表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

帳簿の闇と青空

 その男は、最後まで自分が殺されるとは思っていなかった。


 夜の街外れは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。地方都市の繁華街から一本裏に入っただけの細い路地である。雑居ビルの隙間を縫うように伸びたコンクリートの通路には、雨の名残なのか、昨夜のうちに誰かが撒いた水なのか、薄い湿り気が残っていた。壁際には古びた室外機が並び、低く唸る機械音が夜気に震えている。飲食店の裏口から捨てられた生ごみの匂いと、古い油の匂いと、鉄の匂いが混ざっていた。


 男は息を乱しながら、路地の行き止まり近くで振り返った。五十代半ばほど、肩幅のある体格に、高級品ではないが安物でもないスーツ。腹回りには年齢相応以上のたるみがあり、血色の良い顔には、普段なら恫喝にも値踏みにも使っていそうな尊大さが刻まれている。だが今、その顔には脂汗が浮かび、目は怯えきっていた。


「お、おい……」


 男は追ってきた相手に向かって、掠れた声を出した。


 数メートル先。路地の入口側に、ひとりの男が立っていた。


 長身ではない。むしろ平均的で、体つきも特別がっしりしているわけではない。暗い色のスーツに、黒い革靴。片手には四角いアタッシュケース。街を歩いていても、記憶に残らないような、どこにでもいそうな中年の男だった。


 だが、その立ち方だけが異様に静かだった。


 息も上がっていない。肩も揺れていない。追い詰めた相手を前にしているのに、感情の色が一つも浮いていない。まるで最初から、ここにこの距離で立つことが決まっていたかのような、無駄のない佇まいだった。


「何なんだ、おまえ……」


 男は声を荒げようとしたが、喉がひどく渇いていた。


「金か? 金ならやる。いくら欲しい」


 返事はない。


「俺が誰だか分かってんのか。ふざけた真似して、ただで済むと思うなよ」


 それも、相手には届かなかった。いや、届いてはいるのだろうが、意味のある言葉として処理されていないようだった。


 追う側の男は、ただ静かに見ていた。


 街灯が一本、壁の上から斜めに光を落としている。その明かりに照らされた顔は、はっきりとは見えない。目元にだけ、わずかな陰が差していた。中年の男らしい落ち着きと、サラリーマンじみた地味さ。その両方があるのに、決定的にどこかが違う。人を威圧する体格も、荒事に慣れた者特有の刺々しい気配もない。なのにこの場の空気は完全に、そちらの男が支配していた。


「聞いてるのか!」


 追い詰められた男は、半ば悲鳴のように怒鳴った。


「俺は東洋開発の総務部長だぞ! 地元じゃ顔が利く! 警察も、議員も、銀行も――」


「だからでしょう」


 初めて、相手が口を開いた。


 低い、よく通る声だった。怒りも嘲りもない。会議室で報告書の数字を読み上げるような、穏やかすぎる声。


 男は言葉を失った。


「長いこと、よく隠しましたね」


 追う側の男は一歩だけ進んだ。革靴が水気の残る地面を踏む、わずかな音がした。


「工事原価への付け替え。架空外注。下請への水増し請求。役員貸付金との相殺。現場協力費の名目で抜いた金の一部は、個人名義の口座を経由していましたか」


「な、何の話だ……」


「十七年」


 淡々とした声だった。


「少なくとも十七年分は追えました。もっと前もあるかもしれない」


 男の顔から血の気が引いた。


 夜風が狭い路地を通り抜ける。どこか遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。街はいつも通りの夜を送っている。その片隅で、自分の過去を、誰にも知られていないはずの金の流れを、目の前の得体の知れない男がまるで見てきたように口にしている。それが男には理解できなかった。


「おまえ……誰に聞いた」


「聞いていません」


「ふざけるな!」


「数字を見ました」


 それだけだった。


 あまりにも馬鹿げた答えなのに、目の前の男は一片も冗談を言っている風ではなかった。


 追い詰められた男は喉を鳴らした。心臓が嫌な脈を打っている。東洋開発。地元では知らぬ者のない土建会社だ。公共工事にも食い込み、議員や警察や銀行の支店長とも酒を酌み交わしてきた。男自身、現場から叩き上げでここまで上がり、他人の金も汗も都合よく使いながら、自分だけは安全圏に立ち続けてきた。


 下請けを泣かせ、入札情報を回し、キックバックを受け、架空請求を忍ばせ、現場事故の揉み消しにも関わった。若い経理担当を脅しつけて伝票を切らせたこともある。自殺した下請社長のことを、酒の席で「弱い奴だった」で済ませたこともある。


