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静かな死闘(前編)

 藤崎ふじさき 志保しほ、三十四歳。


 川上コーポレーション経営企画本部・事業管理室係長。新卒で川上コーポレーションへ入り、経理部門で六年、その後、経営企画へ異動して六年目。表に出るタイプではないが、数字と文書の整合性に異様に強く、社内では「黙っていると地味なのに、資料の穴だけは絶対に見逃さない女」と思われていた。

 地方国立大学の経済学部を卒業し、川上コーポレーションに入った頃の彼女は、まさか自分がこんなふうに夜道で何度も振り返るような人間になるとは思っていなかった。


 最初の配属は財務経理部だった。そこにいたのが、川瀬雅也だった。

 彼は三つ年上で、営業戦略部へ異動する前は同じフロアの隣席にいた。外向きに見れば器用な男で、社内政治も飲み会も、上司のご機嫌取りも、だいたいそつなくこなした。けれど志保は知っていた。彼の器用さの裏には、かなり長い間、自分でもどうにもできない怯えと、会社に対する薄い諦めがあることを。


 付き合い始めたのは、入社五年目の冬だった。

 よくある社内恋愛だったと思う。残業続きの夜に食事へ行き、休日に映画を見て、どちらからともなく終電を逃し、そのまま流れで付き合うようになった。大げさな恋ではなかった。けれど静かな安心があった。川瀬は社内では決して本音を見せない男だったが、志保の前では少しだけ頑張らなくていい顔をした。それが彼女にはうれしかった。


 結局、二人は三年で別れた。

 どちらかが嫌いになったわけではない。むしろ逆だった。会社の中で一緒にいる時間が増えるほど、互いに別のものを抱えているのが見えてきたのだ。志保は仕事を通じて会社の数字の歪みを見始めていたし、川瀬は営業戦略部へ異動してから、数字の背後で動く「人の判断」の汚れを知ってしまった。会社を辞める勇気もなければ、内部告発できるほどきれいにもなれない。だから二人は、恋人であるより先に、それぞれの持ち場で息をすることを選んだ。


 別れたあとも、連絡はときどき来た。誕生日でもなんでもない日に、「元気?」とだけ入るメッセージ。社内のどうでもいい愚痴。たまに飲みに行くこともあった。完全に切れたわけではない。切りたくなかったのだろうと、志保はいまでは思う。


 その川瀬から、一週間前の夜、電話がかかってきた。

 時刻は二十時を回っていた。志保は自宅のワンルームで、コンビニのサラダをつつきながら、仕事の続きをノートパソコンで見ていた。スマートフォンに表示された名前を見た瞬間、少しだけ嫌な予感がした。別れてからの彼は、夜遅くに電話をしてくることがほとんどなかったからだ。


『志保』


 出ると、川瀬の声は最初から擦れていた。


「どうしたの」


『今、会えないか』


 その一言で、彼女は返事をする前に立ち上がっていた。

 理由は聞かなかった。聞く必要がないくらい、声が切羽詰まっていた。


 待ち合わせたのは、会社から少し離れた古い喫茶店だった。チェーンではない、昭和の名残みたいな薄暗い店で、遅い時間でもコーヒーだけは飲める。川瀬がそういう場所を選ぶのも珍しかった。普段の彼なら、もっと明るい店を選ぶ。


 店の奥の席にいた川瀬は、ひどく憔悴していた。

 一週間前のことなのに、その顔はもう、志保の頭の中で妙に細部まで残っている。ネクタイが少し曲がっていたこと。爪を短く切りすぎて、親指の縁が赤くなっていたこと。髪がきちんと整っていないこと。何より、周囲を見ているのに何も見えていないような目をしていたこと。


「何があったの」


 志保が座ると、川瀬はすぐには答えなかった。メニューも見ず、運ばれてきた水にも手をつけず、ただテーブルの下に抱えていた紙袋を両手で押さえていた。


『俺、死ぬかもしれない』


 そう言われた時、志保は、最初は冗談だと思わなかった代わりに、現実の意味でも受け取れなかった。


「何言ってるの」


『冗談じゃない』


「雅也」


『ほんとに』


 川瀬はその時だけ、顔を上げた。

 その目にあったのは、誇張でも演技でもなく、ひどく具体的な怯えだった。


『会社の中で、変なことが起きてる』


「変なことって」


『……言えない。ここじゃ、まだ』


 そこまで言って、彼は紙袋を抱え込むように胸へ引き寄せた。茶色い紙袋は、ごく普通の雑貨店のものだったが、中に入っているものがただの紙ではないことは、その持ち方だけで分かった。


