第二章 ジャンヌ
故郷ドムレミイ村から守備隊長ボオドリクールが居城するヴォークリュールへ。
闇の支配から開放され、薄明の時が訪れる。
朝靄の中に山の稜線が微かに黒いシルエットとなって浮かび上がり、やがてそれは太陽の曙光を浴び黄金色に輝きはじめる。同時に―――丘の斜面に広がるヴォークリュールの街が靄の間に見え隠れする。
夜明けとともにすべてのものが生気を取り戻し、活動をはじめる。新たな一日が始まったのだ。
しかし・・・
ヴォークリュールで彼女を歓迎したのは冷たい水だった。街外れの街道で、彼女は農家から捨てられた冷水を全身に浴びる羽目に陥ったのである。
「ごめんよ、娘さん」
水をかけた相手が母親と同い年くらいの女性だと分ると、ジャンネットは怒るに怒れなくなった。怒りのやり場に困った彼女は、横でクスクス笑うラソワを殴ることしかできなかった。
「いいよ、別に気にしなくても・・・・ハックション!」
一月の寒い時期であり、ジャンネットは思わずくしゃみした。悪寒が身体を駆け抜け、彼女は身震いする。
「風邪をひくよ。家にお入り」
あまりの寒さに彼女は誘われるまま家の中に招かれた。そして濡れた服の代わりに赤いワンピースを渡された。少し色褪せたそれは、農家の女性の着る一般的なものであったが、ヴォークリュール行きを決心したジャンネットの服と較べるとかなり見劣りした。
「私の娘が着ていたものだけどね。とても気に入って貰えないだろうけど」
申し訳なさそうに彼女は言った。
「そうだね」
率直な意見をラソワは述べた。彼は女性らしい服がジャンネットには似合わないという意味でそう言ったのだが、普段だと物事をズバリと言ってのける彼女の方が反対に彼の頭を小突いた。ジャンネットはある程度事情を察していたのだろう。黙って服を受け取ると、無言のうちに他の部屋に移り服を着替えた。
「死んだ娘の唯一残された服でね」
女性はジャンネットが着替える間、誰に言うとはなしに呟いた。
「略奪されなかったのはあれ位のものだった」
ラソワはあらためて部屋の様子を見て、ここに穏やかな団欒が無いことに気付いた。彼は彼女の言葉に隠されている無念さを瞬時のうちに読み取った。多分彼女の娘は先の戦争の巻添えになり、殺されたのであろう。彼には返す言葉もなかった。
やがてジャンネットがその服を着て隣の部屋から出てきた。
“これはひょっとして可愛いというものだろうか?”
ラソワはジャンネットを一目見てマジに考えた。決して見たことのない彼女の姿がそこにあった。色褪せたとは言え、裾の広がったワンピースを着る彼女はラソワの意識では確かに美しく、可愛らしくあったのだ。
「おやおや」
感嘆とも取れる女性の声に、ラソワは自分の認識が誤っていないことに気付いた。
「ありがとう・・・」
ジャンネットは花が咲きほころぶような笑顔を見せて言った。
ラソワの胸が熱く、キュンと高鳴った。
かくしてジャンネットは守備隊長ボオドリクールの配下、ジャン・ド・メッツの言う「みすぼらしい赤い服」でヴォークリュールの街に到着した。まずは宿の確保であったが、彼女の「力」の噂が浸透していたために、ある車大工の家に暖かく迎えられた。
状況は一度目の訪問とは全く違った状況になっていたのである。
特に彼女の赤い服は目立った。
車大工の家からジャンネット来るとの噂が瞬時のうちに街に広がり、彼女の着た赤い服は注目の的になった。しかし彼女は騒がれるのが嫌で、部屋から一歩も出なかったのだが・・・。この時、ヴォークリュールで赤い服を着ていた女性は大変な迷惑を被ることになった。
そしてジャンネットはヴォークリュールに着いたその日に守備隊長ボオドリクールに招聘された。
「ジャンネット、本当にその服でいくのか?」
「仕方ないだろ。この服しかないんだから」
彼女自身も服装が場違いなものだと理解していた。フランスを救いに行くという勇ましい決意を表明するには間の抜けた服装だ。だが、朝着ていた服はまだ乾いておらず、新しい服を調達できる時間がなかったのも否めない。
「まっ、いいさ。ピーアールのためにもこれで行くよ」
肩を竦め、彼女はラソワに言った。
「そう、じゃあ行こうか」
「行くって何処へ?」
「ホオドリクールの城へ」
「何しに?」
「ジャンネットに悪い虫がつかないように」
ラソワの言葉にジャンネットは呆れた。
「勝手にすればぁ」
彼女は頬を膨らませ、投げやりにそう言うとさっさと部屋から出た。ラソワもその後に続く。
1429年のフランスの状況をジャンネットが正確に把握していたか? という問いにイエスと答えるには甚だ疑問が残る。何故ならば、ドムレミイ村からパリは遠くあり、更に言えば、そこは正確にはフランスの領土ではない。神聖ローマ帝国とフランスの国境地帯にあり、紛争の都度その地方は勝利国の領土へと編成される。たまたまこの時代、シャンパーニュ地方はブルゴーニュ公有するフランスの領土であったが、ドムレミイ村、ヌーフシャトー、ヴォークリュールはシャンパーニュ地方でありながら、隣接するロレーヌ地方を統治するロレーヌ公が掌握していた。
この状況の中、事実上利害関係の上で対立していたのはブルゴーニュ公とロレーヌ公であり、そのブルゴーニュ公は15世紀初頭からネーデルランドの利害問題とフランスの内部分裂の中でイギリスと手を結んでいたに過ぎず、それが故に一方のロレーヌ公は自国の利益を守るためにフランスを支援していたに過ぎない。とするならば、ジャンネットが正確なフランスの状況を知ることが仮にあったにしても、ただ自分の住んでいるドムレミイ村がブルゴーニュ公旗下の軍隊に襲撃を受けるに及び、漠然とした危機感を抱いたと考える方が妥当であろう。彼女の目的はまずブルゴーニュ公を破り、その背後にあるイギリスの壁を打ち崩すことにあったが、果たして真の目的としてフランスを救う前提があったか?
