜し、彼等には反論の余地は残されていなかった。そうすることは、オルレアン市民を敵に回すことと同義だったのだ。一度オルレアンに帰還した彼等は、その事実を認識し、翌朝にはジャンネット達と合流するためにロワール河を渡った。
しかし、ことトゥーレルについてはジャンネットも考えが甘かった。
彼女自身はオーギュスタンとトゥーレルは二つで一つの砦と考え、その一方の砦さえ落とせば簡単に残る砦は手中となると思い込んでいたのだ。
そのことを指摘したのはジャンだった。
トゥーレルはもともとロワール河に架けられたジョルジュ・サンク橋の橋頭堡である。イギリス軍がここを攻め落とすのに、実に2週間を要しているのだ。しかもその後改造され、壕をうがち外囲いが築かれている。まともにやっていれば、フォールスタッフの援軍が到着してしまう。
とは言え、急なことでジャンネットには何ら作戦も思い浮かばない。先のオーギュスタン戦でこちらの手の内も見せており、砦の外へおびき出すこともかなわぬ状況に
「しょうがないんじゃない」
とあっさり言うしかなかった。そんなわけで、トゥーレル奪回戦の前半戦はスタンダードな攻撃が試みられた。
まず、夜の間に備え付けられた大砲による威嚇砲撃がはじまる。続いて部隊の突撃。だがトゥーレルは守りが堅く、外囲いすらも突破できない。いやたとえ突破できたにしても次の壕のところで手間取り、とても少人数の突破ではどうしようもなかった。外囲いから砦内部までを一気に蹂躙しなくては、トゥーレル攻略は無理な状況であった。また威嚇に対して行われる敵の砲撃にもジャンネット達は悩まされた。そもそも橋頭堡であったトゥーレルは高い塔として存在し、視界は常に180度開かれている。威嚇は意味をなさず、敵の応酬は正確に行われた。
何度も突撃と撤退がリピートされた。
ジャンネットはそれが起こったのが何度目の突撃の時か覚えていない。
彼女はトゥーレルから放たれた矢に倒れた。
敵のわずかな隙をつき、外囲いに梯子をかけ、登る所を狙い撃ちされたのである。
矢はジャンネットの左肩を貫通した。
同様に被害を受けたのは彼女の後方で梯子を登っていたラソワだった。落ちてくる彼女の身体を支えきれず、彼は巻き込まれて地面に転落した。ラソワの身体がクッションになって転落のショックは左程受けなかったものの、ジャンネットの傷は深く、彼は気を失った彼女を引き摺って戦闘の場を離れた。
「ジャンネット・・・ジャンネット・・・」
遠くで彼女を呼ぶ声がする。
“ここは何処だ・・・ここは・・・”
白濁した意識の中、彼女は必死に気力を奮い起こした。気が付けば、不安げな顔をしたラソワがジャンネットを見下ろしていた。
「ああ・・・いつかこんな時があったね・・・」
ジャンネットは微笑し、半身を起こすとラソワの頭を小突いた。
「ヌーフシャトーでは強烈なフックだったよ」
彼も安心したような溜息を漏らし微笑する。
彼女は肩を貫通した矢が刺さったままになっているのに気付いた。
「酷いなぁ・・・治療ぐらいしてくれよ」
無造作に矢を引き抜く。鮮血がラソワの頬に散った。
「まだここに連れてきたばかりだよ。戦闘は小休止している」
敵の矢に倒れてから時間はあまり経過していないらしい。先程の突撃もどうやら失敗に終わったようだ。
この時、部隊は既に500の兵力を失っていた。数の上で昨日の戦闘より被害が少ないのは退却のタイミングが非常にうまくなされているためだろう。が、戦闘はかなり長引きそうだと彼女は直感した。
「分かった、ラソワ。俺は傷の手当てをして暫く仮眠する。戦闘がはじまったら起こしてくれ」
ジャンネットはふらつく足で立ち上がり、葡萄畑の方へ姿を消した。
傷の具合を心配する兵士達に大丈夫と気丈に返事しながら。
ジャンネットが姿を消して数分後、ラソワのもとにジャン、ラ・イールをはじめとする部隊の指揮官達が集まってきた。
彼等はジャンネット倒れるとの情報を聞き、彼女の身を案じていた。
「おい、あのじゃじゃ馬の田舎娘が倒れたのは本当か?」
ラ・イールは不躾に尋ねた。
「ええ、あれでも倒れちゃうことあるんですよ」
ラソワは笑いながら答えた。
「その様子では、大した傷ではなかったんだな?」
今度は念を押すようにジャンが尋ねる。好対象の二人を交互に見ながらラソワは頷く。集まった指揮官達の口から安堵の溜息が漏れた。
「少し仮眠すると言っていましたよ」
「そうか・・・ではしばしの休みをとろう。自分がいない間に砦が陥落したと知ったら、田舎娘がうるさいからな」
ラ・イールが肩を竦めてそう言うと、指揮官達は笑った。
