母親が間違えて買ってきたんだ⑤
雷に打たれたかのように、身体がびくんと跳ねた。
ユキの、声だ。ユキが、呼んでいる。ユキが、叫んでいる。
「おかあさん! ユキのこえ、きこえる!?」
小さく細い身体の殆どを、霧に覆われながらも。
あらん限りの声を振り絞って、血を吐くように。
「ユキ、おかあさんといっしょにいられなくてもいいとおもってた! いっしょじゃなくても、おかあさんがいきててくれればそれでいいって!」
地面に転がるような形で縫い付けられているのに、それでもあがき続けながら、ノルさんがユキをじっと見上げている。
拘束されながらも涼しい顔でユキの左隣に立つゲンさんの目元は相変わらず見えないが、その視線はまっすぐ在里に向けられていた。
「でも、やだっ! こんなのはやだよ!」
子どもが嫌々をするように、首を大きく何度も横に振りながら、ユキが声を張り上げる。母親に関しての、これがユキの初めてのわがままかもしれなかった。
我が侭に。――自分の心のままに。
こんな極限の状況に置かれなければ外に出すことすらできなかった本当の気持ちを、娘が、母に伝えようとしている。
「もう、しなないで……! もうユキをおいていかないで!」
ずっとひとりきりで抱えてきただろう切願に、呼吸が止まる。
強く、唇を噛んだ。強く、目を閉じた。強く、拳を握った。全身がどうしようもなく震えて、痛い。
「おかあさん! おかあさんっ!」
「……ゆ…、き……」
「!」
ここまで何も動かずユキを見つめていた狐憑が、声を発した。
口から出るのは、せいぜいが呻き声と叫び声だけで、意味のある言葉など話すはずがない、狐憑が――。
「っ!?」
弾かれたように視線を向けた先で、俺は有り得ない光景を見る。
狐憑が、呆然と目を見開きながら口元を抑えていた。その間にも「ゆき、ゆき」と壊れた機械のように、どんどん声が零れ落ちていく。
狐憑の顔に浮かぶ怯えと焦りの色が、これが決して野狐の意思ではないことを物語っている。――それなら、まさか。
「……在里、なのか?」
「おかあさんっ、ユキのこと、わかるの……?」
在里が、ユキの言葉に反応して、ユキの名前を呼んでいる。
前世の記憶を思い出したのか? いや、それ以前に――!
「在里、お前っ、まだ……」
まだ、抗っているのか。
俺たちが野狐と相対している間、いや、それよりもずっと前から。
たったひとりで。心だけで。
「……っ、諦めたのは、俺だけかよ……!」
ユキも在里も、最後まで諦めていない。この母子は、本当によく似ていた。
恥ずかしい。腹立たしい。弱い自分が、心底嫌になる。だが、反省は後回しだ。全部終わらせたあとで、膝を抱えながら部屋の中を転がってやるから。だから、今は――!
「!」
ありったけの力を込めた右足が、僅かに動いた。ほんの少しだけ前に進んだその足を起点にして、今度は左足を動かす――動く。
霧の拘束が、明らかに弱まっている。おそらくは野狐の動揺が影響しているのだろう。
これなら行ける。まだ間に合う。前に進め。前に、前に、前に――!