はっきり言ってなかった。
「どうして見も知らぬ人間に忠誠を誓わなきゃならないのだ」
というのがジャンネットの言い分だった。彼女にとってフランスを救うということは、ドムレミイ村を救うことと同義であったのだ。人に忠誠を誓うという意識は彼女の頭から欠如していた。
「だからと言ってだね、ボオトリクールをぶん投げることはなかったよ」
城から宿へ帰ったラソワは、一通りジャンネットの言い分を聞いた後に言った。
「俺はがさつで助平な奴は嫌いだ!」
彼女は激怒していた。
城での会見はすんなり許された。と言うのは、彼女の姿を見た騎士が、てっきり農民の陳情だと勘違いし、二人を隊長に会見させたからだ。そこで起こったことをラソワは思い出したくない。
二人の前に姿を見せたボオドリクールはいきなりこう言った。
「悩み事は何だ。聞いてやるぞ。おまえを抱かせるなら、な」
直後、彼の巨体は宙に浮き、床に叩きつけられた。ジャンネットが彼女を掴もうとする彼の太い右腕を取り、見事な一本背負いを喰らわせたのである。ボオドリクールはその投げ一本でのびてしまった。
「俺はドムレミイ村のジャンヌ! こいつが起きたら伝えろ!!」
彼女は唖然としている側近に叩きつけるようにそう言うと、肩を怒らせて城を去った。ラソワはあまりの出来事に数秒間その場所に呆然と立ち尽くしていたが、我に返るとあたふたとジャンネットを追って城から出た。
「あれはまずかったよ・・・」
ラソワは何度目かの溜息を漏らした。
「もう子供じゃないのだからさ、その性格何とかしろよ」
「ラソワ、俺はね、この性格を直す気なんかさらさら持っていない! 自分が間違ったことをしたとは思わない!!」
「そりゃそうだけど・・・」
あまりにも直情的だと言いかけて彼は止めた。そのことは充分過ぎるほど分っている。しかしラソワはこの時ジャンネットとの付き合いを止めようかと本気に考えていた。
「あ―――っ! おまえ今俺と別れようと思っただろう」
ジャンネットは意地悪く言った。
「フン、ジャンネットなんか嫌いだぁ」
内心の心情を見透かされて、ラソワは不機嫌になりソッポを向いた。
「へ~ぇ、いいのかよ、そんなこと言って」
「いいよ。ボクは村に帰ってオメットと一緒になるよ」
「無理だね、あんないい娘がおまえなんか好きにならないって」
「何を~!」
ラソワは珍しく怒ってベッドの枕を投げつけた。それはジャンネットの顔面に命中した。彼女も怒って彼に枕を投げ返した。
「おまえなんかいなくてもなぁ、俺にもいい男が一人くらい・・・・」
言いかけて彼女は誰一人異性の顔が思い浮かばず慌てた。
「う~ん、一人くらい・・・・」
ジャンネットは腕組みをして考えはじめた。
「や―い、思いつく奴がいないよね。ジャンネットみたいにガサツな性格の・・・」
全部言い終わらないうちに、ラソワはジャンネットにベッドの上に押し倒された。
「そうだね。物好きな奴はおまえだけだろうね・・・」
上になった彼女はラソワの顔を見詰めながらそっと言った。ラソワはジャンネットの長い亜麻色の髪を優しく撫で、上体を起こし、彼女に顔を近づけた。ジャンネットは目を閉じ・・・。
「コホン!」
と、何者かの咳払いが聞こえ、二人はパッと身体を話した。
戸口のところに見知らぬ男が立っていた。年令は見るからに若い。まだ25歳前後というところか。端正な顔立ちと身奇麗な服装は、彼の身分を表していた。
「私は準騎士のベルラント・ド・プーランジィという者です。主の命によりやってまいりました」
主という単語を聞き、ラソワは直ぐに気付いた。確か彼はヴオドリクールとの会見の時に、側近としてその場にいた一人である。
「主の命とは?」
ラソワは一瞬処刑されるのかと思い、びくびくさながら尋ねた。一方のジャンネットはのほほんとした表情で彼のことなど無視している。
「ナンシーに行けとの命です。ナンシーに行ってロレーヌ公とお会いしろと」
プーランジィは態度を変えずに言った。飽くまで礼儀正しく、年下の二人を見下した様子もなかった。
「あなたの噂はこの地まで響き渡っております。隊長はあなたがこの地を訪れた時、ロレーヌ公に是非とも謁見させようと考えていました。本日はそれに気付かず、非礼を詫びたいとのことでした」
「ほぉ、あの親父、なかなか話が分るじゃないか」
気付いた時のヴオドリクールの激昂の様子を知らないジャンネットはおどけて言った。ジャンネットの噂を遠くナンシーの地でロレーヌ公が聞いておらず、是非会ってみたいとの希望を口にしなければ、ジャンネットもラソワもただでは済んでいない。しかしそのことを知っているのは、今はプーランジィと名乗る準騎士とヴオドリクールの側近のみである。二人は運がよかった。
「けれどもジャンヌ・・・」
プーランジィはそこで悪戯っぽく笑った。
