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静かな死闘 中編

 鷺宮敏樹は、藤崎志保の手首を引いたまま走っていた。


 武道館の内周コンコース。場内では国民的アイドルの一曲目がすでに始まっていて、何千という観客の歓声が、建物全体の骨にまで染み込むように響いている。客席の熱気は壁を越え、床を震わせ、通路の空気まで浮つかせている。だが鷺宮にとって、その熱は救いではなかった。むしろ逆だ。音はすべて大きすぎて均一になり、人の足音も話し声も、警戒すべき微細な揺れも、何もかもが一つの巨大な騒音の中に沈んでいる。荷改組の人間にとって重要な「拾う」という行為が、ここでは根元から削られていた。


 崖端組は、そこを狙ってくる。


 視線が舞台へ集まり、群衆の身体が同じ方向へ波打ち、係員の誘導が“安心”として作用し、そして音が世界の細部を押し潰す場所。武道館はただのコンサート会場ではない。崖端組にとっては、段階的に退路を削るための巨大な機械に近い。人間が勝手に集まり、勝手に並び、勝手に「出口はある」と思い込んでくれる。その思い込み自体が、彼らの技術を最も美しく成立させる。


 鷺宮はそのことを、嫌というほど理解していた。


「ちょ、ちょっと待ってください……!」


 横で藤崎志保が息を切らして言った。


 彼女はついてくるので精一杯だ。もともと逃走訓練など受けていない一般の会社員である。会計や文書の整合性に強くても、人の波の切れ目を見て進むことや、振り返らずに後ろの気配を測ることなどできるはずがない。それでも彼女が転ばずについてきているのは、純粋な恐怖のおかげだった。身体が限界を超えている時、人は訓練より本能で動く。その点に関してだけ言えば、今の藤崎志保はかなり追い込まれていて、だからまだ動ける。


「まだ大丈夫です」


 鷺宮は短く答えた。


 嘘だった。


 大丈夫ではない。今の時点で、すでにかなりまずい。だがここで本当のことを言っても、彼女の足が止まるだけだ。


「どうして私が追われてるんですか!」


 彼女は走りながら、半ば泣きそうな声で言った。


「私、何も知らないんです、本当に……!」


 鷺宮は一瞬だけ速度を落とし、彼女の歩幅に合わせた。これ以上混乱させると、判断が壊れる。


「事情を話してください」


「ど、どこから……!」


「最初から全部です」


 藤崎志保は戸惑い、息を乱し、振り返りたそうな衝動を懸命に堪えながら、それでも言葉をつなげた。川瀬雅也から一週間前に切羽詰まった電話があったこと。喫茶店で会った川瀬がひどく憔悴していて、「自分は死ぬかもしれない」と言ったこと。彼女が、落ち着かせるつもりで川瀬の持っていた紙袋を預かったこと。そこから周囲で不審なことが起き始めたこと。川瀬に返そうとしても連絡が取れなくなったこと。そして昨日、川瀬が自殺したというニュースを見て、曖昧だった恐怖が「確信」に変わったこと。


 そのあたりは、事前の情報と一致している。だが今は、その後が必要だった。


「その書類」


 鷺宮は言う。


「今、持っていますか」


 藤崎の手が、抱えたトートバッグを無意識に強く握った。


「……はい」


「見せてください」


「今ここで?」


「今しかありません」


 彼女は一瞬だけ躊躇った。

 当然だ。得体の知れない中年男に、命からがら持ってきた紙袋の中身を見せるなど、本来ならあり得ない。

 だが、ここまで追われていてなお拒む余裕もなかった。


「走りながらでいい」


 鷺宮はそう言って、藤崎がバッグの中から取り出した薄い書類束を受け取った。クリアファイルにまとめられた、ざっと三十ページ程度の紙。ぱっと見た限りでは、ごく普通の会計資料だった。月次報告書のような表紙、関連会社別の支払一覧、役員交際費の明細、部門別の予算対比表、経費科目の補足メモ。どこにでもある。川上コーポレーションのような大きな会社なら、日々これ以上の紙が何百枚と出ているだろう。


 だが鷺宮には、それが一目で「普通ではない」と分かった。


 数字の並びではなく、並び方の癖だ。


 勘定科目の並べ替え。注記の位置。項目ごとの余白の作り方。明細行の切り方。ページ番号の振り方。脚注の付け方。文字コードのように隠れている、帳票作成者の癖。どれだけ普通の会計書類を装っても、その癖は消えない。そしてその癖に、鷺宮は一度だけ触れたことがある。


