追跡する過去
落下死した男の周囲は、十分も経たないうちに、すでに「現場」としての形を整え始めていた。
黄色い規制線こそまだ張られていないが、最初に駆けつけた制服警官が群衆を下がらせ、続いて救急隊員がブルーシートと器材を持ち込む。誰かが泣き、誰かが動画を撮り、誰かが顔をしかめながら「やばい」「見ちゃった」と繰り返す。人の死は、都市の雑踏ではひどく速く消費される。目の前で人間が地面に叩きつけられたというのに、周囲の会話はすでに「何階から?」「自殺?」「会社員っぽかった」「うわ、最悪」と、情報の断片を交換する方向へ移っていた。
鷺宮敏樹は、その輪の外側をゆっくりと回った。
何も知らない通行人の一人として。
肩をすくめ、目線だけを低くし、警察の指示には素直に従う。荷改組の者が現場を見る時、真っ先に心がけるべきは、現場を見に来た人間そのものになることだ。興味を持ちすぎず、無関心すぎず、適度に驚き、適度に引く。そうすれば人の記憶には残らない。
ただし、眼だけは別だった。
鷺宮の眼は、規制される前の数秒で、落下死した男の胸元の社員証だけではなく、靴の擦れ方、スーツの皺、落下の際に左腕が不自然に畳まれていたことまで拾っている。自死のように見せかける崖端組の技は、最後の一瞬だけ美しい。だがそれ以前の身体には、必ず「誰かに角度を与えられた痕跡」が出る。肩の入り方、逃げようとした腰の遅れ、手すりや縁への未練。あの男には、それがあった。
つまり、自分で飛んだのではない。
そしてその事実を知っているのは、いまこの雑踏の中でおそらく自分だけだ。
鷺宮は警官の死角になる位置まで下がると、スマートフォンを取り出した。画面の中のメモ欄に、簡潔な要点を書きつける。
川上コーポレーション/社員証あり/男性・30代後半〜40代前半/高所処理=崖端組/自死偽装/屋上に上がる合理的理由が必要
そこまで書いてから、彼は一度だけ顔を上げた。
飛び降りのあったビルは、再開発された駅前繁華街の角にある二十階建てのオフィス棟で、一階から三階までは飲食店やクリニックが入り、上階は複数企業の事務フロアになっている。川上コーポレーションの支店か関連会社のオフィスがどこかに入っている可能性はある。だが、今は警察より先に正面から中へ入るのは得策ではない。
知るべきは、死んだ男が何者だったか、今日どこへ行き、誰と接触し、なぜあの時間にあのビルの屋上近くにいたのか。その導線を押さえれば、崖端組を使った者の輪郭が見えてくる。
鷺宮は歩き出した。
人混みから離れた先のコンビニ脇で、まず川上コーポレーションの外線代表へ電話をかける。もちろん直接名乗るわけではない。会計事務所の担当者らしい落ち着いた声で、総務経由の問い合わせを装う。
「本日、御社の社員様で、駅前ビル周辺にて事故に遭われた方がいるようなのですが、確認は進んでおりますか」
夜の代表回線は警備と総務当番に繋がることが多い。案の定、若い男の声が出た。緊張している。まだ社内共有が十分ではないのだろう。
『え、あ、どちら様でしょうか』
「顧問先関係の者です。お名前だけ確認できれば、こちらの社内連絡を止められるので」
『い、いや、まだ正式には……』
その迷い方で、社内が軽く混乱していることがわかる。鷺宮は一歩だけ押した。
「落下現場で社員証を確認した方がおられて、川上コーポレーションの方と聞きました。事故対応上、まずお名前だけでも分からないと困ります」
『……その、営業戦略部の、川瀬さん、かもしれません』
川瀬。
名前が取れた。
「川瀬、名字だけで結構です。ありがとうございます。こちらから不用意に触れないよう周知します」
通話を切る。
