表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/11

崖の端へ

 佐藤あかりを非常階段の壁へ押しつけたまま、鷺宮敏樹は長く黙っていた。


 若者向けテナントの入った雑居ビルの中ほど、六階と七階の間の踊り場。上では低音の音楽がくぐもって鳴り、下では誰かが非常階段の扉を一度だけ開け、すぐ閉めた気配がする。人工的な喧騒から切り離された灰色の箱の中で、二人の呼吸だけがはっきりしていた。


 佐藤あかりは、壁に頬を押しつけられたまま、それでも完全には崩れていない。黒髪は乱れ、紺のスーツは消火粉と埃で汚れ、脇腹の傷からはわずかな血がまだ滲んでいる。だが目だけはまだ死んでいなかった。むしろ、賭けに出た人間の目をしている。


「二人で協力しない?」

 彼女はそう言った。


 そしてさらに、

「協力してくれるなら、私が誰に雇われたのか、何であなたを調べていたのかも教えてあげる」

 と続けた。


 鷺宮は、その言葉をいったん沈めるように考えた。

 普通ならあり得ない。昼にカラオケボックスで殺し合い、夜に非常階段で再戦し、その果てに共闘を提案される。冗談じみているし、危険すぎる。敵か味方かも曖昧なまま手を組めば、背後から刺されるのが落ちだ。


 だが、今回の案件は、すでに普通ではなかった。

 川上コーポレーションの内部で何かが起きている。その奥にあるものは、ただの粉飾や横領や裏金では済まない。荷改組の網で拾える情報と、崖端組の実行、そして佐藤あかりのような別系統の実働。複数の流派が、同じ一つの案件の周辺で動いている。それ自体が異常だ。普通、流派は縄張りを持ち、作法を持ち、互いに距離を取る。必要なら仕事を請け負うことはあっても、一つの企業不祥事にこれだけ多くの技術が寄ってくるのは、戦争に近い。


 そして、その戦争の只中に踏み込むなら、荷改組の頭だけでは足りない局面が必ず来る。

 鷺宮は自分の強さを過信してはいない。祖父に削り出された身体はある。近接戦闘も、狭所も、高低差も、人よりはずっとましにこなせる。だがそれは、荷改組全体から見れば、むしろ例外だ。本来の荷改組は、そこまで行く前に終わらせる。導線を読み、人を動かし、金の流れから居場所を割り、相手が独りになる瞬間を選んで、できれば事故死に見せる。それが荷改組の本筋だ。


 ところが今、自分が相手にしているのは、狭所で即席武器を自在に転用し、上下差を使って襲い、偽装と離脱の両方に長けた女だった。正面から相対する限り、厄介極まりない。厄介だが、同時に使える。少なくともこの局面では、佐藤あかりは「いて困る相手」より、「敵のまま自由に動かれると困る相手」に近い。

 合理的に考えれば、条件付きで抱え込んだほうがいい。


 鷺宮はようやく口を開いた。

「条件があります」


 佐藤あかりの目が、わずかに細くなる。勝ち筋が見えた時の目だった。

「どうぞ」


「私に嘘をつかないこと。全部を話せとは言いませんが、話す部分については嘘を混ぜないでください」


「うん」


「勝手に先走らないこと。あなたが強いのはもう分かっている。でも、今の状況で独断は情報を潰す」


「それは、半分だけ努力する」


「全部やってください」


「善処する」


 鷺宮はため息をつきたくなったが、しなかった。


「もう一つ」


「まだあるの?」


「私の周辺を勝手に嗅ぎ回らないこと」

 その一言で、佐藤は少しだけ黙った。


 昼の電話も、カラオケボックスでの呼び出しも、非常階段での再戦も、結局はそこに行き着く。彼女は鷺宮敏樹という人間を、相応に調べていた。それがどこまでかは分からないが、業務用携帯に直接かけてきた以上、表向きの事務所情報だけではない。


