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継がせること

 坂下食品は、市街地から少し外れた工業団地の縁にある。


 工場といっても、大資本の巨大プラントではない。二階建ての事務棟に、平屋の製造棟と冷蔵倉庫が付属した、昔ながらの中規模食品会社だ。看板は日に焼け、外壁にもところどころ塗り直した跡がある。だが玄関脇の花壇には季節の花が植えられ、搬入口の脇に積まれたコンテナはきちんと整列していて、雑然としているようでいて荒れてはいない。その整い方に、この会社が長年「堅実」を売りにしてきたことがよく表れていた。


 鷺宮敏樹は、いつものようにアタッシュケースを手に玄関をくぐった。


「こんにちは。九重(ここのえ)会計事務所の鷺宮です」


 事務所の中から、若い女性事務員が慌てて顔を出す。


「あ、鷺宮さん。いつもありがとうございます。社長、待ってます」


 その声の奥には、どこか張ったものが混じっていた。坂下食品へ来るたびに感じる穏やかな空気が、今日は少し違っている。静かな会社には静かな会社なりの湿度があるが、今日はそこに、乾いた摩擦の匂いがあった。


 鷺宮は受付で名刺入れを軽く置き、事務所を見回す。電話の音、キーボードを叩く音、工場側から響いてくる機械の低い稼働音。そのどれもが普段と同じようでいて、働いている人間の目線だけが微妙に落ち着かない。誰かが社内の空気を乱している時の目だ。


 応接室へ通されると、坂下食品の社長がすでにソファに座っていた。


 坂下 俊蔵(さかしたしゅんぞう)


 七十歳を少し越えた年齢。痩せていて、顔色は悪くないが、健康な老人特有の張りよりは、長年仕事を抱え続けた人間の乾いた疲労が勝っている。髪はすっかり白く、背筋も若い頃ほどは伸びていない。それでも目にはまだ光があり、鷺宮を見ると申し訳なさそうに笑った。


「いやあ、鷺宮さん。毎月すまんね」


「こちらこそ。お変わりありませんか」


「変わらんと言いたいが、医者には変われ変われと言われてるよ」


 そう言って社長は、胸元を軽く叩いた。


 坂下俊蔵は、この地方では少し名の通った実業家だった。もともとは惣菜店の倅で、若い頃に小さな加工場を立ち上げ、地元のスーパー向けに総菜や漬物、煮物を卸してきた叩き上げの経営者である。派手な拡大はしない。借入は必要最小限。設備投資も身の丈に合わせる。得意先との関係は維持するが、見栄で仕事を取りにいかない。九重会計事務所から見れば、まさに「堅実な経営」の教科書みたいな会社だった。


 だからこそ、今の坂下食品には、別の不穏さがあった。


「先月、病院でまた検査したんですか」


「したよ。血圧だの糖だの、年寄りにありがちなやつだ。若い頃にもうちょっと節制しとけばよかったんだろうが、工場回してる時分にそんな余裕はなかったからなあ」


 俊蔵は笑おうとしたが、笑いきれなかった。


「現場も前みたいには見られん。長時間立ってると、さすがに足に来る」


 鷺宮は持参した資料をテーブルに並べながら、相手の呼吸の浅さを見ていた。社長は昔から無理を言う人ではない。弱音もあまり吐かない。そんな人が「立っているのがきつい」と自分から口にするのは、相当なことだろう。


「資金繰りは少し持ち直しています」


 鷺宮は数字の話に入った。


「在庫整理も効いていますし、前月より粗利率も戻っている。先月の販促企画も悪くなかったですね」


「そうか。ならよかった」


「ただ、社長の体力がもたないなら、経営の方を変えないといけません。社長が工場に立たないと回らない状態なら、その先はありません」


 俊蔵は少しだけ目を伏せた。


「分かってる。分かってるんだよ」


 その返事には、単なる同意ではない重さがあった。鷺宮が何かを言いかけた時、応接室のドアがノックも浅く開いた。


「親父、まだその話してんのか」


 入ってきた男は、父親とはまるで違う温度を纏っていた。


 坂下 隆臣(さかしたたかおみ)。俊蔵の長男。三十二歳。


 東京の私立大学で経営学を学んだ、というのが本人の売り文句だった。実際、名刺には「取締役経営企画室長」と記されている。だが、その肩書きが現実の実力を示しているかは別問題だった。


 背は高く、髪型も服装も都会的に整えている。今日はスーツではなく、細身のジャケットに開襟シャツという軽い格好だった。腕時計は高級ブランド、靴も高そうだ。顔立ちは悪くない。女受けもいいだろう。ただ、その目の置き方に落ち着きがない。人を見るというより、相手が自分をどう見ているかを絶えず計算しているような視線だった。


