第2話 数千万 対 二百
聖泉の森で聖王として認められてから、すでに三月が過ぎていた。
戴冠の儀は、あの森での出来事からわずか十日後に執り行われた。摂政会議の面々は、拍子抜けするほど早く私を新王として迎え入れた。当然だろう。泉が認めた王に逆らうことは、この国に伝わる最も古い理を否定することに等しい。諸侯たちは、内心では戸惑いや不満を抱えていたとしても、表向きは誰もが恭しく頭を垂れた。
――そうして私は、キャメロットの玉座に座る者となった。
玉座に座るということが、これほどまでに孤独なことだとは、あの日の私はまだ知らなかった。
朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅くまで書類に目を通す。それは騎士見習いだった頃と、表面上はさほど変わらない生活のはずだった。
だが、決定的に違うことがひとつある。
見られている、という感覚だ。
かつては、誰も私のことなど気にも留めなかった。平凡な騎士見習いが、朝早く起きようが、人前に姿を見せまいが、誰の興味も引かなかった。
今は違う。
私の一挙手一投足に、国中の視線が集まっている。侍従は私の着替えを手伝おうとするし、寝所には常に護衛の騎士が控えている。かつてのように、誰にも見られず身体に布を巻きつける時間を確保することすら、今では細心の注意を要する仕事になっていた。
「陛下、私が身の回りのお世話をいたします」
侍従長が初めてそう申し出た時、私は反射的に、
「不要だ。私のことは、私が一番よく知っている」
と、突き放すような声で答えてしまった。侍従長は戸惑った顔をしていたが、それ以上食い下がることはなかった。あれから、私の身の回りの世話は、最低限のことしか誰にもさせないという奇妙な慣習が、いつの間にか宮廷に定着していた。
「変わり者の王」
陰でそう囁かれていることも、私は知っていた。
構わない。変わり者と思われている限り、誰も深く詮索してはこない。
そうやって、私は三月の間、綱渡りのような日々を、なんとか乗り切ってきたのだった。
その日の評定は、いつも通りに始まった。
穀物の税制についての報告、南部の灌漑事業の進捗、隣接する小領主同士の水利を巡る諍い――そうした、地味だが積み重ねが国を作るような議題が、朝から続いていた。
私は玉座から、居並ぶ諸侯たちの顔をひとつひとつ見渡しながら、彼らの言葉に耳を傾けていた。
三月前まで、私はこの広間の隅にすら立ったことのない、名もなき騎士見習いだった。それが今は、この広間の最も高い場所から、国政の全てに目を通す立場にある。
その落差に、いまだに眩暈を覚えることがある。
「――以上をもちまして、本日の議題は終了でございます」
宰相のその言葉で、私はようやく肩の力を抜きかけた。
その時だった。
広間の扉が、荒々しく開け放たれたのは。
「失礼いたします――!」
飛び込んできたのは、一人の伝令騎士だった。全身泥と血にまみれ、鎧のあちこちが破損している。彼の姿を見た瞬間、広間の空気が凍りついた。
「何事か!」
近衛の隊長が、鋭く誰何する。
伝令騎士は膝から崩れ落ちるようにその場に跪くと、震える声で報告した。
「西の……海岸線に……」
「息を整えよ。落ち着いて話すのだ」
私は玉座から立ち上がり、努めて静かな声で告げた。内心では、心臓が早鐘のように打っていた。この形相でここまで駆けてきた騎士が、良い報せを携えているはずがない。
伝令騎士は、大きく息を吸い込んだ。
「――西の海岸線に、無数の帆が現れました。数え切れぬほどの艦隊です。旗印は……ガリア帝国のものです」
広間中に、どよめきが走った。
ガリア帝国。
海の向こう、遥か大陸の大部分を支配する超大国。その版図は、ブリタニア一国など比較にもならぬほど広大だと言われている。人口も、兵力も、資源も――何もかもが、この島国とは桁違いだ。
「まさか……」
誰かが、震える声で呟いた。
「侵攻か……!」
「静粛に!」
私は声を張り上げ、動揺する広間を鎮めた。
「詳細を。艦隊の規模はどれほどか」
「は……斥候の報告によれば、確認できただけでも、千を超える艦船。乗せられている兵の数は――少なくとも、数千万を下らないかと」
その数字を聞いた瞬間、広間全体が、恐怖に呑まれるように静まり返った。
数千万。
ブリタニア全土の人口を合わせても、その数には遠く及ばない。
「あ、ありえん……そんな数、どうやって……」
「終わりだ……もう、終わりだ……」
諸侯たちが、次々と青ざめた顔で言葉を漏らし始める。誰かが椅子から崩れ落ちるように座り込む音が聞こえた。
私は、その光景を見ながら、必死に自分自身の恐怖を押し殺していた。
膝の震えを、誰にも悟られてはならない。
「――皆、静まれ」
私は、できる限り落ち着いた声で告げた。玉座の間に、ゆっくりと静寂が戻っていく。
「詳細な報告を、続けよ」
伝令騎士は、震える声を懸命に抑えながら続けた。
「艦隊は、宣戦の使者を伴っております。……その使者が、すでに王都へ向かっているとのことです」
その言葉通り、使者が到着したのは、それからわずか半刻後のことだった。
謁見の間に現れたのは、豪奢な装束を纏った、痩身の男だった。ガリア帝国の紋章を掲げ、周囲を見下すような視線で広間を睥睨している。
「――ブリタニアの新王とは、そなたか」
使者は、私に対する礼を最低限しか示さぬまま、そう切り出した。
「そうだ。私がアーサー――ブリタニアの王である」
「随分と若いことだ。しかも、聞けば聖泉とやらの気まぐれで選ばれたに過ぎぬというではないか」
使者の口元に、隠しきれない嘲りの色が浮かぶ。
「本題を話せ」
私は、感情を押し殺した声で促した。挑発に乗るつもりはなかった。だが、内心では、その一言一言に、はっきりとした怒りが灯り始めているのを感じていた。
「よかろう」
使者は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、朗々と読み上げ始めた。
「我らがガリア帝国、皇帝陛下の御名において宣す。この島、ブリタニアの地は、古よりガリアの版図に属すべき土地なり。ここに正式に、ブリタニア全土の接収を要求する」
「――なんだと」
「抵抗するならば、すればよい。我らの兵は、そなたらの国の人口を優に上回る。争いを望むならば、その全てを海に沈めるまでのこと」