「言いたいことがあるなら言えよ、在里」
重い足を引きずりながら、芋虫のような速度で近付いてくる俺のことは視界に入っているはずだ。けれど、野狐は何もできない。自分の中で起こっている異変に、完全に気を取られている。
「お前はずっとそうだな。どうでもいいことはぺらぺら喋るくせに、肝心なことは何も言わねぇ」
正直、鬱陶しい奴だと思っていた。面倒くさい奴だと思っていた。
それが今は、そんな奴を助けるために、インドア派な俺が汗だくになって、身体中ギシギシ言わせてるんだから、世の中は本当に何が起こるかわからない。
「お前の娘は、ちゃんと言ったぞ」
だから、後で褒めてやってくれ。
「ほら、言えよ」
俺も、今度はちゃんと聞くから。
「言え! 在里っ!」
た す け て
「……!」
己の口から音を伴って現れた、たった四文字の言葉に、狐憑が愕然とする。やがて、その目に絶望の色を浮かべながら、両肩を抱いてかたかたと震えだした――瞬間。俺の両足の枷が、まさしく雲散霧消する。
「っ!」
いきなりの解放で前につんのめりそうになった俺は、そのまま地面に両手をつき、クラウチングスタートの要領で一気に駆け出した。俺の拘束が解かれたということは、すなわち。
「キュー! 今度こそ決めろ!!」
狐憑の、頭上。自由になった気狐が、再び青い炎を全身にまといながら弾丸のように落ちてくる。
真下にいる狐憑に、もはや覇気はない。けれど、まだ諦めるつもりもなかったらしい。すんでのところで我に返り、前に跳躍して逃げることで気狐の攻撃を背後に流した。
僅かに上がる、砂煙。気狐はまた、狐憑に触れられなかった。二度目の、失敗。――いいや、まさか。
「そっちがフェイクだ、今度はな」
「……!」
わざわざ俺のいるほうへ跳んできてくれるなんて、ありがたすぎて涙が出る。
着地点で迎え撃つために身構える俺の姿が、無防備な瞳に映り込んだ。完全に追い詰められた狐憑に、もう抵抗の意志はない。
「そういえば、俺が好きなヤイバーマンを教えてなかったな」
昨日の他愛もない雑談を、ふと思い出す。
ぐっと握った右の拳に、必要以上に力が入った。殴る必要はなかった。けれど、殴りたかった。理不尽だろうと何だろうと、とにかく俺は、思いっきり、こいつを殴りたかった。
「俺が好きなのは、ヤイバーマンのくせに、刃だっつってんのに、なぜかひとりだけ最後まで拳で戦い続けた愛すべき馬鹿――ヤイバーブルーだっ!!」
渾身の力を込めた、青い炎を灯した拳。
在里の白い頬へストレートに決まったそれが、嫌な感触と、嫌な痛みと、確かな手応えを伝えてきた。人の中に本来はあるはずのないもの――野狐を探り当て、掴み取り、引き剥がす!
「っらあ!」
拳を振り抜いた勢いで、在里の身体が軽く吹っ飛ぶ。そのまま地面に転がる直前。全身の輪郭が僅かにぼやけて二重になったかと思うと、外側の影だけが名残惜しげに離れ、やがて小さな淡い炎へと変化した。
それは、宿主から別れた野狐の姿。
あとはもう消えてしまうだけの、最期の灯火。
「スーくん、やったッス! さすがッス!!」
遠くからのノルさんの歓声を聞きながら、ほっと安堵の息をはいた先で、在里のつむじを見下ろす。もう野狐は落ちて正気に戻っているはずなのに、地面に座り込んだまま動かない。顔を伏せて軽く頬を抑えている姿に、強く殴りすぎたかと不安になった。
「……おい、在里」
「――騙された」
「っ」
びくっと、思わず肩が上がった。連動するように脳内で蘇る、古い記憶。
友達だと思っていた奴が、俺の狐守としての力を目の当たりにした途端、顔を歪めて去っていった。それを何度も繰り返した結果、俺の居場所はなくなった。狐守は普通の人間とは友達になれないのだと、幼いころには、もう思い知っていた。
期待はしないと決めた。関わらないと決めた。そんな中、初めて例外ができた。けれど結局は在里も、そういう人間――。
「水筒がヤイバーレッドだったから、俺はてっきり筒井はレッドが好きなんだと思ってたのに」
「そっちかよ!!」
ああ、ああ、そうだった! お前はそういう奴だったよ! 俺のシリアスを返せ! と、心の中で思いっきり叫んで恥ずかしさを吹き飛ばしてから、盛大な溜息をつく。
「……母親が、間違えて買ってきたんだ」
「ははっ、あるある」
顔を上げて微笑んだ在里は、いつも通りで。だから俺も、何も特別なことを言うつもりはない。
俺が差し出した手を、在里が掴んで立ち上がる。顔を見合わせて、なんとなく、二人で笑った。




