第三章 ジャンヌ・ラ・ピュセル
ヴォークリュールを出立し、行程約650㎞、フランス宮廷があるシノンへ。
1429年2月12日、ジャンネットがフランス宮廷のあるシノンに出発した日、オルレアンでは局地戦が行われている。
俗に「鰊の戦い」と呼ばれるこの戦いは、イギリス軍の将フォールスタッフが食料の塩鰊を軍の補給のために運搬している途上で起こった。フランスは大兵力をもってこれを攻撃したが、イギリス軍は鰊の樽を並べ、これを急造の砦としてフランス兵を迎え討ち、撃退した戦争として知られる。指令系統の統一がされず、ただ闇雲に突っ走ったフランス軍にしてみれば、当然の帰結であったのかも知れない。
後世のジャンヌ・ダルクを題材とした小説、戯曲には、彼女がボオドリクールにこの戦いの敗戦を予言し、それが的中したことに驚いた隊長に、遂には出発を決断させた場面が感動的に描かれているが、史実はそうではない。敗戦の事実はジャンネット出発後にボオドリクールにもたらされる。では何故に彼らはこのような設定を築き上げたのであろう。言うまでもない。物語の整合性を求めたためである。そうしないと、田舎娘のジャンネットを「神秘的な存在」として際立たせることが困難であったのだ。
だがしかし、ジャンネットは民衆に対して彼らの想像を上回るカリスマ性を持っていたのではないだろうか?
ボオドリクールはそれによって突き動かされたのではなかろうか?
とまれ、ジャンネットの出発の時がやって来た。
民衆の喝采の中彼女は進み、買い与えられた馬の前まで来ると、彼らの声に応じて拳をつくった右腕を高々と差し上げた。
喝采の声は高まった。
彼女は武装していた。胸甲、背甲、腕甲、脚甲からなる鎧を蝶番、尾錠、掛け金で繋ぎ合わせたプレートアーマーを身に付けていた。その下にはチェーン・メタルを着用し、完全に兵士としての出で立ちだった。兜を被れば男に間違われるだろう。
ジャンネットの前にボオドリクールが現れた。
「さっさと行け!」
彼は彼女に剣を手渡しながら苦々しく言った。彼は結局ジャンネットの言葉に折れたのだった。けれども彼女には王太子に彼女を推薦する署名入りの書類は渡されなかった。彼女に託されたのは、宮廷の使者であるコレという人物のみである。彼とてジャンネットの紹介状は持たされていない。彼女が王太子の敵、ブルゴーニュ公領土を旅するということで、捕らえられた時にフランス当局が巻き添えになることをボオドリクールは恐れたのである。
ジャンネットはフッとボオドリクールに微笑みかけた。彼女が彼にはじめて見せる女らしい表情に、彼は一瞬ドキッとした。
彼女は隊長から受け取った剣を素早く鞘から抜き、それを背中に回すと、長髪に左手を掛け、剣を持つ右手を上空に引き上げた。バッサリと束になった髪が地面に落ち、それは一瞬強く吹く風に散った。民衆の口からどよめきの声が漏れた。短髪のボーイッシュな少女に変身したジャンネットはゆっくりとした動作で剣を鞘におさめた。
「我、ジャンヌ・ラ・ビュセル(乙女)! 女の身でありながら左武する者! フランスを救いに参る!」
ジャンネットの宣言に再び大きな喝采が起こった。
民衆の間から馬に乗ったメッツ、プーランジィがそれぞれの従者を連れて現れた。アランという人物とラソワ、そして弓兵のリシャール・ラルシェ、最後に使者のコレ、結局ジャンネットを首班とした7人が、王太子シャルルのいるシノンに向けて旅立つ。
ジャンネットは馬に乗り、先頭に立って街道を進む。
「ジャンヌ! ジャンヌ!」
民衆は道を開けながら何度も熱いコールを送った。
シノン―――オルレアンが急襲されて急遽ブルージュから宮廷をこの地に移したシャルル王太子の居城までの道のりは650km、その行程の中の450kmは、敵ブルゴーニュ公領を踏破する。
しかしジャンネットはそのことについては全く心配していなかった。
身分を明かさない以上、簡単に敵を欺くことができる。寧ろ彼女の不安は仲間である筈のメッツにあった。彼は救国の乙女であるジャンネットに多大に加担し、見掛けた敵に戦闘をふっかけるのである。それを止めるのは決まってラソワ、プーランジィであり、それでも尚静止できない場合はジャンネットが介入し、事を荒立てないでいた。彼女はこの地で局地戦を行うことの愚を十分心得ていた。
それにしても・・・ジャンネットはチラリと視線を移した。
もっと厄介なのは、ラルシェとアランだ。彼らはジャンネットの身体が目的で従軍してきたのである。彼女にしてみれば迷惑な話であった。
“まっ、ラソワの動機も大差ないけどね”
今度はラソワに視線を移し、ジャンネットはクスッと笑った。
「えっ! ボクの顔に何かついている?」
彼女は声をたてて笑った。
「いや、目的が同じでも、性格によって行動パターンがこうも違うのかと思ってね」
「ラルシェとアランのことかい?」
勘のいい彼は咄嗟に答えた。ジャンネットは頷いた。
「メッツにはまだ可愛気があるけどね、彼らにはまるでない」
ふと彼女の表情に憂慮の色が伺えた。ラソワは何時もの彼女には考えられないそれに感応するかのようにうろたえた。
「何を弱気なことを・・・・。それこそメッツに任しておけよ。彼ならジャンネットに二人を近付けないさ」
ラソワの言葉にジャンネットは首を振った。確かにメッツにこのことの解決を頼めば、彼女に惚れている彼は命を賭してでも彼女を守ろうとするだろう。だがそれではジャンネットが困る。何故ならこのランスの統率力が目に見えて落ちてしまうからだ。仲間内の確執は、ラルシェとアランをブルゴーニュ公のもとに走らせる原因にもなりかねない。幸いにも、メッツがラルシェとアランの悪巧みに気付いていないうちに、しかもブルゴーニュ公領を旅している間に、問題の解決に当たる必要があった。
「何なら私がたしなめましょうか? アランを連れて来たのは私だ。少なくともその責は私にもある」
ジャンネットとラソワの会話に割って入ったのはプーランジィだった。このランスの中で一番の良識がある彼は、囁かれる二人の会話を偶然耳にし、極めて正論を述べた。
ジャンネットは注意深く周囲を見回し、当事者達が注目していないことを確認してから口を開いた。
「それでも駄目だね。やがてそれはメッツの知るところになり、結果は仲間割れでしかない。要は俺がどうにかして統率力を発揮し、この場を治めるしか道はない。それに・・・」
「それに?」
プーランジィとラソワは反問した。
「これから地位も何のない俺が、何万人の大兵力を指揮することになるのに、たかだか3人の気持ちをまとめられなくてどうするのさ」
ラソワはとにかくプーランジィは彼女の言葉に絶句した。また同時に彼は、あどけない幼さを残す少女に畏敬の念を感じた。
「仕方ないなぁ・・・あんまり進めたくない作戦だけど」
続けてラソワは緊張感のない様子で話しはじめた。その話にプーランジィは再び絶句する。そしてラソワの作戦に、危険度が高すぎることを理由に彼は反対の意を表明する。だが・・・
「その話、乗った!」
主人公たるジャンネットはラソワに賛意を表した。プーランジィはとんでもない二人を交互に見て頭を抱えた。反対する気力も彼には失せた。
教会のミサに出席する!