 だがそれらは、男の中では全部終わった話だった。世の中とはそういうものだ。立場のある人間が少し多めに取るのは、能力の対価だ。弱い者が潰れるのは自己責任だ。そうやって何十年も生き延びてきた。


 それなのに今、どこから現れたのかも知れない一人の中年男に、路地裏で追い詰められている。


「い、いくらだ」


 男は唇を震わせながら言った。


「全部やる。口座も、不動産も、現金もある。五千万……いや、一億でもいい。黙って消えてくれるなら」


「あなたはそうやって計算してきた」


 男の提案を、相手は静かに断ち切った。


「人の口も、人生も、帳簿も、全部金額で処理できると思っていた」


「……っ」


「でも、勘定科目には限界があります」


 追う男がアタッシュケースを地面に置く。金具が、小さく乾いた音を立てた。


 開く。


 内側は暗く、整然としていた。書類鞄のようにしか見えない外見とは違い、中には余計なものが一つもなかった。仕切りの中に収められた黒革の手袋、小型のライト、何かの封筒。そして、細長い革のケース。


 男の視線がそこへ吸い寄せられた。


「や、やめろ……」


 追う男は返事をしなかった。革のケースを取り出し、ゆっくり開く。中から現れたのは、飾り気のない一本のナイフだった。軍用のようなごつさはない。美術品めいた意匠もない。ただ異様なほど実用に徹した、細身の刃だった。街灯の白い光が刃先をなぞり、一瞬だけ冷たく煌めく。


 男は喉の奥から声にならない音を漏らした。足が勝手に後ずさる。背中が壁にぶつかった。逃げ場はない。


「待て、待ってくれ……」


「待ちました」


「お、俺だけじゃない! 上もいる! 専務も社長も、議員も――」


「知っています」


「じゃあ何で俺なんだ!」


 その問いに、目の前の男は数秒、沈黙した。


 機械の唸りが路地の奥で震えている。遠くの笑い声がかすかに流れてくる。この場だけが、世界から切り離されているようだった。


「あなたは」


 やがて、声が落ちた。


「自分で線を越えたからです」


「な、何を――」


「金を抜いたことじゃない。証拠を捨てたことでもない。口封じのために脅したことでもない。あなたは知っていて壊した」


 男の足が震える。


「経理の女の子が、何度もやめさせてくださいと言ったのを、聞かなかったでしょう」


 追い詰められた男の瞳が見開かれた。


「あなたは、自分だけは捕まらないと知っていた。だから、泣いている人間を見ても、何も感じなかった」


「ち、違う……あれは……」


「死んだあとも、何も感じなかった」


 言い訳は、最後まで言わせてもらえなかった。


 男は咄嗟に身を翻し、壁沿いをすり抜けるようにして走ろうとした。だが、狭い路地で勢いをつける前に、追う男が距離を詰めていた。音がしない。踏み込みが見えない。ただ次の瞬間、腹の奥に熱いものが入ってきた感覚だけがあった。


 男は何が起きたのか、一瞬理解できなかった。


 視線を落とす。自分の腹に、細い刃が深く沈んでいる。黒い手袋をはめた手が、その柄を握っていた。


「……あ」


 遅れて痛みがきた。


 焼けた鉄を内臓に押し込まれたような激痛だった。男は口を開けたが、悲鳴は喉の手前で潰れた。刃が抜かれる。温かいものが一気に溢れる。膝から力が抜け、地面に手をつく。コンクリートのざらつきが掌を削った。


「ご、ぼ……っ」


 血が口に上がる。息が吸えない。世界が急に傾いた。


 それでも、男は本能で生きようとした。這う。壁に爪を立てる。暗い地面に赤が落ちていく。助けを呼ぼうと口を開くが、まともな声にならない。


 追う男は、無慈悲なほど静かにその背後へ回った。


「や、だ……たす、け……」


 男は振り返る。涙と鼻水と汗で顔がぐしゃぐしゃだった。地元で顔の利く部長の顔など、どこにもない。そこにいるのは、保身にしがみつく年老いた獣だけだった。


 目の前の男は、その姿を一つも哀れまなかった。


 刃が閃く。


 今度は首筋だった。頸動脈を断たれた熱が、横殴りに噴き出す。壁に、地面に、空気に、赤が散った。男の視界が真っ白に弾ける。身体の芯から、ものすごい速さで力が抜けていく。


 膝が折れた。


 地面に転がった視界の先で、黒い革靴が静かに立っている。男はもう何も言えなかった。耳鳴りの中で、機械の唸りだけがやけに鮮明だった。冷たい夜気が、濡れた喉を撫でていく。


