第十三話 なんでって
そんな日が続いたある朝、テレビが台風の到来を告げていた。
日本地図の上に赤い渦が描かれ、進路は太い矢印でなぞられている。画面の上部では「夕方から注意」の文字が点滅し、お天気キャスターが真剣な表情で注意を促している。
今、窓の外は拍子抜けするほど綺麗な青だ。空は薄く澄んで、雲は遠くでちぎれた綿みたいに浮かぶだけ。ベランダの物干し竿はぴたりと止まり、洗濯物も、端がたまにそよりと揺れる程度だった。
部屋には乾いた日差しが差し込んでいて、テレビの赤い丸が嘘みたいに見える。
「月子、海斗くん。夕方くらいから台風がくるみたいだから、傘忘れずに持って行ってね」
星香は箸を置き、窓のほうへ視線をやり、念押しするように言う。
登校の時間になり、海斗は玄関へ向かう。靴箱の前で傘立てに目をやると、隙間が二つ分空いていた。父のダークグレーの傘と、月子の細くて黒い傘。
海斗の胸の奥で、小さな意地が沸き上がる。
傘を見ないふりをして、靴を履いてドアを押し開ける。外は眩しいくらいに明るい。乾いた風が頬を撫でていく。
昼になっても、天気は拍子抜けするほど穏やかだった。
校庭の上は青く澄んでいて、雲は薄い綿みたいにちぎれながら、ゆっくり流れていく。教室の窓の隙間から入ってくる風も、ただ少しぬるいだけ。雨の匂いは、どこにもない。
海斗は机に肘をつき、頬杖をついたまま空を眺めた。
――傘なんていらなかったじゃないか。
胸の奥で、意地悪く小さく笑う。
放課後も空は明るく、海斗はいつも通り公園へ向かった。土の匂いが立ち、ボールの弾む音が乾いた空気に跳ねる。日差しは強く、地面にはくっきりした影が伸びていた。
遊び終わって皆が帰っても、海斗だけはいつものように公園に残る。ベンチに腰を下ろすと、木の影が膝に落ちた。昼間のくっきりした影より長く、色も薄い。空の青は少しずつ褪せ、遠くの端から灰色が混じりはじめている。
ぼんやりしていると、風がふっと止まり、向きが変わった。
葉が一斉に裏返り、枝が唸るように鳴る。遠くの空が灰色に滲み、光がすっと引いた。雷が低く転がり、空が一段暗くなる。
最初は、小さな粒だった。
頬に、ぽつ、と冷たい点が二つ三つ。Tシャツの肩に小さな染みが増え、乾いていた砂の匂いが、ゆっくり湿った土の匂いへ塗り替えられていく。
そして、すぐに音が変わった。
ばらばらだった粒がひとつに繋がり、空から水風船でも落とされたみたいに、本降りになる。風に押されて雨が斜めに叩きつけ、視界が白く滲んだ。あっという間に髪と服が水を吸って重くなり、前髪の先から雫がぽたぽた落ちる。
帰ろうとするが、もう風も強くなっていて前に進めない。足を出すたびすごい勢いで溜まっていく水が跳ね、服が濡れて肌に張りつく。息を吸うたび、冷たい雨のが胸の奥まで入り込んだ。
帰れないことを悟った海斗は、せめて風が弱まるまでとドーム型の滑り台の腹の下へ身をねじ込んだ。子どもが、一人二人うずくまれるくらいの暗がり。濡れた手で膝を抱え、体育座りのまま息を殺して、影の奥に潜る。
そこだけは、雨を少しだけ避けられた。けれど風が回り込み、細かいしぶきが横から吹き込んでくる。滑り台の裏を叩く雨音が、金属みたいに硬く響いた。雨の匂いと、濡れた砂の匂いが混ざって、鼻の奥を刺す。
シャツは肌に張りつき、袖は水を吸って鉛みたいに垂れ下がる。跳ね返った泥水が足元を濡らし、靴の中へじわりと染み込んだ。靴下は冷たく重くなり、足指の感覚が少しずつ薄れていく。
雨音に包まれると、世界が急に狭くなったように感じる。滑り台の腹の下は薄暗く、外は雨の幕で白く煙る。耳に入るのは、自分の息と、金属を叩く雨の音が途切れなく続くことだけ。
次第に街灯も点きはじめ、景色の輪郭がゆっくり消えていく。ときどき公園の前を車が走り抜け、ヘッドライトが雨粒を一瞬だけ白く照らす。歩く人の影は、どこにも見えない。
家に、帰れない。
誰もいない。
胸の奥が、ずんと沈んでいく。雨の音にかき消されるくらい小さく息を吐くと、喉の奥がひりひりした。噛みしめていた歯がほどけて、今まで固くしていた気持ちが、勝手に崩れていく。
「……母さん」
声は、震えていた。
――なんで置いていったの?
