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交わりの刃

 坂下食品を出てから、鷺宮は一度だけ腕時計を見た。


 約束の時間まで、まだ少し余裕がある。


 川上コーポレーションの経理担当を名乗る女が指定してきたのは、郊外の大きな幹線道路沿いにあるカラオケボックスだった。駅前や喫茶店ではなく、わざわざ車で行くような場所。平日の午後なら学生も少なく、サラリーマンの姿もまばらだ。広い駐車場、道路から直接出入りできる立地、個室、長居しても不自然ではない環境。


 鷺宮は、その指定場所を聞いた時点で、かなり強い違和感を覚えていた。


 だが行かなければ分からないこともある。


 呼び出しに応じること自体は、むしろ必要だった。


 カラオケボックスは、派手な看板とガラス張りの玄関を持つ、ごくありふれた郊外型店舗だった。受付の若い店員は、昼間のだるさを隠しきれていない顔で会計機を操作し、廊下には甘い芳香剤の匂いが漂っている。薄暗い照明、壁に貼られた期間限定メニューのポスター、磨耗したカーペット。どこにでもある空間だ。だからこそ、人はここが「戦場」になり得るとは思わない。


 通された部屋は二人用に近い小さな個室だった。


 低いソファが向かい合い、壁には曲選択用のタッチパネルモニター。テーブルの上には呼び出しボタン、メニュー表、紙おしぼりの空袋。片隅にはタンバリンとマラカスが無造作に置かれ、壁掛けの大型モニターはデモ映像のまま音を消して流れている。天井近くのスピーカーからは、廊下のざわめきとわずかな機械音が漏れていた。ドリンクバーの安っぽいシロップの匂いも、エアコンの風に混じっている。この手の店には珍しく、氷水を満たした水差しも備え付けられていた。


 鷺宮はソファに深く腰を下ろし、アタッシュケースを脚元に置いた。


 部屋は狭い。ドアからテーブルまで四歩もない。照明は暖色寄りで、影が柔らかく落ちる。その柔らかさが、逆に人の表情を読みづらくする。壁は防音材で厚く、外の音はよく切れる。叫び声がどこまで漏れるかは分からない。机は軽い合板、灰皿代わりの小皿、ガラスの水差し、備え付けのリモコン、プラスチック製のメニュー立て。使える物はいくつもある。


 この空間に入った瞬間、鷺宮は頭の中でそういう分類を終えていた。


 十分ほど経った頃、ドアの向こうで足音が止まった。


 ノックはなかった。


 取っ手が回り、女が入ってくる。


 黒髪。黒縁メガネ。上下紺のパンツスーツ。年齢は二十代後半から三十代前半。背は高くない。肩は少しすぼまり、目元には気の弱そうな影がある。派手さのない顔立ちで、化粧も薄い。川上コーポレーションの経理課にいそうだと言われれば、たしかにそう見える。誰かの指示を断れず、長年不正処理に手を貸させられてきた事務員。そういう役を演じるには、よくできた外見だった。


「……すみません、お待たせしました」


 女は少し緊張したように会釈した。そして、若干迷った後、意を決した風に名乗った。


「佐藤あかり、です」


「どうぞ」


 鷺宮は向かいの席を手で示した。


 佐藤あかりはソファの端に浅く座る。膝を揃え、バッグを抱くように持つ仕草まで、弱さを演出しているようにも、本当に怯えているようにも見える。そう見せること自体が、まず巧い。