 自分は死ぬのだ、とようやく理解した。


 こんなふうに。誰にも見られず。誰にも庇われず。金も地位も顔も利かず。路地裏のごみのように。


 視界の端で、追う男がしゃがみ込む。自分を見下ろしている。だがその眼に、勝利の喜びも怒りもない。ただ業務の最後の確認をするような、冷えた静けさだけがある。


「帳簿は、残ります」


 その声が最後に聞こえた。


「あなたが消しても、どこかに必ず」


 男の意識は、そこで闇に沈んだ。


 数秒後、路地裏にはまた、室外機の唸りと夜風の音だけが残った。


 中年の男は手際よく刃を拭い、革のケースへ戻す。アタッシュケースの中身を元通りに整え、金具を閉じる音もまた、小さく乾いていた。足元の血だまりに視線を落とし、周囲の壁面と路面の飛沫を一瞥する。必要な確認を終えると、男は何の未練もなく踵を返した。


 夜の街は、何も知らないまま続いていく。


 コンビニには明かりが灯り、飲み屋では誰かが笑い、信号は規則正しく色を変える。たった一人の悪人が消えたところで、世界は眉一つ動かさない。


 だがその静けさこそが、男にはむしろ自然だった。


 帳尻は、合わせられたのだ。


     ◆


 翌朝。空はひどく晴れていた。


 九重(ここのえ)会計事務所は、駅前から少し離れた通りにある古い雑居ビルの二階に入っている。三十年は経っていそうな外壁は少し色褪せ、階段の手すりには何度も塗り直した跡がある。だが、入口の磨りガラスに金文字で記された「税理士法人 九重会計事務所」の文字だけはいつもきちんと磨かれていて、その控えめな整い方に、この事務所の気質がにじんでいた。


 朝八時四十分。まだ始業十分前だというのに、執務室にはすでに複合機の起動音とパソコンのファンの音が混じっていた。紙の匂い、インクの匂い、誰かが淹れたコーヒーの匂い。会計事務所特有の、乾いているのにどこか生活感のある空気が満ちている。


 その執務室の入口のドアが開き、ひとりの男が入ってきた。


 鷺宮敏樹(さぎみやとしき)は、いつもより少しだけ気だるそうな顔で出勤してきた。


 黒に近い濃紺のスーツ。白いシャツ。結び目の小さなネクタイ。靴は磨かれているが、昨夜の疲れが靴底のどこかに残っているようにも見える。五十二歳という年齢を考えれば驚くほど姿勢はいいのに、今朝はわずかに肩の力が抜けていた。片手に下げた黒いアタッシュケースはいつも通りで、むしろ本人の気だるさと対照的に、異様なほど端正だった。


「……おはようございます」


 低く、眠気の残ったような声だった。


 真っ先に反応したのは、入口近くの席でノートパソコンを開いていた真島緋色(まじまひいろ)だった。三十七歳。真面目さがそのまま人の形を取ったような顔立ちの男で、短く整えた髪も、少し曲がったネクタイも、何もかもがどこか一生懸命だった。


「あっ、おはようございます、鷺宮さん」


 真島は半分立ち上がりかけて、また少し照れたように座り直した。その反応が、いかにも彼らしい。


 鷺宮は机の脇にアタッシュケースを置き、ゆっくり椅子を引いた。動作に無駄がない。眠そうに見えるのに、書類の置き方もノートパソコンの開き方も、いつもと一ミリも違わない。何十回も繰り返された朝の所作だ。人によっては几帳面と言うだろうし、人によっては儀式じみていると感じるだろう。


 真島はそれを横目で見ながら、いつものように少しだけ胸の内で感心していた。鷺宮敏樹という人は、見ていると、歳の重ね方まで丁寧に整えているように見える。無駄に若作りをするわけでも、諦めてくたびれるわけでもない。ただ静かに、自分という人間の輪郭を保っている。真島はそういうところに、職業人としての格好良さを感じていた。


「今日、坂下食品ですよね」


 真島が言った。


「そう。月次の定期訪問」


「昨日の資料、まとめておきました。資金繰りは少し良くなってるんですけど、原材料の値上がりがまだきつい感じで……あと、棚卸の数字、前月よりだいぶ動いてます」


 鷺宮はパソコンを立ち上げながら、「見せて」とだけ言った。


 真島はすぐにファイルを持ってくる。彼のこういうところを、御堂俊平は「指示待ちが板につきすぎている」と評することがあるが、鷺宮に言わせれば、それは人の仕事を先回りして支えようとする癖でもあった。真島は要領が飛び抜けて良いわけではない。だが、自分がやれる範囲のことは誠実にやるし、人が困らないように段取りを整えようとする。会計事務所のような仕事では、それは想像以上に貴重な資質だった。