ジャンネットが一行に高々と宣言したのは、ブルゴーニュ公治下のオーセールの街を目前にしたところであった。この宣言に、事情を知らないメッツ、コレ、アラン、ラルシェはぶっ飛んだ。
既にヴォークリュールを出発して5日、彼らは200kmに及ぶ道のりを踏破していた。とは言え、まだブルゴーニュ公の領土は抜けておらず、危険が去ったわけではない。それどころか、敵領土に深く存在するオーセールは危険の巣窟と言えた。
「これを勇気とは評せない。無謀と非難されるものだ」
いみじくも使者のコレがいたたまれなくなり口を開いた。その言葉にジャンネットの眼は妖しく輝く。
「フランスと我々の未来の安泰を神に祈る神聖な行為は、何人たりとも邪魔できるものではない。もし俺がここでブルゴーニュ軍に捕獲されるような人物であるなら、それは自分がそれまでの人間であるまでのこと。各々ヴォークリュールに帰り、隊長に報告せよ」
ジャンネットの強い意志に結局全員が折れた。
オーセール。
ヨンヌ川右岸に広がる風光明媚な街として知られる。ジャンネットがミサに出ると言った教会はサンラティエンヌ大聖堂である。嘗てフランスの黄金時代である14世紀初頭、この大聖堂は建築を開始された。ゴシック様式の美しい教会堂―――これが完成するのは16世紀、実に300年の建築期間を有する。1883年に建築が開始されたアントニオ・ガウディ設計のサグラダ・ファミリア聖堂もこの記録には及ばない。
「それでもなぁ、ジャンネット・・・」
「何だい?」
半ば呆れ顔のラソワであった。
「その恰好、どうにかならなかったのかよ」
彼女はそのまま兵士の出で立ちで街に入ったのである。彼女の男装はいくら何でも目立ち過ぎだ。恐れをなしたコレ、アラン、ラルシェは彼女から10m程も後方を歩いている。何時でも逃げ出せるよう考えてのことだとは、ラソワの眼から見ても明らかだった。準騎士のプーランジィも逃げ腰であり、ラソワとは違った意味で彼女に一目を置いているメッツのみが意気揚揚とジャンネットとラソワの前を歩いている。
異様な行進に、道行くすべての人々は振り返って彼らを見た。
「もともとおまえが言い出したことだろ。多少目立った方がいいんだよ」
ジャンネットは笑いながら断言した。
「違うよ、ジャンネット。ボクが当初考えていたのは、オーセールでミサに出席することに成功する。それだけでよかった。敵に喧嘩をふっかけるのが目的じゃあない」
不満を顕にしたラソワをジャンネットは意に介さない。彼女は再び笑った。そこには気負いも緊張感もない。あっけらかんとしたものだ。彼女の笑う姿を見ていると、ラソワの肩に入っていた力が抜けた。
「大丈夫、敵が戦いを仕掛けてきた時のことはちゃんと考えているよ」
ジャンネットはラソワの首に腕を回した。
「おまえの心配はよく分るけど、任せておけ」
「そうだな・・・まっ、いいか」
ラソワは呟いた。ジャンネットの余裕は彼に安心感を与えた。
ラソワは深呼吸して周囲を見渡す。
日曜日の今日、オーセールの街は穏やかな賑わいを見せていることに彼は気付いた。ミサに向かう家族連れ、街道で市を開く人々の声、遊ぶ子供達、洗濯物を干す女達、見慣れた生活の風景が、現在の自分の置かれている状況のためか、ラソワには新鮮な営みに見えた。そうすると、今まで当たり前だった一行の様子は、彼の眼を通して無様なものに映った。ラソワはクスッと笑った。自分の置かれた状況から見れば、彼らの態度は当然のものだ。しかし、日常を通した客観的な眼から見れば、一行の様子は明らかに可笑しかった。
が、次の瞬間、ラソワの笑みは凍り付いた。
正面の街道から馬に乗った騎士が5人、一行の前に表れたのである。
「おまえ達は何者だ!」
一番年長者とおぼしき騎士が、槍を突き付けながら尋問した。
先頭に立つメッツは剣の鍔に手をかけ相手を睨んだ。ラソワが振り向くと、そこにはプーランジィがおどおどとしながらその場に留まっているだけで、後の3人は姿を消していた。彼とて逃げたいのは山々だったが、相変わらずのジャンネットの余裕の表情に、彼女を信じる決心をした。
「我々はロレーヌ公治下のヴォークリュールからやって来た・・・」
メッツが堂々と名乗ろうとするのを、ジャンネットは一歩前に進み出て押しとどめた。
「ただの旅芸人です」
彼女は頬に微笑を浮かべて言った。
「ふざけるな!」
騎士の一人が怒気を含んだ声を上げ、ジャンネットに襲いかかろうとした。今度はジャンネットに最初に尋問した騎士が彼を押しとどめた。彼女は彼こそがこの一団の責任者と確信した。
「信じて貰えぬとあればお見せしましょう。剣の舞です!」
ジャンネットは剣を抜き、年長者とおぼしき騎士に襲いかかった。だが、五分の力で。急襲に驚いた彼は馬から転がり落ちるように降りた。そして素早く剣を抜くと、彼女に上段から逆襲した。ジャンネットは軽いフットワークで剣先をよけた。勢い余って剣は街道の石畳に当たり、火花とともに鋭い音を響かせた。
敵の騎士は剣を横に払った。ジャンネットはそれを剣で受けとめた。二つの剣は再び鋭い音をたてる。
メッツは剣を抜き、ジャンネットに加勢しょうとした。残る騎士達も剣を抜きかける。けれどもジャンネットはその動きを制した。
「よせ、メッツ! それより拍手だ!」
ジャンネットの言葉の意味を悟りかね、メッツは動きを止めて唖然とした。
一方の騎士も、仲間の動きを制した。高々小娘一人を相手に、多勢をもって向かうことを彼は潔としなかった。騎士道精神に反する行為であるし、何より彼自身の沽券に関わる。
その時、メッツの横にいたラソワが機転をきかせ、ジャンネットの命に従ってリズミカルに手を叩きはじめた。最初はぎこちない動きではあったが、ラソワの拍手によって、ジャンネットと騎士の動きは一定のリズムを持ちはじめた。