「本当に来ていただけるとは思わなくて……」


「用件を聞きましょう」


「はい」


 彼女は一度唇を湿らせた。


「川上コーポレーションでは、かなり前から関連会社との間で不自然な取引があって……」


「待ってください」


 鷺宮が言った。


 佐藤あかりの声が止まる。


「その前に、確認したいことがあります」


「……何でしょう」


 鷺宮は黒縁メガネの奥の目を静かに見た。


「あなたは、どこの組の方ですか?」


 空気が変わった。


 ほんの一瞬、女の表情が空白になる。すぐに困惑を浮かべたが、その切り替えの速さが逆に不自然だった。


「……何を言われているのか、わかりません」


「そうですか」


 鷺宮はソファにもたれたまま、姿勢を崩さない。


「あなたには不審な点しかない。まず、なぜ私の業務用携帯の番号を知っているのでしょう」


 佐藤は目を伏せ、ほんのわずかに呼吸を乱した。だが次の返答は早かった。


「そ、それは……以前に会計事務をお願いした時の情報が残っていたからです。事務所よりも、携帯にかけたほうが真剣に取り合ってくれる気がするし……」


「おかしいですね」


 鷺宮の声は穏やかだった。


「川上コーポレーションとお付き合いがあったのは、もう十五年も昔の話です。その頃、当事務所は職員に携帯電話を支給していないのですが」


 沈黙。


 佐藤あかりの指先が、バッグの持ち手を少し強く握った。


 鷺宮は続ける。


「まあ、いいでしょう。でもね、他にも不審な点は何個もあるのですよ」


 女は顔を上げる。逃げるべきか、誤魔化すべきか、その計算が眼の奥で瞬いていた。


「たとえば一つ目。あなたは最初の電話で、川上コーポレーション本体の経理課だと言った。ところが、社内事情の話し方が妙に一般論に寄っている。長年加担してきた人間なら、もっと固有名詞が先に出るはずです。勘定科目の名称、関係会社の癖、決裁の流れ、誰がどの伝票に触るか。そういう“中にいる人間の言い方”が、あなたには薄い」


 佐藤の唇がわずかに強張る。


「二つ目。怯えている人間は、自分の安全を最優先にします。けれどあなたは、電話でやたらと私の職業的関心を引く言葉を選びすぎていた。“不正”“関連会社”“仕訳”“消されたファイル”。会計事務所の人間が乗ってきやすい餌を、あまりにもきれいに並べていた」


 女は何も言わない。


「三つ目。あなたは“会計事務所の人なら数字の話として聞いてくれると思った”と言った。でも、本当に追い詰められている経理担当なら、まず自分の身の危険を訴えるものです。あなたはそれも言ったが、順番が逆だった。相談したい人間の順番ではなく、相手を誘導したい人間の順番でした」


 佐藤あかりの目が、わずかに細くなる。怯えた女の仮面に、別の硬さがにじみ始めていた。


 鷺宮はその変化を見逃さなかった。


「そして、そもそもこの場所の設定が明確な意図を感じすぎる」


 部屋の壁、ドア、テーブル、モニター、スピーカー、天井の監視カメラの死角になっている角度まで、彼は視線だけで示すように言った。


「味方に引き入れるために説得し、拒否したらこの場で殺すために最適だ」


「そんなことは――」


 佐藤が反射的に否定する。


 だが、その先が続かなかった。


 鷺宮がただ静かに彼女を見ていたからだ。


 声を荒げてもいない。手も動かしていない。なのにその視線には、こちらの嘘をすでにすべて仕分け済みだという冷たさがあった。佐藤あかりは、そこで初めて悟ったのかもしれない。目の前にいるのは、単に警戒心の強い会計事務所職員ではない。こちらの仕掛けの形を、ほとんど全部見切った相手だということを。


 数秒の沈黙のあと、女は目を伏せた。


 観念したように見えた。


 鷺宮はアタッシュケースに手を伸ばすこともせず、ただ立ち上がった。


「それではこれで失礼します」


 そう言ってドアのほうへ向きを変える。


 その瞬間だった。


 佐藤あかりが飛んだ。


 迷いも予備動作もなかった。


 ソファの端で縮こまっていた女の身体が、一瞬でばねのように伸びる。バッグが床へ落ち、その陰から短い刃が滑り出る。折り畳みナイフではない。すでに開いた状態で保持していた、掌に隠しやすい小型の実戦向きの刃物。狙いは鷺宮の脇腹、あるいは肝臓のあたり。悲鳴も威嚇もない。最短距離で殺しに来る動きだった。


 鷺宮は振り向かないまま半身を切った。


 ナイフの切っ先がスーツの脇を掠める。布地が浅く裂けた。女の肩がそのまま鷺宮の背に当たりかける。鷺宮は後方へ肘を打ち込んだが、佐藤はそれを読んでいるように首をずらし、代わりにテーブルを蹴って距離を潰した。軽いテーブルがソファとソファの間で滑り、メニュー表とリモコンとタンバリンが派手な音を立てて床へ散る。


 狭い。


 部屋が一気に牙を剥く。


 カラオケボックスの個室は、逃げ場があるようでない。テーブルが邪魔をし、ソファが足を取る。壁までは近く、踏み込みすぎれば自分が詰まる。刃物を持つ者にとっては、距離を殺しやすい箱でもある。


 鷺宮は一歩退いて壁際へ身体を流し、女の二撃目を外させた。


 佐藤あかりは追う。黒髪が揺れ、黒縁メガネの奥の目から、もう怯えの色は消えていた。そこにあるのは、研がれた判断だけだった。先ほどまでの気弱そうな経理女は、完全に剥がれ落ちている。