「彼女にはゆっくり休息を与えてくれ。いずれ戦闘を再開する時には使いをよこす」
ジャンがラ・イールに続いて言った。ラソワは再度頷いた。
場所を移してジャンとラ・イールは今後のオルレアン攻防戦について話し合った。
「今度ばかりはジャンヌの奇蹟は期待できんな」
「おや、あなたはあれを彼女の奇蹟と信じていたのですか?」
年少のジャンは素朴に驚いた。
「確かにサン・ルウ、サン・ジャン・ル・ブラン攻略のきっかけをつくったことが正しい選択であったことは否めませんし、オーギュスタン陥落の功績は大きいにしても、大げさに奇蹟と呼ぶには・・・」
ジャンの言葉にラ・イールは微笑した。
「オルレアン入城前に、彼女はひとつの戦術を提案してきたよ。それが全く正しいものとは思えなかったが、昨日のオーギュスタンの戦術は目をみはるものがあった。ジャンヌは正しく軍事的天才だ。その天才の煌きは奇蹟に近いものがあると思わんか? 彼女が次にどんな煌きを見せてくれるのか、俺は楽しみであるのだよ」
「しかし今度ばかりは彼女もどうしょうもないでしょう。このままトゥーレルの攻撃を長引かせるわけにはいかない。市長のラ・クロア-ボアセのおとり部隊も限界でしょうし、何よりパリより敵の援軍が来ればひとたまりもない。とりあえず戦闘は今日にでも中断し、オーギュスタンとサン・ジャン・ル・ブランを焼き払った上で、ブロアに援軍を乞いに向かいたいのですが・・・」
「まっ、それが最善の方策って奴だろうな」
面白くなさそうにラ・イールは言った。
手足を投げ出して休息を取るラソワの前に一人の男が現れた。
「おまえがジャンヌ様の従者だな」
男はラソワを見下ろした。いかつい顔つき。大柄な身体は彼を圧倒した。何よりも彼を見る眼光は只者ではない。ラソワはたじろいだ。
返答できないでいると、男は一本のランスを彼に投げて寄越す。ランスの先には旗がつけられている。ラソワがよくよく確かめてみると、それはジャンネットのために作られたものだった。今までのゴタゴタでその存在をすっかり忘れていたそれと、男の顔を交互に見た。
「私の名はル・バスク。本日司祭のパスクレルからそれを借り受けてきた。これがあれば我が軍の士気も上がるであろう」
ル・バスクと名乗る男は明らかにジャンネットの狂信者だった。異様な眼光にラソワは後退りする。その腕をル・バスクは掴んで離さなかった。
「おまえにはやってもらいたいことがある。よもや断るまいな」
ル・バスクのあまりの迫力に、ラソワはカクカクと首を上下させた。
ジャンネットはしばしの時間ウトウトとして起き上がった。肩の傷が痛み、彼女は仮眠するに至らなかったのだ。確かに疲れているのだが、妙に精神は冴えていた。
応急の手当てをした肩からの流血は止まっているものの、当てられた布には鮮血が滲んでいる。ジャンネットは少し肩を動かしてみた。激痛が走ったがどうやら神経まではやられていない。意思に従って肩は動いた。
ジャンネットは立ち上がる。
そしてラソワの姿を求めた。このような状況だと、大体彼は彼女の傍らにいる筈なのだが、その姿が見えないことにジャンネットはそわそわした。何か悪い予感がする。彼女はラソワの姿を求めて葡萄畑から出た。
だが、そこにもラソワの姿はない。
地面に座り込む何人かの兵士の顔を覗き込み、ジャンネットは彼の行方を尋ねた。覗き込まれた相手は、尋ねてきたのが問題の「奇蹟の少女」だと知ると敬意を表したが、ラソワのことは知らないと答えた。途方に暮れて、ジャンネットは部隊の中を歩き回った。
結局ジャンネットはラソワの姿を見付けられず、休憩する部隊から少し離れたトゥーレル寄りの場所まで足を向けた。
“あ~ぁ、しぶとい砦だね”
ジャンネットはトゥーレルに視線を移して思った。
「ン?」
その時、彼女の視線の先に、トゥーレルの砦までの距離が半分程の場所で何か動いているものを見付けた。目を凝らす。人だ。二人・・・そして一人は旗を持っている。そこでジャンネットは旗を持っているのがラソワであり、その旗とは自分のために嘗てつくられたものであることに気付いた。
「何やっている、ホント」
彼女は呟き、ラソワのいる場所に小走りで向かった。
「ラソワ―――! 一体何の真似だ!」
旗を持つラソワ。その傍らのル・バスクまで声が届く場所まで移動し、ジャンネットは叫んだ。その声にラソワは振り向き、困ったような泣き笑いの表情を浮かべた。
「いや、この人がね、軍の士気高揚のためにこの旗をトゥーレルまで運ぶって言うんだ」
何を馬鹿なことを!