「隊長をぶん投げたこと、あれは痛快でしたね。私はあの後爆笑してしまいましたよ。噂だけは耳にしていましたが、あなたのことが今まで以上に好きになりました」
彼はそう言って一礼すると部屋から立ち去ろうとしたが、立ち止まり、思い出したように言った。
「そうそう。明日ナンシーまでの案内にジャン・ド・メッツという男が参ります。彼について行きなさい」
これがジャンヌ、波乱万丈の人生の幕開けだった。
ここでフランスの状況を説明する。
著者自身、胸糞悪くなるこの百年戦争後期の内容―――戦争とは常にそういったものだが―――を今まで説明していなかった。したくなかったという意識が働いて延ばしに延ばしていたのだが、ジャンヌ―――我らが愛しのジャンネットがその渦中に身を投じた今、それは必然的になってきたのだ。著者も筆を進めなければなるまい。
さて時間は遡る。
どの戦争においても当てはまるキーワードは「欲望」であるが、この英仏百年戦争も例外なくそれだった。まだカリスマ的な統率者が存在する場合はいい。そこに大義名分が多少の良心を盾にあるからだ。しかしその末期にはその大儀名分は崩れ、権力者達の野望が先行する。
1429年のフランスの状況はそれに近かった。
そもそもの不幸の発端は、フランス王シャルル6世の即位にあるだろう。1380年に即位した彼は後に「狂王」と呼ばれる。結婚3年後、彼は発狂してしまうからだ。発狂の原因はブルターニュ遠征中、森の中を進軍していた時、半裸の男が突然馬の前に踊り出て、「陛下、お戻りください。裏切りです」と叫んだことにあると言われている。
自分の結婚相手であるイザボウがパリに入城した日、仮装した彼は友人と馬に相乗りしていたがために馬丁に殴られるという失態を犯しているが、そもそもシャルル6世という人物は、気の弱い冴えない男だったに違いない。そんな男が後の30年間フランスに君臨するのである。廃位というわけにはいかなかった。彼の病気は間歇的で、時々正気に戻るのだから。
結果、イザボウ妃が17歳の若さで摂政の地位につき、王家一族の有力者達―――オルレアン公、アルマニャック伯、アンジュー公、ブルゴーニュ公が顧問として脇を固めることになる。ところがこの摂政のイザボウ妃がとんでもない女であった。
このバイエルン公の娘は王家一族の巨頭、オルレアン公ルイ・ドルレアンとできてしまうのである。彼女は半廃人となった夫の前で抱き合い、関係していたとも伝えられる。
シャルル6世の発狂については、このイザボウの放蕩な生活ぶりに対する心労に起因しているとの説もある。
このような状況を善としなかったのがブルゴーニュ公ジャン・サン・プールだった。もしこのままシャルル6世が廃位となるならば、オルレアン公が強大な権力を掌握する。そのことに危機感を抱いた彼はルイ・ドルレアン暗殺を指図する。
かくして1407年、ルイは宮殿の戸口で暗殺される。
これに黙っていられなくなったのがアルマニャック伯であった。ルイ・ドルレアンの息子、シャルル・ドルレアンの妻がアルマニャック伯の娘であったことから、以後彼はブルゴーニュ公を敵視し、ここにアルマニャック派とブルゴーニュ派の抗争が始まる。狂王のもとに放蕩な王妃が政断を振るい、側近は権力争いに明け暮れる。
そこにイギリス王ヘンリー5世のフランス侵攻が行われた。
1415年、ヘンリー5世自ら率いるイギリス軍8000ノルマンディに上陸。フランス、アルフルール市陥落。以後内陸部に侵入し、北の版図を拡大していた。だがその3ヶ月後、赤痢がイギリス軍に蔓延し、6000までその兵力は落ちる。10月24日、カレーより50㎞、アザンクール村とトラムクール村に挟まれた細長い高地で、帰国を急ぐイギリス軍とそれを迎撃するフランス軍は遭遇し、戦闘は開始された。
この時戦力においてフランス軍は圧倒的な優位を誇っていた。が、またもやここでクレッシー、ポアティエの戦いの二の舞を踏むことになるのである。しかも今回の戦いには従軍をしていたもののブルゴーニュ公旗下の軍隊は動かず、それどころか自国の軍の動きを牽制していた。
アザンクールでの敗北は目に見えて明らかだった。
多くの兵力を失い、また戦闘を指揮していたオルレアン公シャルルは捕虜となってしまう。
ジャンネットが生まれて3年後の出来事だった。
戦争が勝利している間ならまだ人々はその美酒に酔っていられる。外部の脅威に対して今までの確執も薄らぎ、とりあえず目前の敵へと目が向けられる。
だがフランスは緒戦の敗退によって内部の確執はますます深まり、目に余る泥沼に足を踏み入れることになった。