 書院組。


 文と薬と知識を武器にする流派。人を斬るより、紙と習慣と病のかたちを操作して殺す者たち。会計書類に偽装した暗号を組むことくらい、彼らにとっては造作もない。本来なら荷改組にとってもっとも相性の悪い相手の一つだった。なぜなら荷改組は「継ぎ目」を読むが、書院組は継ぎ目そのものを別の意味へ変える。物流と人流を追う者に対し、彼らは文脈の流れを攪乱する。会計書類に見えて、読んだ者の認識をずらす。そういう陰湿な技を使う。


 鷺宮は走る足を止めないまま、紙束をめくった。


 目で読むのではない。まず配置を見る。

 支払先名の頭文字。

 ページごとに一定でない行間。

 同じ勘定科目なのに、漢字とカナの揺れがある箇所。

 合計欄にだけ妙に丸められている数字。

 特定のページだけ、紙の折れ方が違う。

 注記の「※」と「*」が混在している。

 普通の人間なら単なる作成ミスに見える。

 だが書院組の癖はそこに出る。

 文書は意味を隠すためだけにあるのではない。読む側に「これはただの雑な資料だ」と思わせるためにも使われる。


 藤崎志保が横で言った。


「それ、何なんですか……?」


「静かに」


 鷺宮はページを送りながら、記憶を辿った。


 あのパターンを最後に見たのは、十年以上前だ。祖父がまだ生きていた頃、地方の旧家に残った一連の台帳の中に、似た癖があった。単なる土地売買記録に見える紙の束だったが、よく見ると同じ金額の書き方だけが微妙にずれていた。祖父は三日かけてそれを解いた。そして、その中から出てきたのは、人の名ではなく「処理」の記録だった。誰がどこで死んだかではなく、誰がどういう理由で消されたか。紙の上にはただの地目変更と金銭授受に見えて、実際には別の意味が折り込まれていた。


 鷺宮は当時、その解読法を一度だけ見せられた。

 「これだけは覚えておけ」と祖父は言った。

 「書院組の中でも、この並べ方は性が悪い。人名を隠すために、人名以外を全部正しく見せる」

 それきりだった。

 荷改組の人間にとっても、書院組の暗号は本来不得手だ。

 だが、この型だけは、鷺宮の身体のどこかに残っていた。


 彼は藤崎を壁側へ寄せながら、親指で特定の欄だけを辿る。


 科目名の二文字目。

 支払日ではなく承認日。

 関連会社ごとに変化する行数。

 同じ額の重複箇所は読み飛ばし、四ページごとに一度だけズレている脚注番号を拾う。

 さらにページ下部の注記にある句読点の種類。

 「、」ではなく「,」になっている箇所。

 それを一列ずつ抜く。


 文字列が見え始める。


 最初は断片だった。

 だが断片はすぐに形になる。

 「処理済」

 「会合」

 「返礼」

 「北都開発」

 「神崎政策研究会」

 「江浜輸送」

 「代替候補」

 「二名」

 「移送後終了」

 「照会不要」


 鷺宮は思わず足を止めそうになった。


 川上コーポレーション単体の不正ではない。


 複数企業と、政治家を結ぶ線だ。


 記載されているのは、金の授受や会食の記録そのものではなく、それに付随して「処理済み」とされた案件の一覧だった。表面上は予算対比や取引管理に偽装されている。だが暗号をひらけば、それぞれの項目が「誰かが消された」「あるいは処理された」案件の番号と紐づいているのが分かる。北都開発、江浜輸送、地元選出の国会議員の周辺団体名まである。しかも、処理された人間は一人や二人ではない。何年かにわたって、少しずつ、しかし確実に消されている。