川瀬。営業戦略部。事故発生直後に総務当番が口を滑らせる程度には、社内で「本人かもしれない」と認識されている。ならば、身元確認はほぼ当たりだ。
次はもっと直接的な線だ。
川上コーポレーションのような大きな会社には、必ず社外の周辺業者がいる。ビルの受付、清掃、警備、配達、周辺のカフェ、タクシー。荷改組が人を追う時は、本人よりもまず、本人の周辺にいる「名前を覚えられない人間」を拾う。
鷺宮はタクシー会社の配車事務をしている同胞へ連絡した。名を「塩見」という。深夜の法人契約の動きに異様に強い男だ。
「川上コーポレーション、営業戦略部、川瀬。今日の夕方、駅前周辺」
それだけ伝えると、塩見は数秒で返してきた。
「法人チケット使用履歴なら一件ある。十八時ちょっと前、川瀬って名字の客が本社から駅前の再開発ビルまで。だが一人じゃない」
「同乗者は」
「女性。受付メモには“先方担当者”としかない。運転手の備考だと、黒髪、スーツ、メガネ」
鷺宮の呼吸が少しだけ浅くなる。
「会話は聞いてないか」
「断片だけ。男が『この場で?』、女が『上で話せます』。運転手は色恋か営業だと思ったらしい」
「ありがとう」
「匂うな」
「かなり」
通話を切る。
次に、ビル管理の防災センター要員である島津へ。先ほど霞が関寄りのビルで佐藤らしき女を見たと情報提供してくれた男だ。
「駅前再開発の二十階ビル、夜間の防災センターに知り合いは?」
「一人いる」
「今夜、入館記録と監視の死角の話を聞けるか」
「十分待て」
十分後、返事が来た。
十九時二分、川瀬雅也、営業戦略部、正面入館。同行者記録なし。十九時五分、防災センターから見て東側エレベーター付近で一時監視外。十九時十一分、十九階非常階段側カメラに、男性の背中のみ。十九時十三分、同階カメラに別の女性影。顔不鮮明。十九時十六分、屋上警報なし。十九時十八分、落下。
雅也まで取れた。川瀬雅也。
同行者記録なし。だがタクシーでは一緒だった。つまり女は途中で導線を外している。正面入館でなく、別動線を使ったか、川瀬だけを先に入れさせたか。十九階非常階段。屋上警報なし。これは興味深い。屋上へ通常侵入すると警報が鳴る構造なら、崖端組の処理は単純な屋上連行ではない。おそらく十九階以上の外部通路、設備点検スペース、あるいは警報を短時間だけ殺せる内部協力者がいる。
鷺宮はメモを整理する。
川瀬雅也。川上コーポレーション営業戦略部。十八時前に本社から駅前ビルへ向かう。同行の社外女性は黒髪、スーツ、メガネ。川瀬は「この場で?」と発言。女は「上で話せます」と答える。ビル内で監視外を利用し、十九階非常階段付近へ誘導。その後、落下。
ここまで揃えば、「社外の女」が佐藤あかりだった可能性はかなり高い。いや、可能性というより、他の線を探す理由のほうが薄い。
だが、まだ決定には足りない。
鷺宮はもう一つ、川瀬の人間関係を拾う必要があると考えた。営業戦略部の男が、夜に社外の女と二十階ビルへ入る理由。取引か、密会か、脅迫か、情報授受か。
そこで、法律事務所の事務員をしている「真柄」に連絡する。企業案件の送達先や仮処分資料から、社内の揉め事を早期に嗅ぎ取るのがうまい女だ。
「川上コーポレーション、営業戦略部の川瀬雅也。最近、法務絡みの動きは」
真柄は少し考えたあと、意外な答えを返した。
「今月頭に、川上の関連会社から“内部資料の持ち出し”に関する相談が来てる。ただし正式受任はしてない。相談メモでは、持ち出し疑いの対象者は匿名。でも部署が営業戦略寄りだった。名前は伏せるが、若い管理職が“社外の協力者と接触している可能性がある”って文言があった」
「社外の協力者」
