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第一章 ジャンネット

風が吹いた。

柏の森の木々がざわめき、少女の長い亜麻色の髪が揺れた。

木漏れ日が意思を持つかのように凝縮され、まばゆい光となって彼女の全身を照らした。光は次第に大きくなり、少女を包む。

何かを見た・・・! 何かが見えた・・・!! と、少女は思った。

巨大な力、強力な意識・・・それが少女と一体となった。

シンクロされたそれに同調し、少女は頷いた。

まばゆい光はゆっくりと拡散し、周囲は柏の森―――少女の愛した場所の風景に戻った。風が吹き、少女の頬を木漏れ日が踊る。

「わかったよ・・・」

少女は呟いた。決意を表明するかのような鋭い目、口元には不敵な笑みが浮かぶ。

少女―――ジャンネットは覚醒した。


「親父、ちょっと俺、フランスを救いに行ってくらぁ」

1428年5月、ジャンネットは父親のジャンに開口一番そう言った。

食事中であった家族一同は彼女の一言でずっこけた。

父親のジャックは頬張っていたパンを喉につめ、目を白黒させた。兄のジャックマン、ジャン、ピエール、そして妹のカトリーヌは、ただ痴呆のように口を開け唖然としている。唯一落ち着いていると見える母親のロメは、スープを飲んでいたスプーンで食卓のパンを突っつき、かなりの動揺が伺えた。

「今何と言った! このお転婆娘が!」

パン屑を口から飛ばしながら、食卓を殴りつけ、ジャックはジャンネットに詰問した。卓上は滅茶苦茶である。

「だ、か、ら、フランスを救いに行ってくるって言ったのさ」

ジャンネットは椅子から立ち上がり、父親に習って卓上を力一杯叩く。

「許さん! 許さんぞ!!」

「行くと言ったら行く!!」

二人は額をぶつけ合い、睨みあった。一発触発の状態である。

「おまえという奴は、また俺の顔に泥を塗るのか!」

「馬鹿野郎! それとこれとは別問題だぜ!」

と、その時、ジャンネットの横合いから手が伸びてきて、彼女の頬を力強く叩いた。その一撃で、ジャンネットは暖炉部屋の出入口まで転がった。兄のジャックマンだった。

「父に向かって何と言う口のきき方だ。頭を冷やせジャンネット」

ジャンネットは前に立ちはだかる体格の良い兄を睨んだ。彼の眼は怒っていない。心底悲しそうだった。彼女は顔を背け、兄の視線をかわした。

「分ったよ。今日のところは黙っておくよ。でも俺も半端な気持ちで言っているわけじゃあない。これだけは分ってくれ」

ジャンネットはそう言い残し、団欒の場所を離れ、戸外へと向かった。二人の兄と一人の妹は相変わらず唖然とした表情をしており、母親のロメはスプーンでパンを突き続けていた。

「あいつをムーズ川に沈めてしまえ! おまえ達が沈めないなら、俺が自分の手でやる!」

ジャンネットの背後でそう喚く父の声が聞こえた。

15畳敷程の大部屋を抜け外へ出る。出入口は南にあり、彼女の右側に夕陽が見え、ドムレミイ村を赤く染めている。彼女は庭を横切り、石壁に登り、その場所に腰掛けた。粗末な布で作られたワンピースの裾が微かに春風に揺れた。

正面には数件の農家を挟んでムーズ川が見える。川幅は約30m。ドムレミイ村より南の山地に発し、フランス、ドイツと流れベルギーに入って北海に注ぐ。川は夕陽を浴びて輝く。静かで和やかな田舎の風景だ。

「親父の苦労も分るけどさ・・・」

ジャンネットは石壁の上で膝を抱えて呟く。亜麻色の長い髪が風に流され彼女の顔に纏わりつく。

確かにジャックマンは苦労していた。

1400年、彼はシャンパーニュ地方のトロアからドムレミイ村に棲み付く。その後ドムレミイ村から8kmばかり離れたウィートン村の娘、イザボウ・ロメと結婚し、村の代表を務めるまでになっている。

時は英仏百年戦争の頃であり、彼は数人の仲間とともに村はずれの砦を村の自衛のために買い取った。村人達の避難所としたのである。ドムレミイ村はシャンパーニュ地方とロレーヌ地方の境界、ムーズ川に沿ったシャンパーニュ地方の東端に位置する。ロレーヌ地方はロレーヌ公が治めるフランス王太子派の国である。一方、シャンパーニュ地方はイギリスと手を結んだブルゴーニュ公の統治下にあった。その紛争が絶え間ない場所の、更にはシャンパーニュ地方の突出した部分に、ロレーヌ公の領土として守備隊長ボオドリクールが治下するドムレミイ村が孤立して存在していた。

この状況の中、ジャックマンが苦労していないとは決して言えない。事実ジャンネットも、幼い頃から何度も父親達が買い取った砦に逃げ込んでいるのだ。

「でもなぁ・・・」

ジャンネットは空を見上げ、溜息をついた。

「早くしないとヤバイけどなぁ」

「何がヤバイって?」

突然の言葉にジャンネットは石壁の上から落ちそうになった。彼女の横にはいつの間にか幼馴染のラソワがいた。

「結婚のことなら何時でも準備OKだよ」

ジャンネットは力一杯ラソワの頭を殴った。

「誰と誰とが結婚するって!」

ラソワはあまりの痛さのために両手で頭を抱えその場に蹲る。

「ひどい愛情表現だね、ジャンネット」

「ダァ~~まだそんなことを言っているのか!」

彼女の怒気に押され、彼は素早く後退した。

ラソワ、ジャンネットともに16歳、結婚の適齢期に二人はあった。

ラソワは三枚目を絵に描いたような少年である。ドジでおっちょこちょい、ただ、純真で正直な性格はジャンネットを含め、自他共に認められている。背丈はジャンネットより8㎝低い160㎝程度、風貌はお人好しの印象を会う人々に与える。また妙に人なつっこい。

反面、ジャンネットは気が荒く男勝り、じゃじゃ馬的な性格であった。正しいことは正しいと言い、悪いことには悪いと言う、物事の白黒がはっきりした人間だ。そしてその顔立ちは、性格を表す切れ長の眼は別にしても、瓜実顔をした村一番の美人である。

先程の言い争いの中で、父親のジャックマンが「また俺の顔に云々」と言った理由は、この彼女の性格が原因だった。彼女の両親は敬虔なカトリック信者であり、娘が世間並の結婚をして家庭を築くことを望んでいた。そこで彼らは、いくつもの良縁の話をジャンネットに持ち込んだ。当時としては13歳で結婚しても可笑しくはない。だが彼女はそれを拒否し続けていた。そう言った意味で、彼女は両親の顔に泥を塗り続けていたのである。

「ところでさっきさぁ・・・」

ラソワは獰猛な動物に近付くように、恐る恐るジャンネットの傍らに寄り添った。彼女は横目で冷たく彼の動きを見ている。

「何がヤバイって言っていたの」

彼はどうにかうまくジャンネットと石壁の上に並んで座ることができた。

「今は言いたくない・・・いずれ分るから」

彼女は曖昧な口調で言った。ラソワもそれ以上訊こうとはしない。だがジャンネットは思い直したようにゆっくりと口を開いた。

「フランスがフランスでなくなる日が近い・・・・」

「まさか・・・」

ラソワは驚きのあまり息を呑んだ。

「ジャンネット、憶測だけで言う種類のことじゃあないぞ」

ラソワの言葉にジャンネットは微かに笑った。

「俺には分る。これからのこと、自分がやるべきことが」

彼女は石壁の破片―――直径2㎝程の小石を掌に乗せた。

「ラソワ、これから見ることは二人だけの秘密だぞ」

何をするのかと訝るラソワに構わず、彼女は精神を小石に集中させた。

その時彼は信じられないものを見た。ジャンネットの掌に乗った小石が浮かび、彼女の額のところまでくると、それは音もなく砕け、四散した。

ラソワは呆然とした顔をジャンネットに向ける。

風が吹いた。


英仏百年戦争・・・それは大陸の領土拡大を狙い、正統な王位継承権を主張するイギリスと、大陸での絶対的な地位を確立せんが為に反発するフランスとの泥沼の戦いであった。古くは、12世紀半端からこの紛争ははじまる。歴史家の一部はこの始まりをして第一次百年戦争とも呼ぶ。