「……それは」

 珍しく、彼女は言葉を選んだ。


「今後は、って意味なら守る」


「今後は?」


「もう調べたぶんを、なかったことにはできないから」


 正直な返事だった。だからこそ、鷺宮は小さく頷くしかなかった。

「それでいい」


 制圧していた手を少しだけ緩める。

 佐藤はその変化を感じ取ると、変な小細工はせずに、ゆっくりと身体の力を抜いた。完全に信用したわけではないし、こちらも同じだ。ただ、今この階段で再び刃を交える意味がないことだけは共有できている。

 鷺宮は彼女から距離を取った。

 佐藤あかりは壁に肩を預けたまま、深く息を吐いた。ようやく痛みが表に出る。さっきまでの戦闘で、相当無理をしていたのだろう。だがその顔には、疲労よりも安堵に近いものがあった。


「じゃあ、話すね」

 彼女は髪をかき上げ、乱れたスーツの襟を直しながら言った。


「私は、坂狩組の太客のパトロンから来た依頼で動いてた」


「太客」


「そう。坂狩組は、足と追撃の仕事には強いけど、調査は苦手。そこはもう、流派の性分みたいなものだから仕方ない」


 その言い方に、自嘲が混じった。


「依頼内容は単純で、川上コーポレーションの不祥事を調べてほしい、ってもの。最初は、どうせよくある企業の裏金か、人の消し合いの前段だと思ってた」


「違った?」


「思ったより深い」

 短く言ったあと、彼女は続ける。


「で、坂狩組の首領に相談した。うちは追うのはできても、資料と金の流れを追うのは遅いって。そしたら言われたの。“荷改組の鷺宮という一家をあたってみるといい。今は会計事務所に潜っているはずだ”って」


 鷺宮は無言で聞いていたが、その一言には内心で軽い舌打ちをした。

 荷改組の情報統制は、本来もっと厳密であるべきだ。誰がどこに潜っているかを他流派に知られるのは、よろしくない。もちろん、流派同士にまったく接触がないわけではない。必要な仕事では、情報の交換もする。だが、鷺宮という一家を当たれ、今は会計事務所にいるはずだ――そこまで具体的に知られているのは問題だった。


「……荷改組の情報統制を考えなおさなければ」


 思わず漏れた独り言に、佐藤が少し笑った。


「そういうところ、ほんと荷改組っぽい」


「褒め言葉には聞こえません」


「褒めてないから」


 彼女は壁から身を離した。

「でも本当に、私は調査に自信がなかった。川上の件、最初はどこから手をつけていいか分からなくて。だから、荷改組の本職に当たるなら、その前に中身を見ておきたかった。それで、あなたを調べてた」


「殺すために?」


「半分は。半分は、使えるか確かめたかった」


 誠実な言い方ではなかったが、嘘でもなかった。

 鷺宮はその言葉の重みを、感情ではなく手順として受け取った。使えるかを確かめる。まさに今、自分が佐藤に対してしていることも、それに近い。


「川瀬雅也について、あなたは何を知っていますか」


 話を先へ進める。

 佐藤も、そこはすぐに切り替えた。


「川瀬は、川上の中で何かを持ち出そうとしてた。資料か、データか、それとも会う相手への口頭情報かはまだ曖昧。でも少なくとも、誰かに渡す気で動いてた」


「渡し先は」


「まだ絞れてない。ただ、私と会ったのは本当」

 彼女はそう認めた。


「でも、落としたのは私じゃない。あそこには別口がいた。私は、川瀬から先に何かを引き出せるか見ていただけ」


「引き出せたましたか?」


「ほとんどできなかった。というより、口を開く前に取られた」


 その言葉には、戦闘とは別種の悔しさが混じっていた。

 つまり、佐藤もまた、川瀬雅也の死は予定外だったのだろう。あの落下死は、彼女の仕事ではなく、別の流派が横から処理をかけた結果だ。


「次に追うべきは」

 鷺宮が言う。


「川瀬雅也が誰に、何を渡そうとしていたのか、です」


「うん」


「それを押さえれば、少なくとも死ぬほど困る情報が何だったか見えてくる」


「一致したね」


「そこは最初から一致していたでしょう」


 佐藤は、ようやく少しだけ年相応に笑った。

 非常階段の薄暗い踊り場で、その笑いだけが妙に場違いだった。


「じゃあ今日は、いったん別れよう」

 彼女が言う。


「お互い、体も情報も整理したほうがいい。私も、組のほうから引ける線を引いてみる」


「勝手な行動は」


「しないしない」


「信用していません」


「いいよ。まだその段階じゃないし」

 それで話は終わった。


 非常階段を降りる時も、二人は背中を見せない位置取りを崩さなかった。扉を出て、人の多いフロアに戻った瞬間だけ、どちらも一瞬で“普通の人間”の顔に切り替わる。その切り替えの速さだけで、互いに相手の危険性を再確認していた。