 鷺宮は渡された資料をざっと見る。寝不足らしい気だるさが残っていたはずなのに、紙の数字に視線を落とした瞬間、その目だけがひどく冴えた。


「原価率は上がってるけど、悪い上がり方じゃないね」


「はい」


「売上が落ちた分を無理にごまかしていない。棚卸が動いたのも、たぶん在庫整理の影響だろう。先月、社長が倉庫を一回きれいにしたいって言ってたから」


「……あ」


 真島が目を瞬く。


「ほんとだ。言ってましたね」


「言葉と数字がちゃんと繋がっている時は、そこまで疑わなくていい」


 そう言ってから鷺宮は、紙の端を軽く叩いた。


「ただし、繋がっているからといって安心はしないこと。人は本当のことを言いながら、大事なところだけ隠すから」


 真島は思わず背筋を伸ばした。


「はい」


 鷺宮の指摘は、いつも不思議だった。会計の技術として正しいだけではない。数字を見ながら、その向こうにいる人間の息遣いまで読んでいるように聞こえる。真島はそういう先輩に憧れている。自分もいつか、こんなふうに帳簿の奥まで見通せる人間になりたいと、かなり本気で思っていた。


「おはようございまーす」


 事務所の空気を少しだけ明るく変える声が飛び込んできた。


 椎名明日香だった。


 二十八歳。ベージュのブラウスに黒のタイトスカート、華やかさを隠さないのに下品にはならない絶妙なラインで自分を整えている。艶のあるセミロングの髪が揺れ、柔らかい香りが空気に混じる。誰が見てもきれいな女で、そのことを本人もよく知っていて、さらにそれをどう扱えば一番得かも知っている顔だった。


「真島くん、朝からまじめだねえ。感心感心」


「椎名さんはもう少し朝早く来た方がいいと思います」


「セーフでしょ、まだ」


「いつもそう言いますよね」


 真島がやや呆れた口調を向けると、椎名はくすっと笑い、そのまま鷺宮の机の前で足を止めた。


「鷺宮さん、おはようございます」


「おはよう」


 鷺宮は顔を上げた。椎名は一瞬、そこで少しだけ目を細める。


「……なんか今日、眠そうですね」


「そうかな」


「そうですよ。いつもより三パーセントくらい色気が増してます」


「その評価基準、雑だな」


「褒めてるんですけど」


「褒め方が軽いんだよ」


 椎名は目を丸くした。


「え、今のちょっと新鮮。反応してくれた」


「毎回反応するほど暇じゃないだけ」


「でも反応してくれた」


 少し嬉しそうに言うあたりが、いかにも椎名だった。彼女は基本的にイケメンが好きだし、若くて分かりやすく自信のある男に弱い。職場でも、見た目のいい顧問先の跡取りや銀行員が来れば、声のトーンが一段だけ明るくなる。真島はそういう彼女にいつも少し振り回され、時々呆れ、でも嫌いにはなれないでいる。


 ただ、椎名が鷺宮に向ける視線だけは、最近少し変わっていた。


 最初の頃は、五十二歳の地味な先輩としてしか見ていなかったはずだ。ところが、この男は妙に目が離せない。男として見てほしいと迫ってくるでもなく、逆に年上らしい余裕で包み込もうとするでもない。笑えば柔らかいのに、ふとした時にひどく遠い顔をする。何も求めてこないくせに、困っている時だけはこちらが言葉にする前に気づいてくる。椎名にとって、それは今まで出会ってきた男たちのどの類型にも属さない厄介さだった。


「ねえ、ほんとに大丈夫ですか?」


 椎名は少しだけ声を落とした。


「顔色、悪いわけじゃないけど、なんか疲れてません?」


「寝つきが悪かっただけだよ」


「ふーん」


 椎名はそれ以上は追わなかった。だが、鷺宮の答えをそのまま信じたわけでもない。その曖昧な距離感が、二人の関係だった。若い女が年上の男に甘えるようでいて、実はどちらも相手の本心を測りかねている。


「椎名さん」


 声が飛んできた。


 副所長の御堂俊平(みどうしゅんぺい)だった。


 応接室の前から歩いてくるその姿は、朝の事務所に場違いなほど整っている。四十七歳。長身で、スーツは高級仕立て、ネクタイの趣味も洗練されている。黙って立っていれば都会的なエリートにしか見えない。実際、仕事はできる。顧問先との交渉力も、金融機関との折衝も、資料作成の精度も高い。九重会計事務所の中で、もっとも「今風の有能さ」を体現している男だった。