1154年、イギリス王朝はノルマン王家からプランタジネット王家へと変遷した。プランタジネット王家の始祖はフランスのアンジュウ伯アンリ・プランタジネットであった。このアンリがヘンリー2世としてイギリスとアンジュウ伯としての本来のフランス所領地を支配する。また彼は、イギリス前王朝からノルマンディーを相続、更にはルイ7世の王妃だったアリエールを王との別離の後に妻として迎え入れた。アキテーヌ地方―――現フランスの西方、ピスケー湾に沿うこの広大な土地はアリエールの財産だった。この結婚によってヘンリー2世は、ノルマンディー、アキテーヌ、アンジュウ伯領というフランス本土の半分を手に入れた。

この状況をフランス王朝が黙認するわけがない。領土に対する利害関係が明確になった時、両国の間で戦闘が開始される。

陸戦ではフランス側が勝っていた。当時、重装騎兵の突撃という戦術面でフランスが優れていたのである。これによってルイ9世は戦争に勝利し、有利な形でパリの平和条約を結ぶことができた。すなわち、イギリスのプランタジネット家はアキテーヌ地方の所有権を確認された代わりに、ノルマンディー、アンジュウ伯領の一切を奪われ、またアキテーヌ公としてのイギリスは、フランス王家に従属することを認諾させられる。

ここにアキテーヌ地方の奇妙な二重政治体制がはじまる。

イギリスの領土でありながら、この地方はフランスの法律をも適用されるのである。よってイギリス王家は、パリに弁護士を常駐させなければならなかった。

しかし両国はこのことに満足していない。

イギリスにしては削減された領土の所有権を取り戻したかったし、フランスにしては大陸からイギリスの勢力を尚更一掃したかったのだ。これに、海上貿易による水夫同志の利害対立が重なり、13世紀末には再び戦闘の火蓋が切って落とされる。

この時、フランス王フィリップ4世はアキテーヌ公領の没収を宣言し、遂には占領する。これに対抗してイギリス王エドワード1世は、交易上支持されていたフランス領フランドルより上陸、更には神聖ローマ帝国と手を結んで反発した。

膠着状態が続いた戦争は、結局ローマ法王の介入によって解決する。

その解決方法とは、エドワード1世にフィリップ4世の妹を嫁がせ、またエドワード1世の長男―――後のエドワード2世にはフランス王女イザベル妃を婚約させることで、密度の濃い親族関係をつくることであった。1308年、この約束は確実に履行され、エドワード2世とイザベル妃は結婚する。

だが、運命の皮肉というべきか、この解決方法が後の新たな長い戦争を引き起こすプロローグとなるのである。

1314年、フィリップ4世死去。

フランスの王位は彼の子供―――ルイ10世に与えられる。ところが彼は2年後に死去。またフィリップ4世の残る2人の息子も短命で、僅かの在位の後に死に絶える。ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世の3人の王は男子に恵まれず、後継者たるものが世に出てこなかった。

ここにフランスの王位継承問題が浮上する。

完全にカペー王朝の血が絶えていたのではなかった。先にイギリス王エドワード2世に嫁いだイザベルが男子を誕生していたのである。この血統の正統性を盾に、イギリスは王位継承権を主張した。

一方のフランスでは、フィリップ4世の甥に当たるフィリップ6世が王位につき、バロア王朝を成立させた。

当然のことながら双方がその正統性をぶつけあう。

過去の領土問題とこの王位継承問題が複雑に入り交じり、両国は遂に歴史上名を残す百年戦争に突入した。

開戦当時は、双方短期決戦を望んでいたふしが見られる。

イギリスはスコットランドとの戦争で国庫を使い果たしていたし、フランスは豊かな財源と圧倒的な戦力から、一方的に勝敗が決すると踏んでいた。イギリスにすれば逼迫した財源の負担を少しでも軽くするために、短期決戦に勝利し、有利な和平条約を結ぶことが目的だったに違いない。確かに最初の海戦ではイギリスは勝ちをおさめる。だが部隊をフランドルに上陸させてからは、常に兵力の多いフランス軍に押され、途中資金が尽きてしまい、膠着状態のまま休戦となる。

決定的な解決がなされないまま、1346年夏、戦いは再開される。

イギリス王エドワード3世が約1万の兵力を率いてノルマンディーに上陸。クレッシーを戦場に約3万5千のフランス軍と戦った。

この時も、フランス軍の圧倒的な戦力によってイギリス軍は敗退を余儀なくされるのではないかと考えられていた。しかしイギリス軍はフランス軍の重装騎兵の用兵に対抗して、新しい戦術を考案していた。

クレッシーにおいて、イギリス軍は北の丘の上に、フランス軍は西の丘に陣を張り、隊形を整えた。

イギリス軍は全軍を三隊に分け、エドワード3世は予備の部隊と共に後方に待機、残る二部隊を前面に配置する。そして前面に配置した二部隊のそれぞれの両翼と、後方自らの部隊の両翼に2~3千のロングボウ兵を置いた。

対するフランス軍はこれまでの戦術同様、クロスボウ兵を前面に配置し、その後方に重装騎兵を並べた。これがフランス軍の得意とする、重装騎兵による突撃の波状攻撃隊形だった。

戦闘はフランス軍のクロスボウ部隊が、射程距離の長いイギリスのロングボウ部隊に射撃され、駆逐されることから始まった。

従来の戦いだと、まずクロスボウ部隊同士の射撃戦があり、相手が混乱したところにタイミングよく重装騎兵が突撃する。このパターンを崩されたフランス軍は、状況を打開するために真っ向から重装騎兵の突撃を敢行した。だがこれはイギリス軍の思う壷であった。突撃した重装騎兵はロングボウによって悉く馬を撃たれ、落馬したところをイギリス歩兵によって攻撃を受けた。重さが30kg以上もある装備の騎兵である。落馬すればひとたまりもなかった。

フランス軍は15回に渡り突撃を行ったが、全軍の3分の1が壊滅状態にされた。

フランス軍の完敗だった。

このクレッシーの戦いには二つの歴史的転換があった。

一つは戦術面での転換である。ロングボウの兵器化によって従来の重装騎兵中心の用兵が否定されたこと。今一つは軍隊そのものの編成にある。このころのフランスは、各地に割拠する封建諸侯が強い実権を握っていた。よって王権のもとに統一された軍隊ではなく、その指令系統は各諸侯から離せるものではなかった。このことは全軍的な作戦行動がとれないことを意味する。クレッシーの戦いで、イギリス軍のロングボウ部隊に咄嗟の対応ができなかった所以である。

この時点でこれらのことを認識できていれば、後の戦闘に敗北することはなかったであろう。が、フランス貴族はそう解釈しなかった。プライドの高い彼らには、平民によって組織されたロングボウ部隊によって敗れたことを認めることができなかったのだ。彼らは歩兵の兵力の差によって負けたと解釈した。