使者の声には、微塵の躊躇もなかった。まるで、勝敗などとうに決しているとでも言うように。
「三日後、我らの艦隊は、リンドの海岸へ上陸する。降伏するならば、今のうちだ。命だけは助けてやろう」
謁見の間には、重い沈黙が満ちていた。
私は、震えそうになる拳を、袖の下で強く握りしめた。
(……ここで、怯んではならない)
「――帰るがいい」
私は、静かに、しかしはっきりと告げた。
「その言葉、皇帝への返答として、私自身の口から伝えよう。ブリタニアは、この地を売り渡すつもりはない。降伏はしない」
使者は、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに嘲笑うような表情に戻った。
「……愚かなことだ。まあいい。その意気地、三日後の海岸で、無残に散るがいいさ」
使者はそう言い捨てると、踵を返し、謁見の間を後にした。
彼の足音が完全に消えるまで、広間は、誰一人として言葉を発することができなかった。
使者が去った後、広間には即座に軍議の場が設けられた。
「陛下、降伏を検討すべきかと……」
震える声で、そう進言する老臣がいた。無理もない。数千万対、この島国が動員できる全兵力――どれほど掻き集めたところで、十万にも届かないだろう。桁が、そもそも違いすぎる。
「降伏すれば、我らの民は、ガリアの奴隷として扱われるだろう。それでも構わぬというのか」
私の言葉に、老臣は言葉を詰まらせた。
「し、しかし……このままでは、勝ち目など……」
「勝ち目の有無で、戦うか戦わないかを決めるつもりはない」
私は、居並ぶ諸侯たちを、ゆっくりと見渡した。
「だが、無謀に全軍を海岸に並べ、無為に命を散らせるつもりもない。……三日後、敵はリンドの海岸に上陸するという。ならば、そこで迎え撃つ」
「ですが陛下、正規軍の動員には、少なくとも半月はかかります。各地の領主から兵を集め、装備を整え……」
「わかっている。だからこそ、正規軍の到着を待っている猶予はない」
私は、心の中で、すでにひとつの結論に達していた。
「王直属の近衛騎士団――今この場で動かせる、最も精鋭の者たちを率いて、私自身が先陣を切る」
広間が、再びどよめいた。
「へ、陛下自らが……!? なりません、そのような危険は……」
「他に、誰がやる」
私は、静かに、だが有無を言わさぬ声で言い切った。
「聖泉が私を選んだのは、こういう時のためではないのか。玉座に座って震えているだけの王など、誰も望んではいないはずだ」
その言葉に、諸侯たちは、次々と言葉を失っていった。
近衛騎士団――王都に常に控える、選りすぐりの精鋭たちの数は、総勢でもおよそ二百に届くかどうか。
数千万に対して、二百。
数字だけを見れば、話にすらならない。それでも、正規軍の到着を待つ半月の間に、敵はブリタニアの半分を蹂躙し尽くしてしまうだろう。
ならば、今動かせる者たちで、時間を稼ぐしかない。
それが、この状況下で私に出せる、精一杯の答えだった。
軍議が一段落した頃、謁見の間の扉が、再び大きな音を立てて開いた。
今度は、伝令ではなかった。
戸口に現れたのは、見上げるほどの巨躯を持つ、一人の男だった。
歳の頃は、二十代後半といったところだろうか。日に焼けた肌、岩のように隆起した筋肉、そして背には、私の背丈ほどもある、巨大な剣が背負われている。
広間中の視線が、一斉にその男へと注がれた。
「――ガヴェイン卿!」
誰かが、驚いたように声を上げた。
「戻られたのか、山籠もりから!」
男――ガヴェインは、周囲のどよめきなど気にも留めぬ様子で、真っ直ぐに玉座へと歩み寄ってくる。その足音だけで、床が軋むような錯覚すら覚えた。
「……お前が、新しい王か」
ガヴェインは、私の前まで来ると、値踏みするような視線を向けてきた。
「そうだ。アーサーという」
「聞いている。聖泉に選ばれた、平凡な騎士だったそうだな」
その言葉には、悪意はなかった。ただ、率直な確認の響きだけがあった。
「ガリア帝国が攻めてくると聞いた」
「――どこでそれを」
「山を降りる道すがら、噂で聞いた。それで急いで戻ってきた」
ガヴェインは、そう言うと、背負った巨大な剣――ガラティーンを、軽々と地面に突き立てた。
「俺は、ガヴェイン。この国の古参の騎士だ。長らく山に籠もっていたのには理由がある。この剣――ガラティーンを、完全に己のものにするためだ」
「その剣が、聖剣ガラティーンか」
「そうだ。太陽の力を宿す剣。昼間であれば、俺はこの国の誰よりも強い」
ガヴェインは、静かに、しかし確信に満ちた声で続けた。
「陛下。俺を、その二百の中に加えてくれ。この剣の力、存分に振るってみせる」
その申し出に、私は迷うことなく頷いた。
「願ってもないことだ。だが、ひとつ聞かせてくれ。……ガラティーンは、太陽の力を宿す剣なのだろう。ならば、夜はどうなる」
ガヴェインの表情に、一瞬、影がよぎった。
「……夜は、弱くなる。蓄えた力を使えば戦えるが、昼のようにはいかない。それが、この剣の――そして、俺の弱点だ」
正直にそう答えた彼の姿勢に、私は好感を抱いた。都合の悪いことを隠さず、率直に告げる。それは、共に戦う者として、何より信頼に値する態度だった。
「わかった。夜の戦は、その弱点を踏まえて策を立てよう。……頼りにしている、ガヴェイン卿」
「――『卿』はいらん。ただのガヴェインでいい」
ガヴェインは、そう言うと、初めて僅かに口元を緩めた。
「陛下のことも、聞いていた以上の人物のようだ。……悪くない。この国は、まだ望みがあるかもしれん」
その日の夕刻、私は執務室で、山積みの兵站書類と向き合っていた。
二百の兵をどう動かすか。武具の手配、食料の補給、リンドの海岸までの行軍にかかる日数――考えなければならないことが、山のようにあった。
「――失礼するよ、陛下」
軽い調子の声と共に、扉が開いた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。
「……ランスロット」
思わず、口元が緩みそうになるのを、私は懸命に抑え込んだ。
ランスロットは、騎士団に入った頃から、私を見守り続けてくれた先輩騎士だ。あの頃の私は、まだ十七か十八の、平凡な見習いに過ぎなかった。剣も未熟で、体力もなく、何度も稽古で地面に転がされた。