 鷺宮の内側に、冷たい確信が沈んだ。


 ――熟練だ。


 少なくとも、初手で急所を外した相手に狼狽しない程度には。


 三撃目は喉元を狙うフェイントから、手首への切り替えだった。鷺宮は腕ごと引いて避け、壁際のタッチパネル端末を左手で引き抜くように掴むと、そのまま女の顔へ叩きつけた。コードが壁から抜け、火花ではなく鈍い電子音が鳴る。佐藤は頬を逸らして直撃を避けたが、端末の角がメガネに当たり、フレームがずれる。その一瞬の視界の乱れを、鷺宮は逃さない。


 踏み込み、女の肘を下から払う。


 だが佐藤は自分からナイフを持つ手を緩め、衝撃を逃がした。続けざまに膝を上げる。鷺宮の腿に硬い一撃が入る。狭い個室では、刃だけではなく膝も肩も武器になる。彼女はそれを知りすぎていた。


 鷺宮はソファの背へ片手をつき、身体を横に流して間合いを切る。女の刃がソファの合皮を裂き、中の白いクッション材が少し飛び出した。鷺宮はその裂け目を見た瞬間、自分の脚元に転がっていたタンバリンを蹴り上げる。銀の鈴がけたたましい音を立てて女の足に当たる。それ自体に大した威力はない。だが、一瞬だけ視線と注意を散らすには十分だった。


 その一瞬で、鷺宮はアタッシュケースを引き寄せる。


 佐藤の目が変わる。


 彼女もそれがただの鞄ではないと理解しているのだろう。距離を詰めようとしたが、鷺宮のほうが早い。ケースを持ち上げ、横殴りに振る。重い金属の角が女の前腕に当たり、乾いた衝撃音が部屋に響いた。ナイフの軌道が逸れ、壁のモニター下を浅く削る。画面の中では能天気な風景映像が無音で流れ続けていて、その明るさが逆に不気味だった。


 鷺宮はケースを床へ置き直し、片手で金具を外す。


 佐藤はその隙を待たない。ソファの座面を蹴って飛び込み、テーブルを斜めに踏み越えた。低い姿勢。刃が下から上へ走る。鷺宮は開きかけたケースをそのまま盾にした。刃先が革を裂き、中の仕切りを断つ。だがそこで攻撃は止まる。ケースの厚みが、わずかに致命を遅らせた。


 鷺宮はケースを押し返しながら肩を入れた。


 女の身体がテーブルの縁を超えて水差しが乗る小さな棚へぶつかる。水差しが倒れ、薄い氷水が床へ流れた。グラスが転がり、壁に当たって割れる。濡れた床に靴底が滑る。狭い部屋の地形が、一瞬で変わる。


 佐藤は転ばない。滑りかけた足をソファに引っかけ、その反動で半回転するように姿勢を立て直した。そこへ鷺宮がケースから細身のナイフを抜く。黒い革ケースの中に収められていた、あの刃だった。


 二人の視線が、初めて正面から噛み合う。


 音楽は流れていない。だが、スピーカーからは微かな機械ノイズが続き、廊下の遠い笑い声が防音壁の向こうで濁っていた。こんな部屋で、人が殺し合っているとは誰も思わない。


「……驚きました」


 佐藤あかりが言った。声に怯えはなく、むしろ薄い感嘆があった。


「ただの会計屋ではないとは思っていましたが」


「あなたこそ」


 鷺宮は刃を低く構えた。


「経理担当を演じるには、踏み込みがきれいすぎる」


 佐藤の口元が、わずかに笑う。


「光栄です」


 次の瞬間、二人は同時に動いた。


 鷺宮は直線で入らず、濡れた床を半歩だけ利用して滑るように角度を変えた。佐藤はそれを読んだように、テーブルを蹴って逆側へ跳ねる。刃同士が一瞬擦れ、甲高い金属音が鳴った。狭い個室の中では、その小さな音がやけに鋭く響く。


 佐藤は低い位置から脚を払う。鷺宮はソファの肘掛けに足を乗せて避け、そのまま上から切り下ろす。女は身体を沈め、刃をメニュー表のプラスチックケースごと突き上げた。ケースが割れ、中の紙メニューが宙に散る。期間限定パフェやフライドポテトの写真がひらひらと舞い、その向こうで刃が迫る。鷺宮は手首を捻って受け流し、空いた左手で女の肩口を押した。


 佐藤は押されながらも、その力を利用して壁へ跳ね返る。防音材の貼られた壁を背にして、今度は斜め上から喉を狙った。鷺宮は身を沈める。刃が頭上の壁紙を裂き、防音パネルの中身が少しだけ覗いた。鷺宮は女の懐へ入る。近すぎる距離。刃が使いにくい距離。肩と肩がぶつかり、呼吸が混じる。そこで鷺宮は肘を胸元へ打ち込んだが、佐藤は身体を捻って威力を逃がし、代わりに額をぶつけるように頭突きを返してきた。