ジャンネットの頭は怒りで真っ白になった。みすみす敵の前まで行き、無事で還ってこられる筈はないし何より犬死する可能性の方が高い。そんな危険な目にラソワをあわせようとするル・バスクの神経が知れず、ジャンネットは怒りに任せて二人のいる場所まで走った。
その場所まで数メートルと迫ったところで・・・ジャンネットはル・バスクの表情が困惑から歓喜に変貌するのを見た。
そして背後で突如として湧き上がったウォークライ。
「わっ!」
背後を振り返ったジャンネットは驚きの声を上げた。背後から味方部隊の突撃が敢行されていたのだ。彼等はトゥーレルに向かって走るジャンネットとその先にある彼女の旗を確認し、それが突撃の合図だと勘違いしたのである。
感情のみで突っ走る部隊に圧倒され、ジャンネットは反転し、部隊に飲み込まれないよう全速力で走った。つまりはトゥーレルの砦に向かって。ラソワもル・バスクも慌ててそれに習う。
「こ・こ・これから、ど・ど・ど・どう、な・な・なるんだろう」
ラソワは追いついてきたジャンネットに尋ねた。
「な・な・なる、よ・よ・よ・うにしか、な・な・な・らんだろう」
ラソワとジャンネットは全速力で並走しながら、夢なら醒めてくれとひたすら祈った。
結果論から述べれば、ジャンネット達はこの突撃をしてトゥーレル攻略に成功した。馬鹿馬鹿しい話、トゥーレルのイギリス軍はその難攻不落が故に油断していた。威嚇砲撃からはじまる一連の攻撃に慣れ、見張りをサボっていたのだ。威嚇が一切行われずはじまったジャンネット達の突発的な攻撃に気付いた時には外囲いは越えられ、壕はあっと言う間にフランス軍によって埋め尽くされていた。
そうしてトゥーレルに火が放たれる。
暴走をはじめた軍の勢いは止まらず、本来捕虜として扱うべき筈のトゥーレルの指揮官グラスデール、その他の有力騎士達も一蹴され殺された。ジャンネットは火達磨にされたグラスデールがロワール河に落ちていくのを見た。
500程の兵力で防備されていたトゥーレルは脆くも全軍全滅し、陥落した。
封鎖されていたジョルジュ・サンク橋からオルレアン部隊は凱旋した。
実に7ヶ月振りにオルレアンは解放されたのである。オルレアンの市民の喜びの様は尋常ではなかった。残る敵砦は7つ――サン・プリヴェ砦、シャルルマニュー島の砦、ラ・クロア-ボアセ、ロンドン砦、ルーアン砦、パリ砦、フルーリー砦。実質的には包囲軍が解体したわけではなかったが、東から南のルートが完全に解放されたことにより、もはや包囲軍としての意味はなさない。オルレアンの市民はそのことを知っていた。
市民の前にジャンネットが姿を見せると歓声が沸き起こった。
「ジャンヌ!」
「ジャンヌ!」
「ジャンヌ!」
すべての人々は彼女の功績を称えた。オルレアン入城時の予言を1日残し、彼女はオルレアン解放を実現させたのである。美しい、しかしあどけなさの残る少女の出現に市民の熱狂は高まる。ジャンネットは右腕を高々と突き上げた。
だが次の瞬間、彼女は突き上げた腕を軽く上下させ、市民の感情を宥めようとする。暫くざわめいていた彼等はその彼女の仕草に静けさを取り戻した。
「オルレアンの民よ、聞け! 我々はまだ戦いに勝利したわけではない! 明日、最後の戦いを迎えるやも知れず! 各々気を引き締め、本日は休息せよ!」
ジャンネットはそう言い、背後のジャンに向かって目配せした。ジャンは黙って頷いた。
オルレアンの市民は彼女の言葉に気勢を上げ、早々と帰宅の途についた。彼等はジャンネットを全面的に信頼していたのである。
「これでよかったのか?」
「大いに結構」