1415年、アザンクールの敗退後、5番目の王子シャルルはパリに近いモントロウの橋の上でブルゴーニュ公ジャン・サン・プールと会見する。この時の会談はアザンクールでの動きを問うという目的でありながらも紳士的なものとなる筈であったが、結局王太子の若さ故、最後は罵り合いになってしまう。シャルルは怒って背を向け、橋から立ち去ろうとする。何歩か歩を進めた時、彼の横を何者かが走り抜け、ブルゴーニュの老公に斧が振り下ろされる。慌てて振り向いたシャルルは、血しぶきの中に倒れる老公を目の当たりにする。アルマニャック派の「忠臣」によるこの行為を、シャルルは14歳の若さで目撃するのである。後の王シャルルがこの事件を計画的に起こしたのか、それとも突発的に起こった出来事なのかは今日も謎とされている。
1417年。シャルルは4番目の王子ジャンの死後王太子兼トゥーレル公に即位。同時に狂王の幕僚長としてその椅子に座る。だがそれとて実権はアルマニャック派の貴族達が掌握していた。彼は不幸の王太子だった。彼の前には4人の王太子がいたが、彼らは一様に若死にしていた。一説では次期王権を狙うアルマニャック伯の陰謀によって前王太子達は暗殺されたという説まである。14歳の時に目撃したブルゴーニュ公の暗殺、そして兄達の暗殺の風説など、シャルルを取り巻く環境は暗澹とし、彼は何時しか無気力な王太子となって行くが、そのことを誰にも責めることはできない。
アルマニャック派は次々と政敵を排除した。
そして彼らが最後にぶつかったのが、無能で放蕩なイザボウ妃だった。彼らは素行の悪さが眼に余る彼女をロワール河畔のプロアに追放。更にはトゥールに移す。そこで激怒した彼女が行ったことは、道義的にどう見ても愉快なことではない。彼女はまずブルゴーニュ公フィリップの手を借りてトゥールを脱出し、臨時政府を組織する。その上で我が子シャルルを「不義密通の結果生まれた子」と宣言するのである。それだけならまだいい。彼女はパリ動乱の時にのこのこと狂王のもとへと帰ってくるのだ。
追放された我が身可愛さに、ブルゴーニュ公の手を借りて狂王のもとに帰るという心情は理解できる。けれどもそれは、甚だ彼女の我儘なエゴが大きく浮き彫りにされるという結果しか伺えない。
何はともあれ哀れなのはシャルル自身に他ならない。いや、直接打撃を被ったのはアルマニャック派の貴族達だった。
ブルゴーニュ公ジャンの暗殺事件がもとで、パリ市民の反ブルゴーニュ感情は霧散していた。それまではアザンクールの戦いにおける動きが原因となって、ブルゴーニュ公はパリ市民に非常な不信感を抱かれていたのだ。が、暗殺を契機にパリ市民はアルマニャック派の貴族への反感を募らせる。不意打ちは騎士道精神の全くない卑劣な行為だと。もっとも、反アルマニャックの感情の下地は、彼らのパリ統治時代に出来上がっていたのであるが・・・。度重なる戦争による生活苦とブルゴー二ュ公のパリ進軍を警戒しての恐怖政治の断行・・・不満の温床は数多あった。
そんなパリ市民の感情が高まる1418年、ブルゴーニュ公フィリップとイザボウ妃が画策したパリ動乱は起こる。
それはブルゴーニュ公フィリップの命により、パリに潜入していた部下が城門を開けることから始まった。
密かに待機していたブルゴーニュ軍は城内になだれ込み、掠奪と虐殺がもたらされた。特にアルマニャック派貴族達にもたらされたそれは、非道なものだったと言われる。大督軍だったアルマニャック伯ベルナール7世は、宰相とともに寝込みを襲われ寝台で惨殺される。他の貴族達も識別不能になるまで撲殺され、街道に晒しものにされた。シャルルは側近とわずかな配下に守られパリを脱出する。政治的に無能力の狂王シャルル6世は、殺されず後に傀儡の政権となるが、最終的にこれがイザボウの画策なのか、それともフィリップが企てた後の策謀のためなのかは定かではない。
王太子シャルルはパリ脱出の数日後、軍を編成し再度パリ奪還を試みる。だが結果はパリ城壁に2000の屍をつくる敗退となった。
こうしてブルゴーニュ公フィリップはパリを掌握し、アルマニャック派を排除、シャルル6世とイギリス王ヘンリー5世の間に立ち、トロア条約の準備に取り掛かる。また一方のイザボウは生ける屍となった狂王のもとに帰ってきた。
そして1420年。イギリス王ヘンリー5世、軍を率いてトロアに入城。
パリ動乱の一時的な混乱から宮廷をこの場所に移したシャルル6世に謁見し、更には王女カトリーヌと結婚するために。既にフランスには王太子が存在しない。アルマニャック派とともに逃亡したシャルルは、イザボウによって「不義密通の子」と貶められ廃嫡を宣言されていた。よってヘンリー5世が王女カトリーヌと結婚するということは、狂王シャルル6世の死後、イギリス王がフランス王を兼任することを意味する。
あまりにもイギリスに有利な、そして裏でブルゴーニュ公が大きな権力を持つようになるトロア条約はこうして結ばれた。
この時のパリの様子はどうだったか?