 鈍い衝撃が頬骨を打つ。


 鷺宮の視界が一瞬揺れる。


 そこへ女のナイフが下から滑り込む。鷺宮は左前腕で軌道を逸らした。刃がスーツの袖を切り、浅く皮膚を裂く。熱い線が走る。血はまだ多くない。だが相手はそれで十分だと言わんばかりに、さらに踏み込んだ。


 テーブルが邪魔になる。


 ソファが逃げ道を削る。


 転がったリモコンを鷺宮が踏み、ボタンが入ったのか、大型モニターに突然、カラオケのイントロ映像が映し出された。陽気なポップソングの歌い出し前のカウントだけが、無音の字幕で流れる。部屋の中では生死が削られているのに、画面の中の男女は能天気に浜辺で笑っていた。


 鷺宮はその光景の眩しさを背に、女の手首を捕る。


 佐藤は逆手に持ったナイフを自在に返し、捕まれた腕ごと切り込んでくる。鷺宮は自分から握りを離し、代わりに手元のマラカスを掴んで女のこめかみへ叩きつけた。木製の殻が割れ、中のビーズが弾けて床に散る。小さな粒が氷水に混じり、床はさらに滑りやすくなった。


 佐藤の頭がわずかに揺れる。


 そこへ鷺宮の膝が入る。


 女の腹に鈍い衝撃が通る。呼吸が一瞬止まる。だが彼女は呻き声ひとつ上げず、代わりに落ちたタンバリンを踏みつけた。派手な鈴の音。音の洪水で耳が散る。その刹那、彼女の左手がテーブル上のグラスの破片を掴んだ。


 速い。


 破片が鷺宮の首筋へ飛ぶ。


 鷺宮は顎を引いて避けたが、切っ先が耳の下をかすめた。浅く裂け、温かいものが流れる。佐藤はその近距離で破片を捨て、ナイフを本命として突き込んでくる。連動が滑らかすぎる。即席の武器を使うことに一切の迷いがない。やはり場数を踏んでいる。


「誰に使われている」


 鍔迫り合いに近い距離で、鷺宮が問う。


 佐藤は微笑むように息を吐いた。


「あなたに答える義理が?」


 刃が擦れる。


 鷺宮は押し込まず、力の向きをずらす。女の右手を外へ流し、自分はソファの座面へ片膝をつくように沈む。そのまま低い角度から女の脚へ切り払った。佐藤は跳ぶ。狭い個室で、ほんの数十センチの跳躍。それでも十分だった。刃はスーツの裾を裂いただけで終わる。


 着地と同時に、彼女は壁際のインターホン呼び出しボタンを叩いた。


 電子音が鳴る。


 鷺宮の目がわずかに細くなる。


 助けを呼んだのではない。


 店員が来れば、外部要因が増える。状況が乱れる。第三者を盾にも囮にもできる。そういう判断だ。


 佐藤は本当に熟練だった。


「賢い」


 鷺宮が言う。


「あなたも」


 女が返す。


 次の攻防はさらに速かった。


 鷺宮はテーブルを蹴り上げる。軽い合板の板が斜めに持ち上がり、女の視界を塞ぐ。佐藤は一歩引いてその陰を避けたが、その時にはもう鷺宮が左から回り込んでいる。ナイフの直線。女は受けず、テーブルの縁に手をかけて身体ごと横へ流した。刃がテーブル表面を深く抉り、木片が飛ぶ。佐藤は流れながら、天井近くのスピーカーの下に置かれた予備マイクを掴み、そのコードを鷺宮の腕へ巻きつけるように投げた。


 細いマイクコードが絡む。


 鷺宮はそれを引きちぎるように腕を振るが、一瞬だけ刃の軌道が遅れる。そこへ女の蹴りが来る。ヒールではない、動きやすいローファー。足の甲が鷺宮の手首を打つ。ナイフが半歩だけ逸れる。


 佐藤は追撃する。


 モニターの下、壁際へ鷺宮を押し込もうとする動きだった。壁を背にすれば逃げ場が減る。だが鷺宮は後ろの大型モニターに目だけをやると、左手でそのフレームを掴み、力任せに引いた。固定が甘かったのか、画面が壁から半分浮く。佐藤の視線が反射的に上へ向く。その瞬間、鷺宮は画面を倒すようにぶつけた。


 佐藤は身を捻って直撃を避けたが、肩に当たる。バランスが崩れる。落ちたモニターからコードが伸び、床に絡みつく。映像はまだ流れていて、床に転がった画面の中で歌詞字幕だけが虚しく進んでいた。


