↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第1話 選ばれし聖王

 夜明け前の冷たい石畳の感触で、俺はいつも目を覚ます。

 窓の外はまだ藍色だ。鶏すら鳴いていない。城塞キャメロットの兵舎、その最奥にある小さな個室――俺がこの部屋を割り当てられているのは、階級のせいではなく、たったひとつの理由による。

 誰よりも早く起き、誰よりも早く寝る。

 それが、俺がこの十年近く守り続けてきた、たったひとつの掟だった。

 薄い毛布を剥ぎ、身体を起こす。関節が軋む音すら、この時間には大きく聞こえる。窓の隙間から差し込む星明かりを頼りに、俺は手早く布を身体に巻きつけていく。何度も繰り返してきた作業だから、目を閉じていてもできる。きつすぎず、緩すぎず――胸の輪郭を潰し、肩から下のラインを直線的に見せるための、ただの下準備だ。

 その上から、着古した下衣を纏う。

 声は低く。仕草は大きく。視線は逸らさず、真っ直ぐに。

 そうやって俺は、「アーサー」という一人の平凡な騎士見習いを、毎朝ひとつずつ組み立て直している。

 鏡はない。この部屋には必要ないからだ。自分の顔を確かめる時間があるなら、剣を一振りでも多く振ったほうがいい――そう自分に言い聞かせているが、本当のところは、鏡に映る自分の顔を見るのが、少し怖いだけなのかもしれなかった。

 俺は、アーサーという名の、どこにでもいる下級騎士だ。

 魔法は使えない。剣の腕も、良くて中の上といったところだろう。血筋も誇れるものではなく、物心つく前に、名も知らぬ森の奥で拾われたのだと聞かされている。拾ったのは、老いた騎士エクター卿。彼が俺を育て、剣を教え、そして――名を与えてくれた。