「それ、何」


『資料』


「何の」


『志保』


 川瀬はテーブル越しに、声をひそめた。


『もし俺が連絡取れなくなったら、これ、見ないで捨ててくれ』


 その言い方は、彼が何を言っているのか自分でも半分信じていないようで、余計に怖かった。


「何それ、意味わかんない」


『俺も、あんまり分かってない』


「だったら警察に――」


『それが一番だめだ』


 川瀬の返答は即答だった。

 そこだけは迷いがなかった。


『警察も、社内の法務も、総務も、今はだめだ。誰がどこまで繋がってるか分からない。だから、せめて一回、会社の外に出しておきたい』


「なんで私なの」


 聞いてから、すぐに後悔した。

 川瀬の顔がほんの一瞬だけ、昔のやわらかいものに戻ったからだ。


『志保なら、勝手に開かないと思ったから』


 そんなふうに言われてしまえば、拒めるわけがなかった。

 本当は、受け取るべきではなかったのかもしれない。だが、その時の川瀬は、とにかく誰かにそれを預けたかったのだと思う。彼は自分の鞄から書類の束を取り出すと、紙袋ごとテーブルの下で志保に渡してきた。封はされていない。重みはそこまでではないが、薄い紙の束にしては妙な硬さがあった。


「落ち着いて。今日のところはそれでいいから、一旦うち来る?」


『いや』


「ホテルでも取る?」


『だめだ』


「雅也」


『だめなんだよ、今は』


 彼は何度も店の入口を見る。

 誰かに追われている人間の視線だった。


 その夜、結局、川瀬はそれ以上ほとんど何も話さなかった。志保は紙袋を受け取り、彼を少しでも落ち着かせようとした。コーヒーを飲ませ、タクシーを呼ぼうとし、明日の朝にもう一度会おうと言った。川瀬は曖昧に頷きながらも、最後は「また連絡する」と言って先に店を出た。


 それが、最後にちゃんと会った夜になった。


 書類を受け取った翌日から、志保の周囲では、少しずつ何かが狂い始めた。

 最初は、気のせいだと思った。

 自宅マンションの前に停まっている見慣れない軽自動車。会社の最寄り駅で、同じグレーのパーカーを着た男を二度見たこと。昼休みに使うカフェで、いつも空いている席に知らない男が先に座っていたこと。郵便受けの中のチラシが、一度だけ明らかに誰かに触られた跡を残していたこと。


 それぞれを一つずつ取れば、何でもなかった。都市で暮らしていれば、そういう偶然はある。志保も最初はそう思おうとした。


 だが、偶然にしては、嫌な向きが揃いすぎていた。

 会社の共有フォルダで、自分しか見ないはずのファイルにアクセス履歴が残っていた。退勤時にロッカーの鍵がわずかにずれていた。帰宅途中、背後に人の気配を感じてコンビニに入ると、その気配もコンビニの前で止まった。電話は鳴らない。けれど、留守番電話だけが妙に長い無言を録音していた。


 その頃には、志保ももう「何かがおかしい」と認めざるを得なくなっていた。

 川瀬に書類を返そうとした。

 だが、彼と連絡が取れない。


 メッセージは既読にならず、電話は呼び出しの途中で切れる。会社の内線では「外出中」としか返ってこない。営業戦略部の知り合いに遠回しに聞くと、「最近ずっとバタバタしてるらしいよ」と言われるばかりだった。


