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消えた仕訳

 荷改組(にあらためぐみ)の者は、昔から荷と帳面のそばにいる。刀を抜くより先に、行き先を知り、泊まり先を知り、金の出どころを知る。現代では、その多くが事務職に紛れている。会計事務所の事務員、物流倉庫の受入担当、総務部の庶務、ホテルの予約管理。誰にも顔を覚えられず、けれど誰より先に人の流れを掴む者たちだ。


 江戸の町がまだ若く、武家地と町人地の輪郭がいまより鋭く分かれていた頃、荷改組は日本橋の息の中にいた。


 華々しい剣名を持つ流派のように、表に名を掲げたことは一度もない。町道場もなければ、秘伝書もない。荷改組という呼び名も、本来は外から貼られた仮の名前にすぎなかった。荷を改める者、荷を見て中身だけでなく行き先や差出人の癖まで読む者、帳場に立って数字の歪みから人の嘘を拾う者。そうした人間たちが、知らぬ間に同じ匂いで繋がっていっただけだ。


 江戸初期、日本橋は五街道の起点として、あらゆる土地の匂いを吸い込む喉のような場所だった。米、塩、干鰯、反物、薬種、紙、油、酒、刀剣、書物。荷は絶え間なく入り、絶え間なく出ていく。人も同じだった。大名の使い、飛脚、商人、浪人、出入りの職人、奉公に上がる娘、店を飛び出した手代。日本橋という場所は、江戸の心臓というより、血を仕分ける弁のような町だった。


 そこで生き延びるために必要だったのは、豪胆さではない。見落とさない眼と、覚えすぎない顔だった。


 荷改組の祖となった者たちは、多くが戦のあとの半端者だったと伝わる。足軽あがりの者、荷駄隊の残党、兵糧方にいた者、陣中で帳面をつけていた者、戦う前に人と物がどう動くかを見ていた者たちである。槍を振るう腕より先に、どの城に何日分の米があり、どの家中の金回りが急に悪くなったか、どの家臣が逃げる支度をしているかを読む癖がついてしまった人間たち。そういう者は、平和になった世でも消えなかった。いや、平和になったからこそ必要になった。


 戦国の終わりとともに、強者のうち正面から斬り合う者は役目を失ったが、流れを読む者だけは役目を失わなかった。世が落ち着けば落ち着くほど、人は表で争わなくなる。すると裏で動く者が要る。大名家の出入り商人に紛れ、問屋場で荷を改め、宿の帳面をのぞき、誰がどこへ何を運んだかを押さえる。荷改組は、その「前段」を握る者として力を持った。


 彼らは刀の流派ではない。むしろ、刀を抜かずに済ませるための流派に近い。


 ある相手を消すと決まったとき、荷改組の者はまず旅程を知る。どの宿に泊まるか。誰が供に付くか。駕籠を使うか、馬か、舟か。荷はどこへ送られるか。金は誰の名義で動くか。帰りの便はあるか。あらかじめその全部を押さえた上で、事故のように落とし、病のように伏せさせ、道に迷わせ、泊まり先を変えさせる。彼らが好むのは、刃の一瞬ではなく、その前に積み上げる十や二十の小さな改変だった。


 幕末になると、荷改組の性質はさらに変わる。


 町には異国の品が流れ、港の情報が内地へ走り、紙より早く噂が先に届くようになった。誰が異国商人と繋がり、誰が武器を買い、誰が藩札を紙屑に変えようとしているか。幕末は、刀より情報の鮮度が人を殺す時代だった。荷改組は本来の「荷」と「帳面」の技能を、そのまま政治の暗部へ差し込んでいった。


 黒船来航の折、海外の兵士たちは日本の武技を未熟だと笑ったという通説がある。だが一方で、異国の者たちが理解できなかったのは、武技そのものより、町の中で人が不自然に消える仕組みのほうだった。宿を移した記録だけが残り、供の一人が熱病で寝込み、荷が一つ違う蔵へ入り、同道者の一人が「先に向かった」と言い残して、そのまま戻らない。彼らにはそれが、兵の戦いとして認識できなかった。認識できないものは、脅威として整理されにくい。荷改組はその盲点を、本能的に知っていた。