そのたびに、ランスロットは笑いながら手を差し伸べてくれた。
「才能がないなら、才能がない分だけ、工夫すればいい。俺なんて、最初はもっと酷かったぞ」
そんな、慰めにもならない慰めを、彼はいつも笑いながら言っていた。それでも、その言葉に、何度救われたかわからない。
今では、その距離が、少しだけ遠くなってしまった。
「陛下、と呼ばれるのは、まだ慣れないか?」
からかうような口調で言うランスロットに、私は思わず苦笑した。
「……お前にまで『陛下』と呼ばれると、さすがに落ち着かない」
「なら、二人きりの時くらいは、昔のままでいいさ。……アーサー」
その呼び方に、胸の奥が、小さく跳ねるのを感じた。
十七の頃からずっと、私はこの男に、憧れに似た想いを抱き続けている。
強く、揺るぎなく、それでいて誰よりも優しい。剣の腕は騎士団随一でありながら、決して驕らず、弱い者にこそ手を差し伸べる。
そんな彼の隣に、いつか対等な立場で立てるようになりたい――そう思って、必死に剣を振ってきた日々を、私はまだ覚えている。
まさか、こんな形で「対等以上」の立場になってしまうとは、あの頃の私は想像もしていなかったけれど。
「聞いたぞ、ガリア帝国のこと。……お前自ら、先陣を切るつもりなんだって?」
ランスロットの声から、からかいの色が消えていた。
「他に、選択肢がない」
「無茶なのは、わかってるのか?」
「わかっている。……それでも、やらなければならない」
私の言葉に、ランスロットは、しばらく黙って私を見つめていた。
その視線に、どこか懐かしいものを感じる。かつて、稽古で何度も転ばされた私を、じっと見つめていた、あの時と同じ目だ。
「――なら、俺も行く」
「ランスロット……」
「当然だろう。お前を一人で行かせるくらいなら、俺の剣の腕は何のためにあるんだ」
彼は、腰に佩いた剣――アロンダイトの柄に、軽く手を触れた。
「この剣にはな、大した力なんてないんだ。エクスカリバーやガラティーンみたいな、特別な加護はない。ただの、よくできた剣だ」
「……それでも、お前は『最強の騎士』と呼ばれている」
「剣の力じゃない。俺自身の力だ。……昔、この剣をくれた鍛冶師に言われたことがある。『あんたなら、この剣を余計な力に頼らず、使いこなせるはずだ』ってな」
ランスロットは、懐かしむような目で、剣を見つめた。
「変わった女だったよ。名前も名乗らなかった。今頃どこで何をしているのか――まあ、それはどうでもいい話だ」
私は、その話を聞きながら、ふと、自分の腰にあるカリバーンのことを思い出していた。
私にも、エクター卿という、信念を託してくれた人がいた。
きっと、ランスロットにとってのその鍛冶師も、彼にとって大切な原点のひとつなのだろう。
「……ありがとう、ランスロット」
「礼を言われるようなことじゃない。俺は、俺のやりたいようにやるだけだ」
ランスロットは、そう言って笑った。
その笑顔を見ていると、どれほど絶望的な状況であっても、まだ大丈夫だと、根拠もなく信じられそうな気がしてくる。
そんな自分の単純さに、私は内心、小さく苦笑した。
出立の前夜、私は兵舎の一角で、意外な人物と再会した。
「――ケイ」
声をかけると、荷物の点検をしていた男が、弾かれたように振り返った。
「へ、陛下……!?」
慌てて片膝をつこうとするケイを、私は手で制した。
「よせ。今は、二人きりだ」
「し、しかし……」
「頼むから、いつも通りにしてくれ。……でなければ、私の方が落ち着かない」
私の言葉に、ケイは戸惑いながらも、ゆっくりと膝を上げた。
「……お前、正規軍の召集にかかったのか」
「ああ。まさか、こんな大事になるとはな。俺は近衛じゃないから、二百の中には入らねえけど……後詰めの兵として、俺たちもリンドへ向かうことになった」
ケイは、複雑そうな表情を浮かべていた。
三月前まで、私たちは同じ立場だった。共に木剣を打ち合い、共に汗を流し、共に他愛のない軽口を叩き合っていた。
その距離が、今はどうしようもなく遠い。
「……なあ、アーサー」
ケイは、久しぶりに、その呼び方で私を呼んだ。
「聖王だとか、陛下だとか、そういうのは今だけ忘れていいか」
「ああ。今だけは」
「正直、まだ信じられねえんだよ。お前が、俺の知ってるあの平凡な見習いが、聖王だなんてよ。……でもな」
ケイは、少し照れくさそうに、頭を掻いた。
「お前が本気で剣を振ってる姿、俺は誰よりも近くで見てきた。才能がないなりに、諦めずに、毎朝毎朝、剣を振り続けてたお前を。……だから、俺は信じてるぜ。お前が選ばれたのには、ちゃんと理由があるんだって」
その言葉に、胸の奥が、じんと熱くなった。
「……ありがとう、ケイ」
「礼はいらねえよ。それより、お前は前線で戦うんだろ。俺は後方支援だ。……無事に帰ってこいよ。約束だぞ」
「ああ、約束する」
私は、そう答えながら、心の中で、密かに誓いを立て直していた。
ケイにも、エクター卿にも、そしてこの国の全ての民にも――恥じない王でありたい、と。
三日後の払暁、リンドの海岸には、想像を絶する光景が広がっていた。
水平線を、隙間なく埋め尽くす、無数の帆。
沖合には、これまで一度も見たことのないほど巨大な艦隊が、まるで黒い城壁のように連なっている。上陸を始めた兵の数は、すでに岸辺を埋め尽くし、それでもなお、後方からは絶え間なく新手が押し寄せてくる。
「……これが、数千万か」
隣に立つガヴェインが、低く呟いた。その声にも、僅かな緊張が滲んでいる。
対する私たちは、わずか二百。
騎乗した精鋭たちが、丘の上に隊列を組んでいる。誰もが、押し寄せる敵の物量を前に、顔を強張らせていた。
私は、鞍上から、その光景を見渡した。
恐怖が、腹の底から込み上げてくる。逃げ出したい、という衝動すら、正直に言えば感じていた。
だが。
(……ここで退けば、この国は終わる)
私は、腰のカリバーンに――否、あの日、聖泉で顕現した聖剣エクスカリバーに、そっと手を添えた。
刃越しに伝わる温かさが、震えそうになる手を、静かに支えてくれる。
「聞け、我が同胞たちよ!」
私は、鞍上に立ち上がり、二百の兵に向かって声を張り上げた。
「敵は、数だけを見れば、途方もなく多い。だが、数がすべてを決めるわけではない! この国には、この国を守ろうとする、確かな意志がある!」