 そのうち、志保の中で考えが変わっていった。


 最初は、川瀬の怯えに巻き込まれたのだと思っていた。

 次に、川瀬が何かまずい資料を持ち出し、それを預かった自分も見られているのだと考えた。

 そして三日目の夜には、もっと単純な言葉が浮かんだ。


 ――自分も命を狙われている。


 そう思った瞬間、部屋の中のもの全部が違って見えた。

 カーテンの隙間。

 ベランダの外。

 玄関のドアスコープ。

 エレベーターの鏡。

 マンションの非常階段。

 会社のトイレの個室。

 全部が、誰かに見られる場所に変わった。


 けれど確信は持てない。

 誰かに相談して、「それは考えすぎだよ」と言われたら、自分のほうが壊れてしまいそうだった。


 だから志保は、日中は普段通り仕事をし、夜になると鍵を二度三度確認し、紙袋をクローゼットの一番奥へ隠して眠れないまま朝を迎える日々を続けた。


 そういう一週間だった。

 そして昨日の夜、ニュースを見た。

 駅前の再開発ビルから転落した会社員。

 地元ニュースの画面に映った名前。

 川瀬雅也。


 その瞬間、志保の中で、曖昧だった疑念が一気に固まった。

 自殺、という速報の言葉を、彼女は一度も信じなかった。


 あの夜の顔を見ている。

 「死ぬかもしれない」と言った時の声を聞いている。


 たしかに川瀬は怯えていた。けれど、自分で飛び降りる人間の怯えではなかった。

 あれは、逃げようとしている人間の顔だ。


 その夜、志保はほとんど眠らなかった。

 紙袋を開けるべきか、捨てるべきか、焼くべきか、会社へ持っていくべきか。考えても考えても答えが出ない。警察へ行く発想は、一度頭に浮かんで、すぐ消えた。なぜ消えたのか、自分でも説明できない。ただ、川瀬があれほど強く「だめだ」と言ったことだけが残っている。