 明治になり、廃藩置県と警察制度の整備で、旧来の組織の多くは潰れた。名のある武辺は職を失い、忍びめいた者たちは記録ごと消された。だが荷改組は、逆に明治を生き延びやすかった。なぜなら彼らの本質は、武ではなく事務だからだ。


 郵便制度が始まれば郵便へ紛れればよかった。鉄道が通れば発着記録のそばへ寄ればよかった。会社ができれば帳場へ入り、銀行ができれば送金の影を見ればよかった。近代国家は、何もないところから突然成立するのではない。必ず膨大な紙と物と人の移動を伴う。荷改組は、その移動の継ぎ目に立つ。どれだけ時代が進んでも、継ぎ目に立つ者は必要とされた。


 大正には保険と会社登記を覚え、昭和には配給票と軍需の流れを覚え、戦後は伝票と領収書と貨物列車の時刻表を覚えた。高度経済成長期には、物流センター、企業受付、総務、経理補助、法律事務、保険事務、派遣コーディネート補助といった「目立たずに全体の流れを見る仕事」へ自然に潜り込んでいった。平成に入れば、顧客データベース、電子カルテ、管理組合台帳、学校の在籍情報、郵便転送記録、ビル管理の監視カメラの死角。世界がデジタルになっても、結局そこに入力するのは人間であり、その人間は驚くほど事務員の顔を覚えない。


 だから荷改組は、現代ではむしろ生きやすい。


 倉庫の在庫管理補助は棚番号と出庫履歴から人の癖を読む。医療機関の医療事務は予約と会計の時間から生活の断面を拾う。調剤薬局の事務員は処方箋と待ち時間の会話から家族構成を知る。マンション管理会社の事務補助は鍵交換履歴と宅配ボックスのトラブル報告から出入りの癖を掴む。ビル管理の防災センター要員は搬入口、監視カメラ、夜間残業者の動線を知る。郵便仕分け担当は住所と転送と法人宛郵便の揺れから生活実態の齟齬を見抜く。学校の事務職員は在籍、証明書発行、来校記録を通じて、表に出ない家の事情に触れる。そういう職が、彼らには向いている。いや、向いているのではなく、そういう職の中に彼らの流儀が残っている。


 鷺宮敏樹は、その末裔だった。


 九重会計事務所の一事務員。五十二歳。顧問先の月次資料を揃え、帳簿を見て、経理担当と話し、時に社長の愚痴を聞き、決算補助をし、淡々と日常を回す男。誰の記憶にも強くは残らない。だが、金の流れと人の流れの継ぎ目に立つという意味では、荷改組のもっとも正統な位置にいるとも言えた。


     ◆


 九重会計事務所へ戻る頃には、外の陽はかなり傾いていた。


 カラオケボックスでの乱闘から、鷺宮は一度、公衆トイレと駅ビルの紳士服売り場を使って応急の体裁を整えていた。耳の下の裂傷は、ドラッグストアで買った絆創膏を肌色テープで押さえ、その上から髪を少しだけ被せている。左前腕の浅い切り傷はワイシャツの袖に隠れる。問題はスーツだった。脇腹の近くが裂け、袖口も一部切られている。さすがにそのまま戻るのはまずいので、売り場で安いジャケットを一枚買い、手持ちのスーツの上から羽織った。六月の終わりにしてはやや重い格好だが、冷房の効いた事務所なら不自然さは薄まる。


 それでも、九重会計事務所のドアを開ける瞬間、鷺宮には珍しくわずかな躊躇があった。


 殺しの帰りに職場へ戻ること自体は、彼にとって珍しくない。いや、正確に言えば、そのような危うい場を潜ってなお、日常の顔へ戻ることは何度もしてきた。だが今回のように、自分も浅くない痕を負い、しかも相手が自分の名を知る熟練者だったケースは多くない。身体よりも神経のほうが鋭く立っている。そういう時ほど、日常の蛍光灯の白さが、妙に眼に刺さる。