言い切れない言葉が喉の奥に引っかかり、息がひゅっと引きつって、目から涙が溢れて来る。声は雨音に潰れ、肩が大きく跳ねる。鼻の奥がつんと痛んで、息を吸うたび喉が詰まる。涙と雨で顔はぐしゃぐしゃになり、袖で拭っても追いつかない。
――僕を、一人にしないでよ。
胸の奥が、冷たい水に沈められるみたいに重くなった。雨音しかないこの場所で、自分の呼吸だけが浮いて聞こえる。本当に世界に自分だけが取り残されたみたいで、孤独が全身を包んでいく。
――帰ってきてよ、母さん。
そのとき、雨の向こうから足音が聞こえた。
水たまりを踏む、ばしゃばしゃという音。近づくほど大きくなり、濡れた地面を走る気配がする。雨の幕の向こうで誰かが息を切らし、短い呼吸が、雨音の隙間からこぼれた。
「見つけた」
雨音の隙間を割る、包み込むような声。
沈み込んでいた気持ちが一気に引き上げられ、海斗が顔を上げると滑り台の穴を覗き込む黒髪の少女と目が合う。
雨なのか汗なのか髪は頬に貼りつき、息のたびに肩が大きく上下している。少し濡れたまつげの奥の瞳が、迷わず海斗を捉えていた。
「なん……で?」
海斗は鼻をすすり、震える唇をどうにか動かした。
声にすると、喉がきゅっと痛む。濡れた袖で頬を拭えば、雨水がさらに広がって、冷たさだけが残った。
「なんでって――」
月子は滑り台の縁に手をついたまま、少しだけ身をかがめた。濡れた前髪の隙間から、目がまっすぐ海斗を見ている。
当たり前だよ、とでも言うみたいに、口元だけがほんの少し緩んだ。
「君の、お姉ちゃんだから」
迷いも、戸惑いもない。雨が滑り台の裏を叩く音に紛れても、その一言は胸の奥の固いところを、まっすぐに叩かれた気がした。
あんなに酷い態度を取っていたのに。
あんなにつっぱねていたのに。
それでも、家族として、こうして探しに来てくれるのか。
言葉が出てこなかった。代わりに、体だけが先に動いた。
海斗は滑り台の腹の下から飛び出し、泥水を跳ねさせながら月子にしがみついた。濡れた服の袖が月子の服に絡み、指先が震えてうまく力が入らない。それでも離すのが恐くて、ぎゅっと掴んだ。
傘を差したままの月子の腕が、ゆっくりと背中へ回る。雨に冷えた体の真ん中に、あたたかさが落ちてきた。海斗の喉から、抑えきれない声が漏れる。泣き声は雨音に混ざって途切れ途切れになり、肩が何度も跳ねた。
そういえば、母が死んでから、こんなふうに声を出して泣いたことはなかった。葬儀の日、祭壇の前で父が唇を噛んで立っているのを見て、海斗は泣くのを飲み込んだ。夜、仏壇の線香の匂いが残る部屋で涙が出そうになっても、必死にこらえた。泣いたら母を引き止めてしまう気がして、母が向こうで困ってしまう気がして……。
だから、平気なふりを続けてきた。
けれど今、腕の中に人の温もりがあるだけで、張りつめていた糸がぷつんと切れたみたいに涙が止まらない。
傘を差した月子に連れられて家に帰ると、玄関の明かりがまぶしく感じられた。濡れた靴がたたきに落ちるたび、泥水が小さく跳ねる。
タオルを持った星香が、スリッパの音を急がせて迎えに来た。髪も肩も湿っていて、外へ出たのが一度や二度じゃないことが分かる。
星香の顔からは、いつもの柔らかさが消えていた。眉がきゅっと寄り、唇はまっすぐに結ばれている。初めて見る顔だ。
「……ごめんなさい」
声がかすれた。海斗は視線を上げられないまま、頭を深く下げる。足元に、服や靴から落ちた雫が小さな水たまりを作っていった。
星香はその水たまりを一度だけ見て、拳をぎゅっと握る。それから力を抜くように肩を落とし、短く息を吐いた。
「分かればいいの」
ため息は、怒りを吐き出すというより、胸の奥に溜めていたものをほどくみたいに静かだった。
「次からは、ちゃんと気をつけ――」