オーセールの民衆が集まる。
そしてラソワに習って手拍子を打った。民衆の数は次第に増えて行き、二重三重にもなって彼らを囲んだ。
ジャンネットはリズムに合わせて小気味よく動いた。騎士の剣先を時にはジャンプしてかわし、上体をそらせてよける。また適度に剣を交え、鋭い音をたてて拍手に応える。心憎いまでの演出を彼女はやってのけた。技量の違いがあればこそできる技であった。
やがて、相手が肩で息をしている様子に気付いた彼女は、後方にジャンプし、戦いの場を離れた。
「ジャンヌ、剣の舞でございました」
彼女は剣を鞘に収め、民衆に恭しく一礼した。わっと喝采が巻き起こった。
その中、騎士は肩で息をしながら剣を鞘に収めた。彼の表情には憎悪の念がありありと浮かんでいたが、これ以上ジャンネットに手を出せないという理性は残っていた。
実力では彼女の方が上である。だがそれを認めることは―――自分のプライドが許さなかったのである。と、すれば、彼の取る道は一つしか残されていない。
「芸人の遊びに付き合うのは疲れることだ」
彼はそう言いながら馬に乗り、仲間の騎士と談笑しながらその場を去った。その笑いは多少引き攣っていたが・・・
こうしてジャンネットは、無事オーセールの街でミサに出席し、シノンへの道に戻ったのである。
この事件以後、アランとラルシェはジャンネットの実力を認め、悪巧みを実行することなくシノンへの道を辿った。またメッツは彼女の度量は自分の手に負えるものではないと判断し、彼女を自らの伴侶にすることを放棄した。
喜んだのはラソワだった。
そして4日後、ジャンネット一行はブルゴーニュ公領を抜け「フランス領」ジアンに着いた。
ジアンで彼女がしたこと―――それはヴォークリュールで守備隊長を前に行った演説を、民衆を前にしてぶつことであった。
「良識あるフランス臣民よ、聞け!」
この一言ではじまる彼女の言葉は、熱く人々の心を打ったと言われている。
「我が国には王が不在である。強烈な太陽をなくした我らは今、不安と共に恐慌をきたしている。考えても見よ。太陽なくして健康な実りが約束されるか? 正しい道筋を知ることができるか? 否! できはしない! 我が王国はそこに生けるすべての人々の指標を見失っている。イギリスという野盗がそれを奪い、裏切り者が王国内を踏み荒らしている。これは断じて許される行為ではない! 我、ジャンヌ・ラ・ピュセル! フランス臣民として今のフランスを憂い、今こそ立てり。心ある者は我に続け。フランスの未来に我とともに心を飛ばせ。我は勝つ! そして我らは勝つ! 輝かしい時を手に入れるのだ!」
国境の街、ジアンでのジャンネットの噂は、ロワーヌ川を通じて翌日にはオルレアンの私生児、デュノアの耳に入った。後のオルレアンの攻防戦に彼女と深く関わる彼は、当時ジャンと名乗っていた。彼はブルゴーニュ公に暗殺されたオルレアン公ルイとその愛人の間に生まれた私生児で、アザンクールの戦いの時にイギリス軍の捕虜となったシャルルとは異母兄弟に当たる。彼は当時オルレアンの守備隊長だった。
彼は早速情報を得るためにシノンに使者を送る。
ジャンネットのフランス到着は、将に歴史の歯車を回転させつつあった。
彼女を宮廷内からバックアップしたのは、王太子シャルルの義母に当たるヨランド妃とその子であるアンジュー公ルネだった。二人はロレーヌの老公からジャンネットの噂を聞いていた。夢想家のルネは救国の乙女と自称するジャンネットをメルランの伝説になぞらえて美的に捕らえ、一方のヨランド妃は現実的に政治的利用価値があると判断した。当のシャルルは全くの無関心だったが、この二人の宮廷の動きと民衆の熱狂から、宮廷内のアルマニャック派は遂にジャンネットを無視できない状況に追い詰められた。
サント・カトリーヌ・ド・フィエルボアに近い宿営地から使者のコレを遣わせて間もなく、ジャンネットのもとに宮廷からの密使がやってくる。彼はジャンネットに彼女の担っている「使命」を説明することを求めた。
「今更何を・・・。俺の言いたいことなどとっくに知っている癖に」
密使は形式的な儀礼から彼女の「使命」を尋ねたのだが、それを無視した彼女の豪胆さに感心した。彼もこの種の伊達と酔狂を十分愛していたのである。
「誠に形式的で、いや、失礼しました」
彼はそう言って笑った。そして彼女の意志を「正確」に宮廷に報告した。
フランス宮廷―――それはパリに存在すべきものである。
しかしフランスの内部抗争とイギリスの侵攻により、宮廷は目まぐるしく変遷する。ブルゴーニュ公が画策したパリ動乱の後にはトロアに。またイギリス軍との戦闘の折にはブルージュに。更には戦況の不利になった1427年にはシノンへと移る。もともとは12世紀、フランスからイギリスに渡り、王となったヘンリー2世がこの地を所有していたことを思えば、この時の状況は皮肉と言えば皮肉であった。トロワ条約以降はブルゴーニュ公とイギリス王ヘンリー5世が取り仕切るパリ宮廷があり、立場は完全に逆転していたのだから。
歴史的には1427年からシャルルを戴いたフランス宮廷は、20数年間シノンに置かれる。だが、ジャンネットが会見を望んでいた1429年、シャルルはフランスの更に南部のドーフィネ地方に難を逃れるか、スコットランドに亡命するか、神に祈りながら考えていた。いや、何とも情けない話、オルレアンが陥落すれば、間違いなく彼はそうしたであろう。それが故に今更彼は救国の乙女と称するものに会いたくはなかったのだ。
最終的にシャルルがジャンネットとの会見を是としたのは、ボオドリクールの名を聞いてからだった。彼はこのロレーヌの忠臣の名を知っていた。彼がジャンネットを寄越したのであれば、言葉を交わすぐらいした方がいいのではないだろうか? 彼は結局ヨランド妃とルネの動きに同調したのであった。
