母親が間違えて買ってきたんだ③
「ひょえッス!!」
「スーちゃん!?」
当然すぎる反応として、ノルさんとユキが同時に悲鳴を上げた。ゲンさんが何も言葉を発することなく成り行きを見守ってくれていることが、ありがたい。お陰で、俺も何とか冷静でいられる。
いや。こんな発想が出てくる時点で、実はもう既に大分おかしくなってるのかもしれないが。
「ななななんでそうなっちゃったッスか!? せ、説明を――している時間はないッスよね、残り十八分くらいしかないッスもんね! で、でででも危ないッスよ! っていうか、オレっちッスか!?」
「ゲンさんはサポート担当だし、ユキに至っては力の加減が下手なうえに火力が強すぎるし、そもそも――」
「あー! わかってるッス! ユキちゃんにお母さんを攻撃させるようなことは流石にできないッス! わかってるッス! けど! けど! オレっちッスかーーー!!!」
大声で嘆きながらも、ノルさんは俺たちから少し離れた場所に移動して、自分の立ち位置を迅速に確保する。文句という形で思考を外に出すことにより状況を簡単に整理しつつ、頭の中ではもう自分がやるべきことの算段を立て始めている。意外にも、ノルさんにはそういうところがあった。
「あくまでもギリギリでお願いします。弱すぎても意味がない」
「ひぇえええ無茶ぶり怖いッス! 失敗しても知らないッスよ!?」
「しませんよ」
自分でも不思議なほど、強い響きを帯びた声が漏れた。回遊魚よろしく、騒ぎ続けなければ死んでしまいそうなノルさんには極めて珍しいことに、完全に沈黙したまま、きょとんとこちらを見つめてくる。
「ノルさんが出力を誤ったり、狙いを外すなんてこと、有り得ません」
そう。ただの一度も、本当に一度も、お目にかかったことはない。
何度も窮地を救われた。何度も足を踏み出せた。
ノルさんじゃなければ、この提案は成功しないし、そもそもノルさんがいなければ、こんな無茶苦茶な発想は生まれなかった――と、自然な流れで責任転嫁することも忘れない。冗談はさておき。何はともあれ。
「頼みます、ノルさん」
「……ッス! 頼まれたッス!」
嬉しそうに返事をしたノルさんが、ぱんっと、いい音をひとつ立てて柏手を打つ。その合わせた手から、透明な靄のようなものが立ち上がった。この強風にも流されることなく、徐々に光を帯び、徐々に大きさを増していく。
ある程度の形に育ったところで、ノルさんは左手を前に押し出し、逆に右手は大きく引き絞った。そう、引き絞ったのだ。弓道用語を用いたのには理由がある。
炎でできた弓と、炎でできた弦と、炎でできた矢が、その瞬間、同時に生まれていた。
狐火という言葉が示すように、キツネたちはほとんどが火を使うが、ノルさんはとにかくその炎の調整がうまい。形状を変える、温度を変えることなど、お手の物。意外にも、器用なひとだった。
だから、任せられる。
「……ユキ、いいか?」
確たる制止の声が上がらなかったことをいいことに勝手に話を進めてきたが、在里の娘のユキが否と言うなら、すぐにやめるつもりでいた。
「うん」
けれど、ユキは大きく頷く。ただ正面を、ただひたすら在里だけを見つめながら。
「スーちゃんを、みんなを――しんじてる」
「お聞きの通りッスよ、野狐さん! オレっちも、アンタのこと信じてるッス! 絶対に、全力で、必死に! オレっちの矢を防いでくれるって!」
焚き火のように赤々と燃える炎をまとっていた弓が、弦が、矢が、細く細く収束していく。やがて、ストローだとかマドラーだとか、それくらいの太さのただの赤い線へと、形を変えた。
派手から地味への変貌は、一見するだけでは退化のようにもみえる。けれど、ノルさんの調整は着実に進んでいるのだと、俺にはわかった。
「カウントいくッス! こー!」
「何でいつも九からなんですかっ」
普通は十からだろ、と続けて突っ込みたくなるところを、ぐっとこらえた。こー、は、今で言うところの九だ。ノルさんは、いつも大和言葉で数える癖がある。
「やー! なー!」
時計の秒針と同じ感覚で、正確にカウントダウンが進んでいく。
どんどん速く、どんどん大きくなっていく動悸と、吹き出した嫌な汗の冷たさを感じながら、俺は在里の――狐憑の様子を窺った。
感情の宿らない目を、静かにノルさんに向けている。状況は理解しているはずだ。けれど、動かない。風の流れも変わらない。
防御にも阻止にも転じようとしない、全くもって無防備な状態を見て、胸のあたりがひりつく。
「むー! もう少し詳しく言ったほうがいいッスか!? オレっちは今、アリサトさんの心臓を狙ってるッス! いー! でもって、野狐さんが現在進行形で結界破壊に割いているリソースまで、まるっと全部かき集めないと防げないレベルの火力にまで高めてるッス! よー! だから本当にお願いするッス! 全力で頑張ってほしいッス!」
確か、会と呼ばれる、今にも矢を放てる状態を保ったまま、ノルさんが説明と懇願の混ざった悲鳴を上げる。相変わらずの暴風にあおられながらも、その姿勢と照準は揺るがない。体幹の強さだけでなく、弓矢全体から漲っている見えない力の圧が、風の抵抗を緩和しているお陰だろう。準備は完全に終わっている。あとは、矢を放つだけだ。
「みー! ひょっとして、まだハッタリだと思ってるッスか!? キツネは人間を傷つけたりしないって!? でも残念、本気ッス! ふー!」
在里を見つめたまま、ユキが俺の服の裾を強く握ってくる。肩に置いた手に力を入れることしか、今の俺にできることはない。
「――だから、アンタの本気も見せてくださいッス!」
残り、カウントひとつ。
そこで、異変が起きた。
「っ!?」
結界の中で踊り狂っていた風が、一瞬にして、嘘のようにぴたりと止まった。
何からも耐える必要のなくなった俺の身体が、ユキを抱えたまま盛大にたたらを踏む。
「ひー!」
うっかり逸らしてしまった視線を慌てて狐憑に戻すと同時に、極限まで圧縮したノルさんの矢が、ついに放たれた。人の目では捉えられない速度で夜の闇を切り裂いていく赤い流星が、宣言通り、在里の胸に吸い込まれる――直前。
その矢の前に立ちはだかるように、渦を巻いた空気の球体が忽然と現れたかと思うと、そのまま一気に弾け飛ぶ。
「!!」
視界が、真っ白に染まった。遅れて、轟音と爆風。ユキを庇いつつ、顔を守るために掲げた腕の下から、何とか状況を探ろうと目を凝らす。
ノルさんの矢と、野狐の力が接触したことは間違いない。ということは少なくとも、在里の心臓が貫かれている心配はないだろう。けれど、これだけの衝撃を近距離で受けて、ただで済むとも思えない。自分で言い出しておきながら、情けなくも、震えが止まらない。
そうして、次第に薄くなっていく白い煙の奥で――見た。