「アーサー」という名前も、本当は俺自身のものではない。エクター卿が、どこかで聞きかじった古い言葉から取ったのだと、笑いながら話してくれたことがある。

 だから俺には、誇るべき血も、才能も、生まれながらの何かも、ひとつとしてない。

 あるのはただ、隠し続けてきた「事実」と、それを悟られてはならないという、十年来の緊張だけだった。


 朝稽古の鐘が鳴る頃には、中庭はすでに騎士見習いたちで埋まっている。

 木剣を打ち合う音、怒声、笑い声。土埃の匂いと、朝露に濡れた革の匂いが混じり合う、いつもの光景だ。

「――おら、突っ立ってんじゃねえぞ、アーサー」

 声のした方を見るまでもない。ケイだ。

 エクター卿のもとで俺と共に育った、いわば兄のような存在。もっとも、本人にその自覚があるかどうかは怪しいものだが。

「突っ立ってねえよ。構えてんだよ」

「その構え、去年から一ミリも変わってねえけどな」

 ケイはそう言って、木剣の切っ先を軽く俺に向けた。日に焼けた顔に浮かぶ笑みは、からかい半分、本気半分――彼のいつもの顔だ。

「今日こそ、一本取らせてもらうぜ」

「毎朝聞いてる台詞だ」

 軽口を叩きながらも、俺はすでに重心を落としていた。ケイは体格でも力でも俺に勝る。まともにぶつかれば、まず勝ち目はない。

 だから俺のやり方はいつも同じだ。

 受けて、いなして、相手の呼吸が乱れる一瞬を待つ。

 派手さのない、地味な戦い方。魔力も才能もない人間が、それでも騎士としてこの場に立ち続けるための、唯一の方法だった。

 木剣が打ち合う。がつん、と骨に響くような音。ケイの一撃は重い。受け止めるたびに、腕の奥がじんと痺れる。

「くっ――」

「まだまだ!」

 三合、四合と打ち合ったところで、ケイの太刀筋がわずかに大きくなった。息が上がってきている証拠だ。俺はその隙を逃さず、半歩踏み込んで木剣を彼の小手に滑り込ませる。

 からん、と乾いた音を立てて、ケイの木剣が地面に落ちた。

「――は?」

 ケイが自分の手元を見て、それから俺を見た。信じられない、という顔だ。無理もない。この手が決まったのは、久しぶりのことだった。

「……勝ち、だよな」

「くそ、まぐれだ! もう一本!」

「今ので満足しとけよ。俺だって、そう何度も勝てるわけじゃないんだから」

 自分で言って、少し虚しくなる。事実、それはまぐれだった。ケイの息が上がっていなければ、この一手も決まらなかっただろう。

 才能がないというのは、そういうことだ。

 積み上げた技術で、相手の綻びを見逃さず拾い続ける。それでようやく、十回に一回、勝てるか勝てないか。

 騎士団の中で、俺の評価はおおよそこんなところだ。

 ――真面目だが、平凡。

 悪い評価ではない。だが、誰の記憶にも残らない評価でもある。

 それでいい、と俺は思っていた。目立たないことは、この十年、俺が最も大切にしてきたことだったから。


 昼、詰所の片隅でパンをかじりながら、俺はケイと並んで壁にもたれていた。

「なあ、聞いたか。王都の評定、今度また荒れたらしいぜ」

 ケイが声を落として言う。詰所には他の見習いたちもいるが、こういう話は、どこで誰が聞いているかわからない。

「……ああ、噂は耳にした」

 ウーサー王が身罷ってから、もう何年になるだろう。跡継ぎを明確に定めぬまま逝去されたことで、ブリタニアの各地を治める諸侯たちは、いまだ王座の行方を巡って睨み合いを続けている。

 表向きは、摂政会議が国を治めているということになっている。

 だが実際のところ、力ある諸侯たちがそれぞれの領地で兵を蓄え、いつでも他を出し抜けるように牙を研いでいるのが実情だ。小競り合いは、もう何度となく起きている。

「このままじゃ、内乱になっちまうんじゃねえかって、詰所の先輩連中もぴりぴりしてるぜ」

「……そうだな」

 俺は曖昧に頷いた。政治の話は、正直得意ではない。剣を振ることと、命じられた任務をこなすこと――それが俺の仕事のすべてだった。国の行く末を憂うのは、もっと立場の高い者たちの役目だ。

 そう思っていた。

 その時はまだ、自分がその「行く末」そのものになるなど、想像すらしていなかった。

「そういや」

 ケイがふと声の調子を変えた。

「あの噂、知ってるか。摂政会議が、"泉の儀式"を執り行うことを検討してるって話」

 パンを咀嚼していた俺の手が、思わず止まった。

「……泉の儀式って、あの、おとぎ話の?」

「おとぎ話じゃねえよ。本当にあるんだと。俺たちの爺さん、そのまた爺さんの代にも、一度あったらしいぜ」

 泉の儀式――ブリタニアに古くから伝わる、王位選定の秘儀。

 聖なる泉のほとりで、選ばれし者にのみ、泉に宿る聖者が力を認め、聖なる王――"聖王"としての力を目覚めさせる、と言われている。

 血筋は関係ない。身分も、性別も、年齢も関係ない。ただ、泉が「認めた」者だけが、聖王としての資格を得る。

 子供の頃、エクター卿の膝の上で聞かされた物語のひとつだ。まさか、自分が生きている間にそれが本当に行われるとは思ってもみなかった。

「……本当なら、大ごとだな」

「だろ? 何せ、それで決まった王には誰も逆らえねえ。血筋も後ろ盾も関係なく、"聖なる資格"ってやつを持ってるわけだからな。諸侯たちも、これで手打ちにできるんじゃねえかって話だ」

 ケイは他人事のようにそう言って、パンの残りを口に放り込んだ。

 俺も、その時は同じように、どこか他人事として聞いていた。

 自分には関係のない話だと、心のどこかで、はっきりとそう思っていたのだ。


 その日の夕刻、俺は水汲みの当番で、城塞の裏手にある井戸へと向かっていた。

 日が傾き、赤みを帯びた光が石壁を染めている。人通りの少ないこの時間の裏庭が、俺は好きだった。誰にも見られず、誰にも話しかけられず、ただ自分の呼吸だけを聞いていられる。

 桶に水を汲み上げ、一息ついたところで――

「精が出ますね、アーサー卿」

 不意にかけられた声に、俺は水桶を落としかけた。

 振り返ると、そこに立っていたのは、見覚えのない女性だった。

 いや――「見覚えがない」というのは、少し語弊がある。この城塞で、あの姿を一度でも見た者は、忘れることなどできないだろう。

 長い髪は夜そのものを紡いだような漆黒で、纏う外套は動くたびに、星空をそのまま映し込んだように揺らめいて見えた。年齢は――正直、見当もつかない。少女のようにも見えるし、どこか途方もなく長い時間を生きてきた者のようにも見える。