     ◆


 翌日の九重会計事務所は、昨日と同じようでいて、鷺宮にとっては少し違って見えた。


 朝から来客があり、月末の資金繰り表の確認があり、決算近い顧問先から電話が重なり、真島緋色がコピー機の紙詰まりと格闘し、椎名明日香が外線の応対をしながら若い社長の来訪にだけ声のトーンを半段上げ、御堂俊平が相変わらず無駄のない歩幅で執務室を横切る。いつも通りの事務所だった。紙の匂い、インクの匂い、コーヒーの匂い。蛍光灯の白い光の下で、数字と日程と印鑑が一日を刻んでいく。


 だが、鷺宮の頭の中では、昨日の夜の線がまだほどけていなかった。


 川瀬雅也。営業戦略部。十九階非常階段。崖端組。佐藤あかり。別口の実行者。誰に何を渡そうとしていたのか。それさえ分からない。そこが、今のいちばん大きな詰まりだった。


 数字ならまだいい。科目が欠けていても、元帳を辿ればいずれどこかに痕跡が出る。だが、人間が口で渡す情報は、痕跡を残さない。川瀬が持ち出そうとしていたものが紙なのかデータなのか、あるいはただ「知っていること」なのか、それが定まらない限り、追いようが曖昧になる。


 その曖昧さに、鷺宮は珍しく頭を抱えていた。


「鷺宮さん」

 真島が声をかけてくる。


「この前の坂下食品の在庫一覧、去年との比較表作っておきました」


「ありがとう」

 受け取ってざっと見る。数字は整っている。真島の仕事は丁寧だ。余計な癖もない。こういう後輩がいると、事務所というものは救われる。


「……何か、難しい顔してますね」

 真島が遠慮がちに言った。


「そうかな」


「昨日から、ちょっと」

 気づかれている。椎名だけでなく、真島にも。

 ただ、真島の見方には悪意がない。心配と尊敬が先に立っている。だから鷺宮は誤魔化しやすい。


「少し寝不足なだけだよ」


「ほんとですか」


「ほんと」


 真島はそれ以上追及しなかったが、納得しきってはいない顔だった。

 自席の向かいから、椎名明日香が書類を持って通りかかる。


「真島くん、鷺宮さんにあんまり優しくしすぎるとだめだよ」


「え?」


「こういう人は、“大丈夫です”って顔して全然大丈夫じゃないことするから」

 妙に棘のある言い方だった。


 椎名自身、その言い方が少し刺々しかったと分かったのか、直後に視線をずらす。昨日から彼女の中では、「鷺宮は誰かと不倫していて、修羅場でもあったのではないか」という疑いが、完全には消えていないらしかった。表向きには心配している。だが内心では、説明してくれないことへの腹立ちと、自分が何者でもない位置に置かれていることへの苛立ちが残っている。


 御堂俊平は、そんな細かい空気まで見ていた。

 午前の終わり、顧問先との電話を切ったあと、彼はふと鷺宮の机の横で立ち止まる。

「川上コーポレーションの件、何かありましたか」


 唐突だった。

 鷺宮は顔を上げる。


「どうしてですか」


「昨夜、駅前で騒ぎがあったでしょう。川上の社員が転落したとか。所長が朝、少し気にしていたので」


 御堂の声は平坦だった。だが、その平坦さが逆に嫌らしい。彼は直接嗅いでいるのではなく、匂いのある場所に針を刺して、こちらの顔色だけを見ようとしている。


「私は詳しく知りません」

 鷺宮は答える。


「そうですか」

 御堂は一瞬だけ目を細めた。


「ならいいんですが」


 そのまま去る。だが、彼の中で何かが動いているのはわかった。御堂俊平は、単なる嫉妬深い副所長ではない。利のある匂いには、必ず鼻を寄せる。


 九重直樹は、その一部始終を見ていたはずだが、何も言わなかった。所長は所長で、鷺宮の抱えているものが今日の業務の外にあると知りながら、あえて通常運転を崩さない。そこに助けられる部分もあるし、余計にしんどい部分もある。