この誤った認識をもったまま1356年、ポアティエの戦いに突入、再度フランス軍は敗退した。

1346年のクレッシーの戦いから10数年、フランスは不幸のどん底にあった。イギリスの軍事的天才「黒太子」エドワードの登場もあるが、何よりも大陸全土を席巻した黒死病の大流行はフランスの国力を衰退させた。また、国内では傭兵として雇った他国の人間が戦いの後に職にあぶれ、野盗となって国を荒らしていた。

このような状況のなか、1364年、後に「賢王」と呼ばれるシャルル5世がフランス王として君臨する。

彼は軍の建て直しを図り、周辺の封建諸侯達との協力のもと、イギリス勢力をボルドー付近まで追い詰める。また国力再建の政策を実施し、フランスは再度安定的な政治基盤が確立された。

1377年、イギリス王エドワード3世死去。その後イギリス国内でプランタジネット家とランカスター家の抗争が起こる。かくして再び両国は休戦の時代に入る。

だが状況はフランスも変わらない。

1380年、シャルル5世急死。これが内乱の発端になるのだ。シャルル5世の後を継いだシャルル6世は幼く、成年になっても精神疾患で統治能力を欠いていたことも加わり、親族諸侯間で主導権争いが起こるのである。フランスはこの牽制の中に微妙な均衡を保っていた。

一方、イギリスでは遥かに早く決着がついていた。

1377年に王座に就いたリチャード2世はランカスター家のヘンリー4世に王位を奪われ、投獄された挙句1399年に死去。その後のヘンリー5世の時代にフランス侵攻は再開される。

1415年、アザンクールの戦い。

この戦いではフランスの敗北が約束されていたようなものだった。内部分裂を起こしたまま統一されないうちに戦争に突入したフランスが勝てる筈がなかった。更にこの時、親族であるブルゴーニュ公はイギリス側に寝返っていたのである。ブルゴーニュ公はフランス国内のシャンパーニュ地方のみならず、ネーデルランドにも広い領地を持っていた。当時ネーデルランドは政治的、経済的意味を含めてイギリスが掌握しており、この利害関係を有効に操ることで、イギリスはブルゴーニュ公を丸め込んだのだった。

このことは、ロレーヌ地方がブルゴーニュ公の統治するシャンパーニュ地方によって孤立させられることを意味していた。また加えて言えば、シャンパーニュ地方に突出したドムレミイ村は、その中でより孤立した存在としてあった。

そうしてジャンネットがフランスに行くと宣言した時、既に事態は容易ならぬものとなっていた。


ラソワとの会話の数日後、ジャンネットは母方の従兄弟に当たる伯父のデュランの助力を得てヴォークリュールに訪れていた。

彼女の目的は、この地域の守備隊長ボオドリクールに直訴するためだった。私をフランスに連れて行け、私はフランスを救うことができるのだ、と。しかしこの訪問は全く無意味だった。会談に応じないボオドリクールに対して、彼女は城門の前で一週間、絶食して立ち続けた挙句、結局力尽きてその場に倒れてしまう。気を失ったジャンネットを引き摺るように連れ戻したのは、やはり伯父のデュランであった。

「馬鹿か、おまえは!」

落ち込んで帰郷したジャンネットを父のジャックは冷たく突き放した。

「おまえみたいな小娘に何ができる!」

「何だと、糞親父! こんな田舎に暮らしているで、脳味噌がいかれているのか! もう直に敵が攻めてくるぞ!」

口答えしたジャンネットは、父親にボコボコに殴られた。あまりのジャックの逆上に、彼女自身の身の危険を感じたのであろう。家族の全員がジャックの身体を抑えつけた。その隙を突き、ジャンネットは彼の股間を蹴り上げた。

これに怒ったのが長兄のジャックマンである。今度は彼がジャンネットを殴りつけ、これを止めようとする次男のジャン、三男のピエール、ジャンネットを宥める母親のロメ、末娘のカトリーヌの間で大騒ぎが始まった。

ジャックは彼女の一撃で床に伸びている。ジャンネットは母親と妹を押しのけ、床に伸びている父親を踏み台にして、ジャックマンにジャンピングニーバットを決めた。だがそれは体格のいい兄には効かない。ジャックマンはジャンとピエールを振りほどきジャンネットに突進する。彼女はカウンターのパンチを放つが兄の突進は止まらない。二人は縺れるように床に転がった。ジャックマンはジャンネットに馬乗りになり拳で殴りつける。ジャンネットは下から兄の顔面にエルボーを打つ。のけぞった隙に彼女はジャックマンの下から這い出て、今度は彼女が兄に馬乗りとなる。形勢が逆転した。と、思った瞬間、ジャンネットは気を失った。

背後から兄のジャンが、彼女の後頭部を椅子で力一杯殴りつけたのだった。木製の椅子は音をたてて壊れた。

「こいつを納屋に放り込んでおけ!」

肩で息をしながらジャックマンが立ち上がり怒鳴った。

ジャンネットはかくして離れの納屋に閉じ込められた。自分の行為に対する反省が全く見られないことから、彼女は外に出ることを許されず、食事だけが与えられる生活が続いた。母親のロメが。兄のジャンとピエールが、妹のカトリーヌが彼女を諭しに日々やって来た。しかし、ジャンネットは頑として彼らの言葉を聞き入れなかった。自分が正しいという信念が、心の奥底に根強く存在していたからだ。

「おまえは年頃の女の子なのよ」と母は言い、「女は家庭をもって幸せになるものだ」と兄達は言った。彼女に一番の理解を示したのは妹であったが、「姉さんがこの調子じゃあ、私もこの村で結婚できないわ」と現実的な意見に収まるのが常であった。父に至っては相変わらず「ムーズ川に沈めてしまえ!」と怒鳴っているようだし、長兄のジャックマンは何も言いはしないが、できの悪い妹に愛想をつかしているらしい。もっとも二人は納屋にいるジャンネットに会うことすらしないが。

そんなジャンネットをラソワが訪ねてきたのは、彼女が納屋に閉じ込められて一週間目の夜であった。

まんじりともせず、彼女は膝を抱え、その場に蹲っていた。

ジャンネットの神経は研ぎ澄まされ、眼光はただならぬ気配を察知していた。

“来る!”

その時、唐突に納屋の戸が開き、何者かが飛び込んできた。

「ジャンネット、愛しているよ!」

彼女はすばやく立ち上がり、その人物にカウンターのエルボーを浴びせた。鈍い音が響き、その人物は絶句し派手に倒れた。ラソワだった。

「相変わらず激しい愛情表現だね・・・」

苦しそうなラソワの下腹部に、ジャンネットは鋭い蹴りを入れる。「グぇ」とラソワは悶絶した。

「こんな夜更けに何の用だ、ラソワ」

「いゃ~あ、ちょっと夜・・・・」

夜這いと言おうとしてラソワは思い留まった。ジャンネットにメガトン級のキックを貰うのはもう沢山だった。

「ちょっと、ジャンネットが淋しい思いをしているのかと思ってね。しばらく会えなかったし・・・」

そう言うラソワをジャンネットは軽蔑したような横目で見ていた・・・・。

「いやいや、ジャンネットが淋しい思いをしているのではなくて、実はボクが淋しかったのさ。いやいや、話し相手がいないというわけじゃなくて、君がボクにとってのかけがえのない恋・・・ゴホ、ゴホゴホ、いやいやいや特別な友達だから・・・」

ジャンネットの冷たい視線を浴びて、ラソワは支離滅裂、何を言っているのか分らなくなっていた。彼は冷汗を流しながら居心地悪そうにモジモジしている。そんな彼の様子を見て、ジャンネットは可笑しくなってきた。