「……あなたは」

「マーリンと申します。以後お見知り置きを」

 マーリン。

 その名前は、俺も知っていた。摂政会議に古くから仕える、大賢者。表舞台に出ることは滅多にないが、ブリタニアの重要な局面には、必ずその名が囁かれるという。

「な、なぜこんなところに……大賢者様が」

「散歩ですよ。それと――少し、あなたに興味が湧いたので」

 マーリンは静かに微笑んだ。その微笑みは優しく見えて、同時にどこか底の見えない、深い井戸のようでもあった。

「俺に……ですか? 何かご用でしょうか」

「そう身構えないでください。少し、お尋ねしたいだけです」

 マーリンは俺との距離をゆっくりと詰めながら、問うた。

「アーサー卿。もし、あなたが大きな力を手にしたとして――それでも、今と変わらずにいられると思いますか?」

 唐突な質問に、俺は面食らった。

「……どういう意味でしょうか」

「言葉のままです。力を手にした者は、多くの場合、変わってしまう。傲慢になる者もいれば、恐怖に呑まれる者もいる。あなたは、どちらだと思いますか」

 俺は少し考えて、正直に答えた。

「わかりません。俺は、そんな大それた力なんて、手にしたことがありませんから」

「では、仮に、の話としてお聞かせください」

 マーリンの瞳が、じっと俺を見つめる。まるで、心の奥底まで見透かそうとするかのように。

 俺はしばらく黙り込んだあと、ぽつりと口を開いた。

「……変わらずにいたい、とは思います。少なくとも、力のあるなしで、誰かを見下したり、逆に誰かに怯えたりするような真似は――したくない」

「それは何故ですか」

「……俺自身が、力のない人間だからです」

 自嘲するように、俺は笑った。

「才能もない。血筋も誇れない。そんな俺が、この十年、この場所にいられたのは、周りの人間が――ケイや、エクター卿や、他の見習いたちが、才能のあるなしで俺を見なかったからです。だから、もし俺がいつか力を得ることがあったとしても、その時こそ、他人を才能や血筋で見るような真似はしたくない。……それだけです」

 しばしの沈黙が流れた。

 夕暮れの風が、マーリンの外套を静かに揺らす。

「――良い答えです」

 マーリンはそう呟くと、満足げに目を細めた。

「あなたのような人間を、探していました」

「え……?」

「いいえ、なんでもありません。少し、気の早い独り言です」

 マーリンはくるりと踵を返し、夕闇の中へと歩き出す。

「近いうちに、また会うことになるでしょう。その時は――どうか、今日の答えを忘れないでください」

「あの、マーリン様――」

 俺が呼び止めるより早く、その姿は建物の陰に溶けるように消えていった。

 残されたのは、俺と、水を張ったまま揺れる桶と、夕焼けに染まった裏庭だけだった。

「……なんだったんだ、一体」

 呟いた声は、誰にも届かず、風に流れて消えていった。

 その時の俺は、まだ知らなかった。

 あの短い問答こそが、俺の運命を決定づける、最初の一歩だったということを。


 それから半月ほどが経った、ある朝のことだった。

 城塞の大広間に、騎士団の全員――見習いから隊長格まで、すべてが招集された。こんなことは滅多にない。俺もケイと並んで、何事かと肩を寄せ合っていた。

 壇上に立ったのは、摂政会議を代表する老宰相と、そして――マーリンだった。

 あの日以来、初めて見る姿だった。

「静粛に」

 老宰相の声が響き渡ると、ざわめいていた広間が、水を打ったように静まり返る。

「此度、諸侯会議において正式に決定した。古よりブリタニアに伝わる秘儀――"聖泉の儀"を執り行う」

 広間全体が、大きくどよめいた。

 やはり、あの噂は本当だったのだ。ケイが横目で俺を見て、小さく口笛を吹く仕草をした。

「聖泉に選ばれし者こそが、ブリタニアの正統なる聖王として、この国の頂に立つ。資格に、血筋、身分、性別、年齢の制限は一切ない。この場にいる騎士――見習いに至るまで、全ての者に挑戦の権利がある」