私の声に、兵たちが、僅かに姿勢を正すのがわかった。
「私は、三月前まで、お前たちと同じ、何の才もない一人の騎士だった! それでも、この国のために戦うと決めた! 皆もまた、それぞれの理由があって、この場に立っているはずだ!」
「私は――いや、私たちは、この地を守るために、ここにいる! 恐れるな! 我らの後ろには、守るべき家族が、友が、故郷がある! その想いこそが、我らの力だ!」
しばしの静寂の後、丘の上に、地鳴りのような雄叫びが上がった。
「聖王万歳!」
「ブリタニアに栄光あれ!」
二百人分とは思えぬほどの気迫が、丘全体を震わせる。
私は、その声を背に受けながら、静かにエクスカリバーを抜き放った。
朝日を受けて、刃が眩く煌めく。
「――突撃!」
その号令と共に、私たちは、数千万の大軍へと、たった二百の身で突き進んでいった。
戦いは、想像を絶する激しさだった。
数の上では、比較にすらならない。だが、ガリア帝国の兵の多くは、寄せ集めの徴募兵に過ぎなかった。対して、こちらの二百は、いずれも選りすぐりの精鋭。一騎当千という言葉が、決して大げさではないほどの力の差が、そこにはあった。
それでも、数の暴力というものは、恐ろしい。
一人を倒せば、二人が代わりに押し寄せる。二人を倒せば、四人が。
戦線は、じわじわと押し込まれ始めていた。
「――陛下、後ろに!」
近衛の一人が叫ぶ声に、私は反射的に剣を振るった。エクスカリバーの刃が、迫りくる敵兵の武器を、まるで枯れ枝のように弾き飛ばす。
不思議な感覚だった。
これまで、剣を振るうたびに感じていた、力の不足。技術で補おうとしても、どうしても埋まらなかった差。
それが、今は嘘のように消えている。
刃が触れるたびに、まるで最初からそうであったかのように、敵の武器を、鎧を、次々と切り裂いていく。
これが、聖剣の力なのか。それとも、聖泉が私の中に呼び覚ました、何か別の力なのか。
考える余裕は、なかった。
「――陽輝刃!」
轟く声と共に、戦場の一角が、まばゆい光に包まれた。
ガヴェインだった。
巨大なガラティーンから溢れ出す、太陽そのもののような光。その刃が一薙ぎされるたびに、敵兵の一団が、まとめて吹き飛ばされていく。
「はっはっは! いいぞ、まだまだ行けるぞ!」
豪快な笑い声を上げながら、ガヴェインは敵陣の中央へと、まるで嵐のように突き進んでいく。彼の周囲だけ、まるで別の戦場であるかのように、敵兵がなぎ倒されていった。
その反対側では、ランスロットが、まるで舞うような剣捌きで、次々と敵兵を斬り伏せていた。
無駄のない動き。ただの一撃も、ただの一歩も、無意味なものがない。アロンダイトの刃が閃くたびに、確実に、一人ずつ敵の脅威が消えていく。
派手さはない。それでも、その正確さと安定感は、戦場において何よりも心強い支えだった。
「アーサー、右だ!」
ランスロットの声に、私は反射的に身を捻った。背後から迫っていた敵兵の一撃を、間一髪で躱す。
「……油断するな。お前はまだ、この力に慣れていない」
「わかっている……!」
私は、剣を握り直しながら、頷いた。
三月前まで、平凡な騎士見習いだった。剣を振るう度胸すら、本当は今も、完全には消えていない。
それでも――守りたいものがある限り、この足は止められない。
戦いは、日が高く昇るまで続いた。
ガヴェインの陽輝刃は、太陽が高くなるにつれ、さらに力を増していく。彼の周囲では、敵兵がまともに近づくことすらできなくなっていた。
ランスロットは、疲労の色を一切見せぬまま、淡々と、しかし確実に、目の前の敵を一人また一人と減らし続けていた。
そして私自身も、次第に、この新しい力の使い方を、身体で覚え始めていた。
それでも――数の差は、圧倒的だった。
「陛下、後方の部隊が、包囲されかけています!」
伝令の声に、私は歯を食いしばった。
いくら一騎当千の精鋭とはいえ、たった二百の身では、あらゆる方向からの猛攻を、いつまでも凌ぎ切れるものではない。
(……このままでは)
焦りが、胸の奥で膨らみ始めた、その時だった。
「――アーサー! 中央を抜くぞ!」
ランスロットの声が、戦場に響いた。
「奴らの指揮系統は、中央の一点に集中している! そこを叩けば、統率が乱れる!」
「……わかった! ガヴェイン、援護を!」
「おう、任せろ!」
三人――いや、私たちを守ろうとする多くの騎士たちの力を合わせ、私たちは敵陣の中央目掛けて、一気に突き進んだ。
敵の指揮官らしき鎧の男が、驚愕の表情でこちらを見た瞬間。
私は、全身の力を剣に込め、その一撃を放った。
エクスカリバーの刃が、朝日を受けて、まるで太陽そのもののように輝く。
その一閃が、敵の指揮官の武具ごと、彼を斬り伏せた。
指揮官が倒れた瞬間、これまで整然と押し寄せていた敵陣に、明らかな動揺が走った。
統率を失った大軍は、烏合の衆へと変わり果てる。
「――今だ! 一気に押し返せ!」
私の号令と共に、二百の精鋭たちが、その一瞬の隙を逃さず、猛然と反撃に転じた。
日が傾き始める頃には、勝敗の趨勢は、はっきりとしていた。
指揮系統を失い、統率の乱れたガリア帝国の大軍は、次第に後退を始めていた。数の暴力は、指揮する者を失えば、それ以上の脅威にはなり得ない。
艦隊へと撤退していく敵兵の背を見ながら、私は、ようやく肩の力を抜いた。
「……勝った、のか」
呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「ああ。少なくとも、今日のところはな」
隣に立つランスロットが、静かに答えた。
「奴らも、次はもっと本腰を入れてくるだろう。今回は、俺たちの数を甘く見ていたんだろうさ」
「そうだな……」
私は、戦場に横たわる、無数の骸を見渡した。敵の骸も、味方の骸も、そこには等しく横たわっている。
勝利は、勝利だった。
だが、決して手放しで喜べるものではない。
「陛下……! ご無事で何よりです!」
駆け寄ってきた近衛の一人が、深々と頭を下げた。
「怪我人の手当てを、最優先で行え。動ける者は、負傷者の搬送を手伝え」
「はっ!」
私は、努めて冷静な声で指示を出しながら、内心では、まだ震え続ける心を、必死に抑え込んでいた。
これが、王として戦うということなのだ。
守れた命がある一方で、守れなかった命もある。その全てを、これから背負っていかなければならない。