彼女はクスッと笑った。

「ラソワ、そんなに固くならなくっていいよ」

ラソワは彼女のその一言で肩の力を抜き、彼女が座る粗末なベッドの横に腰を降ろし、彼女の肩に手を回した。ジャンネットはにっこり笑いラソワを殴った。

「ちょっと甘い顔をするとこれだ。遠慮を知れよ、遠慮を」

彼女は殴られた顔面を押さえるラソワに向かって言った。

「だってジャンネット」

珍しく彼はシリアスに口答えする。

「とっても綺麗で、誰からも愛される娘を好きになった三枚目の男が、どんな行動をとればいいか考えてみろよ」

ラソワはそこで一呼吸間を置いた。ジャンネットは自分のことを言われているとは気付かず、キョトンとしている。

「そいつは遠くから彼女を見ているか、道化に徹してでも彼女に近付くかしかないよ」

プッと吹き出してジャンネットは笑った。

「アハハハハハ、ラソワ、まだ手はあるぞ。無理を乗り越えて襲いかかるとか・・・」

笑うジャンネットをラソワは押し倒した。ジャンネットは何の抵抗もせず、澄んだ瞳で上になったラソワを見詰めた。ラソワも彼女を見詰め返し、だが何もできず彼はジャンネットから身体を離した。

「御免・・・」

二人は口を揃えて言った。気まずい沈黙の時が流れた。

「ラソワ、おまえのこと、俺、決して嫌いって言うわけじゃあない。でも・・・今はそんな気持ちになれない。なったとしても幸せになれないことが分っているから・・・」

ジャンネットの言葉を聞いた者がラソワではなく成人した男性であったなら、彼女の家族のようにそれを一笑し、この時説得をはじめたであろう。馬鹿な夢をみるのはよせと。だが、彼女を愛したのは同い年の大人になり切れていない純真な少年であった。愛する者が見る夢を壊してしまうには、彼はまだ若すぎた。だからラソワは頷いた。

「行くのかい? フランスを救いに」

ジャンネットは俯き、ラソワから眼を反らせた。彼はジャンネットの肩を抱いた。

「ジャンネットの『力』を使えば確かに直ぐにでも行けるだろうね」

彼女は俯いたまま首を振り、ラソワの言葉を否定した。

「敵は明日にも攻めてくる。俺には分る。でもそうすれば―――『力』を使えば、下手をすると俺は魔女として教会に処刑されるだろう。分らない、ラソワ・・・・。俺はどうすればいいんだ」

ジャンネットはラソワに身体を寄せた。

無論、彼にも答えられない。

二人は凍りついた時間の中にいた。周囲の空気はこれから起こる惨劇を予感してか、張り詰めた糸のように硬くなり、初夏も近いというのに冷気を感じさせた。


夜は更ける。


ラソワが納屋の閂を入れ直しジャンネットの家から離れた後も、彼女はまんじりともせず夜の闇の中にいた。

ジャンネットは躊躇していた。

一度は家族と故郷を捨てる決心をし、ヴォークリュールを訪問した。だが彼女の魂の叫びは聞き入れられず、結局はおめおめと帰ってきた。ラソワが指摘したように、『力』を使えば今度はうまくいくかも知れない、しかしそれは、失敗する可能性をも孕んだ危険な賭けだ。

―――魔女狩り―――

ジャンネットの頭には家族のことがこびり付いて離れなかった。「力」を使って失敗した場合、その塁は家族まで及ぶ。ことあるごとに喧嘩ばかりしている家族ではあるが、彼女は基本的に両親と兄弟を愛していた。

それに「力」は絶対的なものではない。軽い物体を動かすことか、もしくはほんの先の出来事を予感することしか出来ないのだ。

更にジャンネットはジレンマに喘いでいた。

一度目と同じ条件で、ヴォークリュールを訪れても失敗を繰り返すことは目に見えている。何らかの手段を講じなければならない。けれどもジャンネットにはその手段が思いつかなかった。貧しくないとは言え、こんな片田舎の娘一人に何が出来ると言うのか。どうすることが出来るのか。

何も出来ない!

ジャンネットの行き着く結論は何時もそこであった。

どうすることも出来ない!

だが、彼女の耳からは確実に近付いて来る敵の足音が離れない。

抱かれればいいのだろうか? ラソワに―――いや、他の男性でもいい。抱かれて、目を、耳を、すべての五感を閉ざし、自分だけの幸せを希求すればいいのだろうか?

それが幸せか?

違う! 断じて違う!

ジャンネットは愛して止まない柏の森で見たビジョンを思い出す。そして思う。フランスを救わなければならないと。


張り詰めた糸が切れた。

ジャンネットの予感通り、ブルゴーニュ公旗下の軍隊がドムレミイ村を急襲した。総数は百名程度、当時の軍隊におけるランスを10程集めた小隊規模の襲撃であったが、人口3百名にも満たないドムレミイ村を震撼させるには充分な数であった。

時刻は日も昇り切った正午に近い時間にその報告は入った。野良仕事をしていたラソワもその姿を見付け、慌てて村に帰った人間の一人だった。

「避難所へ!」

「駄目だ! 敵の数が多過ぎる。あそこじゃあもちこたえられない!」

「逃げろ!」

村人の怒号が入り乱れる中、ラソワは走った。

「おい!」

誰何の声に彼は振り向いた。そこにいたのはジャンネットの兄のジャックマンだった。

「ラソワか。何処へ行っている。逃げる場所はヌーフシャトーだ。おまえの家族も村を離れたぞ!」

「ありがとう、でもあなたは・・・」

「俺か。俺は親父を手伝って村人達に避難場所を告げている。君も早く行け!」

そう言うと、ジャックマンは逃げる人ごみの中に姿を消した。ラソワはしかし方向を変えずに走りはじめた。ジャンネットの家に。もう既に避難をしている可能性もあるが、村の代表として最後まで家族を残して留まっているかも知れないと彼は考えた。それ程までに敵の襲撃は急だった。外へ仕事に出たまま敵の襲撃を知ったのであれば、ジャンネットの男家族は一度も家に帰らず奔走している確率は高い。

ラソワは速度を上げて村の中心にあるジャンネットの家に走った。

玄関口でバッタリと三男のピエールに出会った。彼は息を乱しながら、父に命じられて家へ帰ってきたと言った。やはりラソワの予感は当たっていたのだ。

「母さん、逃げるよ! ヌーフシャトーだ!」

ピエールが叫ぶと、転がるようにロメとカトリーヌが家から出てきた。

「怖い・・・怖いよ、兄さん!」

カトリーヌはピエールに縋りついた。彼はもう大丈夫だと繰り返す。

ラソワは納屋に走っていた。

「ジャンネット!」

彼が納屋の閂に手をかけた時、内側から激しい衝撃があり、閂は鋭い音をたてて真二つに折れた。ラソワは弾き飛ばされその場に転がった。ジャンネットが納屋から転がり出た。

「痛いなぁ。もう本当に君は女かよ」

彼は頭にできたたんこぶを押さえながら言った。そこにジャンネットの平手が飛んできた。

「俺は立派な女だよ!」

「そうかなぁ、そうは見えないけど・・・」

ラソワはまじまじとジャンネットの胸を見た。

「何だよ! 今はそれどころじゃあないだろう!」

彼女はうっすらと頬を赤く染めながら叫んだ。ラソワは我に返り、立ち上がって駆け出した。ジャンネットはそれに続いた。

ロメ、ピエール、カトリーヌとラソワ、ジャンネットが合流し、門を出たところで長男のジャックマンに出逢った。

「ラソワ・・・君は・・・・」

ジャックマンはラソワを見て驚いたが、傍らにいるジャンネットに気付き、納得した。その気配を感じ取り、ジャンネットは取り繕うように尋ねた。

「兄貴! 親父とジャンはどうした!?」

「二人は逃げ遅れた老人や子供を連れてきている。俺もそちらを手伝いに行くところだ」

“間に合うのか”