 老宰相の言葉のあと、マーリンが一歩前に進み出た。

「儀式は三日後、聖泉の森にて執り行います。挑む者は、剣を携え、夜明けとともに泉のほとりに立つこと。……なお」

 マーリンの視線が、一瞬――ほんの一瞬だけ、俺の方を掠めた気がした。気のせいだと思いたかった。

「これは、力や技を競う場ではありません。泉が見るのは、ただひとつ――その者の"心"のみです」

 広間は再びざわめきに包まれた。誰もが隣の者と何事かを囁き合い、興奮と緊張とが入り混じった熱気が満ちていく。

 俺は、ただ黙って壇上を見つめていた。

 自分には関係のない話だ――そう思おうとしていた。だが、あの日、裏庭でマーリンにかけられた言葉が、頭の片隅からどうしても離れなかった。

『あなたのような人間を、探していました』

 まさか、な。

 そう自分に言い聞かせながらも、俺の胸の奥には、言葉にできない小さなざわめきが、静かに芽生え始めていた。


 三日後の夜明け前。

 聖泉の森は、俺が今まで訪れたどの場所とも違っていた。

 キャメロットから半日ほど馬を走らせた先、鬱蒼と茂る古木の森。その最奥に、その泉はあった。

 森に踏み入った瞬間から、空気が変わるのがわかる。音が、遠い。鳥の声も、木々のざわめきも、どこか膜一枚隔てた向こうから聞こえてくるようだった。

 泉のほとりには、すでに数百人もの騎士たちが集まっていた。見習いから、名のある騎士団長格まで――ブリタニア中から集められた「資格ある者」たちだ。

 泉そのものは、思っていたよりもずっと静かだった。

 朝靄の中、鏡のように凪いだ水面。その中心から、淡い光がかすかに滲み出ているようにも見える。ただの水たまりにしか見えないのに、なぜかそこから目が離せない。

「壮観だな……」

 隣に立つケイが、小さく呟いた。彼もまた、挑戦者のひとりとしてここにいる。

「お前も挑むのか」

「当たり前だろ。こんな機会、一生に一度あるかないかだぜ。……お前は?」

「……わからない」

 正直な答えだった。挑戦の権利は、この場にいる全員にある。だが、俺自身、自分がここに立つ意味を、まだ見出せずにいた。

 儀式が始まった。

 森の奥から現れた白装束の巫女たちが、順に挑戦者の名を呼んでいく。呼ばれた者は泉のほとりに進み出て、水面に手をかざす。

 そして――何も起こらない。

 一人、また一人。

 名のある騎士団長も、若く血気盛んな見習いも、次々と泉の前に立っては、何の反応もないまま、静かに列の後ろへと下がっていく。

 失望のため息と、安堵とも取れる沈黙が、交互に森に満ちていった。

 ケイの番が来た。彼は緊張した面持ちで泉の前に進み出て、水面に手をかざす。

 俺は思わず、息を詰めて見守った。

 ……何も、起こらなかった。

 ケイは肩を落とし、力なく笑いながら戻ってくる。

「……だよな。俺には荷が重すぎる話だったか」

「そんなことない。お前は十分立派な騎士だ」

「慰めるな、惨めになる」

 そう言って笑うケイの表情には、どこか安堵の色も滲んでいた。重すぎる責務から解放された、そんな顔だった。

 俺の名は、しばらく呼ばれなかった。名簿の順番からして、まだ先のようだ。

 日が高くなるにつれ、挑戦者の数は次第に減っていく。それでも、泉が反応を示すことは一度もなかった。

 このまま、誰も選ばれないのではないか――そんな空気が、森全体を包み始めた頃。

「――アーサー」

 白装束の巫女が、俺の名を呼んだ。


 心臓が、大きく跳ねた。

 周囲の視線が、一斉にこちらへ集まるのを感じる。俺は自分の足が、まるで他人のもののようにぎこちなく動くのを自覚しながら、泉のほとりへと進み出た。

 近くで見る泉の水面は、想像以上に澄んでいた。底が見えないほど深いはずなのに、なぜか自分の顔が、はっきりと映り込んでいる。

 映った顔は、緊張に強張っていた。

 隠してきた「アーサー」の顔だ。低い声で話し、大きく振る舞い、誰にも本当の自分を悟られぬよう、十年かけて作り上げてきた仮面――その仮面が、水面の中で、今にも剥がれ落ちそうに揺れて見えた。