 ドアの外で、店員らしき声がした。


「失礼しまーす、お呼びでしょうかー?」


 二人とも答えない。


 佐藤の目が一瞬だけドアへ走る。


 鷺宮はその隙を狙い、距離を詰めた。刃を大きく振るわない。狭いからだ。最短距離で、女の利き腕へ線を引くように切る。佐藤は辛うじて肘を引いたが、袖が裂け、血がにじむ。初めて女の身体から、はっきりとした赤が見えた。


 ノックがもう一度。


「大丈夫ですかー?」


 佐藤が動いた。


 彼女は自分からドアへ向かうように半歩だけ走り、鷺宮がそれを追うことを見越したかのように急停止し、ドアに向かって移動する姿勢の鷺宮にナイフを投げた。短距離、殺意を込めた投擲。狭い部屋だからこそ成立する角度だった。


 佐藤と入れ替わるようにドア付近に移動した鷺宮はドアノブに手をかけたまま身を沈める。ナイフは頭上を掠め、ドアに刺さった。直後、佐藤が突進してくる。素手ではない。床に転がっていたガラス片を逆手に握っている。ドアを開けさせないための体当たり。鷺宮はドアノブをひねり、半開きにした隙間へ自分の身体をずらした。


 外の店員が「えっ」と声を上げる。


 その視界に入る前に、鷺宮はドアの縁を押し返した。ちょうど突っ込んできた佐藤の肩がドア板にぶつかり、勢いが殺される。鷺宮は外の店員に低く言った。


「すみません、機材を倒しました。大丈夫です。今、片づけます」


 店員は中を覗き込もうとしたが、薄暗い室内と鷺宮の身体が視界を遮り、全貌は見えない。床に落ちたモニターも、テーブルが倒れただけに見えなくはなかった。平日の昼間のだるい対応も幸いしたのか、店員は「あ、は、はい……」と戸惑いながら下がる。


 ドアが閉まる。


 同時に、佐藤の拳が鷺宮の肋に入った。


 まともに入れば息が飛ぶ角度だった。鷺宮は半分だけ身体を捻って受けるが、衝撃は重い。さきほどの弱々しい経理女の面影はどこにもない。彼女は本来、接近戦の呼吸を知る人間だ。


 鷺宮も容赦しない。


 ドアに刺さったナイフを抜きざま、柄頭で女の頬骨を打つ。骨に響く感触。佐藤の顔がはねる。黒縁メガネが飛び、床で踏み割れた。ようやく彼女の目が、仮面なしのまま露わになる。切れ長で、思った以上に冷たい目だった。


「その目のほうが自然だ」


 鷺宮が言う。


 佐藤は口元の血を親指で拭った。


「あなたも、仕事中の顔はそちらでしょう」


 言葉と同時に、彼女はテーブルの下へ足を差し込み、倒れかけたテーブルを蹴り上げる。テーブルが盾のように跳ね、鷺宮の腹へ迫る。鷺宮は身を引きつつ、その板を利用して上へ飛ばした。テーブルが天井近くまで持ち上がり、照明にぶつかって大きく揺れる。暖色の光が一瞬ちらつく。部屋全体の影がぶれた。


 そのちらつきの中を、佐藤が滑るように回り込む。


 今度の得物は、壁際のマイクスタンドだった。短い固定式のものではなく、予備として立てかけられていた細い金属棒。女はそれを引き抜き、槍のように突いてくる。狭い部屋では長物は不利なはずだったが、彼女は突きだけに絞って使っていた。間合いを押し付ける使い方だ。


 鷺宮は刃で受けず、棒の軌道を身体の横へ流す。だが二撃目、三撃目と細い金属が襲い、壁に、モニターに、ドリンクホルダーに当たって乾いた音を立てる。そのたびに小物が跳ね、部屋はさらに散らかっていく。タンバリンの鈴、割れたグラス、氷水、紙メニュー、コード、ビーズ。足場は最悪だ。


 佐藤はその悪さをむしろ利用していた。


 踏む場所を選ばせ、判断を削る。


 鷺宮はマイクスタンドの四撃目を内側へ捌き、一気に懐へ入った。長物は近すぎると死ぬ。女もそれは分かっていて、棒を捨てる判断が早い。捨てざま、手首の内側から別の小刀が出た。袖の内側に忍ばせていたのだろう。今度はアイスピックに近い、刺突専用の細い刃だった。


 喉狙い。


 鷺宮は左手で女の手首を掴み、右のナイフで切り落とす軌道を作る。佐藤はそれを読んで自分から前に出る。距離が消え、切断の角度が潰れる。二人の肩がぶつかり、胸元が擦れる。そのまま組み合うような密着距離になった。