ジャンネットはシビアに考えた。事態はかなり逼迫している筈だ。

「おまえ達は先に行け!」

ジャックマンがそう言って踵を返した時、街道の北をこちらに向かう30名程の集団が見えた。父のジャックと兄のジャンに違いなかった。

「ボク達も行こう!」

集団の中には明らかに泣いている幼い子供や、足腰の立たない老人がいた。二人の手に余っているのは目に見えていた。ラソワが言い、ジャックマン、ピエール、そしてジャンネットが走り出した時だった。

地の底から響くような声が上がった。

“ウォークライだ”

ジャンネットが思うと間もなく、四方からクロスボウが飛んできた。ジャンネット達は無事であったが、集団の数が多いジャック、ジャンの方に狙いが集中したのだろう。そちらには矢に射抜かれて倒れる者が続出していた。

ジャンネットの頭の血が逆流した。

彼女は父親のいる方に向かって走った。後にジャックマン、ピエール、ラソワが続く。

「親父!」

矢に射抜かれ、倒れ臥している老人や子供が5人いた。

“酷い”

と誰もが思った。その中で、矢から子供を庇い、腕を傷つけているジャックが叫んだ。

「馬鹿! 早く逃げないか!」

ジャックマン、ピエール、ラソワは彼の気迫に押されてのけぞった。しかしジャンネットは、泣いている幼女を抱きあやしながら平然としていた。心は敵に対する怒りが吹き荒れていたが。

「ここで逃げたら人間じゃあないよ」

ジャンネットは惨状を見ながら呟いた。その一声で我に返ったジャックマン、ピエール、ラソワは、次男のジャンに習って身動きできない人達を背負いはじめる。

「どいつもこいつも・・・」

ジャックは苦笑した。

母親のロメ、妹のカトリーヌも皆に混じって傷ついた人々の介抱をはじめた。彼らには分っていた。クロスボウは四方から飛んできた。これは村が既に敵に包囲されていることを意味していた。ジタバタしてもどうしようもない。彼らは覚悟し、開き直っていたのであった。

蹄の音が近付く。

三頭の馬が街道の北からやって来た。斥候として様子見にきた、武装した騎士によって操られた馬だった。彼らはジャンネット達から10m程離れたところで止まった。

「老人と子供、女どもだけか・・・。相手にならんな」

「歩兵に任せて先に行こう」

「そうだな。めぼしい物もないようだ」

三人の会話はジャンネットの耳に届いた。歩兵に任すということは、身分も賤しい歩兵達などによって略奪されることを意味する。彼らの勝手な言い分にジャンネットの怒りが爆発した。

「待て! この野郎!」

彼女は先に行こうとする騎士に向かって叫んだ。

「老人や子供を殺しておいて、おまえらそれでも気高い騎士かよ! やることがエゲツないぜ!!」

「よせ! ジャンネット!」

ラソワがジャンネットの口を押さえた時には既に遅く、騎士達は彼女に対峙していた。甲冑の下の表情は伺えないが、その瞳は怒りに燃えていた。彼女の一言が、彼らのプライドを傷付けたのは確かだった。

「娘! 何と言った!」

一人の騎士が彼女に槍を突きつけた。一瞬、その瞳に好奇の光が浮かぶ。彼女の美貌に眼を奪われたのか・・・

ジャンネットは素早く槍を横に払った。そして高々とジャンプし、彼女は騎士の下顎を蹴り上げた。バランスを崩した騎士は落馬して気を失った。ジャンネットはその騎士の腰から短剣を奪い、残る二人の騎士に向かった。完全に逆上した彼らは、彼女に襲いかかった。左右から突き出される矛先を巧みにかわし、馬の足元まで接近すると、ジャンネットは二頭の馬の足を傷付けた。馬は激痛に驚き暴れる。だが先程のジャンネットの素早い攻撃を目の当たりにしていた二人の騎士は、彼女の先の行動を予測し、いち早く馬から降りていた。

剣を抜く。

ジャンネットは手にしていた短剣を一人の騎士に投げた。それは騎士の右腕に刺さり、彼は動きを止めた。彼女は風のように相手の懐に入り込み、抜きかけていた剣の鍔に手をかけると左ストレート一閃、騎士は崩れ落ち、ジャンネットの手には剣が残された。傷ついた騎士は戦意を喪失し、その場に蹲って痛みに耐えていた。

「ほう」

残る騎士が感嘆の声を上げた。

ジャンネットは上段から騎士に切りつけた。懇親の力を込めた一撃は相手にあっさりと受け止められた。「できる!」と彼女は思った。騎士はジャンネットを力任せに突き飛ばした。彼女が後退し、よろめいたところを彼の剣は横から襲いかかる。その攻撃をジャンネットは紙一重でかわした。ワンピースの腹の部分がぱっくりと割れた。

「この~~~!」

ジャンネットは突進する。騎士は突きの構えを見せている。彼女は素早く手にした剣を敵に投げた。剣は彼の1m手前の地面に突き刺さった。

一瞬の躊躇が騎士の敗北に繋がった。

突進し、投げた剣の鍔に足をかけてジャンプした足元を、コンマ数秒の差で放たれた突きの剣先が空を切った。ジャンネットは相手の顔面に高角度のドロップキックを浴びせる。甲冑の上からの攻撃であったが、重い衝撃が彼を失神させた。

倒れた彼はピクリとも動かなかった。

彼女は肩で息をしながら地面に突き立てた剣を抜こうとした。

「動くな!」

威嚇の声にジャンネットは我に返って振り向いた。その時はじめて彼女は数十名の敵に囲まれているのを理解した。

憎々し気な表情をした敵の一人が、先程ジャンネットがあやしていた幼女に剣を向けていた。彼女は恐怖のため引き攣った声を上げて泣いていた。

ジャンネットの奥歯が鈍く鳴る。

「殺せ!」

「見せしめだ!」

理性を失った狂気の集団が口々に叫んだ。村人達は怯え。或る者は啜り泣いていた。カッとなってジャンネットは手にした剣に力を込めた。

同時に躊躇いなく幼女の首が飛んだ。

「動くなと言った筈だ! 人質はいくらでもいる!」

憎悪のため目の前が真っ赤になる。

ジャンネットは自分がどうなっても構わないと思った。今此処にいる仲間を助けることが出来るなら、俺は何だってする、と。

彼女の心の箍が外れ、「力」の暴走がはじまった。

突然幼女の首をはねた兵士が苦しみ出す。

彼の首はギリギリと鈍い音をたてて捻じれ、360度回転した。絶叫が途絶えると同時に、ありえない力によって彼の首は捻じ切られた。

周囲は一瞬不気味な沈黙に包まれた。

首を無くした身体が血を噴きながら音をたてて地面に沈むと、兵士達は騒然とした。

「何だ!」

「何が起こった!」

彼らは一様に動揺していた。

「こんなことが・・・」

「おまえがやったのか!?」

動揺は暫くすると怒りに変容し、それが恐怖を上回った時、兵士達の感情は遂に爆発した。

「殺せ・・・」

「殺せ!」

「殺せ!!」

敵兵は一斉に攻撃を仕掛けてきた。

ジャンネットは叫ぶ。言葉にならない怒りを全て敵にぶつけた。

青白いスパークが彼女の身体から発せられ、鋭い音が周囲の空気を振動させた。巨大な「力」がジャンネットを囲むすべての敵を弾き飛ばした。或る者は手足をなくし、或る者は上半身をももぎ取られた。そこには五体満足な敵の姿はなかった。