時に1429年2月23日、彼女は招かれてシノンに入城することになった。
これをもってジャンネットの指揮するランスは解体した。
「ジャンヌ、それでは我々はこれで」
宿営地からシノンへと出発する間際、プーランジィは深々と頭を下げて言った。ジャンネットを無事に送り届けることに成功した彼らは、ヴォークリュールに帰郷する。彼女は切な気な表情のメッツに気付いた。
「次は戦場でともに戦おう。生きていればまた会えるさ」
柔和な笑みを浮かべジャンネットは言った、メッツはゆっくりと頷いた。時として彼女は大人びた印象を人々に与えるが、この時も例外ではなかった。だが彼女自身、この言葉が二度と実現されることのないことを知っていた。プーランジィ、メッツ。コレ、ラルシェ、アランとはこれが最期の別れとなる。ジャンネットが宮廷に受け入れられて彼らに100ルーブルが返還されるのは4月22日、これから2ヶ月先であった。
ジャンネットとラソワはシャルル王太子のいるシノンへ、残るメンバーは故郷のヴォークリュールに足を向ける。それぞれの感傷を胸に。
シノンの街でもジャンネットの噂は話題になっていた。
救国の乙女、ジャンヌ・ラ・ピュセルと名乗る少女が王太子と会見する。彼女は神がかり的な力を持っているらしい。宮廷のみならず、すべての人々が事の成り行きを見守った。
そして遂にジャンネットとラソワはシノンの城に着いた。
すべての人間が噂に好意的なわけではない。特にこの地方で何の実績もない彼女は、信頼されるよりも疑惑と嘲笑の念を向けられることが多かった。二人が城門を前にした時、門兵がわざわざ彼らに聞こえるように仲間の前でついた悪態はその種類のものだった。
「へ~ぇ、これがかのヴォークリュールの処女か。彼女を夜だけ貸して貰えるなら、明日の朝には彼女の気持ちは全く変わるだろうに、な」
“わっ! 何てことを”
ジャンネットの横に立つラソワは、これから起こるであろうことを頭に思い描いてゾッとした。ボオドリクールと会見した時の状況が、ちらちらと頭の中を過ぎった。足が出るか手が出るか・・・
しかしラソワの予想に反してジャンネットは何の動きも見せなかった。最初は刺すような視線を門兵にむけていたが、直ぐにフッと表情を緩めると、彼に歩み寄って言った。
「残念ながらおまえにそんな時間はないだろうね。俺にはおまえの未来が見える。今夜は十分気をつけろ」
その一言に門兵は逆上した。
「何を!!」
彼は叫ぶとジャンネットに踊りかかった。彼女は伸ばされた彼の腕を横に払って避けた。慌てた彼の仲間が静止しに集まる。
「俺には死者を相手する時間がない!」
ジャンネットは鋭く言い放つと城内に足を運んだ。
2時間後―――門兵の溺死死体がヴィエンヌ川に浮かぶ。
王太子との会談に当たって、ジャンネットは二つの通過儀礼を行わなければならなかった。身体検査と道徳検査である。但し、道徳検査については彼女を頭から否定していた聖職者達により、3週間の期間が必要であると主張されていた。
彼らは一様にアルマニャック派に属していた。この中心的な人物は大司教ル二ョー・ド・シャルトルと侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユだった。彼らにしてみれば、どこの骨とも知れぬ小娘に宮廷内を荒らされたくなかったのであった。王太子の権限がないに等しい今、政治のうまみは彼らが握っている。これ以上何が必要なのか、というのが彼らの言い分だった。
これに対するヨランド妃は政治的に更にシビアな考えを持っていた。一部のアルマニャック派の台頭を快く思っていなかった。彼女はそのことに非常な危険性を感じ、勝利のために排除するものは排除し、利用できるものはとことん利用しようとした。ジャンネットの件も、そんな彼女の政治的態度によっていた。
そこで彼女はジャンネットの件を握り潰そうとする勢力に対して、宮廷内に働きかけ、王太子との会談に身体検査のみをもって実行させようとした。つまり、噂を故意に流し、貴族達の関心を惹きつけることによって、王太子と会談させるべしという意見を持たせることに彼女は腐心したのである。
結局、城外での様々な噂も加わり、特にジャンネットが門兵の死を予言したという事実は宮廷内の貴族達を驚かせ、王太子との会談は予定された。それまでジャンネットとラソワはグードレと呼ばれる城内の建物に滞在することになった。
「本当にここまで来ちゃったなぁ」
豪華な椅子に腰を降ろし、ラソワは感慨深気に言った。ジャンネットも彼の言葉に頷く。短いようで長い道のりだった。
「でもこれからだよ、ラソワ」
ジャンネットはラソワとテーブルを挟んだ反対側の椅子に腰を降ろして言った。彼女は貸し与えられたメイドの服装をしていた。ヴォークリュール出発前の長髪であれば、さぞかし女らしく、よく似合った服だったろうに、とラソワは残念に思った。
「どうした? 何をボッとしている」
彼の想いの一端を感じ取り、ジャンネットは尋ねた。
「いや・・・ね、少しだけもったいないと思ってね」
ラソワは行儀悪くテーブルに片肘を付き、ジャンネットを見詰めた。
「世が世なら、ジャンネットもこんな戦争に巻き込まれずにすんだだろうに」
彼女は笑う。
「それはおまえも同じだろ」
彼は頭を掻いた。
「同じじゃないよ。ジャンネットとボクは同じじゃあない。同時代に生きたことは事実にしても、結局ボクは歴史の中で忘れ去られ、捨て去られる側の人間だ。けどジャンネット―――君は歴史の中で普遍性をもって生き続ける。救国のラ・ピュセルとしてね。ボクは決して神の存在は信じていないけど、魂の永遠性信じている。君がこの時代に生きて残した精神は、未来に受け継がれていくだろう。その意味で君はこの世界で永遠に生き続けられる。でも、こんな世じゃあなかったら・・・」