「はっはっは! 見たか、皆の衆! これが我らが聖王の力よ!」
離れた場所から、ガヴェインの豪快な笑い声が聞こえてきた。彼の周りに、生き残った兵たちが集まり、興奮した様子で今日の戦いを語り合っている。
その光景を見ながら、私は、小さく息を吐いた。
その夜、簡易的に設営された陣営の中で、私はようやく一人になる時間を得た。
天幕の外からは、まだ興奮冷めやらぬ兵たちの声が聞こえてくる。今日の勝利を祝う声、無事を喜び合う声、そして――失った戦友を悼む、静かな嗚咽。
その全てが、混じり合いながら、夜の闇に溶けていく。
「――入ってもいいか」
声と共に、天幕の入り口が開いた。ランスロットだった。
「……ああ」
私は、小さく頷いた。
ランスロットは、私の隣に、無言のまま腰を下ろした。しばらくの間、二人の間には、ただ静かな沈黙だけが流れていた。
「……お前、今日、よくやったな」
やがて、ランスロットがそう口を開いた。
「三月前まで、平凡な騎士見習いだったお前が、数千万の軍勢相手に、あれだけの指揮を執った。大したもんだ」
「……怖かった」
私は、思わず、本音を漏らしていた。
「今でも、怖い。……多くの兵を、死地に送り込んだ。守れなかった命もある。それでも、これが正しい選択だったと、まだ確信が持てずにいる」
ランスロットは、しばらく黙って、私の言葉を聞いていた。
「――それでいいんだと思うぞ」
「……え?」
「怖くない王なんて、俺は信用しない。人の命を背負うことに、何も感じなくなった時こそ、王としては終わりだ」
ランスロットは、静かに、私の方を見た。
「お前は、今日、確かに多くの命を救った。同時に、救えなかった命があることも、忘れていない。……それでいいんだよ、アーサー」
その言葉に、張り詰めていた何かが、ふっと緩むのを感じた。
「……ありがとう」
「礼はいらないって、言っただろ」
ランスロットは、そう言って、いつものように笑った。
その笑顔を見ながら、私は、密かに込み上げてくる想いを、必死に押し殺していた。
この人の隣に、これからも立っていたい。
王としてではなく、ただの一人の人間として。
けれど、その想いを言葉にすることは、決してできない。
私は王で、そして――誰にも知られてはならない秘密を抱えた、女なのだから。
「……明日からも、頼む」
「当たり前だろう。俺は、お前の剣であり続けると決めている」
その言葉を胸に刻みながら、私は、天幕の外に広がる、静かな夜空を見上げた。
星々が、いつもと変わらず、静かに輝いている。
明日もまた、戦いは続くだろう。ガリア帝国は、決してこれで諦めはしない。
それでも――この国を、この人々を、守り抜く。
その決意だけを胸に、私は、ようやく訪れた短い眠りの中へと、身を委ねていった。
翌朝。
撤退したガリア帝国の艦隊が、再び水平線に姿を現すことはなかった。
斥候の報告によれば、艦隊は大きく損害を受けた本国へと、いったん引き返したという。
「……終わった、のか?」
誰かが、疑わしげに呟いた。
「いや」
私は、静かに首を振った。
「これは、終わりじゃない。始まりだ。……奴らは、必ずまた来る。次はもっと、周到な準備を整えて」
その言葉に、周囲の空気が、再び引き締まるのがわかった。
「だが、今は、この勝利を喜んでいい。……私たちは、たった二百の身で、数千万の大軍を退けた。この事実は、これから先、私たちの支えになるはずだ」
私の言葉に、生き残った兵たちが、次々と歓声を上げた。
その声を聞きながら、私は、腰のエクスカリバーに、そっと手を添えた。
聖泉が私に与えたこの力は、確かに、多くの命を救った。
だが同時に、この力は、これから先、さらに大きな責務を私に課していくのだろう。
数千万の敵を退けたとしても、戦いはまだ、始まったばかりに過ぎない。
そしてこの勝利の裏で、静かに、しかし確実に、新たな歪みが生まれ始めていることに――この時の私は、まだ、気づいていなかった。
海の向こうから、そしてこの国の内側からも、少しずつ、物語は動き出そうとしていた。
リンドの海岸での初戦から、五日が過ぎていた。
あの日の勝利は、決して手放しで喜べるものではなかった。だが、少なくとも私たちに、束の間の猶予を与えてくれたことは確かだった。
その五日の間に、陣営の様相は大きく変わっていた。
急ごしらえだった天幕は、より頑丈な野戦陣地へと組み替えられ、周囲には堀と柵が巡らされている。負傷者のための治療小屋も整備され、後方からは絶え間なく物資を運ぶ荷馬車の列が到着していた。
「――陛下、糧食と矢の補充が完了しました」
兵站を任せている老将が、私のもとに報告に来る。五日前とは比べ物にならないほど、彼の表情には余裕があった。
「ご苦労。……本隊の到着は」
「はい。あと半刻もすれば、王都から発った騎士団本隊が到着する見込みです」
私は、小さく頷いた。
あの初戦の時とは違う。今度は、時間をかけて整えた、しっかりとした後方支援がある。半月かかるはずだった正規軍の動員も、ぎりぎりのところで間に合った形だった。
それでも――私の胸には、拭いきれない不安が渦巻いていた。
斥候からの報告によれば、海の向こうから戻ってくる艦隊は、先日撤退したものよりも遥かに巨大だという。
そして何より、その旗印が、以前とは明らかに違っていた。
「――陛下、失礼します」
天幕の外から、聞き慣れた声がした。ランスロットだった。
「入ってくれ」
「斥候から、詳しい報告が届いた。……見ておいた方がいい」
ランスロットの表情は、いつもの軽さを潜めていた。私は、手渡された報告書に、素早く目を通す。
読み進めるうちに、指先が、自然と冷たくなっていくのを感じた。
「……これは」
「ああ。先日の連中とは、明らかに質が違う」
ランスロットは、地図の上に、報告書に記された敵の布陣を示しながら言った。
「先日撤退したのは、帝国が寄せ集めた徴募兵と、属州から徴発した兵たちだった。数だけは多いが、統率も練度も、大したことはなかった。だからこそ、指揮官を落とすだけで崩せた」
「……だが、今度は違う、と」
「今回の艦隊に乗っているのは、帝国の正規軍――それも、皇帝直属の近衛騎士団だ。旗印にある紋章、これは間違いない」
私は、報告書に描かれた紋章――交差する双剣を象った意匠を、じっと見つめた。