「これはおまえ達を滅ぼす力だ! 敵にするなら心してかかれ!」

フッと彼女の意識は薄れた。

「ジャンネット!」

遠くでラソワの叫ぶ声が聞こえた。


焦点がぼやけて何があるのかはっきりしない。只誰かの顔の、掴み所のない輪郭が目の前にあることを理解し、ジャンネットは反射的に動いた。

右フックが彼女を覗き込むラソワの左頬にヒットした。彼は床に転がった。

ジャンネットはベッドから跳ね起きた。

「ここは・・・」

彼女は見慣れない部屋を見渡した。木製の粗末なテーブルと椅子、ベッドと寝具、そこにあるのはそれだけだ。穏やかな風が入る窓から見える風景にも、ジャンネットには見覚えがない。

「痛いなぁ、ジャンネット。いきなり酷いよ」

ラソワは床から半身を起こし、頭を振りながら情けない声で言った。

「ここはヌーフシャトーか?」

「ああ、そうだよ。でもジャンネット、よく眠っていたね。もうあれから二日になるんだ」

ラソワは立ち上がり部屋の椅子に腰掛けた。普段は使われていない部屋なのだろう。テーブルの上には薄らと埃が積もっている。また、あまりにも殺風景だ。

ラソワはジャンネットが気を失ってからのことを話した。

第二陣の敵がやって来る前に、包囲陣の手薄な場所から全員で村を離れたこと。間もなく後続の部隊が村を襲い、数分後には略奪がはじまったこと。

「おや、気が付いたかい」

話の途中で、中年の女性が部屋に入ってきた。小太りで人の良さそうな表情をしている。温和な瞳をジャンネットに向ける。

「ここのおかみのルーズだよ。大変だったねぇ」

ジャンネットが二日間眠り続けた場所は、旅籠屋「ラ・ルーズ」だった。ルーズは3人の下女を雇い、ここを経営していた。当時としては当然であるが、売春宿まがいの商売もしている。だが、おかみの性格を反映してか、ここは底抜けに明るく、3人の下女達もあっけらかんとしたものだ。これから数日後、ジャンネットはルーズが泥酔した客を宿から放り出す場面に出くわす。

「ルーズの女はね、私の娘も同然だ! 娘をいじめる奴はここに入れないよ!」

ルーズは両手を腰にやり、倒れた男を見下しながら啖呵を切った。

この行動と一言で、ジャンネットは彼女のことを好きになる。

「ラ・ルーズ」には今、ジャンネットとラソワの家族、そしてドムレミイ村から逃げ遅れ、彼女の家族に連れてこられた人々でごった返していた。

「お腹がすいてないかい? 何か食べるものでも持ってくるよ」

ルーズはそう言うと部屋から出て行った。幾分か二人に気を使ってのことだったのかも知れない。

風が吹いた。

暖かい柔らかな風がジャンネットの髪を優しく愛撫する。

「ラソワ・・・」

「何だい、ジャンネット」

彼は屈託のない笑顔を彼女に向ける。安堵の感情がその表情から読み取れる。

「まさか・・・」

「ン?」

「ここの女の子に手を出していないだろうね」

“ギ、ギクッ!”

ラソワのこめかみから冷汗が流れた。


「ラ・ルーズ」の一室に集まったジャンネットの家族達は困惑していた。ドムレミイ村を遅れて逃げた人々の口から彼女の「力」のことが噂され、今や彼女は「奇跡の少女」だった。魔女扱いされるよりはマシにせよ、このことで家族の意見は真二つに分かれていた。

末娘のカトリーヌは言った。

「姉さんをフランスに行かせるべきだわ。あの『力』はフランスを救うために、神が姉さんに与え賜うた『力』よ」

少女にありがちな夢を見るような目で彼女は訴えた。

「確かに・・・。まざまざとあんな場面を見せられると、俺もジャンネットを行かせてやるべきだという意見に賛成せざるを得ない」

次男のジャンも妹に続いて口を開けた。

「てもねぇ、あの子を戦場にやるなんて私には出来ないよ。まだ年端もいかないジャンネットを殺し合いの場所に送るなんて・・・・不幸になるに違いないよ」

「しかしそれもジャンネットが望んでいることだろう」

母親の言葉に三男のピエールは言った。

「必ずしも不幸とは言えないのでは・・・・」

父親のジャックはいきなりピエールを殴った。

「許さん! 俺は許さんぞ! 人殺しがどうして不幸なことじゃあないのだ。おまえらもあいつの幸せを少しでも考えてやっているなら、どうしてそんなことが言える!!」

「だけど、父さん」

次男のジャンは珍しく父に口応えした。

「ジャンネットが『力』を操って敵を倒したことは事実だよ。それに俺達が村を離れて避難するなんて今までになかったことだ。それだけフランスがヤバクなっているのでは。ジャンネットがそれを救うために神から『力』を与えられたのなら、行かせてやることが神の御心に沿った決断になると思うよ」

ジャックは続いてジャンを殴る。

「もう一度言ってみろ! この野郎! 二度とこの話題を口にすることは許さんぞ!!」

彼は家族を見渡し宣言した。

長男のジャックマンは始終無言で事の成行きを聞いていたが、最後に一言呟くように言った。

「これからが大変だな」

ジャンネットの幸せを考える両親の反応は至極当然であった。現実問題として。娘に妙な「力」が宿った事実は否めないが、それをもって彼女を危険な目にあわせることは親として出来なかったのである。だが、そんな家族の思惑をよそに、周囲ではジャンネットの噂が次第に大きくなっていった。実際に彼女の「力」を目の当たりにした人々まで緘口令を敷くことは不可能だったし、彼らも黙っていることはできなかった。ジャックに宿から叩き出される人は確実に増えていった。


この頃ジャンネットはルーズの宿を手伝いながら、乗馬の練習をしていた。ヌーフシャトーの滞在は15日間と短いものであったが、彼女の乗馬技術は上達しつつあった。

その日もジャンネットは野原で馬を走らせていた。

風を切る彼女の亜麻色の長い髪がリズミカルに揺れる。

手綱を引き、走る馬を諌め、再び方向転換して走る。

そうしながら彼女は馬の首筋をそっと撫ぜる。

その姿は馬の心を知り尽くしているかのように見えた。

ジャンネットの頬に微笑が浮かぶ。

それを見ていたラソワは大あくびをした。

平和な風景だ。

彼は腰を降ろした木陰に横になった。

頭を組んだ両腕の上に乗せ、空を見る。

澄んだ空気と抜けるような大空―――そして白い雲。

風に流れ、形を変える雲をラソワはボーっと眺めていた。

彼は再び大あくびをする。

「ラソワ・・・」

ウトウトとしている彼を上から覗き込む者がいた。カトリーヌだった。ラソワは半身を起こした。

「やぁ、カトリーヌ。どうしたの?」

振り向くと、彼女の他にもジャンとピエールが立っていた。

「わぁ、姉さん、かっこいいね」

カトリーヌはラソワの質問に答えず、馬を操るジャンネットを見て言った。まだあどけない幼い顔立ちをした彼女は、澄んだ大きな瞳を輝かせていた。将来はジャンネットに劣らないほどの美人に育つであろうことは容易に想像できた。

「実はラソワ、ジャンネットの『力』について話合いたい」

三人の中では一番の年長者であるジャンが口を開いた。彼らはラソワに習って木陰に腰を降ろした。

「率直に言ってどう思う。ジャンネットの『力』を」

「どうって言われても・・・」

ラソワは鼻の頭を掻きながら言葉を濁した。

「ジャンネットから詳しい話を聞いているわけじゃあないし・・・ただ『力』がフランスを救うものだとは思っているみたいだね」

「そうよ。姉さんの『力』は神からフランスを救うために与えられたのよ」

興奮気味にカトリーヌが言う。

「そうだ。フランスを救うという意思を持った者に宿った以上、それはそのために使われるべきものだと思う。親父にはそれが分っていない」

ピエールがカトリーヌに続いた。二人の意見にジャンは頷いた。

「まぁ、親父の言うことも分らないでもないけど、このままにしておいて騒ぎが大きくなると、とんでもないことになるな。教会に連れて行かれて、異端の罪をかぶされて、魔女として処刑されかねない。悪くすれば俺たちまで危ない」