パリの最高法院はこの条約を認め、パリ大学もこれを賛辞した。また民衆も長い動乱が終わるという希望を胸に歓喜したと伝えられている。
しかし歴史は気紛れである。
1422年、イギリス王ヘンリー5世はパリ郊外のヴァンサンスの城で病床に臥し、そのまま息をひきとる。皮肉にもその3ヶ月後、狂王として長くフランスに君臨していたシャルル6世も他界するのである。トロア条約ではシャルル6世の死後、イギリス王がフランス王を兼任するということは既に説明したが、ヘンリー5世が先に死んでしまったがためにフランス王の対象者が不在となったのだ。いや、世継ぎとしてはカトリーヌとの間にできた王子がいたが、この時点で彼は満一歳にも達しておらず、王になるのは不適格だった。
このためイギリス王朝は、フランスでの政務と軍務とを統括することを目的に、ヘンリー5世の弟、後にジャンネットの宿敵となるベッドフォード公ジャンを本国から派遣する。また一方アルマニャック派の貴族達は、この機に乗じて不遇のシャルルを祭り上げ、フランス王に君臨させようと画策する。
けれども。
真の意味でフランス王を名乗るにはランス教会堂での戴冠式が必要であった。これはフランス始祖、クローヴィよりの儀式である。この式を成立させるには幼いヘンリー6世では無理。そして逃亡中のシャルルにとっては尚更だった。何故ならランスはブルゴーニュ公の所領であり、しかもその深部に位置するのだから近付くことすらできない。
ブルゴーニュ公フィリップとシャルル6世のもう一人の王女、ミュール妃との間に相当の男子がいれば、トロア条約の無効と血統の正当性をもって王として即位はできたかも知れないが、残念ながら二人の間にはこの時点で王足る男児はいなかった。
よってフランスは王国でありながら王不在の時代に入るのである。
シャルルは空しい抵抗を続けていた。いや、シャルルが抵抗していたわけではない。シャルルの周辺の貴族―――アルマニャック伯をはじめとして、彼の妻であるアンジュウ公家の人々。ルイ・ドルレアン暗殺以後、ブルゴーニュ公に対立する領主不在のオルレアン公家の人々。南フランスを拠点とするブルボン公家の人々などが、王としての利権を欲しいがまま、彼に正統な王位継承権を押し付けていたにすぎない。
彼は無気力感に悩まされていた。
周囲で繰り広げられる戦争と陰謀と暗殺。
民衆の、特にフランス北部での不支持。
1424年の再建不能なまでに叩きのめされた軍の敗北。
そして母親の宣言。
本当に自分はフランス国王に成り得る人物なのか?
国は荒れ、嘗て14世紀初頭の栄光はない。
これ以上戦う意味はあるのか?
ロワール川南に追いやられ、「プルージュの王」と蔑まされたシャルルは悩み続けていた。
考えてみれば奇妙な時代であった。
王不在の王国に二つの王国が存在している。パリに、そして一方ではポアティエに最高法院を擁し、どちらも正統な王位を主張するが、立場上双方王権を握るには至らないでいる。トロア条約以降、フランス国土では透明な壁が出来上がり、相互の想いが情念となって渦巻いていた。しかしそれとて一方は年端もいかず王となる意思に欠けていたし、他方では権力を周辺貴族に握られ骨抜きの状態で、しかも求心力に欠けた存在であった。
このような状況の中で、分が悪いのはシャルルの方だった。
統率力がないままに政治と軍が一人歩きしてしまい、民衆の意思は次第にこの哀れな王から離れつつあった。戦闘の相次ぐ敗退もその根本にあったであろう。敗れる都度、軍は傭兵化していく。だが給料の支払いが悪いがためにモラルは粗悪になり兵は強奪を働くようになる。国土全体は疲労し税金の収入も悪化していく。それは政治にも影響を及ぼす。悪循環である。当時名目上は北部フランスの5倍の税収があったと言われていたが、実質的には甚だ疑問である。
そうして1428年10月。来るべき時がやって来た。
苦悩のシャルルを討つべく、イギリスよりサルスバリイ伯爵率いる遠征軍がオルレアンを急襲した。この当時、戦争の慣行として領主が捕虜となっている土地は占領しないという決まりがあった。無益な戦闘よりも相手方より身代金を奪う方に利があるからだ。オルレアン公シャルルは1415年のアザンクールの戦い以降、イギリスの捕虜となっている。この状態でオルレアンを急襲したということの意味合いは、イギリス側がフランス全土掌握の野望を明確にしたということに他ならない。南フランスの要であるオルレアンが陥落することは、シャルル王太子の完全敗北と同義であった。
1429年1月、ジャンネットがヴォークリュールを訪れた時、オルレアンはイギリス軍に包囲され、もはや陥落寸前の状態になっていた。
以上が歴史の通説である。しかし事実は更に馬鹿馬鹿しく、それが故にハチャメチャだった。その内容については後にジャンネットが参加するオルレアン攻防戦で説明しよう。
さて。
ジャンネットはボオドリクールに会見した翌日、ラソワとともにジャン・ド・メッツと名乗る準騎士にナンシーまで連れて行かれた。彼女の噂は人を呼び、宿を出る時には民衆に揉みくちゃにされた彼女は内心うんざりしていた。