 そして朝になって、彼女はとうとう、愚かな決断をした。


 今日の夜、もともと予約していたコンサートがあった。

 国民的アイドルの武道館公演。

 半年前に取ったチケット。別に熱狂的なファンというわけではない。ただ、仕事のことを忘れられる時間が欲しくて取っていた。


 行く気は最初、なかった。

 けれど途中で考えが変わった。


 人が多い場所なら、逆に紙袋を捨てられるかもしれない。

 コインロッカーでも、トイレでも、ゴミ箱でもいい。

 とにかく自分の手元から消せば、少しは楽になるのではないか。

 そう思ってしまった。


 書類の束はクリアファイルごと小さめのトートバッグに移し替えた。中身は見ていない。見るのが怖かった。知れば、もう引き返せなくなる気がしたからだ。


 武道館へ向かう電車の中でも、志保はずっと周囲を気にしていた。

 同じ車両に二度乗ってくる男。

 ホームで視線が合った女。

 改札の近くに立ち尽くす警備員。


 全部が敵に見える。

 実際に敵かどうかなんて、わからない。

 でも、わからないからこそ怖い。


 武道館の入口が見えた時、志保は少し後悔した。

 人が多すぎる。

 声が多すぎる。

 光が多すぎる。

 紙袋を捨てるどころではない。


 むしろ、この雑踏の中でこそ、自分は簡単に見失われて、簡単に消されるのではないかと感じた。

 それでも入場した。

 ここまで来て帰るほうが、かえって不自然に思えたからだ。

 座席に着くまでの通路で、何度も足が止まりそうになった。

 係員の指示が自分だけに向いているように感じる。

 後ろの客の笑い声が、自分を見ている気がする。

 階段の手すりが妙に近い。

 コンコースの明るさが、逆に視界をぼかす。

 自分の席に辿り着いた時には、もう喉が乾ききっていた。


 スタンド席。

 ステージは遠い。

 周囲は開演前の熱気で浮いている。

 誰も彼も、これから始まる歌と光のことしか考えていないように見える。

 なのに志保だけが、バッグの中の紙の重みと、誰かに見られている感覚だけを抱えて震えていた。


 ここにいてはいけないのではないか。

 でも立ち上がった瞬間に、誰かに合図を送ることになるのではないか。

 トイレへ行くふりをしたら、その通路で終わるのではないか。

 そんなことばかり考えて、身体が動かなかった。

 その時、隣の席の女が声をかけてきた。


「大丈夫ですか?」


 志保はびくっとして顔を上げた。

 黒髪を肩口で切りそろえた、二十代半ばくらいの女だった。

 銀縁の眼鏡。地味なカーディガン。派手さはないが、妙に目が静かだった。


「顔色、悪いです。水、いります?」


 差し出されたペットボトルを、志保は反射的に断りかけて、結局受け取った。


「あ、すみません……」


「いえ。開演前って、たまに具合悪くなる人いますし」


 その言い方が、あまりにも自然だった。

 女はそこで、それ以上踏み込まなかった。

 根掘り葉掘り聞くでもなく、励ましすぎるでもなく、ただ隣に座っている一般客として、少しだけ気遣いを差し出した。それが志保にはありがたかった。


「私、綾小路澪っていいます」


 女は小さく笑った。


「こういう時、名前言うの変ですけど、一応」


 志保は、一瞬だけためらった。


「……藤崎、です」


「藤崎さん。今日は誰かと来たんですか?」


「一人です」


「私もです」


 綾小路澪は、それだけ言って、前を向いた。

 その距離感がちょうどよかった。

 おかげで志保は、ほんの少しだけ呼吸を取り戻した。

 会場全体が敵に見えていたのに、隣に一人だけ、敵ではなさそうな人間がいる。

 それだけで、崩れかけていた神経が少し戻る。


 バッグの中の書類はまだ重かった。

 川瀬雅也は死んだ。

 誰かが自分を見ている気がする。

 何も解決していない。

 けれど、それでも彼女は、開演前の数分間だけ、完全な孤独からは少しだけ離れることができていた。


     ◆


 鷺宮敏樹が武道館に着いたのは、開演直前だった。


 正規の入場列はもう締まりかけており、入口周辺は最後の客と係員と警備でごった返している。通常なら、ここから中へ入るにはチケット確認と導線の制約が重すぎる。だが鷺宮は最初から正面入場を考えていなかった。

 荷改組の仕事において、入口は入るためのものではなく、人が入口だと思っているものにすぎない。実際の導線はいつだって複数ある。搬入口、機材出入口、清掃ルート、係員専用通路、ゴミの搬出、忘れ物対応口。イベント会場は大きければ大きいほど、客のための道の外側に、膨大な裏動線を持つ。


 鷺宮は、武道館裏手のサービスヤードに近い位置まで回り込むと、関係者風の顔を作ってそこへ入った。

 必要な瞬間だけ、身体を迷わせない訓練の賜物だ。


 積まれたコンテナの影を使う。

 警備員の目線が横へ流れた一瞬で、立入禁止の鎖を越える。

 壁沿いの細い通路で、搬入用ケースの隙間を一歩半で抜ける。

 階段の踊り場で作業員とぶつかりそうになった時は、ぶつからないのではなく、ぶつかったと相手が認識しない角度で肩をずらす。


 そうやって、彼は武道館の内部へ入った。

 客席近くまで直接潜れるわけではない。

 だが少なくとも、建物の中に入り、コンコースと外周導線へ干渉できる位置までは来られた。


 佐藤あかりには、同じことはできない。

 彼女は戦えるが、荷改組のように「関係者でもないのに関係者の顔で裏動線へ入る」ことには慣れていない。だから彼女には別ルートを取らせた。俊足を活かし、外周の複数入口と規制退場導線を先に押さえる。もし崖端組が会場の内と外を連動させているなら、佐藤のような足の速い人間は外でこそ生きる。


 問題は、合流が遅れることだった。

 そして、その遅れがちょうど致命的なタイミングで訪れた。


 場内が暗転したのだ。

 開演を告げる歓声が、地鳴りのように上がる。

 何千人もの叫びと拍手が一斉に武道館の中を揺らし、音楽が腹に響く。


 鷺宮はその瞬間、自分の武器の一つを失ったことを理解した。


 聴覚。


 彼は目と同じくらい、耳を使って人を読む。

 誰がどこで立ち止まり、どの靴音が導線を外れ、どの会話の温度が不自然か。

 雑踏の中でも、本来ならその微細な差を拾える。


 だがコンサートが始まってしまえば、歓声と音響でそれは潰れる。

 武道館は今や、崖端組にとって理想的な霧の中だった。

 鷺宮は内心で舌打ちしつつ、代わりにスマートフォンの振動へ意識を移した。


 荷改組の各所から、断片的な情報がリアルタイムで入ってくる。


 「目標女性、開演直前に北側入場」

 「スタンド東寄り、単独」

 「黒トートバッグ所持」

 「開演後、周辺にファーストフード売店スタッフの配置増」

 「外周に不自然な警備誘導なし」


 どれも断片だ。だが荷改組の強みは、断片を断片のまま使えることにある。

 一つひとつでは足りなくても、動きの向きだけは見える。

 鷺宮は客席とコンコースを隔てる通路の端で立ち止まり、場内の視線の流れを見る。


 光はステージへ集まっている。

 客は前を見る。

 移動するなら今だ。

 逆に、狙う側も今を使う。


 目標の女性――藤崎志保がいると思われる区画は、東寄りのスタンド中段だった。だがそこへ一直線に行くのは危ない。崖端組は「助けに行く人間の導線」も読む。ならばまず、周囲を歩く不自然な人間を探る。