「ただいま戻りました」


 扉を開けてそう言うと、何人かが顔を上げた。


 真島緋色が真っ先に反応する。


「あ、おかえりなさい、鷺宮さん。坂下食品、どうでした」


「いつも通り、簡単じゃなかったよ」


 鷺宮はできるだけ平静に答え、自席へ向かう。


 だが、二歩目で視線を感じた。


 椎名明日香だった。


 彼女はさっきまで電話対応をしていたらしいが、鷺宮の姿を見た瞬間、受話器を置くより早く眉をひそめた。華やかな顔立ちの中で、その「違和感に気づいた時」の眼だけは妙に鋭い。


「……鷺宮さん」


「ん?」


「なんか今日、変じゃないですか」


 鷺宮の足がほんのわずかに止まる。


「何が」


「いや、全部」


 椎名は立ち上がって、彼のほうへ歩いてきた。淡いブラウスの裾を揺らしながら、遠慮のない距離まで来る。


「その上着、見たことないし。しかも似合ってない」


「ひどいな」


「それに汗、いつもよりかいてるし」


「暑かったからね」


「あと」


 椎名は、鷺宮の耳の下へ視線を止めた。


「そこ、どうしたんですか」


 しまった、と鷺宮は思った。


 髪で隠したつもりだったが、彼女の角度からは見えたらしい。椎名は間合いを詰めるのがうまい。身体ではなく、視線と会話の詰め方が。


「……ああ、ちょっとね」


「ちょっとで、そんな切れます?」


「駅で」


「駅で?」


「その、酔った人に絡まれて」


 言った瞬間、自分でひどい言い訳だと思った。


 椎名は案の定、目を細める。


「昼間に?」


「昼間でも酔ってる人はいるよ」


「耳の下を?」


「たまたま、手が当たって」


「へえ」


 まったく信じていない顔だった。


「それでジャケットまで買い直したんですか?」


 鷺宮は一瞬だけ詰まる。


 椎名はその隙を見逃さない。


「やっぱり何かあったんじゃないですか。……まさか、女?」


「違うよ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 返事はしたが、しどろもどろだった。自分でもわかるほどに。


 椎名はその様子を見て、表向きには怪訝そうな顔をしながら、内心では別の想像を膨らませていた。


 ――これ、絶対なにか隠してる。


 しかも仕事のトラブルとかじゃない。もっと私的で、説明しにくくて、だからこそ誤魔化したい何かだ。耳の下の傷、裂けたらしいスーツ、妙に似合わない買い足しジャケット、落ち着かない目線。そこから椎名が導き出した仮説は、あまりにも俗っぽかった。


 ――不倫。


 しかもかなり危ない修羅場付きのやつ。


 五十二歳の鷺宮が、若い女とどうこう、という絵は、椎名の中では最初はうまく結ばなかった。だが、逆に考えれば、あの無駄に落ち着いた雰囲気と、何も言わないくせに女の様子だけはよく見ている感じは、そういう方面で妙にモテてもおかしくない。いや、むしろ、ああいう男は危ない女に引っかかる。いや、引っかかるというより、双方承知で泥沼に入りそうだ。


 そう思った瞬間、椎名の胸の奥に、説明しづらいざらつきが生まれた。


 呆れと、苛立ちと、少しの動揺。


 ――なんで私が、こんなことで気になるの。


「椎名さん」


 真島が遠慮がちに声をかける。


「鷺宮さん、たぶん疲れてるんだと思うんで……」


「うん、まあ、そうだよね」


 椎名は一応引いた。だが引いただけで、納得したわけではない。自席へ戻りながらも、ちらちらと鷺宮の横顔を窺ってしまう。あの人、本当に何してるんだろう。しかも、その「何か」の中に自分が絶対に入れてもらえないことが、少しだけ腹立たしかった。