(……ここで、何かが起きたら)

 不意に、恐怖にも似た予感が胸を過ぎった。

 もし本当に泉が何かに反応するのだとしたら。もし本当に、俺が選ばれるようなことがあったなら。

 隠し続けてきたことが、この先ずっと隠し通せるとは限らない。むしろ、人目に晒される立場になればなるほど、真実は暴かれやすくなるだろう。

 引き返すなら、今しかない。

 そう思う一方で――俺の手は、もう水面へと伸びていた。

 なぜだろう。

 怖いはずなのに、なぜか身体が止まらない。

 まるで、ずっと昔からそうすることが決まっていたかのように、指先が静かに水面へと触れた。

 その瞬間。

 視界が、真っ白に染まった。


 音のない世界だった。

 いや――音がないのではなく、俺の中にある「音」そのものが、外の世界と切り離されてしまったかのような感覚だった。

 気づけば、俺は白い光の中に立っていた。上も下もわからない、果てのない空間。

『――お前は、何を望む』

 声が聞こえた。男とも女とも、老いているとも若いともつかない、不思議な声だった。

「……何を、望むか」

 俺は思わず問い返した。この声の主が、泉に宿るという「聖者」なのだろうか。

『力か。地位か。栄誉か。それとも――安寧か』

 問いかけられるたび、俺の脳裏には、様々な光景が浮かんでは消えていった。

 幼い日、森の奥でエクター卿に拾われた記憶。

 初めて剣を握った日の記憶。

 ケイと共に稽古に明け暮れた、数え切れない朝の記憶。

 自分の身体を隠すために、毎朝布を巻きつけていた、あの静かな作業の記憶。

 そのどれもが、まるで走馬灯のように、俺の心の中を巡っていく。

「……俺は」

 言葉を紡ごうとして、俺は初めて、自分の中に眠っていた本当の想いに気づいた。

「力なんて、望んでいない。地位も、栄誉もいらない。ただ――」

 胸の奥から、震えるような声が湧き上がってくる。

「誰かを、守れる人間でありたい。俺を拾ってくれたエクター卿のように。俺を対等に見てくれたケイのように。……誰かの隣に、胸を張って立っていられる、そんな自分でありたい。それだけだ」

 沈黙が降りた。

 長い、長い沈黙だった。

 やがて、声が再び響いた。

『――良い。その心、確かに見届けた』

 その言葉と共に、白い光が、俺の身体の奥深くへと一気に流れ込んできた。


 意識が戻った時、俺は泉のほとりに、膝をついていた。

 周囲の空気が、明らかに変わっていた。

 森全体を包む静寂。誰もが、言葉を失ったように俺を見つめている。ケイでさえも、口を半開きにしたまま、動けずにいた。

 俺自身、何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

 だが――身体の奥から込み上げてくる、この感覚は何だ。

 今まで一度も感じたことのない、途方もない熱量が、身体の芯から溢れ出そうになっている。指先まで、力が漲っているのがわかる。魔力と呼ぶべきものが、間違いなく、俺の中で目覚めていた。

「――聖泉が、選んだ」

 誰かが、震える声でそう呟いた。

「聖泉が……選んだ! この者こそが、我らが聖王だ!」

 その一声を皮切りに、森中がどよめきに包まれた。

「聖王……!」

「アーサー卿が……!」

「本当に、選ばれる者がいたのか……!」

 無数の視線が、一斉に俺に注がれる。畏敬と、驚愕と、そしてこれから何かとてつもないものが始まるという予感――そのすべてが混じり合った視線だった。

 俺は、まだ膝をついたまま、その光景を呆然と見つめていた。

(……冗談、だろう)

 心の中で、そう叫びたかった。

 自分は、平凡な騎士見習いのはずだった。才能もなく、血筋も誇れず、ただ静かに、目立たぬように生きていくつもりだった。

 それなのに――今、この瞬間から、自分はブリタニア中の視線を一身に浴びる存在になろうとしている。

 恐怖が、遅れて全身を駆け巡った。

 隠し続けてきた秘密。誰にも悟られてはならない、あの真実。

 それを抱えたまま、この国の頂に立つというのか。

 膝が震える。指先が冷たくなっていく。

 だが――視線を上げた先に、俺を見つめる無数の瞳があった。

 期待と、希望と、縋るような光を宿した、無数の瞳。

 その中には、ケイの顔もあった。

 彼は驚きながらも、まるで誇らしげに、俺を見つめていた。

(……ここで、怯えた顔を見せるわけにはいかない)