「女かどうかは書いてない。ただ、証拠として提出された防犯カメラの静止画の説明に、“黒縁眼鏡の人物”って一行だけあった」
鷺宮は歩みを止めた。
「静止画は残ってるか」
「うちにはない。相談だけで終わったから。でも、相談に来た担当者は、途中から妙に口を濁した。たぶん、法務案件にする前に社内で握り潰した」
そこまで聞けば十分だった。
川瀬雅也は、おそらく川上内部で何かを持ち出そうとしていた。あるいは、持ち出したと疑われていた。そして黒縁眼鏡の社外女性と接触していた。その相手は今夜、川瀬と同じビルに入り、十九階非常階段近辺に現れた。
佐藤あかり。
やはりあの女だ。
認識した瞬間、鷺宮の身体のどこかがひどく静かになった。対象が定まる時、彼はいつもそうなる。雑音が減り、街の音が一歩遠くなる。やるべきことが、線として一本になる。
その線を追うように、彼は駅前の繁華街を再び歩き始めた。
◆
夜の街は、いつの間にか人の密度を変えていた。
仕事帰りの会社員の列に、買い物帰りの女たち、大学生の群れ、客引き、海外からの観光客めいた男女が混ざる。ネオンの色は路面に反射し、店の呼び込みの声は半ば環境音と化している。目立つものは多い。だからこそ、目立たないものを見つけるには訓練が要る。
鷺宮はふと、右前方の人波の中に、硬すぎる歩き方を見た。
黒髪。細身。上下紺のパンツスーツ。昼間の戦闘で壊れたはずの黒縁眼鏡はかけていない。だが歩幅が同じだった。身体の重心移動が、街を歩く女のそれに見えて、どこか異様に静かだった。人とぶつからず、しかし避けた感じも残さない。流れに混じる技術。荷改組の者が得意とするものに近いが、もっと戦闘用に研ぎ澄まされている。
佐藤あかりだ。
鷺宮は速度を変えなかった。気づいていないふりで、角度だけを調整する。相手もこちらに気づいていないように見える。だが、あの女が本当に気づいていないかは分からない。
雑踏で尾行する時、重要なのは「相手を見失わないこと」より「相手にこちらの意図を確信させないこと」だ。鷺宮は一度、女子高生の二人組の後ろへ入り、そのまま信号で途切れた人波を利用して距離を詰める。佐藤は駅前の大通りを横切り、若者向けのショップとカフェが並ぶブロックへ入った。ブランド古着、韓国コスメ、カプセルトイ専門店、ネイルサロン、配信スタジオ。雑居ビルの一階部分が光っている。その中央に、八階建ての複合雑居ビルがあった。
ガラス張りの入口に、フロア案内の看板が並ぶ。
一階はスニーカーショップ。二階は古着とアクセサリー。三階はトレカとサブカル雑貨。四階はメンズコスメとセルフ写真館。五階はアイドル系イベントスペース。六階はネイルとタトゥースタジオ。七階は配信ブース付きのカフェ。八階は会員制のレンタルラウンジ。若者向けの流行を、狭い箱に無理やり押し込んだようなビルだった。
佐藤は一瞬も迷わず、中へ入る。
エレベーター前には数人の若者が群れていた。彼女はそこを使わず、奥の非常用階段へ向かった。
鷺宮の口元がわずかに引き締まる。
あからさまだった。
気づいている。こちらを誘っている。
だが、追うしかない。
鷺宮はビルの入口をくぐると、正面の鏡張りの柱に一度だけ映る自分の姿を見た。地味な買い足しジャケット、疲れた中年の顔、静かな目。佐藤から見れば、自分はもう「追ってくる相手」だ。ならば、次は相手の得意な場所に入ることになる。
非常用階段の扉は重かった。押し開けると、空気が急に変わる。
商業フロアの甘い匂いと音楽は消え、薄暗いコンクリートの匂いと、階段室特有のこもった冷気が支配する。壁は灰色。非常灯の緑が各踊り場に沈んでいる。上から誰かが急いで降りる靴音はない。下からもない。ビルの喧騒が嘘みたいに遠い。こういう場所は、狭所戦に最適だ。