違う。謝りたいのは、それだけじゃない。
「今まで、二人にひどい態度をしてて……ごめんなさい」
言い終えた瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。玄関に落ちる雫の音まで聞こえそうだ。
星香と月子が、短く視線を交わす。責める目じゃない。ただ、海斗の言葉を受け止めるために、息を整えるみたいな間だった。
海斗は顔を上げられないまま、言葉を続ける。
「……二人を受け入れたら、母さんがいなくなっちゃう気がしたんだ」
濡れた前髪から雫が落ちて、頬を伝う。
「僕が二人を家族だって思ったら、母さんの場所が消えちゃうみたいで。そしたら、母さんを覚えている人がいなくなっちゃう。……それが、すごく恐かった」
言葉にした途端、胸の奥の固いものがほどけて、息が震えた。
星香が一歩近づく。タオルが海斗の頭を包み、そのまま腕が背中を包んだ。
「海斗くんのお母さんは、いなくならないよ。海斗くんが覚えている限り……ちゃんと、海斗くんの心の中にいる」
星香の声は、どこまでも優しかった。タオル越しに海斗の頭を包んだまま、背中を上から下へ、ゆっくり撫でる。急かさない手つきで、呼吸の波に合わせて、何度も。
海斗の鼻の奥がつんとして、視界がまた滲んだ。まぶたの縁に溜まったものが熱くなり、堪えようと息を吸うほど、喉がきゅっと詰まってしまう。
「忘れなくていいの。お母さんとの思い出は、そのまま大切にしていていい」
星香は抱きしめたまま、少しだけ距離をゆるめて、海斗の顔を見た。
「そのうえで……少しずつでいいから。私と月子のことも、海斗くんの心に置いてくれたら、嬉しいな」
最後の言葉は、お願いというより祈りみたいだった。
星香の肩が小さく震える。頬に落ちた涙が、海斗の濡れた頬に混ざった。海斗もこらえきれず、声を漏らして泣く。玄関の灯りの下で、三人の影だけがゆっくり揺れていた。
しばらくして嗚咽が落ち着くと、星香が鼻をすすりながら言う。
「寒かったでしょう。お風呂沸かしてあるから、入りましょう」
星香の提案に、海斗は小さくうなずいた。
けれど「みんなで入ろうか」と続いた瞬間、海斗の耳が熱くなる。星香や月子と一緒にお風呂――なんて、想像しただけで気恥ずかしくなる。
「ぼ、僕はあとで一人で入るよ。あ! 嫌だからじゃないよ!」
星香は一瞬だけ目を丸くして、それから察したようにように笑った。
「男の子だもんね。それなら、せめて先に入っちゃって」
なんとか、一緒に入ることは回避することができた海斗。
その日のご飯は、久しぶりにとても美味しく感じられた。
夜。
海斗は自分の部屋のドアをそっと開け、廊下へ出る。家の中は寝息に沈んでいて、聞こえるのは時計の針の音と、風が窓を叩く乾いた音だけだった。
月子の部屋の前で、足が止まる。廊下の僅かな明かりがドアの縁に細い影を落としている。この家に引っ越してきてから数か月経つが、思えば他の部屋に足を運ぶのは初めてだ。
謝りたいこと。言わなきゃいけないこと。胸の中にはいくつもあるのに、どれから口に出すかが見つからない。拳を作ってはほどき、指先が空をさまよった。
海斗が廊下で落ち着きなく足を動かしていると、ドアが内側から、ゆっくりと開いた。
「どうしたの?」
きょとんとした顔の月子が顔を出す。海斗を見上げ、状況を飲み込むように瞬きを一つする。
部屋の中からは、同じ家なのに、海斗の知らない花の匂いが漂ってきた。
海斗は言葉を探して口を開きかけ、すぐ閉じた。月子の顔が近い。久しぶりにまっすぐに彼女の顔を見た。黒い髪が肩に落ち、大きな瞳がまっすぐ海斗を映している。
その視線を受け止めた瞬間、胸の奥が落ち着かなくなり、頬のあたりがじわっと熱くなる。
――なに考えてるんだ僕! そんなことのために来たんじゃないだろ!