 午後の仕事は、淡々と流れた。

 社会保険料の確認。顧問先の仮払金の整理。小口現金の残高照合。定期訪問の予定調整。銀行から来た書類への返信。帳簿の数字は、感情を差し挟まなくていいから楽だ。数字は、分からなければ分からないと出る。人間のように、何かを隠しながら普通の顔で座っていたりしない。

 だが、今日の鷺宮は、その数字を見ながらも別のことを考えていた。

 川瀬雅也が、誰に何を渡そうとしていたのか。

 それだけがまだ、空白だった。


     ◆


 業務が終わり、事務所の明かりが少しずつ減っていく頃、鷺宮は外へ出た。

 空はもう完全に夜で、湿気を含んだ風がビルの角を抜けていく。繁華街へ向かう人波と逆向きに、彼は歩きながらスマートフォンを取り出した。


 ここから先は、荷改組の仕事だった。


 昨日集めた川瀬雅也に関する断片と、川上コーポレーションに関するわずかな追加情報。それを、各所に散っている同胞へ投げる。荷改組は、戦闘ではなく継ぎ目に強い。だから、資料が少なくても、人と物の接点をつなげば、見えてくるものがある。


 倉庫の在庫管理補助をしている樋口には、川瀬雅也の所属と社外接触の可能性を送る。医療事務の片瀬には、川上関係者の最近の受診と付き添いの変化を。調剤薬局の笹目には、川上社員か関連会社の人間で、急に睡眠薬や抗不安薬の受け取りが増えた者がいないかを。マンション管理会社の堀部には、川上の関係者が短期賃貸や鍵交換を急いでいないか。ビル管理の島津には、昨日の駅前ビル以外で川上関係者が夜間に不自然な出入りをしていないか。郵便仕分けの志田には、川上関連の転送や返戻郵便の癖。学校事務の宮部には、川上役員・管理職クラスの家族に動きがないか。


 切れ端ばかりだ。

 だが、荷改組の仕事は、最初から完全な絵を求めない。細い線を何本か引き、そのうちどれが濃くなるかを見る。


 返信は、思ったより早く返ってきた。


 川瀬雅也自身についての決定打は、やはりなかった。営業戦略部としては異例に、最近の社外移動が少ないこと。会社近くのタクシー利用が減り、代わりに徒歩圏の移動が増えていたこと。外部との会食履歴が、今月に入ってから妙に減っていたこと。それくらいだ。


 ただし、別の線に不穏な偏りが出た。


 まず、志田から来た郵便絡みの情報。川上コーポレーション本社近くの私書箱に、ここ数日、差出人不明の封書が複数届いており、そのうち一通だけが本社へ転送されず、別の個人宛に処理されていた。名義は仮名だが、受取人が普段使っていない局留めを使っている。


 堀部からは、川上の関連会社の女性課長クラスらしい人物が、三週間前に自宅マンションの非常階段側の防犯カメラの死角について管理会社へ妙な問い合わせをしていたという報告。住民本人がそんなことを聞くのは珍しい。誰かに怯えているならあり得る。


 片瀬からは、川上の法務寄り部署にいるらしい女性が、ここ数日、眠れない・食べられないで受診しようとしては予約をキャンセルしているという情報。付き添いなし。だが会計の問い合わせだけは、なぜか本人ではなく別の番号から入っている。


 島津からは、川上本社近くの別のオフィスビルで、昨日の転落死のあと、二十代後半から三十代前半の女が、夜間の非常口配置図をしきりに見ていたという話。顔は不鮮明。だが、目的地を探すというより避難ルートを確認していた、と。