 鷺宮は椎名の視線を感じていたが、今はそれに応じる余裕がない。席に着いてパソコンを開いたところで、所長室のドアが開いた。


「鷺宮くん」


 九重直樹の声だった。


「少しいいかな」


「はい」


 呼ばれるだろうとは思っていた。問題は、何をどこまで見抜かれているかだ。


     ◆


 所長室に入ると、九重はいつも通り茶を淹れていた。


 この人は、場の空気が重いほど、日常の手順を崩さない。湯呑みを二つ並べ、急須を傾け、香りの薄い煎茶を静かに注ぐ。怒っている時も、心配している時も、その手順だけは同じだ。


「座って」


「失礼します」


 鷺宮が腰を下ろすと、九重は湯呑みを差し出した。


「ありがとうございます」


 短く礼を言って受け取る。茶の表面に、自分の顔が少し歪んで映った。


 九重はしばらく黙って鷺宮を見ていた。その眼差しには露骨な詮索はない。ただ、長く人を見てきた者の静かな重さがある。


「君の事情は理解しているつもりだが」


 やがて所長が言った。


 鷺宮は答えない。


「無理だけはするな。川上コーポレーションを追うのは今でなくてもいい」


 その一言で、鷺宮は初めて視線を上げた。


 所長は穏やかな顔を崩していない。だが、ただの労いではなかった。今日の自分の姿、椎名が気づいた程度の乱れを、九重が見逃すはずがない。しかも、昨日の電話の件を知っている。カラオケボックスで何があったかまでは断定していなくとも、少なくとも「無事な接触ではなかった」と読むには十分だろう。


「……無理はしていません」


 鷺宮は言った。


「その台詞を、今の顔で言うと説得力がないな」


 九重は小さく苦笑した。


「私は、君のやり方を全部知っているわけじゃない。だが、君が時々、普通の仕事の範囲を越える場所へ踏み込むことくらいは分かっているつもりだ」


「……」


「止めろ、と言って止まるなら、とっくに言っている」


 九重は湯呑みを置いた。


「だが、急ぐ必要はない。川上の件が本当に大きいなら、なおさらだ。一度引いて、体勢を整えて、それから見たほうがいい」


 その言葉には、命令ではなく、ひどく現実的な助言の響きがあった。


 九重直樹という人は、善悪の言葉だけで人を縛らない。だから鷺宮は、この所長に対してだけは完全に無関心でいられない。もし相手が「危ないからやめろ」とだけ言う人間なら、内心で切り捨てて終わる。だが九重は、「危ないのは分かっている。そのうえで、今は引け」と言う。その言い方は、鷺宮にとって厄介だった。


「今日はもう上がりなさい」


 所長が言う。


「真島くんにも引き継げる仕事は回す。表向きは体調不良でいい」


「……すみません」


「謝らなくていい」


 九重は少しだけ目を細めた。


「君がここに戻ってきた、それで十分だ」


 その言い方に、鷺宮の胸の奥でわずかなざらつきが生まれる。戻ってきた、か。所長はたぶん、そこに別の意味も込めている。


 所長室を出ると、事務所の空気はさっきより静かだった。真島は書類を抱えて忙しそうに動き、椎名は電話対応をしながらもこちらを盗み見ている。御堂俊平だけが、まっすぐにこちらを見た。


「鷺宮さん、もう上がるんですか」


「所長から、今日は休めと」


「そうですか」


 それだけの返答だった。声も表情も乱れない。


 だがその視線の底にあるものを、鷺宮は見た。暗い、粘るようなもの。単純な不満ではない。軽い嫉妬でもない。もっと冷えた、殺意に近い感情だった。


 御堂俊平は、自分より年上で、事務所の主流でもなく、派手な実績を誇示することもない鷺宮が、なぜか所長にだけは特別な位置を与えられていることを、ずっと面白く思っていない。仕事上の信頼、距離感、言外の了解。そうしたものが、自分には与えられていないと感じているのだろう。そこへ今日、鷺宮は明らかに何かを隠して戻ってきた。それでも所長は責めず、むしろ早退を許した。