ナンシーはヴォークリュールより北東に60㎞のところにあるロレーヌ公の居城だった。昨年、ラソワの告発によって裁判をしたトゥールより東に20㎞の場所にある。ナンシーへの通行査証を持たないラソワは一時的にジャンネットと離れ、トゥールで待たなければならなかった。
「心配するな」
ラソワと別れる間際、メッツはラソワに言った。
「俺は隊長のように投げられたくないからな」
笑うメッツはプーランジィと同じく、ジャンネットの心酔者であった。年令はプーランジィと同年輩である。
「まぁ、うまくやるからそこで大人しくしていろ」
ジャンネットは気楽に口を開いた。しかしラソワには彼女の言葉を心から信用できない。
「今度はロレーヌ公に蹴りでも入れるかい」
彼は考えるとゾッとすることを口にした。
「いいように話が進むならそうするさ」
ジャンネットはとんでもない少女だった。
ロレーヌ公シャルル――彼はナンシーの城内、北隅の邸で病床に臥していた。
この老公はジャンネットの噂を聞き、病気を治す手段を彼女の口から聞き出すことを目的に、ナンシーでの会見を望んでいた。
彼の娘イザベルは、フランスのアンジュウ公ルネと結婚していた。
ここに彼がフランスを支援するもう一つの理由があった。彼には男児がいなかったので、自分の死後、所有する財産のすべてをルネに委ねるつもりだった。
アンジュウ公ルネ――英仏百年戦争時代、その名を全く馳せなかった彼は無気力な王太子シャルルと幼少時代をともに過ごした義兄弟だ。シャルルはルネの兄妹であるマリイ妃と結婚していた。彼らは南フランスを拠点とすることで利害関係を一致せていたが、ルネ自身は百年戦争の諸勢力に煮え切らない態度を示していた。
その理由は彼の母親、アンジュウ公パール王の娘であるヨランド妃の政治力にあったと言われている。ルネは政治には関心を寄せず、数学、法律学、文学の方面に深い造詣を持っていた。名目的にはシシリィ王を兼ね、南フランスプロヴァンスを拠点とする実力の持ち主であったが、実務については母親に一任していたのである。この状態はシャルルも同様だった。南フランスの政治資金面でヨランド妃は多大な影響力を持っていたのだから。そのために、彼は無能な王太子を演じ続けなければならなかった。
ジャンネットの出発については、彼女の王女説やロレーヌ公とヨランド妃の密約説など奇怪な説が後世に伝わるが、どれも真実ではないような気がする。当時の民衆の熱狂から興味を持ったロレーヌ公が、ルネとのほんの些細な話の間にジャンネットのことを話し、夢想家のルネが母親のヨランドに多大な感情を込めてその話をし、それによってヨランド妃がジャンネットとシャルルを会見させるに至ったという流れが真相ではないだろうか?
ジャンネットは派閥に左右されない自由な存在だった。
王太子軍に加わってから少なからず宮廷内の人間関係に頭を悩ますことになるが、それはまた先の物語である。
ジャンネットはナンシーの城内、北隅の邸で病気のためベッドに臥しているロレーヌ公に会っていた。年老いた彼は痛々しい程に弱っていた。彼女を見る眼は焦点すらあっていない。もう枯れ果てようとした老人であった。
“こりゃあ長くないね”
彼女は一目見てそう確信した。
「・・・娘・・・ジャンヌと申したかな・・・」
ロレーヌ公は掠れた声で言った。
「・・・わしの病気を治してくれんか、そちの奇跡の力は聞き及んでおる・・・」
ジャンネットは肩を竦めた。
「もうあんたは駄目だね。その年になってまで女遊びをするからだよ」
一瞬、傍らに立つメッツの顔から血の気が引いた。こんなことを口にしてただで済む筈がない。また何故にジャンネットがロレーヌ公のプライバシィーを知っているのか訝しく思った。彼女の言葉は正鵠を射ている。彼は野菜売りと歌手との間にできた娘を妾としていたが、このことが老人の身体を一層衰えさせたと言われている。彼の死後、彼女は民衆の手で虐殺されるのだが・・・・。
事実は事実だが、ジャンネットの言葉は非礼極まりない。メッツは内心穏やかではなかった。しかし病弱なロレーヌ公は、この時気持ちの上でも脆弱になっていて、怒る気力すらないようだった。
「そこを・・・何とかならんだろうか・・・」
彼は縋るような視線をジャンネットに向けた。彼女は溜息を漏らした。
「仕様のないおじいちゃんだ。俺は医者じゃないよ。それにもう手遅れだ。いいじゃないか、十分やりたいことしてきただろ。後は天国へ行けるように祈れよ」
彼女はそう言って老公の手を取ると、胸のところで合掌させた。
その時メッツは見た。
暖色の光が老公を包み込んだのを。
ロレーヌ公シャルルは瞳を閉じ、微笑していた。気持ちの上で死を克服したためか、彼の表情は穏やかになり、頬に血の気が戻っていた。
「ジャンヌ・・・」
「ジャンネットって呼んでくれよ」
「・・・ジャンネット・・・そちは正直な娘だな・・・そちなら・・・そうだ、そちなら本当にフランスを救えるかも知れんの」
ロレーヌ公は震える手をジャンネットに差し伸べた。彼女はそっとその手をそっと握った。
「もとより俺はそのつもりだよ。メルラン(ケルト族の吟遊詩人、魔術師、学者、預言者)の伝説をおまえも知っているだろう? 王国は一人の放蕩な女によって滅び、一人の処女によって再生する。伝説の前半がイザボウによって実現されたから、後半は俺が実現しなくちゃね」