 ただし性格は悪い。


「昨日お願いした労務データの整理、九時までに共有してもらえますか」


 言い方は丁寧だが、少しも逃げ道がない。


「あ、はい。すみません、すぐやります」


 椎名が自席へ戻る。御堂はその後ろ姿を一瞬だけ眺め、次いで真島の手元のファイルに目を向けた。


「真島くん、坂下食品の資料?」


「はい」


「数字を見るだけなら誰でもできます。先方へ行ったら、何を聞くかを事前に整理しておいてください。先月も、在庫の話を振られて答えに詰まっていたでしょう」


「……はい」


 真島の返事が少し小さくなる。


 鷺宮はそのやりとりを横で見ていた。御堂は怒鳴らない。露骨に叩き潰すような真似もしない。その代わり、相手が一番気にしている未熟さや失敗を、正確に選んで指で押す。本人は育成のつもりか、あるいはそう言い張る気なのだろうが、やられる側からすれば骨身に染みる。


「坂下食品は僕が回ります」


 鷺宮が言った。


「真島くんには午後の川西工業の資料整理を頼む予定です」


 御堂は鷺宮へ視線を移した。その眼の奥には、薄い笑みとも評価ともつかないものがある。


「そうでしたね。失礼しました」


 言葉は謝罪でも、その響きには棘が残る。


「鷺宮さんなら安心ですが、先方もいつまでも旧来のやり方では立ち行きません。情に寄り添うだけの巡回では、顧問先も成長しませんから」


「そうですね」


 鷺宮は表情を変えなかった。


「数字が良くなるなら、それが一番です」


「……」


 御堂の口元がわずかに動く。鷺宮のこういうところが、彼は気に入らないのだろうと真島は思う。反論しない。媚びもしない。だが、相手の言葉をそのまま飲んだようでいて、どこにも屈していない。その静けさが御堂の優位を曖昧にしてしまう。


 御堂俊平は鷺宮敏樹を、表向きは評価している。顧問先受けがよく、現場感覚もあり、数字にも強いベテラン。だが本心では、「昔ながらの巡回担当」に留まっている男だと見下している節がある。自分のように事務所全体を再編し、資産税やM&Aやコンサルまで視野に入れて動く人間こそが、これからの会計事務所を引っ張ると信じているからだ。


 一方で、鷺宮のほうも御堂をまともに評価していないわけではない。頭は切れる。仕事も速い。だが数字を「人を救うための手段」ではなく、「人を選別するための道具」として扱う癖がある。そこに鷺宮は、冷たい違和感を持っていた。


 その空気の冷え方を、椎名は自席から敏感に感じ取っている。真島はそこまで言語化できないが、居心地の悪さだけは知っている。四人が同じ執務室にいながら、それぞれ別の水温で息をしているようだった。


 そこへ、所長室の扉が開いた。


「おはようございます」


 九重直樹が姿を見せると、事務所の空気がほんの少しだけ柔らかくなった。


 六十五歳。白髪交じりの頭をきちんと整え、落ち着いたグレーのスーツを着こなしている。柔和で、地元の老紳士そのものの顔立ち。だが、目だけは若い。いや、若いというより、見たくないものを見すぎて鈍らなかった眼だった。


「おはようございます、所長」


 椎名が明るく挨拶し、真島も続く。御堂はわずかに会釈した。鷺宮は椅子から立ちかけ、九重が手で制したのでそのまま座り直す。


「皆さん、昨日の件ありがとう。坂下食品の社長からも、電話がありました。『うちのことを本気で考えてくれているのが伝わる』と。ありがたいことですね」


 そう言って九重は執務室を見回した。職員をやたらと持ち上げるタイプではないが、必要な時には言葉を惜しまない。その積み重ねが、九重会計事務所という小さな共同体を長年支えてきたのだと、真島は思っている。