「……何なんですか、それ」


 藤崎志保の声が震えた。


 鷺宮は答えなかった。いや、答えられなかった。


 解読できたのは、あくまで枠組みだけだ。

 「処理済み案件」の存在は読める。

 そこに関わる企業や政治家周辺の符号も拾える。

 だが一番重要なはずの「処理された人間の正体」だけが抜けない。

 そこだけ別の層で隠されている。

 書院組の性格の悪さはそこにある。

 読み手に「分かった」と思わせた瞬間に、肝心の名前だけを霧の向こうへ置く。


 鷺宮の背筋に、別の意味の冷たさが走った。


 川上コーポレーションの案件に、書院組まで関わっている。


 荷改組、坂狩組、崖端組、そして書院組。

 ここまで流派が重なる案件は、もはや企業不祥事の域を越えている。

 政治と暗殺が本当に一続きで動いている。

 その事実に、戦慄という言葉が初めて具体性を持った。


 その瞬間だった。


 通路の先で、赤い光が点った。


 次いで、低く、不快な警告音。


 ピッ、ピッ、ピッ、と規則的に鳴る。

 非常灯ではない。設備系統の警報の音だ。

 通路全体が赤く照らされる。

 コンサートの場内の光とはまるで違う、人工的で、神経を逆撫でする赤だった。


 遠くから、一般の警備員が駆けつける足音がする。

 正確には、音そのものは歓声の中でよく聞こえない。

 だが赤い警告灯の反射と、通路の先で動く影がそれを告げている。


 鷺宮は一瞬で周囲を見た。


 選択できる通路は二つしかなかった。


 一つは、外部コンコースへ抜けられそうに見える通路。

 広く、照明も明るく、係員導線と合流できそうだ。

 普通の人間なら、そちらを選ぶ。

 もう一つは、さらに内部へ潜る細い通路。

 関係者用の気配が強く、天井も低い。

 一般客が入る場所には見えない。

 普通の人間なら避ける。


「こっち!」


 藤崎志保は、即座に前者へ身体を向けた。


 その反応こそ、崖端組が期待しているものだ。


 鷺宮の背中に、嫌な予感が走る。

 予感というより、もっと冷たい確信に近い。

 明るい道ほど危ない。

 逃げられるように見える通路ほど危ない。

 崖端組は、相手の「安心するほう」を必ず使う。


「だめです」


 鷺宮は藤崎の腕を掴んだ。


「こっちです」


「え、でも外に――」


「外に見えるだけです。内部へ行きます」


「な、何で!?」


 当然、藤崎は不審がった。

 警告灯が点り、警備員が来るなら、普通は外へ出る。

 関係者用の奥へ潜るほうが、どう見ても怪しい。

 それでも、いまの鷺宮にはその違和感ごと信じてもらうしかない。


「いいから」


 低く、短く言う。

 藤崎は顔を青くしながらも、結局ついてきた。

 彼女自身ももう、自分の常識で選ぶことの危うさを少しずつ学び始めていたのだろう。


 二人は内部へ踏み込んだ。


 狭い。

 通路の幅が急に細くなり、壁が近い。

 客用の派手な照明も消え、赤い警告灯の反射だけがコンクリートを濡らす。

 コンサートの爆音は壁越しにさらに大きくなる。

 武道館の心臓部へ近づいている感覚だった。


 走って二、三分。

 するとスマートフォンが震えた。


 荷改組からの通信。


 外部コンコース通路、工事用重機で封鎖確認。選ばなくて正解。


 鷺宮は画面を見て、内心で深く息を吐いた。

 だが隣の藤崎志保は、その文面を横目で見た瞬間、顔から血の気が引いた。


「……じゅ、重機?」


「ええ」


「そんな……」


 一見すると、何とか逃げ仰せているように見える。

 明るい外部コンコースへ抜ける道を避けたことで、少なくとも即座の封鎖は回避した。

 崖端組の設計した「安心して進む道」は踏まなかった。

 普通なら、それで少しは安堵する。


 だが鷺宮は、逆に激しく舌打ちしたい気分だった。


 ここから先、もう通路を選ぶ余地はほとんどない。


 崖端組にとって理想なのは、最初に二つ三つの退路を見せ、そのうち一つを相手に自分で切らせることだ。いま外部コンコースへの道が重機で封鎖されたと知れた時点で、彼らはもう半分勝っている。こちらは「正しい選択」をしたつもりで、実際には一本道に追い込まれたようなものだからだ。