ジャンネットはそう言って笑った。
「ほう、そちは処女であったか」
老公も笑う。
「悪かったな!」
ジャンネットは彼の頭を小突いた。
メッツが内心ハラハラし続けた会見はこうして終わった。
ヴォークリュールにジャンネット達が帰還した時、彼女の支持者は病的なまでに熱狂的になっていた。領主ロレーヌ公との会見は、彼女に箔がつくという形で影響した。
「ジャンヌ! ジャンヌ!」
歓呼の声に戸惑いながら、彼女は転がるようにラソワと共に宿に逃げ込んだ。
「大した人気者だね」
追い縋る人々を戸口で押し返し、ドアに鍵を掛け、ラソワは肩で息をしながら言った。
「自分のことを曲解している気がするよ」
ベッドに足を投げ出し、ジャンネットは首を小さく左右に振った。この時彼女が感じたことは、後に事実になって跳ね返ってくる。ロレーヌ公の病気を治したという噂が広まり、出発までの期間、病気を治してくれという民衆の訴えにジャンネットは困惑してしまうのである。貴族の間にもメッツの語った会見の模様から、想像を逞しくした彼らが彼女を訪問するようになる。ジャンネットにすれば迷惑な話だった。
とまれ、ロレーヌ公との会見の成功により、彼女の出発はほぼ確定したと言ってもよかった。
既にロレーヌ公から受けた援助と、ヴォークリュールの貴族から集められた資金により、出発の準備は整えられつつあった。この実務は積極的にラソワ、プーランジィ、そしてメッツによって行われた。
が、ジャンネットの株が上がるにつれて、面白くないのは守備隊長のボオドリクールだった。彼女との会見の時に投げ飛ばされ、気絶させられた彼は、仏頂面を常に部下に見せていた。そうした或日、彼はプーランジィに向かって言った。
「今日、ジャンヌのところへ行くぞ!」
誰が見ても彼が過ぎた日の復讐を考えていることは明らかだった。
「司祭を呼べ! あいつの化けの皮を剥いでやる!」
人類の短い歴史の中で、人々が狂的な熱病に冒された時期が存在する。無益な戦争はその最たるものであるが、それ以外にも永きに渡り繰り返された愚行がある。
魔女狩り―――
記録として残る最古のものは、紀元前1200年、エジプトで行われた。それはキリスト教と結びつくことによって過酷な虐殺運動になり、西ヨーロッパ全土に吹き荒れ、1600年をピークに17世紀末に新大陸アメリカに波及。その後急速に終息へと向かった。この間の犠牲者は30万から900万人と言われている。推定においてこれだけの開きがあるのは、飽くまで公的な文書、記録が残されていないからだ。実数はこれを更に上回る可能性すらあるのだ。
魔女裁判や異端審問制が確立され、実質的な魔女狩りが―――様々な拷問道具が考案され、有機的に施行されるまでにはジャンネットが生きた時代より更に百年を経る。このことは彼女にとって誠に幸いであった。彼女の生きた時代には、まだ政治的な意味で対抗する者への誹謗、中傷という形で魔女狩りが行われ、主な目的は財産の没収にあったからだ。
そう、加えて言う。
ジャンネットは幸いしていた。宮廷には「神秘家」を迎え入れるという慣行があったのである。賢王シャルル5世もクリスティーヌ・ド・ピザン(1364年~1460年頃、ベネツィア生まれの女流詩人)の父に当たる占星術者を宮廷に迎え入れていた。また、神の使者として啓示を携えてきたというラ・ロルシェのギィユメットに会見したこともある。狂王シャルル6世も過去に二度、マリー・ド・メレとマリー・ロビンという神秘家を宮廷に迎え入れていた。宮廷にジャンネットが入り込む余地はあったのだ。
「やれやれ、うちの隊長にも困ったものだ」
実直なプーランジィが口を開いた。
「子供っぽいと言えばそれまでだが・・・」
メッツも半分呆れ顔である。
「大丈夫だよ。私怨が絡んでいる以上、ボオドリクールに出る幕はないさ」
ボオドリクールと入れ違いに城にやって来たラソワは、安穏と構えている。その言葉にメッツとプーランジィは頷いた。ロレーヌ公との好意的なジャンネットの会見は、3人にとって大きな自信となっていた。既にロレーヌ公シャルル――アンジュウ公ルネ――ヨランド妃のラインは細々ではあったが確立されつつある。この時点でボオドリクールの手を離れていると言っても過言ではない。最悪の場合、隊長の意向を無視して出発しても構わないとすら彼らは考えていた。
「そうだ。それより問題はフランス宮廷に至るまでの道だ」
メッツは腕組みした。馬はラソワが準備していた。しかし今ひとつの最大の難問は、シャルル王太子の領土に入るまでの道程にある。距離にして650km、その大半を敵領土であるブルゴーニュ公領土を横切らなければならない。その実現、そして更には人員構成が目下の彼らの問題だった。だが距離の問題については、ラソワが笑い飛ばした。
「それについてはジャンネットの力を信じるしかないだろ。大軍を組織してブルゴーニュ公領土に入るのは無茶な話だし、秘密裏に行くしかないよ」
ラソワはプーランジィとメッツに言った。
「その点は疑ってないけどね」
「しかし・・・」