ジャンネットが尋ねるとジャンはそう言い残してその場から去った。
「全く堅い奴だな」
背後からの声に、彼女は振り向いた。そこにはラ・イールが立っていた。ジャンネットは微笑を浮かべた。それはロワール河南岸の攻略戦に多大な協力を惜しまなかった同士に対して向けられたものだった。
「ところでこれからの動き、おまえはどう思う」
ラ・イールは彼女を試すような質問をした。
「敵は攻撃してこないだろうね。もっと賢い奴ならオルレアンから撤退するよ」
「で、その根拠は?」
ニヤリと笑い、彼は更に突っ込んだ質問をする。
「意味がないからさ。オルレアンの包囲網が崩れた今、長期戦は考えにくくなっているだろ。特にパリより近いブロアにオルレアンの補給基地があることを思うと、敵は逆に残る砦を攻囲される可能性を危惧するよ。と、なると負けるのは目に見えているし、負けないにしても被害は大きくなる。ここまで考えると、後は軍の立直しを図るために一時的な撤退、という結論を出すだろうね」
「正解! 俺でもそうするだろうな。だがこれくらいのことならあいつにも分かる筈だが」
「あのね、置かれている立場が違うだろ。俺やおまえはオルレアンに入城してわずか9日じゃないか。それに較べ、ジャンは守備隊長として長くこの地を守っている。この差は大きいよ。実際。それに・・・」
ジャンネットはラ・イールにニヤリと笑い返した。
「おまえはお祭り騒ぎが大好きだろ。楽観的に事態を見ることで、パッとやりたいだけじゃないのか?」
ラ・イールは豪快に笑った。
「そうだな、ジャンヌ。これから一杯やるっていうのはどうだ」
「いや、遠慮しておくよ。肩の傷もあるしな」
ジャンネットは踵を返して宿舎への道を進んだ。彼女の歩く先に同宿するラソワが立っている姿を見つけたラ・イールは肩を竦めた。彼は肩の傷を理由に小娘とも言えるジャンネットに適当にあしらわれたことを悟ったのである。
「寂しい夜だよな」
嘆く声が背後で聞こえ、彼女はクスッと笑う。
ジャンネットはラソワとともに宿舎であるジャック・ブーシェの家に戻ると、二人だけのささやかな祝杯をあげた。
1429年5月9日 日曜日の朝
イギリス包囲軍が動いた。残された7つの砦から部隊が現れ終結をはじめた。その数は約3000。オルレアンに残る部隊と数の上では同等の兵力である。敵の部隊が動いたという情報は瞬時のうちにオルレアンを駆け巡った。
慌しく組織されたオルレアン部隊が市の西へと集まる。
その中にはジャンネットの姿もあった。
最後の決戦を予感して、オルレアン市民は固唾を飲んでイギリス軍の動きを見守った。
だが敵は攻めてこない。それどころか、彼等は集結が完了すると一斉に反転し、オルレアンから撤退をはじめた。
「万歳・・・」
敵部隊を見守るオルレアン市民の一人が弱弱しく声を上げた。ざわめきが起こり、次に緊張が解かれると、その声がきっかけになり次々と歓声が渦巻いた。
「万歳!」
やがてその声に一人の少女の名前が加わる。
「ジャンヌ! 万歳!」
「ジャンヌ! 万歳!」
「ジャンヌ! 万歳!」
オルレアン市民の歓声は周囲にこだまし、去って行くイギリス軍の耳まで届いた。
勝った!
正しくジャンネット達は勝ったのだ!
歴史に大きく彼女の名前を刻み込んだオルレアン攻防戦はこうして幕を降ろした。
かくしてこの日を記念して、オルレアンでは1435年より5月の第二日曜日にジャンヌ・ダルク祭が開催されている。
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「第五章 ジャンヌ・ドゥ・リス」は不定期UPとなります。