 御堂から見れば、それは贔屓以外の何ものでもない。


 ――なぜあの男だけが。


 その感情が濃くなれば、人は理屈より先に相手の失脚を願う。御堂の眼差しには、そこまでの温度があった。


 鷺宮は何も言わず、机の上を軽く片付けた。椎名が「本当に大丈夫なんですか」ともう一度聞きかけたが、九重が奥で電話を取り始めたため、その隙に会釈だけして事務所を出る。


 背中に、椎名の疑うような視線と、御堂の冷たい視線が重なって刺さっていた。


     ◆


 外へ出ると、夕方の街はすでに別の顔をしていた。


 鷺宮は駅前へ歩きながら、スマートフォンの中の、ごく限られた連絡先を順に思い浮かべる。荷改組の流儀は、組織の名で固まることではなく、職と癖でゆるく繋がることにある。同胞同士でも、本名も過去も知らないまま一生を終えることが多い。ただ、情報の端と端を繋ぐ時だけ、細い糸が生きる。


 佐藤あかりと名乗った女の素性を、正面から洗うことはできない。だが、彼女のような人間は、完全な無からは現れない。どこかの導線に触れている。荷改組の網で拾えるほどには薄い痕跡を、いくつか残しているはずだった。


 鷺宮が最初にかけたのは、倉庫の在庫管理補助をしている男だった。


 相手は「樋口」としか名乗らない。郊外の医療機器倉庫で在庫差異と出庫履歴を見て暮らしている、無口な四十男である。電話に出ても、いつも「何だ」しか言わない。


「少し、人を探している」


 鷺宮が言う。


「女。三十前後。黒髪。黒縁眼鏡を使うことがある。動きがいい。最近、企業関係の人間を装って動いている」


 樋口は数秒黙ったあと、「雑だな」と言った。


「もっと特徴は」


「受け身が自然だ。狭い場所でも間を殺さない。たぶん、物流そのものより、物流に乗っている人間を追う側だ」


「……女で、その手合いか」


 電話の向こうで、紙をめくるような音がした。


「去年、湾岸の共同倉庫で妙な監査が入った。荷の中身じゃなく、誰が何時に受け取ったかばかり聞く女がいた。現場では外部監査会社の補助って話だったが、在庫の癖じゃなく導線ばかり見ていた。黒縁をかけたり外したりしていたな」


「名前は」


「“佐伯”と名乗ってた。偽名臭いが。倉庫番号より、搬入口の監視カメラの死角に詳しすぎた」


「ありがとう」


「その女、面倒か」


「かなり」


「なら、倉庫側の人間じゃない。倉庫は借りてるだけだ。もっと上流を見るべきだ」


 通話を切る。


 次に、医療機関の医療事務をしている女へ連絡する。名を「片瀬」とだけ知っている。大きな総合病院で外来予約と会計の窓口を回している、三十代半ばの女だ。彼女は人の声色を覚えるのが異様にうまい。


「その女」


 片瀬は鷺宮の説明を聞くなり、すぐに言った。


「たぶん一度、整形の再診で来てる」


「どこへ」


「うち。半年くらい前。名前は違った。確か“高梨”。でも、受傷理由の説明が不自然だった。転倒って言うわりに、肩と肋の傷が左右で違う。あと、会計待ちの間、ずっと他人の名前を呼ぶタイミングを聞いてた」