ジャンネットは再び笑った。
「どうやら、ラソワ。おまえには預言者の資質があるみたいだな。でも、これから俺がフランスを救えるという確証はないよ」
「まぁね・・・」
ラソワはにっこり笑って、今度はジャンネットに聞こえないように呟いた。
「・・・それも歴史が証明するようになるさ・・・」
ジャンネットは眼を閉じ、自らの思考の世界に没頭した。ラソワはそんな彼女を温かい笑顔でジッと見詰めている。
彼女は観ていた。
遠く未来を―――それはジャンネットの出発を決心させた柏の森で観た、光に浮かぶビジョンと同質のものだった。
無益な戦闘と流血の繰り返し。
主観的で偏った思考、思想、創造性。
大量殺戮を生む兵器開発と行き着く先の未来。
―――閃光と地獄―――
それと同時に彼女は自分の未来を観ていた。
ルーアン・・・
“時間がないな”
フッと彼女は思った。自分が正しい道を歩いているとは決して断言できない。未来への選択肢はそれこそ無数にある。ただ彼女は「良心的」に長きに渡るこの戦争を終結させることを望んでいた。その「良心」が普遍性をもって未来に残されることを彼女は願った。
「おい、ジャンネット!」
ラソワの声に彼女は我に返った。どうやら僅かばかりの間、うたた寝をしていたらしい。彼女が眼を開くと、そこにはドレスアップした40代後半の女性と、彼女を取り巻くように30代前後の明らかに貴族らしき婦人が4名いた。
「若い男と一緒にいると変に勘ぐられますよ、ジャンヌ」
穏やかな口調の裏に刺のある言葉を中央の貴婦人は投げかけた。
ジャンネットは鋭い視線を彼女に向けて慄然とする。一見柔和な婦人の裏に隠された真の姿に触れた彼女はたじろいだ。
“こいつは怪物だ―――”
彼女の感情は一瞬ブリザードに見舞われたように凍りついた。
ジャンネットが恐れた貴婦人、彼女こそがヨランド妃だった。
王太子シャルルの妃、マリイ・ダンジョーの母、ヨランド・ダンジョー。彼女はスペイン東部、アラゴン王国の女王として生まれ、賢王シャルル5世の弟、アンジュー公ルイ1世の息子のもとに嫁いだ。ブルージュやシノンの宮廷にあって、血統、資金面からかなりの政治力があったと言われている。
王太子の側近にあり、政治を壟断する彼女の内部にあるものをジャンネットは正確に見抜いていた。
“自分はこの女の政治的道具にされる”
ジャンネットの胸に不吉な想いが過ぎった。
「王太子と会うには、おまえの身体検査が必要です。これからそれを行います」
ヨランドの言葉に、彼女を取り巻いていた婦人達がジャンネットを囲んだ。続いて彼女はラソワに一瞥をくれると、
「出ておいき」
と言い放った。ラソワは椅子から立ち上がった。
「心配しなくとも、彼女は処女ですよ」
彼は部屋から出る間際そう言い残した。ジャンネットはその一言でこれから起こるであろうことを理解し、その場から逃れようとした。素早くヨランドが彼女の肩を掴んだ。
「ジャンヌ、少しの間の試練です」
情けを感じさせない彼女の言葉に、ジャンネットの気持ちは萎えた。
「もう好きにしてくれよ」
彼女は肩を竦めて投げ槍に言った。
「あんな想いは二度としたくないね」と怒るジャンネットと「その場にいたかったね」と残念がるラソワの二人が評する身体検査が終わり、王太子との会見は翌日と約束された。ラソワの評に対して、ジャンネットがそれなりの対応をして報いたことは言うまでもない。
そして翌日。
ジャンネットはヴォークリュール出発時の完全武装をして貴族達のいる大広間に入場した
「何もそこまで・・・」と言うラソワの言葉を避け、「何事も演出」と、彼女はこの姿で王太子との会見に臨んだのである。
大広間にいた貴族達は度肝を抜かれた。
宮廷内で、しかも年端のいかぬ武装した少女が王太子と会見するという歴史上稀なシチュエーションに、彼らは驚いた。
ざわめきが起こった。
ジャンネットはその中を王太子に向かって一直線に歩み寄る。
彼女に誰も王太子を指し示さなかった事実に気付き、再びざわめきが起こる。誰がジャンネットに王太子のことを教えたのだ。
しかし彼女には分っていた。
シャルル王太子という人物を。彼は青白い顔をし、生気のない視線を彼女に投げかけていた。鬱病患者と指摘されてもおかしくない彼が、名目上南フランスの頂点にいる人物だった。
“それにしても情けない面だな”
冷やかに彼女は考えながら、王太子の前に跪いた。
「王よ、何故に眠り給うや」
ジャンネットの一言に、彼の瞳は大きく見開かれた。
「私は事実を知っております。取るに足らないものですが、王にとっては最も知りたい真実でございましょう」
彼女は深々と頭をさげた。
王太子は慌てた様子で側近を呼び寄せた。彼らは一堂に集まり、何やら小声で相談していた。反対意見もあったようだが、やがて側近の一人が頭を下げたジャンネットに向かって言った。
「ジャンヌ、王太子はそちとの二人きりの会談を望んでおられる。こちらについて参れ」
こうしてジャンネットとシャルル王太子の二人きりの会談は成立させられた。
「正直に申せ。そなたが知っている真実とは何だ」
王座に座るシャルルは彼女の眼には矮小で、すべての自信を消失した権威なき存在に映った。しかし反面、彼女の心は彼の心情に宿る現状打開への性向と理性を見取っていた。この場合してやることは一つ、すなわち自信を取り戻させることにある。
ジャンネットは口を開いた。
「あなたは王でありながら王でない曖昧な今の状態に満足ですか?」