 俺は、震える足に、力を込めた。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 背筋を伸ばし、顎を引き、周囲を見渡す。

 内側では、恐怖が渦巻いている。自分にそんな資格などないという叫びが、今にも喉から溢れ出しそうだった。

 それでも――俺は、静かに口を開いた。


「――皆、面を上げよ」

 その声は、自分でも驚くほど、静かで落ち着いていた。

 十年かけて作り上げてきた「アーサー」の声が、今この瞬間、初めて本当の意味で役に立った気がした。

 俺の声に、周囲の騎士たちが、次々とその場に膝をつき始める。

 一人、また一人と。

 やがて森全体が、俺に向かって頭を垂れる、圧倒的な光景へと変わっていった。

 その様を見ながら、俺は静かに――だが確かに、心の中の何かが切り替わるのを感じていた。

 これまでずっと「俺」と名乗ってきた。それは、平凡な一人の騎士見習いとしての、ありのままの言葉だった。

 だが、もう「俺」ではいられない。

 この瞬間から、この国に生きる無数の人々の前に立つ者として――

「私が」

 初めて紡いだその一人称は、驚くほど自然に、喉から滑り出た。

 まるで、ずっと昔から、これが自分の言葉であったかのように。

「私が、この国の――聖王として立つことを、ここに誓う」

 その宣言に、森中から地鳴りのような歓声が上がった。

「聖王万歳!」

「アーサー王、万歳!」

 歓声が、木々の梢を揺らし、遠く空へと吸い込まれていく。

 俺は――いや、私は、その歓声の中心に立ちながら、内心では今にも崩れ落ちそうな恐怖と戦い続けていた。

(俺には、そんな資格なんて――)

 そう叫びたい衝動を、必死に押し殺す。

 王として選ばれた者は、弱音を吐くことすら許されない。

 その事実を、私はこの瞬間、骨の髄まで思い知らされていた。


 歓声が徐々に落ち着きを取り戻した頃、群衆の中から、マーリンが静かに歩み出てきた。

 その表情には、驚きの色は一切なかった。

 まるで――すべてを、最初から知っていたかのような、穏やかな微笑みだけがあった。

「おめでとうございます、アーサー王」

「マーリン様……」

 私は、あの裏庭での問答を思い出していた。

『あなたのような人間を、探していました』

 まさか、あの言葉は――

「聞きたいことが、顔に出ていますよ」

 マーリンはくすりと笑った。

「ご安心を。私は、この結果を望んではいましたが、無理に操ったわけではありません。泉が見るのは、真実の心のみ。あなた自身の言葉が、あなた自身を王へと導いたのです」

 その言葉に、少しだけ、安堵する自分がいた。

「……これから、私はどうすれば」

「まずは、戴冠の準備を。そして――」

 マーリンの視線が、私の腰に佩いた剣へと向けられた。

「その剣を、大切になさってください」


 私の腰にあるのは、カリバーンと呼ばれる、ごく古い一振りの剣だった。

 華美な装飾など、何ひとつない。柄は使い込まれて滑らかになり、鞘には長年の傷が無数に刻まれている。

 これは、私がまだ幼かった頃――エクター卿から譲り受けた剣だ。

(……エクター卿)

 不意に、遠い記憶が蘇る。

 あの日も、こんなふうに朝靄が立ち込めていた。エクター卿の屋敷の裏庭、古い鍛冶場の片隅で、まだ幼かった私は、初めてこの剣を手渡された。

「この剣を、お前に譲る」

 エクター卿は、そう言って、皺だらけの手で剣を差し出した。

「……こんな大切なもの、俺なんかがもらっていいのか」

 幼い頃の俺は、戸惑いながらそう尋ねた覚えがある。

「構わん。この剣はな、かつて私が、まだ何者でもなかった頃に、命を救われた戦場で拾った剣だ。持ち主が誰だったのかも、今となってはわからん。……だが、この剣を握っていた間、私は一度たりとも、己の信念を曲げずに済んだ」