「でもフランスを救うことは正しいことじゃあないの?」

危険が自分の身辺まで及ぶということを聞き、カトリーヌは慌てた。

ジャンはそんな彼女の言葉を否定する。

「フランスにとってはね。それに『信仰』と『まつりごと』は全く別ものだ。教会で裁判沙汰になればヤバイ」

「問題は単純ではないってことか」

ピエールが呟く。だがジャンは頭を振った。

「いや、問題は極めて単純だ。ジャンネットをフランスにやる。その一つに尽きる」

「じゃあ話は簡単じゃない。父さんと母さん、そして兄さんを説得できれば・・・」

表情を明るくしてカトリーヌが弾んだ声で言った。

しかし今度は今まで黙っていたラソワが口を開いた。

「そうでもないよ。3人の説得も勿論だけど、行くにしたってヴォークリュールで守備隊長に会えるか・・・フランス宮廷に受け入れられるか・・・難関が沢山あるよ。そして何よりジャンネット自身が迷っている。最初のヴォークリュール訪問の失敗で自信をなくしているみたいだ。まっ、ボクは彼女がドムレミイ村に残って、一緒になってくれた方が嬉しいのだけどね」

ラソワの最後の言葉を聞き、兄妹3人はジロリと冷たい目で彼を睨んだ。

ラソワは肩を竦めた。

「ううん・・・まいったなぁ。何かいい方法はないだろうか?」

溜息を漏らしながらジャンは自問した。ピエールもカトリーヌも兄に習って一様に考える仕草をしている。

突然ラソワが手を振った。3人が我に返ると、ジャンネットが馬を引きこちらに近付きながら手を振っている。

「あるよ」

ジャンネットを迎えていたラソワが唐突に言った。ジャン、ピエール、カトリーヌは耳を疑った。だが空耳ではなかった。

「少し乱暴になるけどね」

ラソワは微笑した。


季節は急速に移り変わって行く。

ヌーフシャトーから故郷のドムレミイ村に帰郷した時には既に夏が訪れていた。

略奪は酷いものだった。村人達が蓄えていた食糧、家畜、財産はすべて奪い取られ、酷い者になると家すらも焼き払われていた。ただ救いは戦場とはならなかったことで、農作物が踏み荒らされていなかったことぐらいであった。

幸いジャンネットの家は火災を免れたが、他の家と同様内部は徹底的に荒らされた形跡があり、整理するのに一苦労した。

そして、何よりやり切れなかったのは死体の埋葬だった。長期間放置されていたそれは、腐敗臭を放ち、人間の尊厳の一切を否定していた。村人達は暗澹とした気持ちとなり、人の形ではなくなったそれを土に埋めた。敵に対する怒り、更にはそれ以上の戦争の不条理を彼らは感じ、言いようのない悲しみと悔しさを心の傷として残した。

そのような状況にあって、ジャンネットが逃げ遅れた人達を救うために不思議な「力」―――中にはあからさまに「神の力」と言う人もいた―――を使って、敵をなぎ倒したという噂は村に浸透し、彼女を訪ねて来る人々はヌーフシャトーに逗留している時より増えてきた。もっとも、その訪問はジャックに怒鳴られ、時には実力行使されて追い出されることで終わるのであるが・・・・。それは彼女にとっても頭の痛い問題であった。そんな折、ヌーフシャトーから帰郷後二週間が過ぎて、もう一つ彼女を悩ませる問題がトゥールよりもたらされてきた。


「ラソワ!」

ジャンネットは畑仕事をしているラソワに向かって一直線に走ってきた。彼女の眼は怒りに燃えていた。手には一枚の紙片を持っている。ジャンネットは息を乱しながらラソワに怒鳴って言った。

「これは何だ! これは!」

彼女は手にしていた紙片を彼に叩きつけた。ラソワはそれを広げて見る。それはトゥールの裁判所からの召喚令状だった。

告発人はラソワ。

「思っていたより早く来たね」

落ち着いた口振りで彼は言った。それは彼がジャンネットを結婚不履行の罪でトゥールの裁判所に訴え出た結果もたらされたものだった。

「2、3日姿が見えないと思ったら、こんなことをしていたのか!」

トゥールはドムレミイ村より北に直線距離にて約50kmのところにある街である。正確には、ロレーヌ公統治するロレーヌ地方に属する街だ。

「聞かせて貰おう。一体どういうつもりだ!」

「まあまあジャンネット、少し気持ちを沈めてくれよ」

屈託のないラソワの笑顔を見せられて、ジャンネットの怒りは急速に収まっていった。彼の特異な性格による効果だ。何より彼女は、彼が自分を不利な状況に陥れる人間ではないことを知っていた。

ジャンネットは怒りを身体から絞り出すように一息ついた。

ラソワはニコニコしながら「計画」を話した。

この裁判を開くことにより、ジャンネットが村で生活しにくくなる状況をつくること。それが両親に彼女がフランスに行くことを納得させる近道になること。裁判の期間中がこの地方一帯に彼女の「力」の噂を広める時間となり、ヴォークリュールの守備隊長に会うチャンスができてくることなどなど。

「親父は怒るだろうなぁ」

「いや、最初はそうでもないじゃないかな。これで娘が結婚すればいいって内心思うのでは」

「ラソワ、おまえと結婚する、てか」

ジャンネットは爆笑した。何時かの夜に見せたジャンネットの暗さが、その表情から消えていた。

“まぁその他にもジャンネットの決心を鈍らせないこと。抜き差しならない状況に追い込むこともこの計画にはあるのだけどね。本当はフランス行きを諦めて、結婚してくれれば有難いけど″

陽気に笑うジャンネットを見ながらラソワは思った。

「何か言ったか?」

彼は首を左右に大きく振った。


裁判はジャンネットが思っていたより長引いた。

もともと二人は幼馴染みであり、決して仲は悪くはない。その上証言が彼女の両親にまで及ぶに至って彼らは虚言を弄しはじめたからたまらない。どうしても真実は見えなくなる。

また告発人のラソワが調子に乗って。

「ジャンネットはボクに唇を許しました」

などと言い、ジャンネットは公判中に暴れ、混乱に次ぐ混乱だった。

「ラソワとジャンネットは幼馴染みでありましたが、それ以上の仲ではなかったと思います。例えそうであっても、彼女には結婚の意志はなく、それはラソワの一方的な思い込みであった筈です」

途中、ジャンネットの友人のオメットが理性的な証言を行うが、前後する虚言によってその証言すらも霞んでしまう。加えてトゥールまでの距離がある。ドムレミイ村から50㎞もあるこの場所に出向くと、最低2日間の滞在を必要とした。相次ぐ虚言とトゥール迄の物理的な距離の問題から、判決が言い渡されたのは1428年12月、裁判は5ヶ月にも及んだ。

最終的な判決はジャンネットの弁明によって下されたのだから笑える。法廷で彼女は言った。

「神に誓って言う。私はラソワと結婚の約束をしたこともなかったし、そのような素振りを見せたこともなかった。今回の裁判は甚だ遺憾である」

一点の曇りもない毅然とした彼女の態度が裁判官の胸を打ったのであろう。ジャンネットは無罪となった。

そうしてこの時には、ジャン、ピエール、カトリーヌの画策により、広範な地域にジャンネットが不思議な「力」を持ち、その「力」をもってフランスを救いに行くとの噂が広まっていた。下地は出来上がった。