彼女の質問に王太子は一瞬たじろいだ。彼は決して満足していない。だが周辺貴族の権限が余りに強いが為に、足枷をされているのは否めない。彼の頭には、味方である筈のアルマニャック派の貴族達により兄達が暗殺されたという噂と、母親のイザボウが宣言した「不義蜜通の結果生まれた子」という言葉の意味に想い悩まされていた。それが故に、自分自身が英断をもって政治に関与することがなくなり、宮廷貴族達の権力争いを許すことになり、オルレアンを急襲されてもなお救援を出せない状況にある。王太子が望んだ状態ではないが、彼にしてみれば、一国の王としての政治力を発揮する勇気を持てなかった正当な理由はあった。
複雑な表情を浮かべ、彼はジャンネットを見た。その表情は彼の宮廷内での立場を明確に表していた。
ジャンネットはニッコリと笑って頷いた。
「あなたはフランスの王です」
そして断言してみせた。天啓でも受けたかのようにシャルルの全身は震えた。
「城に居住し、宮廷のフィルターを通してしか物事を把握できないから無理はない。しかしこの城を出て、道行く人に尋ねてみればよい。フランス王が誰なのかを。すべての者は王太子、あなたの名前を口にするでしょう」
ジャンネットは言葉を続けた。
「アルマニャック派の貴族達も同じです。シャルル6世亡き今、正統な王として戴ける人物はあなたしかいません。あなたを排除しようにもできない状態にあります。近い将来、ブルゴーニュ公に男児が生まれれば、再び彼と結束してあなたを排除し、イギリス勢力を押し退け、彼の男児を王とする極めて薄い可能性がありますが・・・それもまだずっと未来のことになるでしょう。今、あなたの権力は絶対的な筈です。
再度お尋ねします。
王よ、何故に眠り給うや」
ジャンネットの強い意志に支えられ、シャルルの顔には生気が戻りはじめた。彼はこの少女には信頼を寄せられる何かがあると思った。彼女の自信はシャルルに感応した。それにしても・・・。彼は不思議に想い、何故に宮廷内の事情に彼女が明るいのか尋ねた。聞くところによると、彼女はドムレミイ村という片田舎に住んでいたという。だがあまりにも彼女の意見は正鵠を射ていた。
「私は未来を見ました」
ジャンネットは遠くを見る眼をして言った。
「断片的に見たそれを正確には理解できませんでしたが・・・愚かしい事です。未来においても血生臭い戦争と指導者による狂信的な殺戮、エゴ剥き出しの欲望は絶え間なく、私の心を暗澹とさせました。今回の私の行動が歴史の中で何を意味してくるのか、正直に言って分りません。けれども、私は私の良心に従い、こうしてここに来たのです」
偽りのない言葉だった。
「それは神のなされたことであろうか?」
シャルルは身を乗り出してジャンネットに尋ねた。彼女は頭を振った。
「ただこれだけは言えます。すべてを私にお任せください。そうすれば、半年後にはあなたはランスの戴冠式で、正統なフランス王として君臨できるでしょう」
ジャンネットは断言した。
「あ~ぁ、疲れたねぇ」
シャルルとの会談を終えたジャンネットは大きく伸びをした。猜疑心の強くなっている王太子を前にして、彼女は慣れない敬語をずっと使ってきたのである。変に地を剥き出しにして彼に誤解されないよう彼女は彼女なりに注意していた。ラソワがあの場面にいれば、彼女に熱がないかと、まず疑ってかかるに違いない。その苦労は報われつつあった。
前財務裁判長シモン・シャルルは述懐する。
ジャンネットとの会談の後で、宮廷の人々の前に現れたシャルル王太子は「顔が喜びに輝いていた」と。このことは、彼女との会談が王太子自身大変満足だったという証拠であろう。またそれは、彼の回復した自信の裏付けでもあった筈だ。
「さぁてと、クードレに帰ってラソワに報告しょうか」
ジャンネットは人懐っこいラソワの笑顔を思い浮かべながら、その場を立ち去ろうとした。が、そこに一人の男が待っていた。
「失礼」
ジャンネットは避けて彼の傍らを通り過ぎようとした。しかし男はジャンネットの通過を許さず、横に動いて彼女と対峙する。
「何のつもりだよ」
さすがにムッときて、彼女は美しく、だが性格を表す切れ長の眼を男に向けた。
男はギィヨーム・グーフィエと名乗る王太子の侍従だった。側近の中で一番王太子に近いところにいるこの人物は、最初からジャンネットを疑ってかかっていた。
「おまえはシャルル様に変な術でもかけたのではないのか」
グーフィエは鋭い眼光をジャンネットに放った。彼は王太子の変わり様に疑問を持ったのだ。シャルルの忠臣に手を上げるわけにもいかず、ジャンネットは言った。
「神よ、オルレアンを救い給え。我、汝に救いを求める者。弱き存在でありたもう。オルレアンが陥落すれば、我、難を逃れ、数多くの忠臣と民を捨て去ることを余儀なくされる。神よ、我に勝利を」
彼女の言葉にグーフィエはキョトンとした表情を浮かべた。意味を把握できなかった。
「王太子に今の言葉を言ってみな。びっくりするからさ」
ジャンネットはそう言い残し、正面に立ちはだかるグーフィエを避けてクードレに向かった。後に彼が王太子にこのことを伝えると、ジャンネットの言葉通りシャルルは大いに驚いた。その言葉は、彼が万聖節の日に、ただ一人祈祷室の中で神に加護を祈った言葉とぴったり一致していたのである。
こうしてジャンネットに対する王太子の信頼感は徐々に高まっていった。
とは言え、彼女の試練はまだまだ続く。
宗教的な意味を含んだ道徳試験を受ける必要があったのだ。
面倒な話、時の聖職者達は決してジャンネットを認めていなかった。頂点に立つ者が認知すれば良い、という感覚は当時としてもなかった。まして実権のない王太子である。彼の独断は宮廷内で認められない。まずジャンネットの試練は、審問委員会による審問とその決定を待ち、顧問会議の最終判断を仰ぐ必要があった。
審問は当時の最高法院であるポアチエで行われた。
ポアチエ―――
