母親が間違えて買ってきたんだ④
さっきまでの立ち位置と全く変わらない場所に、在里はいた。ほっと安堵の息を漏らした俺とユキが見つめる先で、その身体が初めてアクションを起こす。
ゆっくりと、ゆっくりと、右腕が持ち上がっていく。何をするつもりなのかと俺は反射的に身構えるが、風は一向に止んだままだ。やがて、くるりと返した手の甲をまじまじと見つめたかと思うと、今度は右肩の辺りに視線を向け、更に左側の腰へと移動する。
おそらく、怪我がないか確認しているのだろう。それ自体は、ごく普通にみられる行為だ。折角手に入れた肉体を損傷するのは、狐憑としても支障を来す。――だが。
「……!」
在里が、狐憑が、笑った。
ひどく嬉しそうに。ひどく愛おしげに。
そのまま、ふわりと掲げた両腕を、緩やかに胸の前で交差する――いや、抱き締めているのだ。まるで、そこに見えない我が子がいるかのように。否、在里自身を、両の翼で包むかのように。
「……ゲンさん」
「はい」
「あんなに宿主を大事にする狐憑を、見たことがありますか?」
「いいえ」
「なら、多分――そういうこと、なんですね」
「……スーちゃん?」
合点がいった俺は、ユキから離れて一歩を踏み出した。ようやく動ける。やっと前に進める。
「スーちゃん、まって。ユキもいっしょに――」
「ユキは、そこにいてくれ」
追いすがろうとするユキを振り向くことなく、俺は制止をかけた。母と子を、こんな形で再会させたくはない。これ以上、ユキを傷つけたくない。
「頼む」
「……きをつけてね」
そんな俺の意図を汲んでくれたのだろう。心配そうではあるが、確かに送り出してくれる声にひとつ頷き、俺は再び歩を進めた。まっすぐ、在里に向かって。
「おい、野狐」
風のない空間というのは、こんなに歩きやすいものなのか。こんなに話しやすいものなのか。
静かな公園に響く俺の声は、張り上げずとも野狐に届いた。ゆるりと上げられた顔に、先程までの聖母の表情はない。近付いてくる俺を見ても、特に何もしてくる様子はない。
例え規格外であろうと、所詮は野狐だ。天狐のシキさんのように無尽蔵な力がある訳ではない。先程のノルさんの攻撃を防ぐために、キャパシティの限界まで消費したのだろう。いい仕事をしてくれたと、今は力尽きて地面にへたり込んでいるホール担当に向かって、心の中で感謝しておく。
「お前、在里が好きなんだな」
ずっと、何かがおかしいと思っていた。それが、ようやくわかった。
悪意をもって宿主を害し、支配し、征服しようとする野狐とは、根本的に、決定的に違う。
「高飛びは、頑張ってる在里を飛ばしてやりたかったからだろ。先輩と揉めて困ってた在里を、助けてやりたかったんだよな。きのう、狐守の俺やキューちゃんが在里に近付いたときは焦っただろう。気づかれるかもしれないって」
そう考えると、辻褄が合う。
あのおかしな現象はすべて、在里を助け、守り、その側に、ずっといるため――。
「さっきから全く俺たちを攻撃してこないことにも、在里が関係してるんだろ。そいつの性格から考えると……そうだな、先輩が怪我したことに責任を感じて部活を休んでるような奴だ。どうせ、めちゃくちゃ落ち込んでたんだろ。そのとき、お前は理解した。在里の周りの人間を傷つけると、在里が悲しむ。だから、誰も傷つけないようにしようって」
ごうっと、さっきまでの暴風に比べれば、そよ風レベルの風があおってくる。野狐の胸の裡を知ってしまえば、何も恐れることはない。
きのうの風だって、何も痛くなかった、クッションで、ぽんっと軽く弾かれた程度だった。
「俺を切り刻みたくてもできないんだよなぁ? なら吹っ飛ばすか? でもなぁ、俺は脆弱な万年帰宅部だからなぁ。うっかり転んだだけで大怪我しかねないからなぁ。そうなったら、やっぱり在里はえっらい悲しむって、お前はもう学習してるはずだよなぁ?」
「スーくん、いまだかつてないほど生き生きしてるッス!」