鷺宮は一段一段を上る。足音はできるだけ殺す。ただし完全には消さない。追っていることを相手に知らせた上で、速度を読ませすぎない。
四階。
五階。
六階へ差しかかったところで、空気がわずかに変わった。
人の気配はない。だが、上方から視線のような圧が落ちてくる。鷺宮は手すりの内側へ身体をずらしながら、視線だけを上へ送った。
その瞬間、上階の踊り場から、金属音とともに細い何かが落ちてきた。
スマホ用の三脚だった。
折り畳み式の軽いものだが、狭い階段室で上から落とせば十分な凶器になる。鷺宮は半歩下がって避ける。三脚は手すりに当たり、跳ね、階段へ落ちて派手な音を立てた。その音がまだ反響している間に、上から影が降ってくる。
佐藤あかりだった。
七階と六階の間の踊り場から、手すりを利用して斜めに飛び下りてくる。普通の人間なら足を折る角度だ。だが彼女は片足を壁に当てて勢いを逃がし、そのまま鷺宮の肩口へ鋭く刃を走らせた。
鷺宮は上体を沈め、階段の幅の中で最小限だけ身体を開く。刃先が髪を数本さらう。女の着地と同時に、二撃目が来る。今度は下段。脛を払う軌道。階段では脚を壊せば勝ちだ。鷺宮は手すりに左手をかけ、自分の身体を半回転させるようにして刃を外した。革靴の底が段の角をかすめる。
「……やっぱり追ってくる」
佐藤が言った。呼吸は乱れていない。
「あなたがわざわざ見せたからだ」
鷺宮は答える。
「川瀬雅也に会っていたのは、あなたですね」
佐藤は笑った。
「質問しながら戦う余裕、あるんだ」
返事の代わりに、鷺宮は踊り場へ一歩詰める。だが直後、上方から別の攻撃が降る。階段室の壁際に置いてあった消火器だ。女はあらかじめピンを抜いておき、階段の段差を滑らせるように落としてきた。赤い金属の塊が、踊り場と手すりの間を跳ねながら迫る。鷺宮は手すりの内側へ身体を逃がし、消火器をやり過ごす。次の瞬間、白い粉末が吹く。視界を曇らせるための圧噴射だった。
階段室が一気に白くなる。
佐藤はその粉の中へ自分から突っ込んでくる。視界を均一に奪われる前に、位置関係だけで仕留めるつもりだ。狭所戦の判断が速い。鷺宮は足音ではなく、空気の切れと段の軋みで位置を読む。刃が喉を狙う。彼は肘で受け、もう一方の手で女の手首を外側へ流す。金属が壁に当たり、火花ではなく乾いた擦過音を出した。
白い消火粉が、二人の黒い髪と肩に降る。
佐藤は間髪入れず、今度は手すり越しに身を投げるようにして角度を変えた。上方からの攻撃。階段戦では、上を取った側が有利だ。重力と段差が味方になる。女はそれを徹底して使ってくる。踊り場の縁に片手をつき、身体を斜めに浮かせるようにして、鷺宮の視界の死角から膝を入れた。脇腹へ鈍い衝撃。鷺宮の息が一瞬詰まる。
劣勢だった。
上を取られ、視界は白く、段差のせいで踏み込みも殺される。真正面から力で押すなら不利だ。だが鷺宮は不利な時ほど、動きが静かになる。
佐藤はそこを狙っていたのかもしれない。彼女は踊り場の上に半身を置き、見下ろす形で刃を低く構えた。
「荷改組は、直接戦闘能力がほとんどないはずなのに」
わずかに白く曇る階段室の中で、黒髪の女が言った。
「何であなたはそんなに強いの?」
鷺宮は答えない。
答える代わりに、一段だけ下がる。
佐藤の目が細くなる。逃げるのか、それとも誘うのかを測っている。
鷺宮自身の内側では、その問いかけが、遠い記憶の蓋をひらきかけていた。
◆
幼い頃の鷺宮は、よく祖父の家の土間の匂いを覚えていた。