何か言いかけるプーランジィをメッツは制した。ロレーヌ公とジャンネットの会見を目の当たりにした彼は、その問題についてラソワと同意見だったのだ。
「それではもう一つの問題―――彼女とともに出発する人員だ。これをどうするかだが・・・俺は行くぞ!」
メッツは気負っていた。
「俺は彼女に惚れた! どこまでも彼女について行くぞ!」
ラソワは思い切りずっこけた。直情的なメッツの性格はジャンネットといい勝負だ。
「ちょ、ちょっと・・・」
「やっと理想の女性に巡り会えた! 俺は絶対彼女と一緒になるぞ!」
「もしもし」
ラソワは自分の独断を主張し熱中するメッツの肩を叩いた。
「旦那、旦那、きっとこの先後悔しますぜ」
「いいや! 後悔などしない!」
メッツは言い切った。ラソワは深く溜息を漏らした。
3人が一様に頭を―――ラソワだけは別の問題で悩んでいたのかも知れないが―――抱えている問題は、当時の軍制に関係してくる。
この時代のフランスでは、確立された軍隊が存在しているわけではない。それは指揮する騎士、即ち貴族の身分によって大きくも小さくもなる不確定なものだった。徴集は絶対者である王が行うが、実務は領地を治める貴族=騎士が行い、命令権もその貴族=騎士が持つ。必然的に統一した軍の動きはできない。戦術は優れていたが、戦略は劣悪だと言われる所以であった。
では、その当時のフランスの軍制を説明しよう。
軍の最小単位、これをランスと呼ぶ。ランスは最低6人の人員によって編成され、騎士がその指揮権を握る。騎士の下には見習いの準騎士がいる。そしてカストレル―――カストレルは従者の一種であり、行軍事は乗馬している。戦闘時は下馬して重装歩兵として戦い、また身代金を拒否した捕虜の首を跳ねるための剣を持つ。その下に弓兵と歩兵がいて、更にその下に全員の身の回りの世話をする非戦闘員がいる。
以上がランスである。
またこの集まったランスを統括し、指揮する騎士が存在し、その騎士をバナレットと呼ぶ。軍単位の名称をバナー、バナーの集合体がバトルと呼ばれる。一般にランスが100の単位集まって一中隊が組織される。
ランスを指揮する騎士の身分が高い程1ランスに集まる人員は膨らみ、それが故に軍編成が難しくなり、バナレット騎士との関係が複雑となってくるわけだ。
3人が今問題にしているのは、出発するために組織するランスの頭―――ヘッドを誰にするかであった。プーランジィとメッツは準騎士でしかない。ましてラソワとジャンネットは農民に過ぎないのだ。
プーランジィ、メッツ、ラソワが城でこれからのことを話合っている時、ジャンネットは無粋なボオドリクールと対峙していた。
「ジャンヌ、おまえは悪魔の使い―――魔女ではないのか?」
ボオドリクールは言った。彼はジャンネットに少しでも動じた様子が見えた場合、即時に告発できるように身構えていた。司祭も頸垂帯をかざし、
「汝が悪魔の使いなら、直ちにこの場所を去れ!」
と厳かに口を揃えた。
しかしジャンネットはその言葉にキョトンとした表情をし、次には爆笑した。
「何だ? いい大人が恥ずかしくないのかよ」
彼女の反応にボオドリクールは鼻白んだ。自らの地位が貶められ、滑稽な道化役を押し付けられた感覚に彼は陥った。頸垂帯をかざした司祭も一瞬たじろぐ。
「好きでこんなことをしとるわけではないわ!」
ボオドリクールが遂に切れた。
彼はジャンネットに突進し、彼女のウエスト程の太さがある右腕を彼女に叩き付けようとした。ウエスタンラリーアットである。ジャンネットは体勢を低くし、軽々とその攻撃をかわした。風圧が彼女の長い亜麻色の髪を乱した。勢い余ってボオドリクールは床に転がった。雷が落ちたような音が部屋に響き、部屋の調度品は散乱した。
「こぉの―――!」
彼は起き上がり、今度は右ストレートをジャンネットに放った。怒りは頂点にあり、何を言っても聞き入れてくれそうになかったので、彼女はその一撃を一歩後方に退いて避けた。
「待てよ、隊長、待てったら」
静止の声も聞かず、ボオドリクールは再三再四攻撃を仕掛ける。こうなると埒が開かない。ジャンネットは左右に彼の攻撃をかわしながら深呼吸した。
「馬鹿野郎!! 今何をなすべきか、頭を冷やして考えろ!!!」
彼女の大音声で部屋の時間が一瞬凍りついた。
「我らの目的はブルゴーニュ公を討ち、イギリス軍を廃することによってフランスを救うことにある! こんなことをしている場合では、断じてない!!」
ジャンネットのフットワークについて行けず、力尽きたのか、ボオドリクールは肩で息をしながらその場に跪いた。また司祭も彼女の気迫に恐れを抱いたのか、へなへなと床に腰を落とした。
「こうした間にもフランス軍は敗退を続けている。おまえたちも今日のこの行為は無益なことと思わんか?」
真摯なジャンネットの想いであった。
“それにしても何故俺がわざわざこんなことを言わなくちゃならないんだ”
彼女は心の片隅で嘆息を漏らした。
だが、ジャンネットが言うべき相手はまだまだいた。
そしてこの言葉こそ、フランス宮廷とシャルル王太子に叩き付ける必要があったのである。
ご愛読ありがとうございます。
次回、第三章「ジャンヌ・ラ・ピュセル」は7月15日UP予定です。