 そこで女が囁く。


「誰に雇われていると思います?」


 挑発だった。


 鷺宮は答えない。


 代わりに自分の額を相手の鼻梁へ叩き込む。鈍い音。佐藤の呼吸が乱れ、刺突の圧が弱まる。鷺宮は掴んだ手首を捻り上げ、女の肘をテーブルの角へ打ちつけた。骨が軋む感触。アイスピック状の刃が床へ落ちる。だが佐藤は痛みを顔に出さない。空いた左手で、床に転がっていたマイクを掴み、コードごと鷺宮の首へ巻きつけた。


 首が締まる。


 カラオケ用の太いマイクコードは、細いが十分に凶器になる。


 佐藤は体重を後ろへ預け、絞め上げる。鷺宮は自分の首に食い込む線の硬さを感じながら、身体を半歩回した。正面から引き合えば窒息に寄る。必要なのは角度だ。彼はあえて女の引く方向へ身体を預け、二人まとめてソファへ倒れ込んだ。


 合皮の座面が軋む。


 ソファの背もたれに女の肩がぶつかる。


 その一瞬だけ、コードの圧が緩む。鷺宮は自分の首に巻かれた線を指で噛ませ、隙間を作ると、そのまま女ごと横へ転がった。床の氷水とガラス片がスーツに貼りつく。女の肘が床を打つ。コードがさらに絡む。狭い部屋では、寝技めいたもつれもまた即座に死へ繋がる。


 佐藤が膝で鷺宮の腹を押し、距離を作ろうとする。


 鷺宮はそれを許さず、女の手首をコードごと床へ押しつけた。女のもう片方の手が鷺宮の顔を狙う。爪ではない。いつの間にか、割れたメガネのフレームの一片を掴んでいた。細い金属の端が眼球を狙ってくる。執念深い。鷺宮は頭を振って避け、代わりに肩をぶつけるようにして女の鎖骨へ圧をかけた。


 佐藤が初めて、小さく息を漏らす。


 そこで二人はいったん離れた。


 床を蹴り、別々の方向へ転がる。立ち上がる。呼吸を整える暇はない。


 部屋はひどい有様だった。倒れたモニター、斜めに掛かったテーブル、裂けたソファ、濡れた床、散らばるメニュー、鈴の外れたタンバリン、折れたマラカス、抜けたマイクコード。誰かが見れば、酔客が盛大に暴れた後にしか見えないかもしれない。だがその中心に立つ二人の眼だけが、あまりにも冷え切っていた。


「……本気で殺す気だったのですね」

 佐藤が言う。


「あなたも」

 鷺宮が答える


「私は最初からです」


 その言い方が妙に正直で、鷺宮は一瞬だけ口元を歪めた。


「誠実だ」


「褒められるとは」


「嘘を混ぜない相手は楽です」


 佐藤は首を少し傾けた。黒髪が額にかかる。黒縁メガネを失ったことで、彼女の顔立ちは思った以上に鋭く見えた。地味な経理担当の仮面が剥がれたあとに残ったのは、鍛えられた神経そのもののような女だった。


「あなた、誰ですか」


 彼女が問う。


「会計事務所の職員にしては、殺し慣れすぎている」


 鷺宮は答えない。


 代わりにアタッシュケースを拾い上げた。革は裂けている。中の仕切りも一部切られていたが、まだ使える。彼はそれを左手に持ち、右手の刃を低くした。盾と刃。個室戦では理にかなった形だ。


 佐藤は得物を持っていないように見えた。


 だがそれを信じるほど、鷺宮は甘くない。


 彼女は一歩、二歩と位置をずらし、部屋の角へ寄る。そこにはドリンク注文用の小型タブレット端末と、アルコール消毒用のスプレーボトルが置かれていた。彼女は目線だけでそれを測る。鷺宮もまた、その視線の意味を読む。


 動いたのは同時だった。


 佐藤がスプレーボトルを掴む。鷺宮はケースを投げる。ケースが一直線に飛び、女の腕を狙う。佐藤はそれを読んで身を低くしたが、そのせいでスプレー噴射の角度がずれた。細かな液体が鷺宮の目ではなく胸元へかかる。アルコール臭が立つ。佐藤はタブレット端末を今度こそ顔へ投げつけてきた。


 鷺宮は刃ではたき落とす。端末が壁で砕ける。


 その間に、女は角のスペースからソファの背を踏み、跳ぶように横移動した。狭い部屋の中を、ほとんど壁走りに近い感覚で抜ける。その軽さが異常だった。鷺宮は追うのではなく、先回りする。逃げ場の少ない箱では、速さより線の読みだ。


 佐藤の足が濡れた床にわずかに滑る。


 鷺宮はそこへ入った。


 刃が女の脇腹へ走る。佐藤は辛うじて身を捻るが、完全には避けきれない。スーツの紺が裂け、今度はより深い血が滲んだ。女の呼吸が、初めて明確に乱れる。だが彼女は下がらない。返しの肘が鷺宮の顎を打つ。星が散るような感覚。鷺宮も一歩だけ退く。