「患者を探していた?」


「患者というより、病院の流れ。どの診療科がどの時間に混むか、付き添いがどこに立つか、どこで人が孤立するか」


「薬は」


「痛み止めだけ。受け取りは本人。でも処方箋の住所、たぶんダミー。郵便番号と町名が噛み合ってなかった」


 鷺宮はその情報を頭の中へ置く。倉庫、病院、死角、流れを見る目。女は単なる現場の殺し屋ではない。場所に適応するための下見を、自分の足でやる。


 次は調剤薬局の事務員だ。相手は「笹目」。口数の多い男で、患者の家族構成を待ち時間だけで当てるのが癖になっている。


「黒縁の女?」


 笹目は少し考えてから、「ああ」と言った。


「来たことある。処方箋の受け取りじゃなく、誰かを待ってた。薬局の壁際の席から、店内の鏡越しに入口と会計を両方見てた。あれは患者じゃない」


「会話は」


「ほとんどなし。ただ、帰り際に“この辺、夜でも人通りありますか”って訊いた。妙にさらっと」


「場所は?」


「市役所の裏の薬局だ。周辺に弁護士会館と古いオフィスビルがある」


 次にマンション管理会社の事務補助。名を「堀部」という。鍵交換や修繕立会の履歴を眺めながら、住民の生活導線を紙の上で追うのが得意な男だ。


「女単身で短期契約を転々としてる気配がある」


 堀部は即答した。


「名前はその都度違う。だけど、同じ保証会社を経由してる形跡が去年の冬から三件ある。共通してるのは、荷物が少ないことと、入居後すぐ宅配ボックスの死角を確認してること。普通の女はそんなことしない」


「エリアは」


「中野、曙橋、田端。どこも駅には近いが、一本入ると古いビルと住宅が混ざる場所だ」


 ビル管理の防災センター要員にも連絡する。名は「島津」。彼は防災センターという中途半端に目立たない場所から、建物全体の出入りを見ている。


「似た女なら、霞が関寄りのテナントビルで見た」


「いつ」


「三ヶ月前。夜。残業者の動線を聞いてきた。テナント社員じゃなく、清掃業者の臨時って触れ込みだったが、清掃道具を持つ手に無駄がなかった。清掃の人間は、もっと身体で道具を持つ」


「顔は」


「化粧を薄くしてたが、目つきは鋭い。片方の耳たぶに、ごく小さい傷があった」


 鷺宮は歩きながら、自分の耳の下の絆創膏を無意識に指でなぞった。


 次に郵便仕分け担当の「志田」。転居届と転送記録の癖から、人の逃亡先を読める女だ。


「佐藤あかり、の名では大したものはない」


 志田はそう言った。


「でも、似た手口の転居届がある。女一人、短期、勤め先未記載、転送希望は法人私書箱経由。しかも転居後すぐに解除。普通は逆。誰かからの追跡をわざと一度引っかけるやり方に見える」


「地域は」


「品川、神田、池袋。全部半年以内」


 最後に、学校事務職員の「宮部」へ。彼女は在籍記録と保護者連絡先から、家の嘘を見抜くのがうまい。


「女本人じゃないけど」


 宮部は言う。


「三年前、夜間の専門学校に短期だけ在籍した記録がある。名前は違う。ただ、提出書類の字が二種類あった。表向き用の丸い字と、雑記にだけ出る角張った字。写真の雰囲気は、あなたが言う人物像に近いかもしれない。受講してたのは医療事務と法務文書処理の基礎。普通の転職目的には組み合わせが変だった」


「資料は残ってるか」


「規定上、細部は出せない。でも、顔写真の印象だけなら送れる。五分待って」


 ほどなくして、ぼやけた証明写真が暗号化された形で届く。鷺宮は駅前の人波を避けるように歩道橋の端へ寄り、画面を見た。今より髪が少し長い。眼鏡もない。だが顔の骨格と、無表情にした時の口元の硬さは、確かに佐藤あかりのものだった。


 断片ばかりだ。


 だが断片は、組み立てれば流れになる。


 倉庫、病院、薬局、短期賃貸、ビル夜間動線、転送記録、夜間専門学校。女は一つの職能に固定されていない。むしろ、場所ごとのインフラと日常導線を学ぶために、必要な知識を意図的にかじっている。医療事務、法務文書、清掃業務、監査補助、外部協力。どれも「そこにいても不自然ではない顔」を作るための皮だ。