 その時、鷺宮の目に、一人の女が入った。


 三十代半ば。

 コンコースを歩いている。

 コンサートの最中なのに、グッズもペンライトも持たず、ステージの音へまったく引かれていない。

 服装は地味。会社帰りのような紺のジャケット。

 歩く速度が、会場の熱と合っていない。

 それに、何度も後ろを見ている。

 だが、その見方が「誰かを探している」のではなく、「誰かがいるかもしれない」と怯える人間の見方だった。


 鷺宮は、すぐには近づかなかった。

 あえて彼女の進行方向を先読みし、売店脇で自然に交差する位置を取る。

 道に迷ったふりをするのは、荷改組がよく使う入口の一つだ。

 困っている人間は、助けを求める側に主導権があるようでいて、実際には相手の視線と声色を強制的にこちらへ向けさせる。


 鷺宮は、コンコースの分岐で少し立ち止まり、地図を見るふりをしてから、彼女に声をかけた。


「すみません」


 女がびくっとする。


「この列、東のスタンドに戻る道で合っていますか」


 近くで見ると、顔色は悪い。

 手にしたトートバッグを、必要以上に強く握っている。

 目の焦点は定まっていないのに、周囲の物音には過剰に反応する。

 そして何より、バッグの重さを意識している手だった。


「……え、あ、たぶん」


 声が乾いていた。


「私も、そっちです」


「そうですか」


 鷺宮はわずかに困ったように笑う。


「初めてで、構造がよく分からなくて」


「私も……」


 女は言いかけて、飲み込む。

 この人も相当追い込まれている、と鷺宮は思った。

 ここでさらに情報を足す。


「すみません、もし同じ方向なら一緒に歩いてもいいですか。さっきスタッフさんに聞いたら、逆方向案内されてしまって」


 女は戸惑った。

 だが、強く拒める状態ではない。

 人は、怯えている時ほど「普通の人との関わり」にすがる。

 彼女もまた、その段階にいた。


「……はい」


「ありがとうございます」


 歩き出す。

 鷺宮は歩幅を彼女に合わせながら、会話の温度を上げすぎずに続ける。


「今日はお一人ですか」


「そうです」


「混みますね」


「はい……」


「コンサート、よく来られるんですか」


「いえ、たまに」


 返事の間が長い。

 会話に意識が向いていない。

 つまり、今の彼女は、誰かに話しかけられていること自体で少し救われながらも、頭の中では別の恐怖を見ている。


 鷺宮は確信した。

 この女が、目標だ。

 藤崎志保。

 川上コーポレーション内部資料を持つ、次の標的。


 そう確信した瞬間、視界の端に、別の動きが入った。


 ファーストフードの売店の店員。

 若い男。紙帽子、エプロン、トレー。

 会場内では何の違和感もない存在。


 だが、その男は商品を運んでいるくせに、視線の置き方だけが違った。

 客を見るのではなく、通路の幅を測っている。

 トレーを持つ腕も、必要以上に安定している。

 足の運びが、接客業の気忙しさではなく、場所を塞ぐ位置取りのそれだった。


 鷺宮の中で、答えが出た。


 崖端組。


 この男は、単独の殺し屋ではなく、「そこにいることで通路の意味を変える人間」だ。

 売店店員という擬態は完璧だった。人はファーストフードの売店を、会場の一部としてしか見ない。そこに立つ人間を、導線の障害とすら認識しない。

 けれど崖端組は、まさにそういう位置に立つ。

 ここを通れると思わせて、通る速度と幅を半分にする。


 鷺宮は瞬時に判断した。


「すみません」


 突然、藤崎志保の手首を取る。


「な、何――」


「ここにいると危ない。今すぐ動きます」


「は?」


 当然、彼女は戸惑った。というより、ほとんど恐怖だっただろう。見ず知らずの中年男にいきなり手を引かれるのだから。


「何なんですか、あなた!」


「あとで説明します。今はついてきてください」


「意味わかんない、離して――」


 抗議しながらも、彼女の足は完全には止まらなかった。

 なぜなら彼女自身も、もうずっと命の危険を感じていたからだ。

 理屈はわからなくても、「このまま同じ場所にいたらまずい」という直感だけは共有できた。


 鷺宮は彼女を連れて、コンコースの流れに逆らわず斜めに抜ける。

 正面の入口へ戻るのは論外だった。

 入口は、もう封鎖されている。

 物理的な閉鎖ではない。

