第十二話 自分でできるからいい
星香と月子は、どんなに海斗がつっぱねようと、怒ったり諦めたりすることはなかった。
その優しさが、海斗には恐かった。
つい、受け入れてしまいそうになるから。
父は、母を忘れて新しい人を選んだ。
父が母を忘れたというのなら、海斗は絶対に母を忘れてはいけない。
でも、彼女たちに優しくされるたび、笑いかけられるたび、胸の奥がじわじわ詰まっていく。
いっそ、怒ってくれればいいのに。
いっそ、突き放してくれればいいのに。
海斗は放課後、家から逃げるように友だちと遊びに行くようになった。ボールを追いかけている間だけは、頭の中の重たいものが軽くなる。家の空気も、食卓の気まずさも、そのときだけは遠のいてくれた。
けれど日が傾き、影が長く伸びる頃になると、その軽さは次第に無くなっていく。街灯が点いて少しくらいした、空気が冷えてくる時間。友人たちは「そろそろ帰るわ」と砂のついた手をぱんぱんと払ってから、ランドセルを背負い直した。
「じゃあな」
「また明日なー」
「おう。またなー」
靴の音が遠ざかり、友だちの声が向こうへ薄れていく。
海斗は、一人ベンチに残った。座面の冷たさが太ももにじわりと伝わり、背中に当たる風が汗の残りをさらっていく。立ち上がれば、家に帰らなければならない。
そう思うと、足が動かなかった。
街灯が一つ、また一つと点いていく。ぶつん、と小さな音がして白い光が広がり、砂の粒が点々と浮かび上がった。ブランコの鎖が風でかすかに鳴り、誰もいない遊具が、空のまま小さく揺れる。
海斗はベンチに座ったまま、ただ時間だけを眺めていた。それでも、いつまでもここにいられるわけじゃない。もう夕飯を食べ終えた頃だろう、という時間を見計らって、海斗はようやく立ち上がった。
玄関のドアを開けると、ぬるい室内の空気が肌にまとわりつく。奥のリビングからテレビの音が細く漏れてきて、誰かの笑い声が画面の向こうで弾けては、すぐに消えた。
「おかえりなさい。遅かったね。なにかあったの?」
リビングのソファに座っていた星香が、振り返った。膝にかけていた毛布を少しだけ直しながら、海斗の服を確かめるように視線を動かす。
「なにも」
怒られる、と思った。星香の唇がいったん開き、声になりかけた息が止まる。けれど結局言葉は出てこなくて、小さく飲み込んでただ静かに瞬きをした。
「……そう。それならいいの。ごめんね。今日は先に食べちゃった。今、温めるから待ってて」
星香はソファから立ち上がりながら、申し訳なさげに口元をゆるめて、台所のほうへ足を向けようとする。
「自分でできるからいい」
キッチンには、ラップのかかった皿が置かれていた。白い照明の下で、透明な膜が皿にぴたりと張りついている。湯気はもうない。
海斗は皿を電子レンジに滑り込ませ、ボタンを押した。ぶん、と低い音が鳴って、静かに響く。
たった数分の待ち時間。
電子レンジの低い音が、やけに大きく聞こえる。液晶の数字が一つずつ減っていくのを見つめながら、海斗は息をひそめる。
廊下から月子の足音が近づかないか。
ソファから星香が立ち上がらないか。
耳が勝手に外側へ向いて、時間だけが長く感じられる。
やっと「チン」と鳴った。海斗は慌てて皿を取り出し、湯気の立つご飯をトレイに乗せる。まるで逃げるように、足音を殺して自室へ戻った。机の上で一人、箸をつける。温まったはずのご飯は口の中でぱさつき、噛んでも噛んでも味がしなかった。
それでも、胸の奥のざわざわは普段の食事よりはかなり楽だった。
食べ終えたあと、空になった茶碗を見下ろしながら、これでいいと海斗は自分に言い聞かせる。
次の日から、海斗は夜遅くにあえて帰って一人でご飯を食べるようになった。