 これらを総合しても、川瀬の真意はまだ分からない。誰に、何を渡そうとしていたのかは見えないままだ。だが一つだけ、別の推論が浮かび上がってきた。


 川上コーポレーションの内部資料を持つ、別の関係者がいる。

 そして、その人物の周囲には、すでに不穏な影が差している。


 川瀬雅也が唯一の運び手ではなかったのだろう。あるいは川瀬はその一人にすぎなかった。ならば、次に消されるのは、まだ資料を持っている別の誰かだ。

 鷺宮は歩きながら、樋口へ短く打った。


 その関係者の行動、拾えるか。今日の夜。


 樋口の返事は、数分で来た。


 女性。川上内部の実務ライン。今夜、武道館でコンサート観覧予定。同行者なし。チケット確保済み。入場は開演前。


 武道館。


 その文字を見た瞬間、鷺宮の背筋を、冷たいものが走った。


     ◆


 九段の武道館は、武道場である前に、巨大な箱だ。


 人が集まり、列をなし、金属探知もなく、手荷物検査も甘く、同じ時間に同じ方向を向き、同じ感情に揺さぶられる。入口は複数あるように見えて、実際には時間帯と席種で動線が振り分けられる。階段、コンコース、スタンド席、アリーナ、売店列、トイレ列、物販の待機列、規制退場。人は多い。だがその多さは、自由ではなく、管理された密集だ。


 そこに崖端組が入ると、何が起きるか。


 鷺宮は知っていた。


 崖端組の不気味さは、落差そのものではない。退路があると相手に思わせたまま、順番に消していくところにある。武道館のような大規模コンサート会場は、その意味で最悪だった。入口はある。出口もある。トイレにも行けるし、売店にも並べるし、座席を立てば人波に紛れられる。だが、その全部が同時には使えない。開演前、開演中、終演後で導線は変わる。係員の立ち位置ひとつで人の流れは変わる。規制退場になれば、自分の意思で好きな方へは行けない。群衆は一見すると自由に見えて、実際には極めて細く制御されている。


 崖端組は、そういう場で強い。


 坂道や石段や寺社裏が本来の猟場だったとしても、現代の崖端組にとって、何千何万という人間が一方向の感情と動線に乗せられるコンサート会場は、むしろ理想に近いかもしれない。本人に「まだ逃げられる」と思わせる出口はいくらでもある。だが実際には、列、係員、座席番号、手すり、転倒防止の規制、熱狂、悲鳴、暗転。退路は、気づかないうちに狭くなる。

 しかも、相手が内部資料を持つ人物なら、殺す必要すらないかもしれない。取り上げるだけでもいい。パニックに紛れて落とさせる。階段で転ばせる。具合が悪くなったように見せて外へ出させる。人混みの中で孤立させる。そうやって、本人の足で“危ない位置”へ行かせる。


 鷺宮は、崖端組という流派を高く評価していた。

 認めたくないほどに。


 坂狩組は速い。式部組はただ強い。庭詰組は静かで、書院組は陰湿だ。荷改組は読みが深い。どの流派にも恐ろしさはある。だが崖端組だけは、相手に自分が狩られていると気づかせないまま、最後の地点へ運ぶ。その仕事ぶりは、他流派より一歩、質が悪い。戦って負けるならまだいい。刃を見て負けるなら、相手は敵だと認識できる。崖端組は違う。敵だと気づいた時には、もう地形ごとこちらの味方ではなくなっている。そういう流派は、本当に気味が悪い。


 しかも今回は、国民的アイドルのコンサートだ。

 ファンは高揚している。周囲を見る視線は、舞台と推しに奪われる。悲鳴も歓声も日常化している。走っても不自然じゃない。泣いても、叫んでも、倒れても、最初の数秒は「興奮しすぎた客」に見える。