 さらに厄介なのは、まだ実行犯が姿を見せていないことだった。


 川瀬雅也を殺害した後詰め。

 崖端組にも当然、いる。

 追い込みを担当する者と、仕上げをする者は別だ。

 崖端組は空間で人を縛る。

 だが最後の最後、縛られた獲物に「自分から死地へ歩くしかない」と思わせるには、その場で微調整をかける戦闘要員が要る。

 荷改組の自分のような例外的な武力を持つ存在。

 獲物を追い込み、最後に姿を見せて、局所的な退路まで断ち、呼吸と視線を削り、最終的には地形に殺されに行くような死を強いる者。

 そういう後詰が、まだどこかで待っている。


 通路の先は、さらに分岐していた。


 正面を突っ切れば、警備員が巡回する裏通路に出る。

 左右には、上階へ伸びる関係者用の階段。

 もう選べるものは少ない。


「どっちですか……」


 藤崎の声がかすれる。


 鷺宮は一瞬で考えた。

 正面はだめだ。警備員の存在自体が、安心に見えて罠になる。一般の警備員が本当に一般の警備員かも分からないし、そうでなくとも、彼らに止められた瞬間に動線が消える。

 左右の階段。

 どちらも上へ。

 崖端組は高低差を嫌わない。

 むしろ、上へ行くほど彼らの術中に入る。

 だが他にない。


「上がります」


 彼は左側の階段を選んだ。

 理由は単純で、手すりの位置と床の摩耗の差だった。右階段のほうが使用頻度が高い。つまり、通常導線に近い。通常導線に近いほうが、崖端組にとっても組み込みやすい。ならば摩耗の少ない左。微々たる差でも、その程度の差に賭けるしかなかった。


 二人は階段を上る。


 上れば上るほど、コンサートの爆音が大きくなる。

 それは不思議な感覚だった。

 観客席からは遠ざかっているはずなのに、音だけが近づいてくる。

 壁一枚向こうに、何千人もの歓声と光がある。

 しかしこちらは暗く、狭く、息苦しい。

 日常の表と裏が、たった一枚の壁で分かれている。


 階段を上りきった先は、本来、裏方の照明や音響がコンサートホールの中を観客に見られることなく移動するための、スタッフ用コンコースだった。


 ステージの様子を確認できる必要があるため、ステージとの間の遮蔽は完全ではない。

 黒い幕や機材の隙間から、舞台の強い光が漏れる。

 歓声はさらに増し、低音は床ではなく骨に響く。

 もはや聴覚は完全に失われた。

 鷺宮がさっきまで頼りにしていた「気配を拾う耳」は、ここでは役に立たない。

 音の海の中で、敵の足音も呼吸も消える。


 それだけではない。

 鷺宮はここに来て、ようやく完全に理解した。


 自分はいま、崖端組の術中の奥深くへ入り込んでいる。


 この先にあるのは何か。

 舞台上部の照明トラス。

 天井近くのワイヤー。

 特殊効果の仕掛け。

 極小の足場。

 機材の隙間。

 観客からは見えず、けれど落ちれば一瞬で終わる空間。

 つまり、地形そのものが刃になる場所しかない。


 完全に追い込まれた。


 そう悟った瞬間、鷺宮はふと背後に気配を感じた。


 耳ではない。

 視界の端の圧。

 人が「そこにいる」と分かる、あの独特の静けさ。

 振り返る。


 そこにいたのは、三十代半ばほどの男だった。


 スタッフ用の鍔付き帽子。

 黒いTシャツ。

 胸元にぶら下がる通行証。

 腰には小物入れのようなポーチ。

 ADか、裏方の雑務スタッフに見える。

 容姿に特徴はない。

 というより、この近距離で見ていても、数秒後には輪郭が曖昧になりそうな顔だった。

 鼻筋も目の形も口元も、どこかで見たことがあるようで、どこにも留まらない。

 髪型も平凡。

 背丈も中肉中背。

 色も匂いも薄い。

 「覚えられないこと」が特徴の男。


 その男が、薄っすらと優しげな笑みを見せて近づいてくる。


 来た、と鷺宮は直感した。


 こいつが後詰めだ。

 崖端組の最後の一人。

 恐らく最強クラスの武力を持つ者。

 そして恐らく、川瀬雅也殺害の実行犯。


 追い込みの空間が完成したあとに姿を現し、最後の数歩だけを人の意思に見せかけて踏ませるための人間。

 崖端組の中でも、もっとも仕事の汚い部分を担う男。


 鷺宮が警戒を見せた、その瞬間だった。


 男はいきなり、階段を登り始めた。


 普通に歩くのではない。

 上体の揺れがない。

 まっすぐに、無音の圧で。

 次の瞬間には、それが“登る”ではなく“突進”に変わっていた。


 一直線に、鷺宮たちへ向かってくる。

 逃げ場の少ない、高所のスタッフ用通路。

 左右は機材と幕。

 前方にはまだ見えない先端の極小スペース。

 背後には階段。

 轟音の中で、後詰めの男だけが妙に静かだ。

 崖端組は、ただ襲うのではない。

 退路を削り、安心を見せ、選ばせ、一本道にし、最後の局面でだけ武を差し込む。

 その見事さは芸術に近く、だからこそ恐ろしい。

 鷺宮敏樹は今、その芸術のいちばん残酷な部分を、目の前で見ようとしていた。


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