 そして、その皮を着るたびに、本名も住所も変えている。


 つまり彼女は、単独でも生きられるよう訓練された人間だ。どこかの大組織に庇護される現場要員ではなく、自分で環境に擬態し、必要な時だけ雇われる、あるいは動く。だが同時に、今日のカラオケボックスの仕掛けから見て、完全な野良でもない。川上コーポレーションの内側に触れる相応の後ろ盾か依頼元がある。


 もう一つ、鷺宮の頭に残るものがあった。


 彼女は、自分の名を知っていた。


 こちらを釣るだけなら、九重会計事務所の担当者としての基本情報で足りる。わざわざ業務用携帯へかけ、さらに最後に「鷺宮さん」と親しげに呼び捨てに近い距離感で告げたのは、脅しというより確認に近かった。あなたを知っている、という印。つまり彼女の側にも、鷺宮敏樹をどこかで調べた痕がある。


 そこまで考えたところで、街の光が増えてきた。


 駅前から繁華街へ流れる人波が濃くなる。居酒屋の看板が灯り、ドラッグストアの電子音が流れ、スーツ姿の会社員たちが群れで歩き、学生たちが笑いながらすれ違う。金曜でもないのに、街は妙に浮ついていた。


 鷺宮は人混みの中を、少しだけ俯きがちに歩く。考えが深まる時ほど、彼は周囲から見ればただの疲れた中年になる。荷改組の者が人波の中に紛れる時、その姿はたいてい最も記憶に残らない形をとる。


 佐藤あかり。仮名。おそらく複数の都市インフラに擬態可能な女。狭所戦に強く、即席の武器の転用に躊躇がなく、現場からの離脱判断も速い。職能擬態の多彩さから考えて、荷改組の亜流、もしくは本郷の書院組的な知識型技能を組み合わせた新しい型かもしれない。あるいは、もっと単純に、複数流派の技術を金で買ってきた混成。


 だが、川上コーポレーションの件にあれだけの人間が出てくるということは、内部の不正は単なる会計操作では終わらない。誰かが、見せていい数字と見せてはいけない数字の境界を越えたのだ。


 その時だった。


 悲鳴が上がった。


 女の甲高い声。続けて、別の誰かの叫び。人の流れが一瞬だけ歪む。視線が一方向へ吸われていく。


 鷺宮は足を止め、群衆の視線を追った。


 夜空を切り取るように聳える、二十階建てのオフィスビル。その屋上の縁に、人影が立っていた。距離はある。普通の人間なら、黒い点が高所にいるとしか分からない。だが鷺宮の眼は違う。街灯と看板の反射、ガラス面の光、空の残照。そのわずかな条件の中で、彼は人影の姿勢を読んだ。


 男だった。


 スーツ姿。片腕を不自然に上げている。ふらついているようにも見える。


「やばい、飛ぶんじゃないの!」


 誰かが叫ぶ。


「警察! 救急!」


 群衆がざわめく。スマートフォンを向ける者もいる。駅前の雑踏特有の、出来事への距離の取り方だ。自分は安全圏から見ているだけだと思っている。


 鷺宮は動かなかった。


 その人影の肩の傾きが、おかしかったからだ。


 飛び降り自殺を決意した人間は、縁に立つ時にもっと自分の重心を抱え込む。足裏に迷いが乗る。だが今、屋上に立っている男の姿勢は、妙に前へ開いている。自分で落ちる前傾ではなく、落とされる直前の「逃げられない平衡」に近い。


 次の瞬間、人影が落ちた。


 群衆の悲鳴が一段大きくなる。


 人は高所から落ちるとき、ただ点のように落ちるわけではない。腕が開く。脚が遅れてついてくる。空気を掴もうとして、身体がいびつな弧を描く。だがその男の落下姿勢は、異様に整っていた。頭からではない。背中からでもない。正面をわずかに残したまま、ほとんど「自分で一歩踏み出した」ような形で落ちる。本人の意思に見える、美しい落ち方。