「先日の戦は、いわば小手調べだったということか」
「そう考えるべきだろうな。俺たちの力量を測るための捨て駒だった、とも言える」
その可能性に、私は奥歯を噛み締めた。
数千万の兵の一部を、単なる「様子見」のために投入する。それができるということ自体が、ガリア帝国という国の規模を、何より雄弁に物語っていた。
「今回率いているのは、ガリア帝国軍総大将、アウレリウス。……大陸中にその名を轟かせる、無敗の将軍だそうだ」
「無敗、か」
「伊達や酔狂で、そんな異名がつくわけじゃない。今度の相手は、これまでとは覚悟を変えなければならない」
私は、静かに頷いた。
恐怖が、また腹の底から込み上げてくる。だが、それを表に出すわけにはいかない。
「――ガヴェインを呼べ。作戦を練り直す」
半刻後、王都から発した騎士団本隊が、ついに戦場へと到着した。
土煙を上げながら進軍してくる隊列は、五日前の私たちとは比べ物にならないほどの規模を誇っていた。歩兵、弓兵、そして騎馬隊――数こそ帝国軍には遠く及ばないが、この国が動員できる、ほぼ全ての力がそこにあった。
その先頭に、見覚えのある顔があった。
「――アーサー! いや、陛下!」
大きく手を振りながら駆け寄ってきたのは、ケイだった。慌てて言い直したその様子に、私は思わず頬を緩めた。
「無事だったか、ケイ」
「当たり前だ、俺を誰だと思ってる。……それより、聞いたぞ。お前が先陣切って、あの数千万を退けたって話。本当かよ」
「大げさに伝わっているようだな。実際には、退けたというより、時間を稼いだに過ぎない」
「それでも十分すぎる戦果だろ、まったく……」
ケイは、そう言いながら、周囲を見渡した。負傷者の姿、破損した装備の山、そして何より、戦の生々しい爪痕が残る大地。彼の顔から、少しずつ軽口の色が消えていく。
「……本当に、大変な戦いだったんだな」
「ああ。……だが、これからが本番だ。今度来るのは、先日の比ではない」
私は、ケイに、アウレリウス率いる帝国正規軍の情報を、簡潔に伝えた。聞き終えたケイの表情が、次第に強張っていく。
「……俺たちの本隊も、そんな連中と戦うことになるのか」
「そうだ。だが、今度は一人ではない。お前たちが来てくれた。それだけで、心強い」
私の言葉に、ケイは、覚悟を決めたように頷いた。
「……わかった。俺は俺で、できることをやる」
「頼む」
その短いやり取りの中に、かつての対等な友としての繋がりと、今の私たちの立場の違いとが、複雑に入り混じっているのを感じた。
それでも――この国を守りたいという想いだけは、変わらず、私たちの間に共通していた。
夜を徹して行われた軍議の末、私たちの戦略はひとつにまとまった。
本隊到着によって増えた兵力は、二百から、およそ三百五十ほどにまで膨れ上がっていた。帝国軍の規模を考えれば、依然として絶望的な差ではある。それでも、五日前よりは、はるかにましだった。
「今回の敵は、統率された正規軍だ。先日のように、指揮官を落とせば崩れるという単純な相手ではない」
私は、地図を前に、集まった将たちへ語りかけた。
「だからこそ、私たちは、地の利を活かす。……この丘陵地帯を利用し、敵の数の優位を最大限に削ぐ」
ガヴェインが、腕を組みながら頷いた。
「なるほどな。狭い地形なら、数を活かしきれない。……それに、日中であれば、俺のガラティーンが最大限に力を発揮できる」
「ああ、頼りにしている。ランスロットは、遊撃として戦線を自由に動いてくれ。崩れかけた場所への増援を任せる」
「了解だ」
「ケイ――お前たちの本隊は、後方の防衛と、負傷者の後送を頼む。無理な突出は禁じる」
「わかってる。命令には従うさ」
一つ一つ、役割を確認していく。誰の顔にも、緊張と、それでも折れることのない意志が浮かんでいた。
「――そして」
私は、一拍置いてから、続けた。
「もし戦況が膠着し、これ以上の犠牲を防ぐ機会があるならば……私自身が、敵の総大将と一騎打ちに応じることも、選択肢に入れておく」
その言葉に、天幕の中が、一瞬にしてざわめいた。
「な――正気ですか、陛下!」
「そのような危険は、なりません!」
「わかっている。あくまで、最後の手段だ」
私は、努めて冷静な声で続けた。
「だが、数千万の民の命と、私一人の命を天秤にかけるならば――迷う余地はない」
その場にいた誰もが、言葉を失っていた。
ランスロットだけが、じっと私を見つめたまま、何も言わなかった。その視線の中に、賛成でも反対でもない、複雑な感情が滲んでいるのがわかった。
翌朝、水平線を埋め尽くすようにして、帝国の第二陣が姿を現した。
先日の艦隊とは、明らかに様相が違っていた。乱雑に押し寄せた寄せ集めの軍勢とは違い、整然と並んだ隊列は、まるで一つの巨大な生き物のように統率が取れている。
上陸を終えた兵たちは、迷いなく、正確な陣形を組んでいく。鎧の輝きも、槍の穂先の揃い方も、先日の兵たちとは比較にならないほど洗練されていた。
その最前列、ひときわ大きな軍馬に跨がる一人の男が、悠然と姿を現した。
漆黒の甲冑を纏い、兜の下から覗く瞳には、隠しきれない自信と、獲物を見るような鋭さが宿っている。
「――あれが、アウレリウスか」
私の呟きに、隣に立つガヴェインが、低く応じた。
「見るからに、ただ者じゃなさそうだな」
アウレリウスは、私たちの陣を一瞥すると、遠く離れているにもかかわらず、はっきりと通る声で告げた。
「――ほう。聞いていたよりも、随分と小勢だな。これで、我が帝国の先鋒を退けたというのか」
「そちらこそ、随分と余裕そうだな。数の力に頼らねば戦えぬ将なのかと思っていたが」
私は、負けじと声を張り上げた。
アウレリウスの口元に、皮肉げな笑みが浮かぶ。
「面白い。……若き聖王とやら、その減らず口、戦場でも保てるか見ものだ」
「――かかれ!」
その号令と共に、帝国の正規軍が、一斉に進軍を開始した。
戦いは、これまでとは全く異なる様相を呈していた。
一人一人の練度が、以前の敵とは比較にならない。剣を交えるたびに、こちらの騎士たちも、決して楽には勝てない相手だと、身をもって思い知らされていた。
「くっ――!」
近衛の一人が、鋭い突きを受けて膝をつく。すかさず駆けつけたランスロットが、その敵を一瞬で斬り伏せた。