 どちらも決めきれない。


 それが互いの危険さを証明していた。


 佐藤は流血する脇腹を気にもしないように、壁際のドリンクホルダーからガラス製のピッチャーを掴み上げた。残っていた氷水が中で鳴る。鷺宮はそれを見た瞬間、半身になった。予想通り、女はピッチャーを投げずに、床へ叩きつけた。砕ける。水と氷と鋭い破片が足元に広がる。完全に地雷原だ。


 次に踏み込む側が不利になる。


 だが、時間が長引けば外部要因が増える。


 佐藤も鷺宮も、それを理解している。


「ここで終わらせますか」


 佐藤が問う。


「できるなら」


 鷺宮は答える。


 二人はほとんど同時に、割れたガラスの上へ踏み込んだ。


 靴底が嫌な感触を拾う。氷が砕ける。滑る。だがその不安定さごと利用するように、佐藤が低く潜る。鷺宮は上からではなく横へ刃を送る。女はソファの肘掛けに片手をついて身体を浮かせ、鷺宮の切先を紙一重で外した。鷺宮は空いた左手で、転がっていたタンバリンの枠を拾い、女の手首へ打ちつける。鈴の音が爆ぜ、女の動きが一瞬だけ鈍る。


 鷺宮はそこへ踏み込んだ。


 肩からぶつかる。


 佐藤の身体がドア脇の壁へ叩きつけられる。壁紙が裂け、防音材の粉が舞う。女は歯を食いしばりながらも、膝を突き上げる。鷺宮の脇腹に入る。痛み。だが押し返さない。近すぎれば、相手の手数も減る。彼はそのまま女の右腕を壁へ押しつけ、刃を喉元へ運んだ。


 佐藤の左手が、いつの間にかドアの取っ手を掴んでいた。


 開く。


 廊下の光が一筋、差し込む。


 彼女は外へ逃げるのではなく、ドアを引いて鷺宮の身体ごとバランスを崩させようとした。狭い部屋で、開閉するドアはそれだけで大きな障害物になる。鷺宮は自分の重心が崩れる前に、逆に女を部屋の外へ押し出す……ように見せかけて、直前で力を抜いた。


 佐藤の身体が前へ泳ぐ。


 その空振りの感覚に、彼女の目がわずかに揺れた。


 鷺宮はその刹那だけを狙う。


 刃ではない。


 拳でもない。


 アタッシュケースの金属角だった。


 下から斜めに打ち上げる。硬い衝撃が女の手首に入り、隠していた最後の小刀が落ちる。やはりまだ持っていた。細い、ほとんど針のような刃。袖口の内側に仕込んでいたのだろう。


「やはり」


 鷺宮が言う。


 佐藤は無言のまま、落ちた刃へ視線を走らせる。


 だがもう届かない。


 鷺宮は足でそれを蹴り、部屋の隅へ飛ばした。そして一気に距離を詰め、女の首筋へナイフの冷たい線を当てる。佐藤も動きを止めた。ここでさらに踏み込めば、確実に頸動脈へ届く距離だった。


 廊下の向こうでは、誰かが別の部屋で笑っている。受付から呼び出しの電子音が遠く鳴る。世界はいつも通りに流れているのに、この小さな個室だけが血と硝子と息遣いで満ちていた。


「終わりです」


 鷺宮が言った。


 佐藤は、数秒だけ黙っていた。


 それから、ゆっくりと息を吐く。


「……本当に、会計事務所の職員ですか」


「少なくとも名刺は本物です」


 女の口元に、血の混じった苦笑が浮かぶ。


「名刺の肩書きで人を判断しないことにします」


「賢明です」


「殺さないんですね」


 鷺宮は答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 彼は殺せる位置にいた。実際、ほんの少し手首に力を入れれば終わる。だが、目の前の女はただの刺客ではない。誰に使われているにせよ、これだけの技能を持つ人間が、川上コーポレーションの件に絡んでいる。その意味は大きい。ここで殺してしまうより、もう少し見たい。


 佐藤あかりもまた、その沈黙の意味を読んだらしかった。


「情け、ですか」


「違います」


 鷺宮は低く言う。


「あなたを生かしたほうが、まだ使える」


 その返答に、女の目が初めてほんの少しだけ愉快そうに細まった。


「なるほど。そういう人」


「あなたもでしょう」


「ええ。だから助かります」


 次の瞬間、彼女は力を抜くように見せて、床に散っていた氷を踵で蹴り上げた。


 細かな氷片が視界へ飛ぶ。


 鷺宮は反射的に目を細める。


 その瞬間だけで十分だった。佐藤は身体を捻り、喉元の刃を最小限で外し、半開きのドアの向こうへ滑り出る。廊下へ出るなり、今度は本当に逃走の動きだった。殺し合いの継続ではなく、離脱を選ぶ判断の速さもまた、熟練の証だった。