「こんにちは、鷺宮さんでしたっけ」


「鷺宮です」


「どうも。いや、毎月毎月ご苦労さまです」


 口では礼を言っているが、そこには感謝の温度がない。会計事務所の担当者を、家業に付属している便利な外部装置くらいにしか見ていない口ぶりだった。


「隆臣」


 俊蔵が低い声で言う。


「今、話してるところだ」


「だから入ったんだよ。どうせまた守りの話でしょ?」


 隆臣は勝手に空いた椅子に腰かけた。脚を組み、テーブルの資料にちらと目を落とす。


「毎回思うんだけどさ、うちって慎重すぎるんだよ。借入も少ない、投資もしない、新しい販路も広げない。そりゃ潰れないかもしれないけど、伸びもしないよね」


 俊蔵の顔に、目に見えて疲れが走った。


「おまえ、それを今……」


「今だから言うんだよ。だって親父、もう引く気なんだろ」


 その言い方に、応接室の空気が少し冷えた。


 鷺宮は手元の資料を閉じた。隆臣はそんな彼の動きにも気づかず、あるいは気づいていて軽んじたまま、続けた。


「鷺宮さんもそう思いません? 今の時代、こんなやり方じゃ先がないでしょ。地元向けにちまちま堅実経営なんて、昭和じゃないんだから」


「……」


「東京じゃ、もっとスピード感持ってやってる会社いくらでもありますよ。食品業界なんてブランドの作り方と見せ方で全然変わるし、SNSも使って、D2Cで、外部資本も入れて、設備も刷新して――」


 そこで俊蔵が「もういい」と遮ろうとしたが、隆臣は止まらなかった。


「だいたい親父のやり方って、根性論に寄りすぎなんだよ。現場に顔出して人情で回して、数字は後追いみたいな。そりゃ昔はよかったかもしれないけど、今は経営のセンスがないと無理だって」


 その一言で、俊蔵の口元がわずかに引きつった。


 鷺宮は黙って隆臣を見た。


 こういう男は珍しくない。地方企業の二代目候補として、都会の知識と横文字を身につけ、古い家業を見下ろすことで自分の価値を証明しようとする。知識があるのは事実だろう。だが、現場を知らず、積み上げてきた人間の時間を知らず、何より今目の前にいる父親がどれほどのものを背負ってきたかを知らない。その無知を「客観性」と勘違いしている。


「鷺宮さん、どうです?」


 隆臣が同調を求めるように笑った。


「専門家から見ても、うちの経営って古いでしょ? 親父は怒るかもしれないけど、そろそろ抜本的に変えないと。ここは第三者として、率直に言ってもらって構いませんよ」


 俊蔵が、苦い顔のまま「やめろ」と言った。


 だが、鷺宮はその前に口を開いた。


「率直に申し上げてよろしいですか」


「ぜひ」


 隆臣は余裕ありげに頷く。


「あなたは、経営の話をする前に、まずご自身の立ち位置を正確に把握したほうがいい」


 声音は穏やかだった。だが、応接室の空気がはっきり変わった。


 隆臣の笑みが少し止まる。


「……どういう意味です?」


「東京で経営学を学ばれたこと、それ自体は結構です。知識はないよりあるほうがいい。新しい販路や見せ方の発想も、会社にとって必要でしょう」


「だったら――」


「ですが」


 鷺宮は言葉を切った。


「あなたは今、会社を支えてきた人間を、自分がまだ何一つ背負っていない立場から批判している」


 隆臣の眉が動く。


「何一つ、は言いすぎじゃないですか。僕だって会社のことは考えて――」


「考えることと、背負うことは違います」


 鷺宮の目は静かだった。怒鳴らない。ただ、逃がさない。


「この会社が大きく借入を膨らませずにここまで来た理由を、あなたは“慎重すぎる”と切って捨てましたね。それは、坂下社長が臆病だからではありません。無理な投資で従業員の暮らしを巻き込まないためです。販路を広げなかったのも、能力がないからではない。回せない受注を取れば品質が崩れ、結局信用を失うと知っていたからです」


 隆臣は反論しようと口を開きかけたが、鷺宮は続けた。


「社長が現場に立って人情で回してきた、とあなたはおっしゃった。では訊きますが、人情でしか繋ぎ止められない現場を、あなたは数字だけで支えられますか。病欠が出た朝に製造ラインをどう埋めるか、原料が一便遅れた時にどの納品先を優先するか、クレームが出た時に誰が頭を下げるか。そういう“経営学”の外にある判断を、あなたは一つでも代わりにやったことがありますか」