「歯を食いしばれ! 相手は本物の兵だ、油断すれば命はないぞ!」
ランスロットの声が、戦場に響き渡る。
丘陵地帯という地の利のおかげで、敵は思うように数を活かせずにいた。それでも、押し寄せる正規軍の圧力は、凄まじいものがあった。
「陽輝刃!」
ガヴェインの咆哮と共に、巨大な光の斬撃が、敵陣の一角を薙ぎ払う。太陽が中天に近づくにつれ、その威力は、ますます増していた。
「はっはっは! 数を活かせぬなら、まとめて薙ぎ払うまでよ!」
豪快に笑いながら、ガヴェインは敵陣の奥深くへと切り込んでいく。彼の周囲だけは、まるで嵐が吹き荒れる戦場のようだった。
後方では、ケイ率いる本隊が、しっかりと防衛線を維持していた。
「怯むな! 押し返せ!」
ケイの声が、後詰めの兵たちを鼓舞する。かつて共に稽古していた頃と変わらない、まっすぐな声だった。負傷者は次々と後方へ運ばれ、治療を受けた者は、再び戦線へと戻っていく。
――五日前とは、明らかに違う。
しっかりとした後方の支えがあるからこそ、前線の私たちは、思う存分に戦うことができる。
その事実が、私の胸に、確かな熱を灯していた。
だが、戦況は、決して楽観できるものではなかった。
日が高くなるにつれ、じりじりと押し込まれる場面が増えていく。正規軍の練度は、こちらの想定を上回っていた。
「――陛下! 中央が崩されかけています!」
伝令の声に、私は即座に馬首を巡らせた。
戦場の中央、そこには――一人の男が、まるで嵐のように敵味方入り乱れる戦線を切り裂いていた。
アウレリウスだった。
彼が剣を一振りするたびに、こちらの精鋭が、次々と倒れていく。その動きに、無駄は一切なかった。まるで、戦うために生まれてきたかのような、完成された剣技だった。
「――ここは、私が」
私は、エクスカリバーを構え直し、アウレリウスへと馬を進めた。
「アーサー、待て――!」
ランスロットの制止の声が、背後から聞こえた。だが、今、彼を止められるのは私しかいない。そう確信していた。
アウレリウスは、私が近づいてくるのに気づくと、口元に薄い笑みを浮かべた。
「――来たか、若き聖王」
「これ以上、双方の兵を無為に死なせるつもりはない」
私は、彼の目を真っ直ぐに見据えて告げた。
「――アウレリウス。私と、一騎打ちで決着をつけようではないか。私が敗れれば、ブリタニアはこの侵攻を受け入れよう。だが、貴様が敗れれば――即刻、この地から兵を退け」
周囲の兵たちに、動揺が走った。だが、私は構わず続けた。
「これ以上、罪のない兵たちの血を流させたくはない。……貴様に、その覚悟はあるか」
アウレリウスは、しばらく私を見つめた後、豪快に笑い声を上げた。
「――良かろう。面白い申し出だ。全軍、動きを止めよ! 我が主と、この島の王との、一騎打ちにて決する!」
その号令に、帝国軍の兵たちが、次々と武器を下げていく。こちら側も、ガヴェインとランスロットの制止によって、戦いの手を止めた。
戦場に、束の間の、異様な静寂が訪れた。
「……いいのか、本当に」
私の傍らに寄ってきたランスロットが、小さく問いかけた。
「勝算は」
「わからない。それでも、やらなければならない」
「――俺が代わりに立つという選択肢はないのか」
「ない。この戦、この国の命運を懸けた戦いに、王である私以外の誰かを立たせるわけにはいかない」
ランスロットは、しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった。だが、少しでも危ういと見たら、俺は迷わず割って入る。それだけは、譲れない」
「――ああ、その時は頼む」
その短いやり取りに、これまで積み重ねてきた信頼の全てが、詰まっているような気がした。
私は、エクスカリバーを握り直し、戦場の中央へと進み出た。
対するアウレリウスも、悠然と馬を降り、剣を構える。
「――小娘が、大層な啖呵を切ったものだ」
その言葉に、私は、一瞬だけ心臓が跳ねた。まさか、見抜かれているのか――そんな疑念が過ぎる。
だが、すぐにそれが、単なる侮蔑の言葉に過ぎないと気づいた。若く、経験の浅い王を指しての「小娘」という言葉。それ以上の意味はない。
「――減らず口も、そこまでにしておけ」
私は、内心の動揺を押し殺しながら、剣を構えた。
「かかってこい、アウレリウス」
「……ふん。上等だ」
両者、同時に地を蹴った。
剣戟の音が、戦場に響き渡る。
アウレリウスの剣技は、これまで相対してきたどの敵とも異なっていた。無駄がなく、正確で、それでいて、こちらの隙を的確に突いてくる。
「くっ――!」
一撃を受け止めるたびに、腕の骨が軋むような衝撃が走る。決して力任せの剣ではない。長年の実戦で磨き上げられた、恐ろしく洗練された技だった。
「その程度か、聖剣を持つ王とやらは」
「まだ、これからだ……!」
私は、歯を食いしばりながら、剣を振るい続けた。
エクスカリバーの力を借りても、経験の差は、簡単には埋まらない。何度も、致命的な一撃を紙一重で躱す。
やがて、その差が、決定的な形となって現れた。
「――遅い」
アウレリウスの剣が、私の脇腹を深く抉った。
「――ぐっ……!」
激しい痛みと共に、視界が一瞬、白く染まる。鎧の下から、熱い血が溢れ出す感覚がはっきりとわかった。
「陛下――!」
遠くから、悲鳴のような声が聞こえた。
膝が、崩れ落ちそうになる。
(……ここで、倒れるわけにはいかない)
痛みに耐えながら、私は、なんとかその場に踏みとどまった。
脳裏に、これまでの記憶が、次々と浮かんでは消えていく。
エクター卿の教え。ケイと過ごした稽古の日々。ランスロットに憧れた、あの頃の想い。そして――聖泉で誓った、あの決意。
誰かの隣に、胸を張って立っていられる自分でありたい。
その誓いを、こんなところで裏切るわけにはいかない。
「……まだだ」
私は、震える足に、渾身の力を込めた。
「まだ、終わっていない……!」
アウレリウスの目に、初めて、僅かな驚きの色が浮かんだ。
致命傷に近い一撃を受けてなお、剣を構え直す私の姿に、彼は何かを感じ取ったようだった。
「……ほう。まだ立つか」
「当然だ。……ここで倒れては、背負ってきたもの全てに、顔向けができない」
私は、痛みで朦朧としかける意識を、必死に繋ぎ止めた。
エクスカリバーの柄を、両手で強く握りしめる。