今思えば、あの家は普通の旧家ではなかった。関東の外れ、川と畑に挟まれた集落の奥に、瓦屋根の古い家がひっそり建っていた。表向きは、代々、紙問屋の帳面整理と土地の仲介をしてきた一族。だが家の奥には、人に見せない部屋があった。帳面は並んでいるのに、苗字の記録は曖昧で、親族の数も妙に少ない。出入りする男たちは皆、物腰が柔らかく、しかし誰一人として背中を壁に預けなかった。
祖父の名は、鷺宮敏忠といった。
家の中では「じいさま」としか呼ばれず、外では穏やかな老人を演じていたが、荷改組の最後の首領と呼べる男だった。昔気質の商人のような顔をして、話す時はいつも静かだった。けれどその眼だけは、獲物の逃げ道を常に先回りしている人間のものだった。
敏樹がまだ小学校に上がる前、ある夜、祖父は帳場の奥に彼を座らせて言った。
「荷改組の者は、刀を抜く前に勝たねばならん」
燭台の火が、祖父の皺の深い顔を照らしていた。
「行き先を知り、泊まり先を知り、金の出どころを知り、誰が裏切るかを知り、どこで一人になるかを知る。そこまで知って、ようやく刃を持つ意味が出る。知らずに抜く刀は、ただの乱暴者のものだ」
幼い敏樹は、その時は半分もわかっていなかった。ただ、祖父の言葉はいつも「話」ではなく「決まり」に聞こえた。
だがある時、敏樹は訊いたことがある。
「じゃあ、荷改組は弱いの?」
子供らしい、まっすぐな問いだった。
祖父は少しだけ目を細め、それから珍しく笑った。
「弱い、というより、そこに賭けぬのだ」
そしてすぐに笑みを消し、低い声で続けた。
「だが、最後には純然たる個の武力がものを言う。荷改組がその任を全うするためにも、幾人かの武の達人は必要なのだ」
その時の祖父の声を、敏樹は今でも忘れていない。
最後には純然たる個の武力がものを言う。
荷の流れも、帳面も、偽装も、誘導も、先回りも、すべてが完璧に積み上がっていても、最後の最後に相手と自分だけが向き合う瞬間が来る。そこで斬られる者は、組全体を破る。荷改組は本来、直接戦闘を避ける流儀だ。だからこそ、その例外を担う一人が必要になる。逃げず、狭い場所でも、高所でも、水際でも、式部組の近接最強すら上回る「純然たる武力」。
敏樹は、そのために育てられた。
訓練は、八歳の頃にはすでに始まっていた。
最初は遊びのようだった。暗い蔵の中を音を立てずに歩く。紙を一枚落とさずに棚の間を抜ける。背後から投げられた石を、振り返らずに避ける。庭の飛び石を、夜のうちに目を閉じて辿る。茶碗の水をこぼさずに走る。階段を上る時、どの段が軋むかを覚える。人の話を聞きながら、同時に襖の向こうの人数を当てる。そんなことばかりだった。
けれど十になる頃には、訓練は骨を持ち始めた。
寒い冬の朝、薄い道着一枚で井戸水を浴びせられ、そのまま凍った土の上を裸足で走らされた。両手に帳面と石を持って、腕が痺れて落とすまで構えさせられた。眠らせずに三日間、計算と暗記と体術を繰り返させられ、数字を間違えるたびに床へ投げられた。ひも一本で手首を締められた状態で、呼吸だけで心拍を落とす訓練をした。狭い押し入れに閉じ込められ、外から棒で襖を突かれ続ける中で、どの角度なら致命を避けられるかを身体で覚えさせられた。
祖父は決して感情的に殴らなかった。そこが余計に恐ろしかった。怒っているのではない。ただ必要だから壊す。その冷たさが、幼い敏樹には何より堪えた。
十二になる頃には、相手役が変わった。
式部組の老いた使い手が来た。庭詰組の男が来た。坂狩組上がりの足の速い女が来た。書院組のように薬の匂いを纏った痩せた男が来た。彼らは誰も名乗らず、敏樹を子供扱いしなかった。転べば踏み、遅れれば喉元に木刀を突きつけ、音を立てれば耳元で囁くように「死んだぞ」と言った。日が暮れてから始まり、夜明け前まで終わらないこともあった。
食事も訓練の一部だった。
