1 日常から
雨が窓を叩く音で、少女はふっと目を覚ました。
昨夜から止んでいた雨がまた降り始めたらしく、その雨脚は次第に強まっていく。少しの間物思いに耽っていた少女が顔をあげた時には、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
凝り固まった身体を伸ばしながら、少女は一人取り残された教室を見渡した。すでに18時を回っている。机の上のケータイを手に取ると、少女は枕代わりにしていた通学鞄を肩にかけ、立ち上がった。床に擦れる上履きの音を雨音に紛らせながら、教室を出て静かに戸を閉める。
少女のいる校舎に人影はない。部室棟からも、トレーニング室のある体育科の校舎からも離れているために、部員達の喧騒は欠片も届きはしなかった。ザーザーとノイズのような雨音だけが世界を包んでいて、廊下を歩く少女の眉間には皺が刻まれていく。
「蓮」
名を呼ばれ、履き替えた上履きを下駄箱に戻したところで少女は振り返った。
昇降口の雨に濡れないギリギリのところに一人の少年がいた。少女の幼馴染であるその少年は、右手に持っていた折り畳み傘を少女へと無造作に放った。
「どうせ傘持って来てないんだろう」
その言葉通り、少女は傘を持って来ていなかった。どれだけ雨が降りそうな曇り空でも、降っていないのなら差す気にもなれず、家へと置き去りにしてしまう。少女の悪い癖のようなものだ。
幼いころから気の置けない仲である二人では、そんな悪癖などとうの昔にお見通しで、今はもう、予備の傘を少年が貸し与えることも習慣となっていた。
礼を言うこともなく、少女は受け取った傘を開いて雨の中へと出ていってしまう。
濡れることもお構いなしに、足早に家路を急ぐ少女の後を少年はゆったりと歩きながらも追いかけた。追いかけて追いかけて、住まいであるアパートの前まで来てようやく少女の足が止まった。その頃には腰から下はすっかりびしょ濡れで、辛うじて守られていた荷物が濡れていないような、目も当てられない状態だったが。
そもそもこの大雨に、小さな折り畳み傘ではひ弱すぎた。
傘を畳み、水気を切って部屋への階段を上がっていく。少女が歩いた後には、小さな水たまりがコンクリートの上でいくつも出来あがっていた。
その水たまりを踏みつけながら、当然のように少年は少女が開けた部屋の中へと上がり込んだ。勝手知ったる他人の家と言わんばかりに1DKの部屋を歩きまわる。電気を点け、クローゼットの収納ケースからバスタオルを引っ張り出してくるくらいには、何がどこにあるかを把握していた。
「おら、とっとと脱げ」
1枚は玄関で突っ立ったままの少女に渡し、もう1枚で受け取った鞄に着いた水滴を軽く拭う。気だるげにバスタオルを頭から被り、制服を端から脱ぎ散らかしていく少女に、少年は呆れたように息を吐いた。それでも文句も何も言わずに淡々と脱ぎ捨てられたブレザーとスカートをハンガーに掛けていく。
最後に脱ぎ捨てられた靴下を最後に、下着姿のまま少女は浴室へと消えていった。
「ちゃんと温まれよ」
洗濯機の中に回収した服を放り入れて、少年は一言そう声をかけると今度はキッチンで湯を沸かし始めた。棚からティーポットと茶葉の入った缶を取り出す。この部屋において、インスタントの類は一つもない。コーヒーも豆が置いてあるくらいだ。
ひっくり返した砂時計の砂が流れ終わる前にと、ベッドの上に畳まれた寝巻と箪笥から取り出した下着を、浴室前に届けておく。今更下着くらいでどうとなる間柄でもなく、裸を見ても平静でいられる自信が少年にはあった。哀しいかな、少女の裸を最後に見たのはつい先週で、それは自信ではなく確信とも言える。
砂が流れ終わったのを見て、紅茶を温めておいたカップに注ぎ入れる。淡い紅色の紅茶からは、華やかな花の香りがした。
ちょうどシャワーを浴び終えた少女は、カップを受け取ると安堵したように表情を緩めた。
「熱いから気をつけろよ、猫舌」
「うん。ありがとう」
今度は素直に礼を返す少女の顔には笑みが滲んでいて、少年もどこか安堵したように肩の力を抜いた。
この部屋では定位置となっているクッションに、少年がベッドに凭れるようにして座ると、ポケットからケータイを取り出した。少女はベッドの上に座り、紅茶を飲みながら読みかけになっていた小説を読んでいる。
思い思いに過ごしながら、ゆったりとした時間が流れていく。
紅茶を飲み終えたところで、少女はキッチンへと足を向けた。カップを洗い終えると、そのまま夕食を作り始める。
小気味よく響く包丁の音。少年はケータイへと意識を向けながらもその音に耳を澄ませる。
どこか楽しげなその音に、いつしか少年は心地よい眠りへと誘われていた。
「―――よし」
部屋にある唯一のテーブルであるローテーブルに、二人分の料理が並べて満足げに少女は頷くと、眠りこけている少年を揺すり起こした。
「リュータロ、ご飯」
眠たそうに眼を擦る少年の向かい側に少女は座り、手を合わせて食事をし始める。
少年は箸を手に取りながら、握ったままのケータイを見た。
「あ、加奈子さんから電話あったみてぇ」
「加奈子さんから?」
加奈子とは少女の叔母で、保護者でもある女性だ。10年、少女を育てた親代わりでもある。
「メールも来てる…って、これお前宛ての伝言だな」
「なんて?」
箸を加えたまま少女が小首を傾げる。
メールに目を通していた少年は俄かに表情を硬くした。
「ぁ…約束通り、明日彬兄の失踪宣告の申請手続きをしてきますって」
早口に捲し立てるようにそう言うと、少女の顔から表情がストンッと抜け落ちた。ぼんやりと焦点が定まらない目をさまよわせる。
やがて、憮然とした面持ちで「そっか」と小さくひとつ頷いた。
それ以降会話もなく食事をつづけ、夜も更ける頃までまた思い思いに過ごしながらも、少年は家に帰る直前まで少女をさりげなく気遣っていた。
「じゃぁ帰るな。明日は朝からバイトだろう?お前もさっさと寝ろよ」
「うん。ありがとう」
心配性だと困ったように少女が笑う。
その笑顔に、少年は傘を2本持って家へと帰って行った。
冷蔵庫の震える音が耳に届く部屋に一人残され、少女はベッドの上で読みかけの本を開いた。
話に引き込まれるわけでもなく、淡々と文字だけを目で追う。続きものそれは全部で3巻あり、全てを読み終える頃には蛍光灯以外の明かりが窓から差し込んでいた。
まだ明けきらない空が僅かに白んでいて、朝の澄んだ空気に雨の匂いが澱んでいる。綺麗だけれど、どこか胸が痛くなる感覚に胸を抑えた。
窓から見える空に星が僅かに瞬いているのが見えて、少し早いがバイト先に行こうと思い立った。
早朝からのシフトで入れてもらっているバイト先のパン屋は、通学途中にある。
朝食はバイト先で取ればいいだろうと考えて、制服に着替える。どこか残っている雨臭さに眉を顰め、ブレザーを羽織るのをやめてカーディガンを引っ張り出した。つい先日クリーニングに出したばかりのそれは、嫌な臭いは一つもしない。
支度を整え、鞄を持って家を出る頃には、夜が本格的に明けようとしていた。
トリップものなのに未だトリップしてなくてすみません
異世界の異の字も未だ見当たらないっていう…