第十一話 一人でできる
四年前、海斗の母は病気で亡くなった。
優しくて、よく笑う人だった。
玄関で「おかえり」と言うときの、優しい笑顔。
キッチンで、鼻歌を歌いながら楽しそうに料理をする声。
怖い夢を見て母のベッドに潜り込んだときの、安心する匂い。
そのすべてを、鮮明に覚えている。
だからこそ、海斗の胸の中には、まだ『母の席』が残っていた。
そこだけは、空けておかなきゃいけない。
そこに別の人が座ったら、母がいなくなってしまう。
その席を譲ってしまったら、いつか母のことを忘れてしまう。
それは、大好きな母への裏切りだ。
だから、絶対にあの人たちを母と――家族と認めてはならない。
顔合わせから少しして、海斗は星香と月子と同じ家で暮らすことになった。
現在父と住んでいる家からは、引っ越すことになる。引っ越しの日が近づくにつれて積まれるダンボールの数が増えていった。押し入れから引っぱり出された箱には、母の使っていた食器や服、家具類が眠っている。
父は黙々と、残すものと捨てるものを分けていく。ゴミ袋がひとつ、またひとつと膨らみ、母の物がそちらに仕分けされるたび、海斗の胸の奥がざらついた。
――父さんは、それでいいの? 母さんを忘れちゃったの?
喉のところまで言葉は上がってきていた。
けれど、父がもし肯定してしまったら……。
海斗はその答えを聞くのが怖くて、結局、何も聞けないまま作業を手伝うしかなかった。
新居に越してから約二か月が経っても、新しい家にはまだ「自分の場所」が見つかっていない。
学校から帰って玄関の鍵を回すと、家の中から生活の音がする。テレビの笑い声と、掃除機の低い唸り。
その慣れない気配。
夕飯の時間になっても、父は仕事で帰ってこないことが多かった。食卓を囲うのは、星香と月子と海斗の三人だけ。
テレビはついているはずなのに、箸が茶碗に当たる音がやけに響く。海斗は味を確かめる余裕もないまま、ご飯を口に運んで、ただ飲み込んでいく。
「海斗くん。美味しい?」
星香の声は柔らかい。箸の先が茶碗に触れる小さな音の上に、そっと重なる。湯気の残る味噌汁の匂いがふわりと漂い、そのあたたかさに乗って言葉が落ちてきた。
海斗は箸を止めかけて、止めるのを止めた。
「……」
胸の奥がちくっと痛む。でも、その痛みを飲み込み、視線を茶碗の白に落としたまま、黙って食事を続けた。
家の中は、気まずい静けさで満ちている。
今日だけじゃない。毎日だ。
誰が原因かなんてことは、明白だ。
海斗は食べ終わるとすぐに自室へ引っ込み、ドアを閉めた。
それでも星香は、何度も海斗と距離を縮めようと努力してくれた。そして、それは月子も例外ではない。
放課後、家に帰ってそのまま自室にランドセルを置く。
小腹が空いていた。昼の給食をあまり食べられなかったせいで、胃がなにか寄こせと小さく鳴る。
リビングには、月子がいた。中学校が早く終わったのだろう。部屋着でソファに浅く腰かけ、テーブルにある菓子箱から小袋をつまみながら、テレビを見ている。
月子は海斗の気配に気づくと、リモコンに指を伸ばして音量を少しだけ落とし、顔を上げた。探るようでいるものの踏み込みすぎない目つきで、海斗を呼ぶ。
「……これ、一緒に食べる?」
月子は菓子箱から小袋を一つつまみ上げ、海斗のほうへ差し出した。
海斗の体は、反射みたいに動く。月子の方へと近づきかけて、慌てて止める。視線をテーブルの角へ落とし、月子を見ないように顔を背けた。
「いらない」
声は短く、ぶっきらぼう。
月子は「そっか」とだけ言って、続けてなにかを言うことはなかった。
別の日。海斗は自室の机に向かい、宿題のプリントに鉛筆を走らせていた。カリカリという音が、部屋の中でやけに目立つ。
その音の隙間に、ドアを叩く小さなノックが混ざった。
「なに」
返事をすると、静かにドアが開き、月子が顔だけ覗かせた。
「海斗くん。ご飯できたって」
「これ終わったら行く」
月子は敷居のところで止まり、机の端からプリントをそっと覗き込む。そして、邪魔にならないように声を落とした。
「宿題してるの? 偉いね。分からないところある? 良かったら、私が教えてあげようか」
「……一人でできる」
海斗の返事は短く、部屋の空気をきゅっと固くした。鉛筆の先が紙の上で止まり、背中がわずかに強張る。これ以上踏み込むな、と言葉にしない拒絶が、机の上に置かれたまま動かなかった。
月子は口を開きかけたが、眉がほんの少し寄り、何か言葉を探して――でも飲み込まれる。視線を一度だけノートから外し、海斗の横顔を見てから、唇をきゅっと結んだ。
「……分かった。頑張ってね。もし分からないところがあったら、いつでも言ってね」
それだけ言って、月子は引いた。足音を立てないように廊下へ戻り、ドアをそっと閉める。
静けさが戻っても、海斗の鉛筆は先ほどまでのように軽くは動かなかった。さっきの寂しげな返事が、ずっと耳の奥に残っていた。