 九重の視線が鷺宮に留まる。


「鷺宮くん」


「はい」


「少しいいかな」


「分かりました」


 二人は所長室へ入った。


 扉が閉まると、椎名が小声で真島に言った。


「所長って、ほんと鷺宮さんのこと信頼してるよね」


「そりゃそうですよ。長いですし」


「それだけじゃなくない? なんか、こう……特別枠っていうか」


 真島は少し考えた。


「うーん……所長、鷺宮さんにだけ言い方が違う時ありますよね。怒ってるわけじゃないのに、たまにすごく真剣な感じになるっていうか」


「ね。私もそれ、思ってた」


「椎名さん、そういうとこ敏感ですよね」


「人間観察が得意なんです」


「ただの野次馬根性では」


「失礼な」


 二人のやりとりを、御堂は聞こえないふりで聞いていた。


     ◆


 所長室には、いつものように湯気の立つ急須があった。壁一面の本棚には税法六法、実務書、判例集、それに経済史や地方自治に関する本まで並んでいる。九重はただ税金の計算だけをしてきた人間ではないと、その本棚は語っていた。


「座って」


「失礼します」


 鷺宮が腰を下ろすと、九重は湯呑みに茶を注いだ。淡い香りが立つ。いつもの朝の風景だが、所長がわざわざ呼ぶ時は大抵、仕事の確認以上の意味がある。


「眠そうだね」


 九重がまずそう言った。


「寝つきが悪くて」


「そうか」


 九重はそれ以上は訊かなかった。だが、見逃したわけでもない。長年、同じ空間で働いていれば、人の些細な変化は分かる。鷺宮敏樹という男は、普段から感情の見えにくい人間だ。その分、少しの疲れや沈黙の質の違いが、かえって目につく。


「坂下食品、頼めるかな」


「はい」


「先方は本当に苦しい。数字もそうだが、社長の気持ちも落ちている。資金繰り以前に、投げてしまわないように支えてあげてほしい」


「分かっています」


 九重は小さく頷いた。


「君は数字だけでなく、人の顔も見てくれるから助かる」


 その一言には、真っ直ぐな信頼があった。鷺宮はそれを受け止めるように黙った。


「それから」


 九重は少し間を置いた。


「最近、川上コーポレーションの話を耳にする」


 鷺宮のまぶたが、ごくわずかに動いた。


「というと」


「下請への支払い遅延、関連会社への不透明な外注、あとは内部の人間が妙に入れ替わっているという噂だ。噂は噂だが、あそこは地元じゃ影響力が大きい。何か表に出れば、波及も大きい」


「ええ」


「もし、向こうから何か接触があったとしても、軽々しく首を突っ込まないことだ」


 九重の声音は穏やかだった。だが言葉は鋭い。


「大きい会社ほど、数字の奥に人間の手が入り込む。会計だけの話で済まないこともある」


「知っています」


「君は知っていて、なお行きすぎることがある」


 それは責める口調ではなかった。むしろ、古傷を気にかけるような響きだった。


 鷺宮は湯呑みに視線を落とす。茶の表面に、窓から差し込む朝の光が小さく揺れていた。


「所長」


「うん」


「合わない数字を放っておくと、壊れる人間が出ます」


 九重は答えなかった。


「会社が壊れる前に、人が壊れる。経理が、現場が、下請が、家族が。数字は後からしか並びません」


「……」


「それでも、見ないふりをしたほうがいい場合もありますか」


 九重はしばらく黙っていた。老いた指が湯呑みの縁をゆっくりなぞる。


「ある」


 やがて所長は言った。


「そして、見ないふりをしたことを、後で悔やむ場合もある」


 鷺宮は何も言わなかった。


 九重直樹という人は、きれいごとで部下を縛らない。だからこそ厄介だった。優しいのではない。現実を知りすぎて、優しさだけで人を止められないと分かっているのだ。そのことを、鷺宮は痛いほど理解していた。


「坂下食品、よろしく頼むよ」


「はい」


 それで話は終わった。


     ◆


 所長室を出ると、鷺宮の席に小さな付箋が貼られていた。達筆でも可愛げでもない、妙に丸い字で「ブラック飲みすぎ注意」と書いてある。脇に、小さなコーヒーカップの落書きまでついていた。


 椎名明日香の字だった。


 本人は電話中のふりをしていたが、鷺宮が付箋を見たのを確認すると、目だけで軽く笑う。鷺宮は付箋をはがし、数秒眺めてから、引き出しの中へしまった。


 それを見ていた真島が小声で言う。


「捨てないんですね」


「メモは残す主義なんだよ」


「いや、そこじゃなくて」


 鷺宮はわずかに口元を緩めた。真島はその反応だけで少し得をした気分になる。鷺宮がこんなふうに小さく笑う瞬間を知っているのは、長く近くで働いている者の特権のようなものだ。