「完全に悪役ですねぇ」
「外野うるさいです」
じりじりと俺が歩を進める度に、同じ距離分、在里が後退していく。焦りがはっきりと顔に出ているのが、こんな状況だというのにおもしろい。いや、こんな状況でもなければ見られないんだから、堪能したって別にいいだろ。
――後で思う存分、からかってやるためにも。
「さあて、どうする?」
それは野狐への挑発であると同時に、自分自身への鼓舞でもあった。間をおかず、そのまま勝負に出る。勢いをつけて一気に駆け出す俺を見て、在里の顔に、また知らない種類の表情が浮かんだ。
狐憑は、攻撃も防御もできない。そもそも、それだけの力がもう残っていない。奴に残された手段は、ただひとつ。
「そうだよな、逃げるよなっ!」
とんと、軽いバックステップ。何の予備動作もない無造作な跳躍で飛べる距離など、微々たるものだ。人間なら。
狐憑は風を使って浮力を増した。僅かな砂煙を巻き上げながら、普通じゃない速さで、普通じゃない高さまで跳ぶ。
空に逃げれば、俺は追えない。
狐守の接触さえ免れれば、野狐が勝つ。
――だが。
「狐守は、俺ひとりのことを差してる訳じゃねぇぞ」
俺の言葉に目を見開いた在里の、後ろ。まさしく、その瞬間。
夜空に輝く生まれ立ての星のように、青い炎をまとったオコジョのようなキツネが、流れ星の如く突っ込んできた。
そう。気狐は、狐守の一部。
狐憑に触れるのは、俺でなくてもいい。
「よし……!」
完全に不意をついた。注意をノルさんに引きつけている間に、キューちゃんを野狐の背後に移動させた判断が、功を奏した。
体当たりという、ひどく原始的で地味な攻撃手段ではあるが、決まれば確実に野狐を落とせる。例外は――ない。
けれど。
「きゅ? きゅー!」
「……は?」
このタイミングで絶対に上がるはずのない間抜けな声が、狐憑の後ろから聞こえてきた。
そして、俺の想定通りに野狐が抜けたのなら、そのまま重力に従って落ちてくるだろう在里の身体は、依然として宙に浮いたままだ。
――この二つが意味する、結論。
「っ!?」
ざあっと、爪先まで血の気が引いた。心臓が、ばくばくと音を立てて騒ぎ出す。
まさか、失敗したのか? なぜだ? キューちゃんは?
俺のそんな動揺に気付いたのか、狐憑が答えを見せつけるようにゆっくりと降下していく。やがて、俺からは死角になっていたキューちゃんの様子が、はっきりと視界に入った。
「キュー……!」
白い霧にすっぽりと身体を覆われ、身動きがとれずにもがいている気狐の姿が、そこにあった。
怪我をしている様子はない。ただ、動けないでいるだけだ。まるで蜘蛛の糸に絡め取られた虫のように、中空に貼り付けられている。
「っ、おいおい聞いてねぇぞ……! ここに来て新技とか――!?」
突然、足下に生温さを感じて背筋が震える。
視線を一気に地面へ落とした先で見たものは、さっきまで空で見ていたものと、全く同じ。
「しま……っ」
「うひゃー! なんスか、コレ!!」
いつの間にか、濃霧のようなものに両足を包み込まれていた。風から派生した能力なのだろうが、一体どういう原理なのか。足ががっちりと接着されていて、全く動かせない。
感触としては、真綿に近い。あまりにも優しすぎる拘束だ。俺たちを傷つけるつもりは、とことんないのだろう。ちらりと上がったノルさんの悲鳴を思い出して慌てて顔を向ければ、俺と同じように三人のキツネも霧に捕らわれている。
「……くっそ」
今まで隠していたのか。それとも、たった今、編み出したのか。俺たちに危害を加えることなく目的を遂行する手段を、この僅かな時間で。
「お前も必死ってことかよ……!」
狐憑が、わらった。自分の勝利を、確信した。
目と鼻の先にいるのに。
あと十歩の距離もないのに。
足が、動かない。
思いつく手が、ない。
時間が、ない。
――――ここまでか。
「おかあさん!」