食べながら、祖父は必ず何かを問いかける。今日、庭の石の配置は何ヶ所変わったか。裏口から入ってきた男は右利きか左利きか。二番目の帳面の赤字は、どの数字だけ後から書き換えられたか。答えられないと、食事は片づけられた。空腹のまま眠らされる。眠るといっても、深くは眠れない。夜中に叩き起こされ、暗い廊下で刃物を持たされたこともある。
式部組の者は、近接において無音で距離を詰める術に長けていた。敏樹は何度も木刀で喉を打たれ、膝を払われ、畳へ顔から落ちた。坂狩組上がりの女は、坂と段差を使って容赦なく上を取った。庭詰組の男は、木々と石灯籠の影で姿を消す。彼らに共通していたのは、敏樹が子供だからといって加減をしないことだった。
祖父は、訓練が終わったあとも決して褒めなかった。
「今日、三度死んだ」
「はい」
「明日は二度にしろ」
それだけだった。
十五になる頃には、骨が折れることも珍しくなくなった。左手の小指は一度、関節ごと潰された。右肋骨にひびが入ったまま一月、訓練を続けたこともある。熱を出しても、意識が飛ばない限り、休みにはならなかった。訓練相手の木刀はいつからか真剣より怖くなり、夜の庭を歩く風の音だけで身体が反応するようになっていた。
十七の冬、祖父は初めて敏樹を真冬の山へ連れていった。雪の残る斜面で、三日間、食を削りながら追跡と回避を繰り返させた。背後から追うのは、式部組の老爺と崖端組出身の男だった。雪に足跡がつく。息が白く残る。山の中で音は遠くまで響く。そこでも祖父は言った。
「最後は個だ。組ではない」
その声は凍っていた。
「荷改組の手は、継ぎ目で勝つ。だが継ぎ目が潰れた時、おまえだけは正面から勝てなければならん」
敏樹はその意味を、その時はほとんど呪いとして受け取った。
大人になるまでの訓練は、結局、教育ではなく加工だったのだと、彼はあとから気づいた。祖父は孫を育てたのではない。荷改組が滅びないための一本の道具を、人体から削り出したのだ。泣くことも、痛いと訴えることも、やめたいと思うことも許された。だが、許されたからといって止まることはなかった。泣いても続き、吐いても続き、眠っても起こされて続いた。
そうして鷺宮敏樹は、帳面と荷を読む人間であると同時に、近接最強の式部組をも上回る殺人兵器として仕上げられた。
祖父が死ぬ直前に言った言葉を、彼は今でも覚えている。
「おまえは荷改組ではあるが、荷改組で終わるな。組の型に収まれば、いつかその型ごと読まれる」
それはたぶん、最後の教えだった。
◆
白い消火粉の残る階段室へ、意識が戻る。
佐藤あかりはまだ一段上にいた。上方の優位を手放していない。だが鷺宮の内側では、遠い訓練の冷たさが、いまの身体へ静かに繋がっていた。
彼は一度だけ息を吐く。
それは、幼い頃から叩き込まれた呼吸だった。心拍を一段落とし、視界から余計なものを外すための息。
佐藤が動く。
上段からの突き。踊り場の縁を使って、自分の腕の長さ以上の間合いを作る攻撃だ。鷺宮は避けず、あえて半歩だけ前へ入る。刃の最も速い位置を殺すためだ。佐藤の目が一瞬だけ細くなる。踏み込むか、と読んだその先で、鷺宮は手すりに左足を乗せ、自分の身体を斜めに浮かせる。階段ではあり得ない角度だった。まるで坂狩組の女に叩き込まれた機動が、そのまま十数年越しに蘇ったようだった。
佐藤の刃が空を切る。
そのすれ違いざま、鷺宮の右肘が女の前腕を正確に打つ。ナイフの軌道がぶれる。続けて、手すりを軸に身体を捻った鷺宮の踵が、女の膝の外側を払った。崩れる。階段で膝を壊せば終わる。だが佐藤も訓練されている。崩れながら手すりを掴み、転倒を最小限で止めた。
そこへさらに、鷺宮の攻撃が来る。
