母親が間違えて買ってきたんだ②
「かぜぇええええ! え、風すっごいんスけど、なんなんスかこれぇええ!!」
ノルさんの叫びどおり、結界の中は、めちゃくちゃな風が吹き荒れていた。電話を受けた時点で、嵐のような光景が広がっているのだろうと予想はしていたが、目の当たりにした現実は、そんな想像を遙かに超えている。
今にも身体ごと持っていかれそうな風圧に耐えながら、俺よりも軽いユキの肩を抱いて必死に踏ん張る。キューちゃんが飛ばされていないか、ふと心配になったが、風の音の合間から鳴き声らしきものが僅かに聞こえてくるので、とりあえずよしとした。
「このっ、かぜっ、は……!」
「ええ、野狐の能力です。元々の力が強いのか、浸食が進んでいるのか、宿主の適性が高いのか……おそらく、その全てでしょう。野狐および狐憑としてはイレギュラーな存在だということを、まずは頭に入れておいてくだせぇ」
無駄にいい男の無駄にいい声は、こんな大風の真っ只中にいても耳によく通るのだということを、俺は学ぶ。
イレギュラー。確かにそうだ。今までにも風を使う狐憑に接触したことはあったが、あんなものは扇風機の弱か、うちわで軽く仰ぐ程度の強さでしかなかったのだと思い知る。
呼吸さえ難しいほどの暴風に耐え続けながら、とにかく瞼の一点のみに意識を集中させる。なんとか目を開こうと試み続けた結果、視界の奥で不自然な白を見つけることができた。
「在里……っ!」
「おかあさん!」
それは、ジャージの白だった。距離は少し離れているが、間違いなく在里であると確信できる人影が、そこにいる。この台風と呼んでもいいほどの状況で、まさしく台風の目にあたる場所なのだろう。俺たちがぐしゃぐしゃになっているのとは対照的に、在里は何者にも脅かされることなく平然と佇んでいる。
強風の中でも、俺とユキの叫びが届いたのか。やがて、俯けていた顔をゆっくりとこちらに向けた。
――ぞっと、背筋が凍る。
恐ろしい形相をしていたわけでも、射殺すように睨まれたわけでもない。ただ、表情がない。それだけのことが、無性に恐ろしい。
いつも笑っている在里とのギャップが、きつい。現実に、打ちのめされる。思わず、ユキを抱く腕に力が込もった。
「手短に説明しやす。野狐の勝ち筋は、三つ。結界を壊して、外へ逃亡すること。狐守を戦闘不能にすること。この場であたしらを足止めすること」
その全ての道筋が帰結するところは、すべからく宿主との同化。とどのつまり、全部が全部、時間稼ぎだ。
「今は、どういう状況なんですか? この風、さっきから随分と規則正しく吹いてるのが気になってるんですけど……!」
そう。自然の変則的な風とは違い、常に一定方向から一定方向へ――俺の立ち位置からだと、正面から後方へと流れ続けている。何らかの目的があるとしか思えない。
「どうやら野狐の最優先事項は、結界の破壊のようです。円心状に風の波状攻撃を行って、少しずつダメージを与えている最中ですね。あたしの結界は、一点集中攻撃には強いですが、同時範囲攻撃には少し脆いということがバレてるようで……まあ、でも」
視界の隅で、黒い皮手袋に包まれたゲンさんの指が、生き物か何かのようにしなやかに蠢く。自分でも貧困すぎる例えだとは思うが、握力を鍛えるためにボールを握っているときって、ちょうどこんな感じになるよなと呑気に眺めてしまった。
「野狐風情に壊されるような結界を張ったことは、ただの一度もありやせんので」
どうぞご安心を、と声を一層低くして笑うゲンさんを見て、思わず背筋がぴんと伸びる。そういえばこのひとは、意外にも負けず嫌いだった。
「ということで、結界については心配いりやせん。問題はタイムリミットのほうです。イレギュラーらしく、浸食の進みも普通の狐憑の数倍早い。このままだと残り三十――いや、二十と待たずして同化が完了しやす」
「っ!」
「二十分ですか……!?」
大きく体を震わせるユキに共鳴したかのように、俺の心臓も跳ね上がった。
いくら何でも早すぎる。まだ何の打開策も見つけていないのに。いや、やるべきことはわかっている。こちらの勝ち筋は、狐守である俺が狐憑きに直に触れる。それだけだ。――ただ。
「この風じゃ、在里に近づけませんよ……!」
荒れ狂う暴風に、変化はない。相変わらず結界を破壊しようとしているのだろう。一定の間隔で、強い風と、強すぎる風の波が交互に押し寄せてきて、気の休まる時がない。
「――?」
ふと、小さな違和感を覚えた。そうだ。変化がない。
野狐は、俺たちが結界の中に入ったことに気づいている。狐守の俺がいることを、確かに認識したはずだ。それなのに、行動パターンが変わらない。
「……野狐はどうして、まだ結界を壊そうとしているんでしょう」
「うえっ!? どういうことッスか、スーくん!」
聞こえにくいから、おっきな声でお願いするッス! などと、俺のすぐ後ろで叫んでいるノルさんのために、顔と声を同時に上げる。
「結界を壊すより、俺をピンポイントで狙ったほうが絶対早いじゃないですかっ! こんな台風みたいな風を操れるなら、かまいたちだろうが竜巻だろうが起こせるはずでしょう!?」
現に、以前バトルした狐憑は、真っ先に俺を風で吹っ飛ばそうとしてきた。キツネの中でも屈指の強度を誇るゲンさんの結界を壊すことよりも、ただの人間にしか過ぎない俺を昏倒させたほうが遙かに楽だからだ。当然、在里に憑いた野狐も、その方向にシフトチェンジしてくると思っていたが……。
「単純に、今の時点で足止めに成功してるからとかじゃないッスか? 現にオレっちたち、ここからぜんっぜん動けてないッス!」
確かに、最終的に結界を壊すことができなかったとしても、結界を壊すという手段を用いている限り、俺たちは狐憑に近づけない。このまま逃げ切れるのだから、わざわざ行動を変える必要もないというノルさんの意見は納得できる。
納得はいくが、俺はまだ、どうしても何かが引っ掛かる。
何かが、違う。何かが――足りない?
「スーさんには、気になることがあるんですね?」
「……はい。それと、試してみたいことも」
どんな風にも吹き飛ばされる心配はないだろう重い声に、俺はゆっくりと頷く。
唐突に思いついた、策などとはとても言えない無謀の塊だが、今はそれしか手立てがない。
「ノルさん」
「はいッス!」
自分の疑問に対する答えが得られるかもしれなくて。
この風が、ほんの僅かな間だけでも収まるかもしれない、一手。
「ここから、あいつがギリギリ防げるくらいの火力に調整した炎をぶっ飛ばしてもらってもいいですか?」