パリとボルドーを結ぶ交通の要衝にあるこの街は、古くから侵略者達の標的になっていた。フランク王国のシャルル・マルテルがサラセン人の侵入を撃退した「トゥール・ポアチエの戦い」。また英仏百年戦争中期にイギリス軍に一方的な敗退を喫した「ポアチエの戦い」と、常にこの地は戦火に晒されてきた。シノンより南に70km、街はクレン川を見下ろす小高い丘の上にある。最高法院の名にふさわしく、ノートルダム・ラ・グランド教会、サンピエール大聖堂、サンジャン洗礼堂、サンティレール・ル・グラン教会が建つ。
ジャンネットはシャルル王太子とともに、またラソワも同行してポアチエに着いた。
王太子は自分の宿泊場所にジャンネットを置きたかったが、周囲の反対からそれも出来なかった。まだ宮廷に迎え入れるという結論は出されていない。行動は慎むべきであるとの意見に、彼は渋々同調したのである。ジャンネットは喜んだ。これ以上堅苦しい態度はもう取りたくはなかったから。
結局王太子は彼女とラソワを次席検事ラバトウのもとに投宿させた。
聖職者達をして必要と言わしめた3週間という期間は、彼女の故郷に使者を送り、身元を調査することにあった。その間、ジャンネットは修道僧、司教、神学者により構成される審問委員会に、じれったくなる質問を浴びせられる。彼女がこの委員会に対して反感の気持ちを抱くには時間がかからなかった。
同席者にコベール・チボーという若い役人がいた。
ジャンネットは重苦しい雰囲気を漂わせている審問者達を前に、彼の肩を叩いて言った。
「俺にはおまえのような人間が必要だけどな」
突然のジャンネットの意見にチボーの顔は赤くなった。年下の美しい少女に自分が必要だと言われた羞恥心と、この場の重苦しい空気に彼はドギマキした。
「俺には若い戦士が必要だ」
明らかにジャンネットは審問に対して批判的だった。彼女の言葉の裏には、委員会を構成する高齢者達への反感があった。
一方の委員会の方でもその気持ちは同様である。だが、王太子の彼女に寄せる信頼が、彼らの判断を鈍らせていた。そうでなければ、彼女は間違いなく異端者としてのレッテルを貼られていただろう。
或る日、セガン神父が質問した。
「ジャンヌ、そちは未来を見たそうだな。それは神がなされたことと思うか?」
「思うよ」
「その時神は何か話されたか?」
「ああ」
「ではその言葉はどこの国のものであった?」
「まっ、おまえより遥かに達者なフランス語だったよ」
ジャンネットの言葉に、神父の顔面は怒りのために蒼白になった。彼のフランス語は、リムーザン出身であることから多少なまっていたのである。
投宿しているラバトウの家に戻ると、ジャンネットはベッドに座り、重い足を投げ出した。内心彼女は焦っていた。何時になれば自分は動けるのか? 意味のない質問攻めから開放されるのか? 正直な気持ちを隠さず、審問に対しているのは良いことなのか? 自分が正しいと信じる道を歩いているという自信はあったが、現状を客観的に見るとどうしても迷いが生じる。彼女は苛々していた。
「何を悩んでいる、ジャンネット」
気が付くとラソワが部屋に入って来ていた。
「マドモアゼルの部屋に入って来る時くらいノックしろよな」
「誰がマドモアゼルだって?」
ラソワは笑った。ジャンネットも追従して笑ったがラソワはそこに影があることを見抜いた。
「うまくいっていないのかい?」
彼の言葉にジャンネットは首を振った。
「いや、そうじやあないけど・・・」
うまく表現できなかった。だが彼女とのつき合いの長いラソワには分った。物事に直進し、受けとめ、問題の解決に当たってきたジャンネットにしてみれば、今の状態がどうしょうもない迷宮に入り込んでしまったと同義なことに。こればかりはどうにもならない。
「働かざるもの食うべからず」
唐突にラソワが口を開いた。ジャンネットはキョトンとした表情を浮かべた。
「明日、審問はないよね。今、ボクは暇だから野良仕事を手伝っている。ジャンネットもたまには身体を動かしたら?」
ラソワはニッコリ笑った。
この頃、ヨーロッパ全土で最もポピュラーな農業は三圃式農業と呼ばれるものだった。三圃式農業においては農地を三区画に分け、それぞれを春耕地、秋耕地、休閑地として半年毎にローテーションさせる。ポアチエ滞在中の3月は大麦の種蒔き、休閑地の牧草の種蒔きを控えた時期に当たり、農家では猫の手を借りたい程の多忙さだった。
とりあえず暇を持て余していたラソワは野良仕事を手伝っていたのだ。
彼はジャンネットに鍬を持たせた。他の女性と一緒に針仕事をさせるのは無理があることを知っていたから。彼は彼女に運動をさせ、ストレスを発散させようと考えたのである。針仕事では逆効果だ。
「随分綺麗な顔立ちをした子だなぁ」
男装をさせ、頬被りをさせたものの、農民には彼女の姿が普通の男には映らなかった。
「そう。こいつ女によく間違われるんですよ。こんなに男らしいのに」
「どこがだ」
農民は笑い、ラソワの背後のジャンネットは彼に蹴りを入れた。
ジャンネットの噂は彼らの耳に届いており、問題の少女が目の前にいると知れると騒ぎになった筈であるが、仕事の忙しい時期だけにこれ以上深く追求されなかった。
暦の上では春―――
けれどもこの時期にはまだ冬の名残があり、夜中にはマイナス気温を記録する日もある。審問中には感じなかった寒さをジャンネットは感じた。ふと彼女は昨年の今頃を思い出した。ドムレミイ村の3月は雪も残り、このポアチエよりも寒い。そしてその寒さの中、柏の森を訪れ、自ら運命づけたビジョンを見せられてしまったのである。
“こうなるとは思いもよらなかったけどな”
手にした鍬で土を掘り起こしながらジャンネットは呟いた。身体を動かすうちに体温は上がり、また昼間の陽気も手伝って汗が流れる。彼女は動かしていた手を休め、空を見上げた。