 隆臣の顔が引きつる。


「そ、そういう古い感覚だから変わらないんでしょう」


「変える、という言葉は便利です」


 鷺宮はテーブルの上の資料に指を置いた。


「ですが、変える前に守らなければならないものを理解していない人間が使うと、ただ壊すだけになる」


 俊蔵が、横で小さく息を呑んだ。


 鷺宮の声は低く、終始変わらない。だがその静けさが、むしろ鋭さを増していた。相手を恫喝するための怒りではない。明らかに線を越えたものに対して、きちんと不快を示している。会計事務所の担当者としては珍しいほど感情が出ているのに、それでも言葉は一切乱れていなかった。


「あなたが本気でこの会社を継ぎたいなら、まずご自身の父親が何を捨てて何を残してきたかを知るべきです」


「……」


「そして、そのうえでなお変える必要があるなら、変えればいい。ですが、何も引き受けていない段階で“古い”“センスがない”“ちまちまやっている”と口にするのは、経営ではなく、ただの軽蔑です」


 応接室が静まり返った。


 外から、工場の機械音だけが遠く聞こえる。


 隆臣の喉が動いた。目の前の五十二歳の会計事務所職員は、声一つ荒げていない。それなのに、自分がこれ以上何か言えば、むしろ自分の浅さが増すと分かってしまう。そういう種類の圧だった。


「……外部の人間に、そこまで言われる筋合いはありませんけど」


 ようやくそう返した声は、最初の勢いを失っていた。


「外部の人間だから言えることもあります」


 鷺宮は答えた。


「社長が言えば親子喧嘩になる。従業員が言えば立場がある。だから、私が言いました」


 隆臣はしばらく黙っていたが、やがて舌打ちに近い息を吐き、椅子から立ち上がった。


「……失礼します」


 ドアが閉まる。


 俊蔵はしばらくその方向を見ていたが、やがて苦く笑った。


「いやあ……すまんな」


「謝らないでください」


 鷺宮は資料を開き直した。だが胸の内には、やり場のない重さが残っていた。隆臣のような人間は珍しくない。だが、珍しくないからといって慣れるものでもない。会社を作った人間が年を取り、退く時が近づいた途端、その後ろにいた者が突然“経営者らしい顔”を始める。それがどれほど空虚か、数字はすぐには教えてくれない。


 面談はその後、数字の確認と簡単な資金繰りの相談に戻った。俊蔵は努めて普段通りに話したが、時折、視線が遠くにずれる。引退という言葉が、ただの予定ではなく現実の重さを持ち始めているのだろう。


 応接室を出る頃には、昼の光が少し傾き始めていた。


 鷺宮が玄関へ向かうと、背後から「鷺宮さん」と呼ぶ声がした。振り返ると、俊蔵が一人で立っていた。先ほどまで応接室で見せていた社長の顔ではなく、少しだけ肩の落ちた老人の顔だった。


「さっきは……ありがとう」


「いえ」


「隆臣のこと、あいつなりに会社を何とかしたい気持ちがないとは言わん。だが、どうしても、物を言う順番が逆なんだ」


 俊蔵は寂しそうに笑った。


「親父を越えたいなら、まず親父が何をしてきたか見ろって話なんだがな」


「……」


「でも、まあ、避けられんよ」


「何がですか」


 俊蔵は玄関の外を見た。春の光の中で、配送トラックがゆっくり動いている。


「引退だよ。わしが倒れてからじゃ遅い。会社ってのは、社長の気分で止められん。従業員もいる。取引先もある。結局、継がせるしかないんだ」


 その言葉は諦めに近かった。


「やはり引退して、長男に継がせることは避けられない」


 俊蔵は、自分でそう言って、自分で少し寂しそうに笑った。


「親ってのは厄介だな。最後まで、息子に期待してしまう」


 鷺宮は返す言葉をすぐには見つけられなかった。


 会社の未来に対する不安はある。隆臣に任せて大丈夫だとは、とても思えない。だが同時に、俊蔵の立場になれば、それでも血の繋がった長男に継がせる以外の道を選ぶ苦しさも分かってしまう。数字だけで割り切れないものが、確かにある。


「……少しでも、引き継ぎの手順を整えましょう」


 ようやく鷺宮は言った。


「会社のためにも、社長のためにも、感情だけで渡す形にはしないほうがいい」


 俊蔵は頷いた。


「うん。そうだな」


 そしてもう一度、「ありがとう」と言った。


 その声に、社長としてではなく、一人の父親としての弱さが混じっていた。


 鷺宮は工場を後にしながら、胸の内にやるせなさを抱えていた。悪人を切る時のような明確さは、ここにはない。間違っていると分かっても、それが人の弱さや血の情から生まれている時、世界は妙に濁る。そういう濁りこそ、時に会計の数字より始末が悪い。



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