 鷺宮は追わなかった。


 廊下にまで血と騒ぎを引きずれば、外部の目が増える。ここで深追いするのは得策ではない。彼はドア際で立ち止まり、走り去る紺の背中を一度だけ見送った。女は角を曲がる直前、振り返りもしないまま言った。


「また会いましょう、鷺宮さん」


 その言葉が本名を知っている響きを持っていたことで、鷺宮の内側に冷たい線が一本引かれた。


 女の姿は消える。


 あとに残ったのは、無残に荒れたカラオケボックスの一室と、割れたガラスのきらめき、散乱したタンバリンの鈴、濡れた床、裂けたソファ、壁に残る刃痕。そして、自分の袖と耳元と首筋に残る浅い血の感触だった。


 鷺宮は部屋の真ん中でしばらく立ち尽くした。


 呼吸はすぐ整う。痛みも確認できる。致命傷はない。相手にも深手は負わせたが、逃がした。しかも向こうはこちらの名を知っている。


 床に転がった黒縁メガネを、鷺宮はつまみ上げた。レンズは割れ、フレームも歪んでいる。安物ではないが、特徴的すぎる品ではない。指紋も、残す女とは思えない。だが、彼女が最後に見せたあの目だけは、はっきり記憶に残った。


 経理担当の仮面をかぶった暗殺者。


 川上コーポレーションに近づいた途端、送り込まれてきた女。


 偶然であるはずがない。


 鷺宮は壊れたモニターの黒い画面に映る自分を見た。耳元に血。袖の裂け。静かな顔。その顔は、九重会計事務所で後輩や同僚に見せるものとは、少し違っていた。


「……面倒なことになった」


 誰にともなく呟く。


 だがその声に、怯えはない。


 むしろ、久しく感じていなかった種類の緊張が、わずかに混じっていた。同業者。自分の読みを外しに来る存在。殺しの技術を持ち、なおかつ演技も罠も使う女。


 これまで処理してきた相手の中にはいなかった種類の敵だった。


 鷺宮は黒縁メガネをアタッシュケースへしまい、呼び出しボタンを押した。


 数秒後、店員が恐る恐る顔を出す。


「す、すみません、大丈夫ですか……?」


 鷺宮はいつもの穏やかな会計人の顔に戻っていた。


「申し訳ありません。機材をかなり倒してしまって」


 店員は部屋の惨状に目を見開いたが、昼間の仕事に疲れた頭では、何が起きたのか正確に理解できない。ただ「酔ってもいないのにどうしてこうなったのか」という疑問だけが漂う。


「お、お怪我は……」


「少しだけ。こちらで処理します」


「は、はい……」


 鷺宮は財布を取り出し、必要以上の金額を出した。


「破損分も含めて、足りなければ事務所に請求してください」


「い、いえ、そこまで……」


「お願いします」


 静かな声だったが、店員はそれ以上何も言えなくなった。


 鷺宮はアタッシュケースを持ち、部屋を出る。廊下の照明は相変わらず薄暗く、隣室からは誰かの歌声が漏れている。安っぽいポップソングだった。ついさっきまで、同じ建物の一室で人が本気で殺し合っていたなど、誰も知らない。


 受付を抜け、駐車場へ出ると、春の陽射しがまだ高かった。


 空は変わらず青い。


 だが、坂下食品に向かう際に見上げたあの青より、今は少しだけ遠く見えた。


 鷺宮は車道の向こうを見ながら、佐藤あかりの最後の言葉を反芻する。


 また会いましょう、鷺宮さん。


 こちらの名を知っていた。最初から。つまり、誘い出しの目的は単なる口封じか勧誘ではない。もっと確かめたいことがあったのだろう。鷺宮敏樹という男が、どこまでの人間なのかを。


「川上コーポレーション……」


 低く呟く。


 その名の背後で、何かがこちらを見ている。


 会計不正の相談にしては、出てくる人間が物騒すぎた。ならば、その底は思っていたより深い。数字の海の底に沈んでいるのは、単なる粉飾や横領ではないのかもしれない。


 鷺宮は歩き出す。


 血の匂いは、もう春の風に薄れていく。だが、狭いカラオケボックスの個室で交わした刃の感触だけは、まだ指先に残っていた。


 川上コーポレーションの裏側へ足を踏み入れたその瞬間から、鷺宮敏樹はもう、数字だけでは測れない戦いの中に入っていた。



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