「ジャンネット・・・行くの・・・」

女達が針仕事をしている彼女の家の大部屋で、友人のオメットはそっと尋ねた。ジャンネットは早々に仕事を放棄している。指にこれ以上傷をつけるのは沢山だと彼女は思っていた。身体を使う仕事の方が彼女の性にあっていた。

「村のみんなが言っているよ。ジャンネットは救世主だって」

オメットは仕事の手を休めてジャンネットを見詰めた。

微かに青みがかった瞳。柔らかいブロンドの短髪。薄らと頬にソバカスが浮かび、彼女の可愛さを一層強調させている。年は妹のカトリーヌよりひとつ上であるが、大人びた、それでいて落ち着いた雰囲気を彼女は持っていた。

ジャンネットはフッとラソワのことを思った。

“こんないい娘もいるのにねぇ・・・”

オメットは年少者の中でも一番針仕事がうまい。また性格は優しく、気立てのよさで言うならば彼女を結婚相手に選ぶのが本当であろう。

“あいつも物好きっていうわけだ”

ジャンネットは納屋に忍び込んできた時のラソワを思い出して吹き出した。しかし訝しく彼女を見ているオメットに気付き、手を左右に振った。

「いや、何でもない、何でもない」

「真面目に答えて。今、村じゃあ、いいえ村だけじゃあないわ。ヌーフシャトーでもヴォークリュールでもその噂で持ち切りよ」

真摯な彼女の顔を見てジャンネットは答えた。

「うん、俺は行くよ。もう村にはいられないしね」

裁判に訴えられて、彼女が村に住みにくくなったのは事実だった。更に熱狂的になっていく噂だ。出発せずにはいられなかった。

「親父はうんと言わないがね。行かなきゃみんなが迷惑する」

「でもジャンネット、あなたにそんな義務があって?」

責めるようにオメットが言う。日頃の彼女には珍しい刺の或る言葉にジャンネットはタジタジした。

「っと、義務はないけどね」

「神がそうしろと命令したの?」

オメットは怒っていた。親友の言動を気紛れ以外の何ものでもないかのように彼女は思い、ジャンネットの将来を案じての怒りだった。

「それもないね。みんなはそう思いたがっているけど」

「じゃあ何故なのよ! ジャンネット、今のあなたは不幸なの! 人間なら満たされない何かを多かれ少なかれ持っているけど、あなたが不幸のどん底にいるとは思えない」

「そうだよ」

ジャンネットはあっさりと肯定した。オメットはずっこけた。

「だったら・・・」

反論しようとするオメットをジャンネットは制した。

「オメット、聞けよ。俺はあの柏の森で―――幼い頃よく遊んだあの場所で未来を見てしまったのさ。自分のあるべき姿をね。だから行くだけだ」

「けど、見せられた未来が正しいなんて保証は何処にもないじゃない」

「ああ、保証はないよ。でもこの村に残って幸福になるって保証もない。オメット・・・俺の運命は動きはじめている。途中で投げ出すなんてできないよ」

ジャンネットは再び現状を仄めかした。そこまで言われるとオメットには返す言葉もない。彼女はジャンネットから眼を反らせた。

「人はそれぞれに自分の価値観、尺度を持っている。それによって物事の善悪を量るのさ。オメットや親父の尺度で俺の行動を理解しろとは言わない。けど・・・有難う、オメット。俺のことを心配してくれて」

ジャンネットはニッコリ笑ってオメットの頭を撫でた。

彼女は泣いていた。

「死なないでね。ジャンネット・・・どんなことがあっても生きてね」

“その保証もないけど”

しかし今度は口にせず、ジャンネットはオメットの頭を撫で続けた。


1429年1月23日、この日がジャンネットの出発の日だった。

家族のみんなが寝静まった頃を見計らって、ジャンネットは身支度をした。予定では家を出た後、伯父のデュランと落ち合いヴォークリュールに向かう。伯父との打ち合わせは出来上がっていた。この人の善い伯父は、噂に乗せられたこともあって再度ヴォークリュールにジャンネットを連れて行くことを約束したのである。

彼女は手軽にまとめた荷物を肩に庭へと出た。

冷気が彼女の頬を刺す。

空は満天の星。

月明かりがジャンネットを照らし出す。

彼女は大きく深呼吸した。

吐く息が白い。

そして不気味なほどの静寂。

ジャンネットは再び深呼吸した。懐かしい故郷の空気を、ひょっとしたら二度と味わえないそれを慈しむように。

「姉さん・・・」

突然の声に驚き、ジャンネットは振り向いた。そこにはカトリーヌ、ジャン、ピエール、そしてジャックマンがいた。

「行くのか? ジャンネット」

ヌーフシャトーから帰郷後、すっかり無口になっていたジャックマンが口を開いた。

「行くよ。止めても無駄だぜ」

ジャンネットの言葉にジャックマンは頭を振った。

「止めはしない。ジャンネット・・・ただ一言だけ言っておきたくてな」

彼は一歩前に出た。

「本当は俺が行きたかった。この気持ちだけは分って欲しい。だが俺はこの家を、親父と一緒にこの村を守らなきゃならん。だからと言って女のおまえに行かせたくはなかった。おまえには一人の女として、幸せな人生を送って貰いたかったよ」

ジャックマンはふと笑った。

「親父も同じ思いだった」

彼はジャンネットに小さな皮袋を投げた。彼女はそれを受け取った。ジャンネットの手の中で、それは鈍い音をたてた。

「親父と俺からの餞別だ。気をつけて行けよ」

ジャックマンはそれだけ言うと、家の中に姿を消した。

「・・・何だい。今まで反対ばかりしていたくせに」

ジャンネットは頬を膨らませ、乱暴に受け取った皮袋を荷物入れの中に収めた。

「親父も兄貴も大嫌いだ!」

ジャンネットが憎まれ口を叩いていた時、家の寝室でジャックも同様にはき捨てるように呟いていた。

「馬鹿が・・・本当にあの馬鹿が」

背を向けて肩を振るわせている彼の肩に優しく手をやり、ロメは子供をあやすように彼を抱きしめた。

「頑張れよ!」

「姉さんの成功を祈っているわ!」

「負けるなよ!」

ジャン、ピエール、カトリーヌの3人はジャンネットを励ました。彼女は大きく頷き言った。

「行くよ! みんな!!」

そして背を向けて駆け出した。

振り返りもせずに。

兄妹の3人は彼女の後姿に手を振り続けた


北の街道を走り、村外れのデュランと約束した合流地点に着いたジャンネットはそこに人影があるのを見つけた。伯父のデュランに違いないと彼女は声をかけた。

「伯父さん、待たせた?」

「ああ・・・少しね」

そう答えた声はデュランのものではなかった。

「ラソワ・・・」

暗闇から姿を見せたのはラソワだった。月光に照らされた穏やかな顔をジャンネットは見た。

「どうして・・・伯父さんは・・・」

意外なラソワの出現に彼女は戸惑った。

「この村に住みにくくなったのはジャンネットだけじゃあないよ。裁判からどうも周囲の非難がきつくてね。デュランはまだ寝ているだろう。ボクから出発は延びたって伝えたから。じゃあ、ジャンネット行こうか」

そう言うと彼は先に歩きはじめた。

ジャンネットは瞬時のうちに理解した。最初からラソワがこのように行動すると仕組んでいたことを。彼はジャンネットと共に村を出つもりだったのだ。彼女はそう気付くと同時に一瞬ムッとした表情を見せたが、すぐに和らいだ微笑を浮かべラソワの後頭部を殴った。


次章は6月15日公開予定です。

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