刃越しに伝わる温かさが、まるで、まだ大丈夫だと語りかけてくるようだった。
「――来い、アウレリウス」
「……面白い。ならば、最後まで付き合ってやろう」
再び、両者が同時に踏み込んだ。
痛みに耐えながら振るう剣は、これまでのように正確ではなかった。それでも――力を振り絞った一撃は、確かに、これまでにない重さを帯びていた。
アウレリウスの剣が、私の肩を掠める。
だが、その隙こそが、最後の好機だった。
「――ここだ……!」
渾身の力を込めた一撃が、エクスカリバーの刃が、アウレリウスの胴を捉えた。
金色の光が、剣先から迸る。
「……っ、が――」
アウレリウスの身体が、大きくよろめいた。
彼は、しばらくの間、信じられないというような表情で自分の胸元を見つめていたが、やがて、その場に膝をついた。
「……見事だ」
アウレリウスは、血の滲む唇で、そう呟いた。
「無敗を誇ってきたこの俺が、まさか、これほどの若造に敗れるとはな……」
「……アウレリウス」
私も、脇腹の傷を押さえながら、なんとかその場に立ち続けていた。全身から、力が抜けていくのがわかる。
「約束は、守る……。全軍に、撤退を……」
アウレリウスは、そう言い残すと、静かにその場に倒れ伏した。
しばしの静寂の後、帝国軍の陣営から、動揺の声が広がっていく。
「総大将が……敗れた……!?」
「馬鹿な……あの無敗のアウレリウス様が……」
多くの兵たちが、武器を下ろし始めた。約束通り、撤退の準備を始める部隊もあった。
だが――全員が、その約束に従ったわけではなかった。
「――ふざけるな! 総大将の仇を取れ!」
一部の兵たちが、統制を無視して、なおも突撃を始めたのだ。
「あの小僧を殺せ! 我らが将軍の無念を晴らすのだ!」
激昂した一団が、疲弊しきった私たちの陣へと、なだれ込んでくる。
「――くっ……!」
私は、剣を構え直そうとしたが、脇腹の傷が、思うように身体を動かすことを許さなかった。視界が、次第に霞んでいく。
「アーサー――!」
ランスロットの声が、遠くから聞こえた気がした。
意識が、朦朧としていく中で――
不意に、辺り一帯を、まばゆい光が包み込んだ。
「――もう、十分でしょう」
聞き覚えのある声。
霞む視界の中、私は、その姿を捉えた。
マーリンだった。
その手が、ゆっくりと空へと掲げられる。
次の瞬間、突撃してきていた敵兵たちの頭上に、無数の光の粒子が降り注いだ。
悲鳴すら上げる間もなく、統制を乱していた敵兵たちは、まるで最初から存在しなかったかのように、その場から消え去っていった。
殺したのか、それとも別の場所へ転移させたのか――朦朧とする意識では、判断することすらできなかった。
ただ、確かなことは、あれほど猛っていた戦場が、一瞬にして、完全な静寂に包まれたということだった。
「――アーサー王」
マーリンの声が、すぐ傍で聞こえた。
「よく持ちこたえましたね。……さあ、少し眠りなさい」
その声を最後に、私の意識は、完全に闇へと沈んでいった。
次に目を覚ました時、私は、見慣れた自陣の天幕の中に横たわっていた。
脇腹には、丁寧に布が巻かれている。痛みは、まだ鈍く残っていたが、あの瞬間の焼けるような激痛は、嘘のように和らいでいた。
「――気がつきましたか」
すぐ傍らに、マーリンが座っていた。
「マーリン様……戦況は」
「ご安心を。アウレリウスの死と共に、帝国軍は完全に撤退しました。統制を乱した一部の兵は……もう、二度と剣を振るうことはないでしょう」
その言葉に、私は、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます。あなたが来てくれなければ、今頃どうなっていたか」
「礼には及びません。私も、あなたに死なれては困りますから」
マーリンは、いつもの飄々とした調子でそう言うと、私の脇腹に手をかざした。淡い光が、傷口をゆっくりと包み込んでいく。
「本来なら、命に関わる傷でした。……よく、耐えましたね」
「……皆のおかげです」
「そう。それも、あなたの美徳のひとつなのでしょうね」
マーリンは、静かにそう呟きながら、治療を続けた。
その手つきは、驚くほど丁寧で――ふと、その指先が、私の手のひらに、小さな傷をつけたことに気づいた。
「……マーリン様?」
「ああ、失礼。治療の触媒に、少し血を頂くだけです。……深い意味はありませんよ」
そう言って、マーリンは、小さな硝子瓶に、私の血を数滴、受け止めた。
朦朧とする意識の中、私はその仕草を、ただぼんやりと眺めていた。
治療のためだと言われれば、そういうものかと思うしかない。それに、今の私には、深く問い質すだけの気力すら、残されていなかった。
「――さあ、これで完了です。あとは、ゆっくりと休みなさい」
マーリンは、そう言って、硝子瓶をそっと懐にしまい込んだ。
その表情に、僅かに――普段の飄々とした様子とは異なる、何か深い思案の色が浮かんでいたことに、この時の私は、気づく由もなかった。
数日後、私は、なんとか歩けるまでに回復していた。
戦場に残された骸は、丁重に弔われ、生き残った兵たちの間には、確かな安堵と、そしてこれまでにない結束が生まれていた。
「――陛下!」
ケイが、駆け寄ってきて、深々と頭を下げた。
「本当に、ご無事で……! 一時はどうなることかと」
「心配をかけたな。……お前たちのおかげで、この国は守られた」
「いや、俺たちなんて、後方支援がせいぜいだったさ。……でも、あの戦い、俺は一生忘れねえよ。お前が、いや、陛下が、あの化け物みたいな将軍相手に、最後まで剣を折らなかったこと」
ケイの言葉に、私は静かに笑みを浮かべた。
「これからも、頼りにしている」
「おう、任せとけ!」
その明るい声を聞きながら、私は、丘の向こうに広がる、静かな海を見つめた。
ガリア帝国からの脅威は、ひとまず退けられた。
だが、あの帝国が、これで完全に諦めるとは思えない。いつか、また牙を剥いてくるだろう。
そして――
私は、ふと、脇腹の傷跡に、そっと手を触れた。
マーリンに助けられたあの瞬間から、言葉にできない、小さな違和感が、胸の奥に残り続けていた。
それが何なのか、この時の私には、まだわからなかった。
ただ――静かに凪いだこの海の向こうに、そしてこの国の内側に、まだ見ぬ何かが、確かに動き始めていることだけは、はっきりと感じ取っていた。