階段室の壁に立てかけられていた「清掃中」と書かれた黄色い折り畳み看板を、彼は蹴り上げた。安っぽいプラスチックだが、狭い場所では十分な遮蔽物になる。看板が女の視界を遮る一瞬で、鷺宮は距離を詰める。佐藤は反射的に看板を払うが、その時にはもう、鷺宮の左手が彼女の利き腕の肘を捉えていた。
関節が極まる。
佐藤の口元が初めて歪む。
だが彼女は悲鳴を上げない。代わりに、空いた手で消火器のホースを掴み、それを鷺宮の顔へ打ちつけようとした。即席武器の転用。やはりうまい。鷺宮は頭をずらしながら、肘をさらに内側へ折り込む。女の肩関節が悲鳴に近い軋みを上げた。
佐藤はそこで、自分から段差を利用して身体を落とした。普通なら関節が外れる角度だ。だが脱臼寸前の痛みを利用して、自分ごと下段へ滑り、拘束を切る。血が混じった呼吸が白い粉の中に散る。着地した瞬間、彼女は階段の段鼻を蹴って、今度は下から上へ攻めてきた。
上下が逆転する。
階段室では一瞬で位置が変わる。さっきまで上方の圧を持っていた女が、今度は下段から鷺宮の足首と脛を狙う。死角を変え続けるためだ。鷺宮はその全てを、最小限の動きで捌いていく。手すりを背にし、膝を引き、肘を落とし、刃筋だけを一センチ単位で外す。彼の動きは、派手ではない。だが無駄がなかった。何十年も前、祖父の家の暗い廊下と庭と押し入れで磨かれた動きが、そのまま現代の雑居ビルの非常階段に転写されているようだった。
佐藤の攻撃は鋭い。だが鷺宮は、全部見えていた。
見えていた、というより、来る形が身体の記憶に収まる。式部組の老爺の近接、坂狩組の女の高低差、庭詰組の男の間合い殺し。いま目の前の佐藤あかりは、それらを独自に混ぜ合わせたような強さを持っている。だからこそ、鷺宮の中の古い訓練は、逆に噛み合う。
「……何なの、あなた」
佐藤が息の間で言う。
鷺宮は答えない。
代わりに、踊り場の壁に設置された避難器具の収納箱へ手をかけ、それを乱暴に引いた。金属の扉が開き、中に収められていた避難はしごが半ば落ちる。蛇腹状の金属が、佐藤の足元へ崩れる。彼女は一瞬だけ足場を奪われた。そのわずかな乱れを、鷺宮は逃がさない。
一歩。
半歩。
刃ではなく、手だ。
彼は女の喉元へまっすぐ伸びる手を途中で曲げ、首ではなく顎の下へ掌底を当てた。頭が跳ねる。視線が上を向く。その瞬間、鷺宮の膝が女の腹へ入る。息が止まる。佐藤の身体が折れる。そこへさらに、手首への正確な打ち込み。ナイフが床へ落ち、階段を二段、三段と跳ねていった。
佐藤が舌打ちする。
武器を失った瞬間の判断も早かった。彼女は素手に切り替え、手すりを使って身体を半回転させ、鷺宮の首を狙って腕を巻きつける。締めか、あるいはバランスを崩して階下へ落とす気だ。鷺宮はその腕を自分から首へ通し、逆に相手の体勢を固定した。ここも訓練の反射だった。首を取られるのではなく、取らせた上で相手の肘と肩を殺す。
ゴン、と鈍い音がした。
鷺宮が女の背を、階段室のコンクリート壁に叩きつけたのだ。
佐藤の息が抜ける。
続けて二度目。今度は手加減なく。壁が鳴る。女の指から力が抜け、巻きついた腕がほどける。そこでようやく、鷺宮は彼女の両手首をまとめて掴み、背後に回すように極めた。佐藤は膝で抵抗しようとしたが、その膝も段差に潰される。階段室の狭さが、いまは完全に鷺宮の味方だった。
女が膝をつく。
黒髪が乱れ、息が荒い。紺のスーツには消火粉と白い跡がまだらにつき、脇腹からはさっきの傷が滲んでいる。それでも、その目だけは完全には折れていなかった。
鷺宮は女を踊り場の壁へ押しつけたまま、低く言う。
「川瀬雅也を落としたのはあなたですか」
佐藤は数秒、答えなかった。