 地面に激突するまで、数秒もなかった。


 鈍い、湿った音。


 人混みが波のように引く。誰かが吐く。誰かが泣き叫ぶ。スマホを構えたまま固まる者。走り出す者。腰を抜かす者。夜の繁華街は一瞬で、祭りの熱から事故現場の冷えへ変わった。


 鷺宮はすでに歩き出していた。


 人波を押し分けるでもなく、斜めに滑るように現場へ寄る。近づきながら、落下した男の胸元を見る。スーツのラペルに、細長い社員証ケースがまだ揺れていた。一般人には読めない距離でも、鷺宮の眼はその文字を拾う。


 川上コーポレーション


 舌の上で、言葉が冷たく固まる。


 男は三十代後半か四十代前半。頭部は原形をとどめないが、落下直前に人の視線を避けるような苦悶は見えなかった。いや、見えなかったこと自体が不自然だ。高所から自分の意思で飛ぶ人間は、最後の一歩にもっと生の迷いが出る。だがあの男は、迷いごと形を整えられて落ちた。


 それが何を意味するか、鷺宮は知っていた。


 自分の意思で飛び降りたかのような姿勢で、他人を落とす技術。


 それは牛込で発達した崖端組(がけばたぐみ)の異能だった。


 崖端組は、切ることより、逃げ道を消すことに長ける。相手を追い詰め、視界と足場を奪い、最後の一歩だけ本人に踏ませる。崖、石段、寺社裏、台地の縁。そうした高低差の場で磨かれたのは、「押す」のではなく「踏ませる」技だ。肩の向き、視線の誘導、身体の微妙な捻り。本人の身体に、自分で落ちるしかない角度を一瞬だけ作る。外から見れば、自死に見える。だが実際には、崖端組の者が背後から世界の傾きをほんの少し変えている。


 いま目の前で起きたのは、それだった。


 群衆は誰も気づかない。警察もまずは自殺を疑うだろう。屋上へ続く防犯カメラと遺書の有無が争点になり、落下姿勢の美しさなど問題にもされない。


 だが鷺宮には分かる。


 川上コーポレーションの人間が一人、消された。


 しかも、佐藤あかりが現れたその日のうちに。


 つまり、川上の内側ではすでに、情報の消去が始まっている。荷改組的な追跡が必要な女と、崖端組的な高所処理。複数系統の技術が同時に動いている。これは単独犯の仕事ではない。少なくとも、複数の流儀が同じ案件に触れている。


 救急車のサイレンが遠くから近づいてくる。


 誰かが「見ちゃった……」と震えた声を漏らす。別の誰かが「離れてください!」と叫ぶ。夜のネオンが、血の黒さを余計に現実離れさせていた。


 鷺宮は人混みの一番外側まで下がった。


 いまここでしゃがみ込み、遺体の近くを確かめることはできない。できたとしても意味は薄い。技術はほとんど痕跡を残さない。残るのは、行き先を知っていた者だけだ。


 荷改組の流儀に従えば、次に見るべきは死体ではない。


 この男が、どこへ向かう予定だったのか。

 誰と会うはずだったのか。

 なぜ、このビルの屋上へいたのか。


 鷺宮は群衆から離れながら、スマートフォンを取り出した。画面に映る自分の顔は、駅前のネオンで薄く染まっている。耳の下の絆創膏が、街の光の中で妙に白かった。


 川上コーポレーション。佐藤あかり。崖端組。


 ばらばらのはずの線が、急に近づいてきている。


 会計事務所の蛍光灯の下で、傷を隠して日常へ戻ろうとした男は、その日の夜の繁華街で、もう一つの日常が完全に壊れた瞬間を見ることになった。

 消えた仕訳を追う話だったはずが、今や人が露骨に消され始めている。

 そして鷺宮敏樹は、その手口を知っているがゆえに、もう後戻りができない。


 夜空から落ちた一人の男の姿は、川上コーポレーションの闇が、単なる不正会計では済まないことを告げる最初の鐘だった。


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