海斗はごまかすように小さく首を振って、息を整えた。
「えっと……その。起こしちゃった?」
「ううん。本読んでたから」
月子はドアの縁に手を添え、口元を微笑ませて言った。
部屋の中をちらりと見る。余計なものが置かれていない、きちんと整った部屋だった。奥の小さな灯りが柔らかく床を照らし、ベッド脇のサイドデスクには、栞を挟んだまま閉じられた文庫本が置かれている。
海斗は、微かに漏れる光の中で小さく息を吐き、静かに頭を下げる。
「今日は、探しに来てくれて本当にありがとう」
胸の奥から絞り出した、本心の言葉。
「一人であそこにいて、もしかしたら……ずっと一人のままなんじゃないかって、すごく恐かった」
滑り台の腹の下。雨の幕で白く煙った景色。自分の呼吸だけが浮いて聞こえた、あの狭い世界がよみがえる。
思い出すだけで喉の奥がきゅっと痛んで、言葉が少し震えた。
「だから、来てくれたとき……すごく嬉しかったんだ」
海斗は視線をそらさずに言った。伝えたいのは、格好いい言葉じゃない。ただ、あのとき確かに感じたことだった。
「今まで言えてなかったら、今言うね。これからよろしくね。――お姉ちゃん」
言った瞬間、廊下の空気が一拍だけ止まった。
月子の目が、大きく見開かれる。驚いたまま唇がわずかに開き、それから、ゆっくり息を吐いた。
月子が、ゆっくりと一歩踏み出してくる。部屋の境界を超えて腕が伸び、ためらいなく海斗の背中を包んだ。
胸に押し当てられると、温もりがじんわり広がる。
「うん。よろしくね。――かいくん」
耳元でそう囁く義姉の声は、柔らかくて、少しだけ懐かしかった。
なぜだか、母が笑いながら海斗の名前を呼んだときの響きに、よく似ていた。
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目を開ける。
白い天井の光がまぶしくて、海斗は思わずまぶたを細める。さっきまで感じられた温もりは、もうどこにもない。
目の前には、会議室の白い壁と白い机。机の角は冷たく光り、椅子の背が背中に固く当たっている。
向かいでは、久我栞が黙って待っていた。椅子にもたれず、指先を机の上で静かに組んでいる。こちらの答えを測るみたいに、楽しげな視線が海斗を捉えている。
脳裏に、月子の顔がちらついた。雨に濡れた前髪と、迷わずこちらを見た目。
海斗はテーブルの下で握りしめていた指を、そっとほどく。ゆっくり息を吸う。喉の奥の熱が引いていき、胸の中のざわめきが少しだけ形を整えた。
『義姉の元から離れて、何も知らなかったことにして生きていくか。それとも、うちの仕事を手伝って、義姉と一緒に生きるか』
久我からつきつけられた選択肢。
月子は、何度も自分に手を伸ばしてくれた。
出会ってからずっと。
台風の夜も、葬儀の日も。
だったら――次は。
「……手伝います」
最初は、小さな声だった。海斗は机の下で冷たい指先を握り直し、逃げたくなる視線をこらえて久我を見た。
「ん?」
久我が短く返す。
海斗はひとつ息を吸い、今度は言葉を落とさない。
「久我さんの仕事を、手伝います」
声はまだ震えていた。それでも目だけは逸らさず、最後まで言い切った。