代わりに、苦しそうに笑う。
「……それ、今、訊くの?」
「答えてください」
「私じゃない」
その返答は早かった。嘘をつく時の間がない。だが、それだけでは信じられない。
「でも、会っていた」
「ええ」
「何のために」
「あなたと同じ。探ってたの」
鷺宮は眉一つ動かさない。
「あなたが川上を追っていた理由は」
「そこまで、一問一答で教える義理、ある?」
強がりだった。だが完全な虚勢ではない。佐藤あかりという女は、制圧されてもなお、自分の情報価値を計算している。そこが厄介で、同時に使い道でもある。
鷺宮は彼女の手首を極めたまま、しばらく黙った。
階段室の上階から、どこかのテナントの重低音だけが微かに響いてくる。若者向けの雑居ビルの中で、非常階段だけがまるで別世界だった。
「荷改組は直接戦闘能力がほとんどないはずなのに、何であなたはそんなに強いの?」
先ほどの問いを、佐藤はもう一度繰り返した。
今度はさっきより真剣な声音だった。純粋な興味が混じっている。自分が知っている分類から外れる相手に対する、実務者の疑問だ。
鷺宮はやはり答えなかった。
祖父の土間。井戸水。凍った土。折れた小指。眠らせない夜。式部組の老爺の無音の木刀。坂狩組の女の足。庭詰組の男の影。最後には個の武力がものを言う。荷改組がその任を全うするためにも、幾人かの武の達人は必要なのだ。
そんな言葉を、この女に説明する必要はない。
ただ、彼の沈黙を見て、佐藤は何かを悟ったようだった。
「……そう」
彼女は壁へ頬を押しつけられたまま、少しかすれた声で言った。
「普通の荷改組じゃないんだ」
「質問は終わりです」
鷺宮は冷たく言う。
「次は、あなたの番だ。誰に雇われている」
ここで初めて、佐藤は真面目な顔になった。
ふざけた調子も、余裕めいた笑みも消える。
「その前に、一つだけ確認したい」
「聞く立場ではない」
「それでも」
佐藤は短く息を吸った。
「あなた、まだ川上コーポレーションを一人で追うつもり?」
鷺宮は答えない。
「だったら、死ぬよ」
その言い方に、脅しではない硬さがあった。
「今日は崖端組が一人動いただけ。私は別口。これだけで、もう二系統が同じ案件に触ってる。普通じゃない」
鷺宮の目がわずかに細くなる。
「知っているなら話してください」
「話す。話すけど」
佐藤は少しだけ首を動かした。壁に押しつけられた頬の向こうから、こちらを見ようとするように。
「二人で協力しない?」
階段室の空気が、ほんの少し変わった。
「協力してくれるなら」
佐藤あかりは、壁に押さえつけられたまま、それでも笑みに近いものを口元に浮かべた。
「私が誰に雇われたのか、何であなたを調べていたのかも教えてあげる」
鷺宮は黙り込んだ。
非常階段の薄暗い踊り場で、若者向けのテナントの喧騒が遠く響く中、制圧された女はなお取引を持ちかけてくる。敵か味方かではなく、役に立つかどうかで人を測る目。そこに、自分と近いものを見てしまったことが、鷺宮には少しだけ不快だった。
だが同時に、彼女の言うこともまた事実だった。
川上コーポレーションの内部では、すでに複数流派が動いている。荷改組の網でも拾いきれない速度で、人が消され始めている。もし佐藤あかりがただの刺客でないなら、彼女はこの案件の中で、ほかの誰より深い位置にいる。
押さえつけた手の下で、女の脈は速い。だが恐怖で震えている脈ではなかった。賭けに出る人間の、計算された速さだった。
鷺宮はなお、何も言わなかった。
非常灯の緑が、二人の影を階段室の壁へ長く伸ばしている。
協力。
その言葉の危うさを、彼は誰より知っている。
だからこそ、すぐには返事ができなかった。