 人流と係員と売店と客の熱で、逃げる者が逃げ道として使えない状態になっている。

 崖端組はすでにそこを押さえているはずだ。


 ならば関係者出口。

 武道館の構造を頭の中で組む。

 武道館を半周するルートになる。

 断腸の思いだった。

 最短ではない。

 長い。

 しかもそのぶん、追いつかれる危険が増す。

 だが正面を切るよりましだった。


「こっちへ」


「どこへ行くの!」


「外へ出ます」


「だったら入口で――」


「入口はだめです!」


 思わず強く言うと、藤崎は息を呑んだ。

 鷺宮はすぐに声を落とす。


「……今は、信じてください」


 彼女は混乱していたが、完全には抗わなかった。

 怯えている人間は、二つの恐怖が競ると、少しでも“説明のあるほう”についていく。

 鷺宮は、その薄い心理を利用して前へ進む。


 だが武道館の内部は、歩き始めた瞬間からもう、異様に“整いすぎて”いた。

 係員の一人が、ちょうど通路の角で立ち止まっている。

 トイレ列が不自然に伸びて、いつもは開いている脇の導線を塞いでいる。

 売店前に人が滞留し、コンコースの幅が半分になっている。

 あちこちで「こちらは通れません」という小さな規制が発生している。


 どれも、単独ならおかしくない。

 だが連続すると、明らかに「逃げる者の足」を殺す形になる。

 行程の四分の一ほど進んだところで、鷺宮はそのことに気づいた。

 遅かった、とまでは言わない。

 だが、気づきたくない形で気づいた。


 これは、崖端組の思惑にまんまとはまっている。

 関係者出口へ向かうルートを選んだ時点で、彼らはその長い半周を「追い込みの通路」として使える。

 こちらは安全な抜け道を取ったつもりで、実際には崖端組にとって最も剪定しやすい細長い動線へ入ってしまったのだ。


 胸の奥が、冷たくなる。

 周囲の人間は、皆コンサートの一部に見える。

 だがその中の何人かは、たぶんそうではない。

 係員、売店、警備、清掃、迷ったふりの客。

 崖端組はそういう顔で立つ。

 しかも武道館は、彼らにとって自然地形以上に豊かな地形だった。

 階段、通路、柵、手すり、扉、開演中の暗転、歓声、集中する視線。

 人の意志を削る材料が、あまりにも揃いすぎている。


「……っ」


 鷺宮が足を止めかけた、その瞬間。


 スマートフォンが震えた。

 荷改組からの短いメッセージだった。

 北コンコース先、売店横の通路は切られている。次の角を左へ。スタッフ用の給湯室前に清掃カート。二十秒だけ空く。


 息を吸う。

 荷改組の仕事は、こういう時にこそ生きる。

 現場で強くなくてもいい。

 音が聞こえなくてもいい。

 誰かが別の場所から、別の継ぎ目を見ていればいい。


「藤崎さん」


「な、何」


「左です。急いで」


 彼女の腕を引き、角を曲がる。

 直後、さっきまでいた通路に、紙コップを載せた売店スタッフが二人、ゆっくりと流れ込んでくる。

 塞がれた。

 あと十秒遅ければ、こちらは群衆の中で止まっていた。

 給湯室前の清掃カートは、本当に一瞬だけ空いていた。


 その隙間を抜ける。

 背後で誰かが「そちら通れません」と言う声がしたが、客に向けた一般的な注意にも聞こえる。

 それが崖端組の怖さだ。

 敵意が、場内アナウンスと見分けがつかない。


 辛くも窮地は脱した。

 だが、行程はまだ四分の三も残っている。

 鷺宮は、通路の先を見た。

 長い。

 ここから先、さらに何度「まだ通れる」と思った道が潰されるのか分からない。


 藤崎志保はもう息が乱れていて、バッグを抱えた腕も強張っている。

 佐藤あかりはまだ合流していない。

 歓声は大きくなるばかりで、聴覚は使えない。

 目の前の武道館は、もはやコンサート会場ではなく、崖端組が編んだ巨大な迷路に見えた。

 若干の絶望感が、鷺宮の胸の底に沈む。

 それでも進むしかない。

 荷改組の細い情報と、自分の眼だけを頼りに、彼は藤崎志保の手首を離さないまま、通路の奥を目指した。

 この長い半周の先に、本当に出口があるのかどうかもまだわからない。

 わからないまま、それでも一歩ずつ、崖端組の描いた“逃げ道のようなもの”の中を、抜けていくしかなかった。


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