 エクター卿は、しわがれた声で、静かに続けた。

「お前には、まだこの剣に見合う力はないかもしれん。それでもいい。力は、後からいくらでもついてくる。だが信念は、最初に持っていなければ、後からでは手に入らんものだ。……お前になら、託せると思ってな」

 その言葉の意味を、幼い俺は、完全には理解できていなかった。

 それでも、剣を握った両手の重みと、エクター卿の穏やかな眼差しだけは、今でもはっきりと覚えている。

 あの日から、この剣は、いつも俺の――私の傍らにあった。

 強くなれない自分を、何度も責めた夜がある。

 隠し事に押しつぶされそうになった夜も、数え切れないほどあった。

 そのたびに、この剣の柄を握りしめて、エクター卿の言葉を思い出してきた。

 信念だけは、曲げるな、と。


「――アーサー王。剣を、掲げていただけますか」

 マーリンの声に、私は我に返った。

 周囲の騎士たちが、固唾を呑んでこちらを見守っている。

 意味はわからなかったが、私はカリバーンを鞘から抜き放ち、その切っ先を空へと掲げた。

 朝の光が、刃に反射して、一瞬だけ鋭く煌めく。

 その直後だった。

 刃の中心から、これまで見たこともない、淡い金色の光が溢れ出し始めたのは。

「……な、なんだ、これは」

 思わず声が漏れる。光は次第に強さを増し、やがて剣全体を包み込むほどになった。

 森中の視線が、一斉にその光に釘付けになる。

 眩しさに、私は思わず目を細めた。それでも、剣を手放すことだけはできなかった。まるで、剣自身が、離すなと訴えかけてくるようだった。

 光が、収まっていく。

 そこにあったのは――もはやカリバーンではなかった。

 刀身は白銀に輝き、まるで星々を溶かし込んだかのような、深い輝きを湛えている。柄には見たこともない紋様が刻まれ、握るだけで、身体の奥から力が湧き上がってくるのがわかった。

「……これが」

「エクスカリバー」

 マーリンが、静かにその名を口にした。

「聖泉が、あなたを真の王と認めた証。カリバーンが、あなたと共に歩んできた過去の証であったように――エクスカリバーは、あなたがこれから進む、未来への力の証です」

 私は、手の中で輝く剣を、しばらくの間、ただ見つめていた。

 過去から受け取った支え。

 そして、未来へ進むために得た、新たな力。

 そのふたつが、今、確かにひとつの剣として、私の手の中にある。


 周囲からは、再び割れんばかりの歓声が上がっていた。

「聖剣エクスカリバー……!」

「まさか、本当に伝説の剣が……」

「これで、ブリタニアは救われる……!」

 歓喜に沸く群衆の中で、私はただひとり、静かにその輝きを見つめていた。

 嬉しさが、ないわけではない。

 だが、それ以上に強く胸を占めていたのは、これから背負うことになる責任の重さと――消えることのない、あの恐怖だった。

 隠し続けてきた秘密を抱えたまま、この国の頂点に立つ。

 そのことの意味を、私はまだ、本当の意味では理解できていなかったのかもしれない。

 それでも。

 私は、輝く剣を静かに鞘へと収めながら、心の中で、もう一度だけ誓いを立て直した。

 エクター卿が託してくれた信念を、決して曲げない、と。

 誰かの隣に、胸を張って立っていられる自分でいる、と。

 たとえこの先、どれほど大きな責務が待ち受けていようとも――

 その誓いだけは、絶対に手放さない。

 そう、心に強く刻みながら。


 群衆の歓声の向こうで、マーリンが、私にだけ見えるように、小さく微笑んでいるのに気づいた。

 その微笑みの意味を、この時の私は、深く考えることをしなかった。

 ただの喜びの表情だと、そう思いたかったのかもしれない。

 後になって思えば――それは、喜びだけではない、もっと複雑な何かを孕んだ微笑みだったように思う。

 だが、それに気づくのは、まだずっと先の話だ。

 この日、聖泉の森に立った「希望の若王」は、自らの正体をひた隠しにしたまま、ブリタニアの新たな王として、確かな一歩を踏み出した。

 その一歩が、やがてどれほど大きな物語へと繋がっていくのか


 この時の私には、まだ、知る由もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。