 その一方で椎名は、引き出しにしまわれた付箋の行方を見て、心のどこかがふっと軽くなるのを感じていた。たったそれだけのことで気分が上がる自分が、少しだけ悔しい。


 御堂俊平はそんな細かなやりとりも見ている。見ていて、何も言わない。言う必要がないからだ。人間関係は、放っておいても勝手に歪む時がある。その歪みが使えるなら使えばいい、というのが彼のやり方だった。


 九重会計事務所の日常は、平穏に見えて、その実、薄い緊張と感情の綾の上に成り立っていた。誰もが同じ数字を扱いながら、見ている世界は微妙に違う。所長は守るために数字を見る。副所長は切り分けるために数字を見る。真島は支えるために、椎名は自分が軽く見られないために。そして鷺宮は――。


 そこだけは、誰にも見えていなかった。


     ◆


 午前十時半過ぎ。鷺宮はアタッシュケースを手に事務所を出た。


 坂下食品は、駅前から車で二十分ほどの工業団地の外れにある中規模の惣菜製造会社だ。先代が築いた味で地元に根を張ってきたが、ここ数年は原材料費の高騰と人手不足に苦しみ、資金繰りも決して楽ではない。だが、無茶な粉飾に走るでもなく、遅れながらも改善を試みている。九重会計事務所にとっては、数字の向こうに守るべき生活が見える顧問先の一つだった。


 事務所を出た途端、春の光が目に眩しかった。


 空はひどく澄んでいる。雲一つなく、青が高い。風はまだ少し冷たいが、陽射しには冬の名残がなかった。道路脇の街路樹に薄い緑が覗き、通りを歩く人々の服装も少しずつ軽くなっている。どこにでもある、平和な地方都市の昼前だった。


 鷺宮は歩きながら腕時計を見る。訪問の時間までは余裕がある。駅前のバス停まで出るか、少し先のタクシー乗り場を使うか。頭の中で時間と距離を整理していると、スーツの内ポケットでスマートフォンが震えた。


 知らない番号だった。


 一瞬だけ画面を見つめてから、鷺宮は通話を取る。


「はい、九重会計事務所の鷺宮です」


 少し間があってから、女の声がした。


『……突然すみません』


 若いが、張り詰めた声だった。二十代後半から三十代前半くらいだろうか。息を殺すように話しているのに、その奥に切羽詰まったものがある。


『私、川上コーポレーションで経理を担当している者です』


 鷺宮の足が止まった。


 駅前へ続く歩道の脇、ガラス張りの銀行の前。通行人は何事もなく通り過ぎていく。だが、その一言だけで、世界の輪郭が少し変わった気がした。


「川上コーポレーションの」


『はい』


 地元で「大会社」と言えば、必ず名前が挙がる企業の一つだった。建設、不動産、物流、介護、外食、ホテル。地域に複数の関連会社を持ち、行政とも金融機関とも結びつきが強い。表向きは地域経済を牽引する優良企業。だが、規模が大きくなりすぎた企業にはたいてい、数字だけでは説明しきれない汚れが溜まる。


「うちに何かご用件でしょうか」


 鷺宮は声の温度を変えない。


『すみません、どこまでお話ししていいのか分からないんですが……』


 女が一度、浅く息を吸う。


『私、長い間、社内の不正に加担させられていました』


 通りの向こうで、配送トラックが信号待ちをしていた。青空がトラックのフロントガラスに映っている。鷺宮はその景色を見たまま、何も言わず相手の続きの言葉を待った。


『最初は、よく分からないまま処理していました。上から回ってきた書類に印を押して、言われた通りに仕訳して……関連会社への外注費とか、仮払金とか、戻ってこない立替とか、そういうのです。でも、何年もやってるうちに、これ普通じゃないって分かって』


「……」


『それで、もうこれ以上は関わりたくないって、上司に伝えたんです。先週』


 女の声が、少しだけ震えた。


『そしたら、それから急におかしいことが増えて。帰り道に誰かいる気がするとか、家のポストの中身が触られてるとか、会社のパソコンのログイン履歴が変だったりとか……私、考えすぎかもしれないって思ってたんですけど、昨日、社内のファイルが一部消えていて』


 鷺宮は歩道脇のガードレールに軽く手を添えた。


「警察には」


『行けません』


 即答だった。


『相手が相手なので……それに、まだはっきり証拠があるわけじゃないし、こっちが何を持ってるかも知られたくなくて』


「うちに電話をした理由は?」


 女は少し黙った。


『会計事務所の人なら、数字の話として聞いてくれると思って』


 その答えに、鷺宮のまぶたがほんのわずかに下がる。


『川上の顧問はそちらじゃないことは分かっています。でも、ネットで見て、九重会計事務所って地元で長くやってるから……。それで、もし誰かに相談するなら、下手に弁護士とか警察に行く前に、まず会計の人に話したほうがいいんじゃないかって』