 崖端組のフィールドとして、これ以上ないほど優れている。


 鷺宮は歩調を速めながら、佐藤あかりへ発信した。

 コールは二度で繋がる。


『もしもし』


「緊急です」

 前置きなく言う。


『早いね。何か出た?』


「川上コーポレーションの内部資料を持つ別の関係者がいる可能性が高い。その人物が今夜、武道館でコンサートを観る予定です」

 電話の向こうで、佐藤が一瞬黙る。状況の意味を計算している間だった。


『……崖端組が動く』


「おそらく」


『最悪』


「同感です」


 その短いやり取りだけで十分だった。互いに、武道館という場所が何を意味するか理解している。


『あなた今どこ』


「事務所を出たところです。すぐ向かいます」


『私も行く。席の中までは潜れないかもしれないけど、外周と導線は見られる』


「無理はしないでください」


『その台詞、あなたが言う?』


「言います。今夜は崖端組の土俵です」


『……分かってる』


 そこで声の調子が少しだけ変わる。佐藤自身も、崖端組を軽く見てはいないのだろう。


「武道館のどこが危ないか、着いたら即座に共有しましょう」


『うん。あと、その“別の関係者”の特徴は?』


「まだ細い。女性。実務ライン。ここ数日、周囲に不穏な影。川瀬雅也の死のあともまだ泳いでいる」


『分かった。人混みで顔は拾いにくいけど、怯えてる人間は分かるかもしれない』


「こちらでも荷改組の線で周辺を当たります」


『了解。先に着いたほうが偵察開始。死ぬほど嫌だけど、今夜は走るしかないね』

 通話が切れる。


 鷺宮はスマートフォンをポケットへ戻し、すぐに電車ではなくタクシーを拾った。時間との勝負だ。武道館へ向かう車中で、窓の外の夜景が後ろへ流れていく。ネオン、赤信号、コンビニ、歩道橋、交差点。どれもいつもの東京なのに、今夜だけは全部が崖端組の“前段”に見えてくる。

 どこから囲い、どこで導線を切り、どこで「まだ大丈夫」と思わせるか。

 それを考える相手と、この先向き合わなければならない。


 鷺宮の胸の内に、不安がなかったわけではない。むしろ、かなりあった。自分が嫌だと思う相手ほど、評価は高くなる。崖端組は、そういう流派だ。戦って強いかどうかだけなら、他にも恐ろしい者はいる。だが崖端組の不気味さは、戦いが始まる前から、こちらの足元を静かに削ってくるところにある。

 今夜、自分はそのフィールドへ自分から入っていく。


 車が九段下へ近づくにつれ、人の流れが変わっていく。推し色のペンライトを入れた袋、団扇、グッズのトートバッグ、開演前の浮ついた声。武道館の夜は、いつだって祭りの前の熱に似ている。だが、その熱狂こそが、崖端組にとっては最良の霧になる。


 鷺宮は窓の外の人波を見ながら、無意識に手の中で指を折っていた。

 入口は複数。だが席種で振り分けられる。階段は多い。だが人の流れは固定される。警備はいる。だが警備がいるという安心が、逆に人を鈍らせる。悲鳴は目立つ。だが歓声の中では数秒遅れる。転倒は事故になる。だが誰かが軽く背に触れただけでも起こり得る。


 崖端組。

 鷺宮はその名を心の中で呼ぶたび、古い石段と夕暮れの寺町と、逃げ道があるようでない崖地の空気を思い出す。祖父は昔、崖端組だけは侮るなと言っていた。坂を読む者は多い。だが崖端組は、人の心拍と退路の感覚まで読む、と。追い込まれていると相手が悟った時には、もう追い込みは終わっている。あれは戦う流派ではなく、終わらせる流派だ、と。


 今夜の武道館は、その「終わらせる技術」にあまりにも向きすぎていた。


 タクシーが停まり、鷺宮は料金を払って外へ出る。夜気は湿っていて、人の熱が混じっていた。武道館の白い輪郭が闇に浮かび、その周囲をファンの列と売店の灯りが囲んでいる。歓声、笑い声、係員の誘導、遠くの車の音。その全部が重なって、巨大な一つの音の塊になっていた。


 鷺宮は武道館の正面を見上げ、深く息を吸った。

 ここから先は、帳簿の話ではない。だが、それでも荷改組の仕事だ。誰がどこへ向かい、誰がどこで独りになり、どこで「まだ逃げられる」と錯覚するか。それを読む限り、自分の流派はまだ役に立つ。

 ただし、今夜の相手が崖端組である以上、読み損ねた一度が、そのまま人の死になる。

 その重みを、鷺宮はよく知っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