抜けるような青空があり、太陽は暖かな陽射しを照らしている。彼女は審問を離れ、久し振りに新鮮な空気を味わっていた。
「お~い、ジャ・・・ジャン! 昼飯だぞ!」
ラソワの声にジャンネットは振り向いた。
そこに見た。
ポアチエの街を。
教会、洗礼堂、大聖堂・・・・2km程離れた場所から見えるそれらを、ジャンネットはおぞましく思った。権威あるものが起こす不幸の歴史を彼女は垣間見たのである。
「いゃ~あ、バテた、バテた」
一日の仕事を終え帰宿したジャンネットは、入浴と食事を終えるとベッドに身を投げ出した。確かに肉体的には疲れていたが、精神的には今日一日の労働は何らかの救いになった気がした。今まで閉塞した空間で窒息しかかっていたそれが、息を吹き返すのを感じた。
横になったまま彼女は大きく伸びをした。
何時まで続くか分らないが、退屈な審問もあと数日は耐えていけそうな気がした。恐らく明日一日身体中が痛むであろうが・・・
ジャンネットは着替えもせずベッドの上でうたた寝をはじめる。
その時ラソワが部屋に忍び込み、ジャンネットのベッドにダイビングする。ただならぬ気配を察知し、彼女はラソワの股間を蹴り上げた。
「・・・しまった・・・まだ起きていたのか・・・」
夜這いを仕掛けた彼は苦悶の表情を浮かべた。
「マドモアゼルの部屋に入る時くらい、ノックしろよな!」
ジャンネットは笑う。
「・・・だ、誰が、マドモアゼルだって・・・」
苦しげにラソワは呻く。
翌日からジャンネットの審問は再開された。
彼女にとって、審問者達の質問は相変わらず下らないものばかりだった。
尋ねて曰く、「おまえは神を信じるのか?」
答えて曰く、「おまえ達より確実に」
尋ねて曰く、「善霊と悪霊の識別方法について古くから多くの文献、論文があるが、おまえは何をたよりにおまえを訪れた神を善霊と判断したのだ?」
答えて曰く、「神の本にはおまえ達の本以上のことが書かれている。それをちょっと読ませて貰っただけさ」
ジャンネットは完全に審問委員会を馬鹿にしていた。こんな老齢者達を相手にして何の意味があるのか? 審問を拒否しないだけ、まだ彼女は理性的であった。
確かにこの審問は時間の無駄だった。
何故なら、委員会の責任者は彼女の件を握り潰そうとする、アルマニャック派の大法官ルニョーだったからだ。それを阻止したのはヨランド妃とアンジュー公ルネであり、既にシャルル王太子との会見で彼女の地位は揺るぎないものになっている。この時点で彼女を排除するには不可能に近かった。ルニョーにとって残る手は、彼女の身元調査しかなかったのだ。
結局3週間待った彼女の身元調査においても大法官にとって満足できる結果は得られず、ジャンネットを認めざるを得なかった。
侮辱され続けた委員会メンバーも同じ想いだった。
委員の一人であるジャック・ジェリュは言う。
「たとえこの者が掃き溜めから出てきたのであるとしても、我々は神を拒否してはならない。神は即ち社会的に賤しい人間に天使を遣わされたのであり、それは我々の理解を越えた神の御心なのである。神が知り給い、かの娘は存在した。神が知り給うことが彼女の本質なのだ。我々が無知で愚鈍な娘を存在するが故に知るという姿勢は間違っていた」
何とも苦しい言い訳である。エリウゲナ(9世紀のスコラ哲学者)の言葉を引用せずとも彼らの言葉は理解できる。簡単に言うとこうだ。
「ド田舎の農民にどうして神が天使を遣わされたのか俺達には分らんよ。でも仕様がないじゃないか。詳しくは王太子と宮廷で判断してくれ」
という理由で、問題は顧問会議に回された。
さて、問題を一方的に押し付けられて困ったのは顧問官達だった。
一応の認知を受けているものの、彼らは身分の賤しいジャンネットを最終的に認めて良いものか悩んだ。顧問官達は宗教的な考えから離れた世俗権の専門家として構成されていた。だからこそ審問委員会より悩みは深かった。
現実的に神からの使者という議論を蒸し返すような人間はいなかったものの、本当にそれが真実なのかという疑問は常に彼らの頭にのしかかった。
こうなると、最終的な判断は当然顧問官会議の責任者に左右される。運命の皮肉というべきか、この責任者は審問委員会の責任者でもあるルニョーだった。彼にしてみれば、一度審問委員会で出された結論を否定するわけにはいかなかった。委員会の沽券に関わる。頭ではジャンネットを否定していたものの、彼は彼女を認めないではいられない状況に追い込まれた。
そうして審問委員会の決定に続き、「委員会が肯定したからいいんじゃない」的な軽いノリで顧問官会議でもジャンネット支持の決定が成された。
何ともいい加減な話である。
だが最期まで面白くないルニョーは考えた。
ジャンネットをこのまま宮廷にのさばらせておくことは出来ない。何か有効な使い道はないだろうか? と。王太子は明らかに自信を取り戻させた彼女をそばに置きたいと考えている。だが、ルニョーはなるべく遠くに追いやろうと思った。これ以上宮廷内をうるさくして貰いたくない。
そこで考えついたのが彼女のオルレアン派遣である。
民衆の熱狂と支持。イギリス軍に包囲され、疲弊しているオルレアンの士気回復のために補給物資と共にオルレアンに遣わす。
これで行こう!
ルニョーは思い至り、顧問官会議の決定として王太子に進言した。王太子は会議の決定に逆らう理由もなく、渋々それに従うことになった。
しかしルニョーは大きな考え違いをしていた。
ジャンネットは宮廷で安穏と暮らすことを望んではなかった。
彼女は最前線で戦い、敵を打ち破ることを目的としていた。
オルレアン派遣はジャンネットの望むところであったのだ。
こうして後の歴史に彼女を知らしめるドタバタ劇の幕は切って落とされた。
ご愛読ありがとうございます。
次回「第四章 オルレアンの少女」は8月15日UP予定です。