 追い詰められた人間は、最後に自分の言葉を理解してくれそうな相手を探す。警察でも、弁護士でもなく、会計事務所。数字の歪みが怖いと知ってしまった人間らしい選択だった。


「あなたのお名前は」


『……今はまだ、言えません』


「分かりました」


『すみません』


「勤務先の正式名称と、部署だけ確認します。川上コーポレーション本体の経理部ですか」


『はい。本体の経理課です』


「あなたは、今、社内にいますか」


『いえ、今日は外出の予定があって……でも、長くは一人になれません』


「なら、無理に長電話はしないほうがいい」


 鷺宮は通りの先を見た。車が流れ、歩行者が横断歩道を渡っていく。どこまでも普通の昼だ。


「会計事務所の人に話を聞いてほしい、ということでしたね」


『はい』


「何を見せられますか」


 女が一瞬、息を詰める気配がした。何を求められているのか、すぐに理解したのだろう。


『仕訳データの一部と、外注費の一覧、あと関連会社への支払いが分かる資料なら……。全部ではないですけど』


「紙ですか、データですか」


『データが多いです。でも、印刷も少しならできます』


「分かりました」


 鷺宮は声を一段低くした。


「今はまだ何も送らないでください。会社のネットワークやメールは使わないこと。自宅のパソコンも、触られている可能性を捨てないでください」


『……はい』


「次に連絡する時は、公衆の多い場所からではなく、人の声に紛れない場所を選んでください。ただし、逃げ場のない場所も避ける。出入口が一つしかない喫茶店や、地下はだめです」


『分かりました』


「あなたが今、いちばん怖いのは、証拠が消されることですか。それとも、ご自身の身ですか」


 少しの沈黙のあと、女は答えた。


『……正直、どっちもです。でも』


「でも?」


『最近、周りの人の目が変なんです。上司だけじゃなくて、今まで普通だった同僚まで、私が何を見たのか探ってるみたいで。だから、先に話を聞いてくれる人が必要なんです』


「分かりました」


『あの』


 女の声が、弱くなる。


『私、もう間違った仕訳を切りたくないんです』


 その一言だけが、異様に真っ直ぐだった。


 鷺宮は目を閉じなかった。だが、内側で何か冷たいものが整列する感覚があった。間違った仕訳を切りたくない。会計の世界にいる人間なら、その言葉がどれほど切実か分かる。数字の誤りではなく、人生の誤りに手を貸し続けることの痛みが、そこにはにじんでいた。


「こちらから改めて連絡します」


『……お願いします』


「それまで、一人で動かないこと。持っている資料も、なるべく一か所にまとめないでください」


『はい』


「そして」


 鷺宮は一拍置いた。


「あなたが今まで見てきた数字は、消えません」


 女は何も答えなかった。だが、受話口の向こうで、ごく小さく息を呑む音がした。


 通話はそこで終わった。


     ◆


 スマートフォンをポケットに戻したあとも、鷺宮はしばらくその場に立っていた。


 春の青空が高かった。嘘みたいに雲がない。どこまでも澄んだ青が、街の上をまっすぐ覆っている。銀行の看板も、信号機も、電線も、その青の前では妙に平たい記号に見えた。


 川上コーポレーション。


 大きい会社は、数字の数だけ嘘を抱えられる。金額が大きくなれば、そのぶん痛みも薄まると思っている人間が増える。だが実際には逆だ。金が大きく動くほど、その下で押し潰される人間の悲鳴は見えにくくなる。外注費の一行に埋もれ、仮払金の残高に紛れ、関連会社取引の注記の陰で、人の尊厳が消耗品みたいに扱われる。


 鷺宮は空を見上げたまま、誰にも聞かせるつもりのない声で呟いた。


「悪い数字は、いずれ正される」


 風が吹いた。スーツの裾がわずかに揺れる。


「直せるうちに直さなかった人間には、もう別の処理しか残らない」


 それは会計人の言葉にも聞こえたし、判決にも、祈りにも、死刑宣告にも聞こえた。


 青空は何も答えない。


 ただ、どこまでも明るく、何ひとつ曇りなく広がっている。そんな穏やかな空の下でこそ、人間の醜さはよく見えるのだと、鷺宮敏樹は知っていた。


 彼はゆっくりと視線を下ろし、何事もなかったように歩き出した。

 坂下食品へ向かうために。

 そして、その先に待っているかもしれない、もう一つの歪んだ帳簿の底へ向かうために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