母親が間違えて買ってきたんだ①
狐憑と相対した狐守がするべきこと。
ひとつ。逃げられる前に触るべし。
ふたつ。とにかく逃げられる前に触るべし。
みっつ。何が何でも逃げられる前に触るべし。
「どれも同じじゃねぇか!」と突っ込んだ小さい俺の、その反応は当然だと思う。けれど、今は違う。
ひとつめと、みっつめでは――全然違う。
***
バイクで行けるギリギリの所まで山道を駆け上がると、完全に停車する前に白いキツネが背中から飛び降りた。そのまま人型になって駆け出すユキを、空になったデイパックとヘルメットを放り投げた俺が追う。
数時間ぶりに戻ってきた公園は、既に夜の暗さにたっぷりと覆われ、昼間とは全く違う顔を見せている。淡い月の光くらいしか照明は期待できないが、こちらにはユキがいる。目に頼れなくても、在里の居場所は鼻でわかる。――が。
「スーちゃん、どうしよう! おかあさんのにおいが、どんどんうすくなってる……!」
それはつまり、浸食が進んでいるということだ。在里の魂が、この世界から完全に消滅するということだ。
涙声のユキの背中に、何か言葉をかけてやらなければと思いながらも、運動不足の身体と、俺の中にも同じように存在する不安のせいで、思うように口が開かない。
「きゅー!」
代わりに、俺の肩の上から大きすぎる鳴き声が響いた。驚いたように振り返るユキと、視線が合う。「きゅ! きゅ!」と、やたらハッスルしている気狐に目をぱちぱちさせるユキの姿がおかしくて、こんなときだというのに笑えた。
「安心しろ、ユキ。こいつは、過去最高にやる気になってる」
気狐は狐守の心の一部だということを、当然、キツネのユキも知っている。なので、そんな風に穴が開くほど俺を見つめないでいただきたい。顔が、熱い。
「大丈夫だ」
「……うん!」
元気に頷いたユキは正面に向き直り、夜の闇を物ともせず速度を上げる。俺はといえば、情けないことに、その背を見失わないように着いていくだけで必死だった。
あともう少しで、在里がいると思われる広場に辿り着く。てっきり移動して既にここからいなくなっている可能性が高いと思っていたが、なぜかまだ留まってくれているようだ。それが、こちらにとって吉と出るか、凶と出るかはわからない。宿主を確実に浸食できると野狐が判断したなら、逃げる必要はないからだ。
そして、在里の電話から聞こえてきた風の声。竜巻でも発生したかのようなあの音が、ここまで来て全くしないことも気にかかる。自然現象ではないことは、星すら瞬く晴れわたった空を見ても明らかだ。だとすれば、あれは狐憑の能力。電話口で俺にまざまざと見せつけてきた力を、いまさら出し惜しむ理由がわからない。
さぞ、楽しいだろうに。望んでいた肉体がもうすぐ手に入り、宿主の魂がまさに潰えようとする瞬間を目の当たりにするのは、暴れ出したいくらい嬉しいだろうに――!
「……っ」
無意識に唇を噛んでいた。同時に、爪先にも力が込もる。勢いよく蹴り出して段差を飛び降りたところで、先行していたユキの背中に追いついた。そうして、広場の手前で立ち止まるユキの向こうに、夜の黒と同化するように佇む人影を見る。
在里ではない。黒いスーツに黒い帽子。――あれは。
「ゲンさん!」
仕事着の作務衣姿とは、また受けるイメージが全然違う。オフスタイルと呼ぶにはクラシックが過ぎる格好をした狐し庵の厨房担当と、ここで会えるとは思わなかった。出掛けたとユキから聞いていたが、まさか先回りをしているとは。
「お待ちしてやした」
言葉どおり、ずっと俺たちがここに来るのを待っていたのだろう。
何のために? ――決まってるだろ。在里を、救うためだ。
「姐さんなら、中です」
中。そう言いながら、何もないはずの中空を、こんと裏拳で叩く。触れた場所から虹色の光が波のように揺らめくのを見て、そこに結界が張ってあることにようやく気付いた。
一見するだけでは、ゲンさんの後ろには誰もいない静かな空間が広がっているとしか認識できない。けれど、例えるならあの……西洋レストランでよく見かける、料理の保温のために被せる金属製の丸い蓋――確かクローシュとかいったか。あんな形状をした、めちゃくちゃ特大で、ついでに透明になったやつが、公園広場全体を覆っている。
俺たちの間では、結界と呼ばれているそれを張る目的は、ひとつ。
外からは、いつもの光景としか映らない、その中で。
何も知らない一般人を巻き込む懸念がない、その中で。
――キツネと、狐憑と、ついでに狐守が。思う存分、はっちゃけるためだ。
そして、姐さん。シキさんを旦那、ユキをお嬢と呼ぶゲンさんが、在里に対して姐さんという呼称を使うということは。
「……やっぱり、全部知ってたんですね」
「ずっと、陰ながら見守っていやした。当然、姐さんの周りを最近になって野狐がうろついていることも、あたしは知っていた」
それなら、なぜ放っておいたんだ。ゲンさんなら、こうなる前に何とかできたはずだ。
俺のそんな当たり前すぎる疑問は、ゲンさんも想定済みだろう。けれど、弁解も説明も、彼は口にしない。
「これは、あたしの失態です」
それだけを言って、帽子を押さえる。見ようによっては、ユキに向けた謝罪のようだった。
「じかんがないの、ゲンさん。ユキは、おかあさんをたすけたい」
「勿論。あたしも同じ気持ちですよ」
ゲンさんから、はっきり言葉として在里救済の意志を確認できたことに、ホッとしている自分がいた。ゲンさんを疑う訳じゃない。けれど、何かが腑に落ちない。だが、今は。
「中に、入ります」
こんな所で、自分のもやもやを呑気に解消している時間などない。ユキの隣に並び立ち、サングラスが邪魔をして全く見えないゲンさんの目を、探るようにじっと見据える。
「危険ですぜ。それ相応の覚悟はありやすか……などと聞くのは、それこそ時間の無駄でしたね」
ふ、とゲンさんの口元が緩む。微動だにしない俺とユキの後ろから「二人ともどこッスか~! 待ってくださいッス~!」というノルさんののんびりした声だけが、一足早く追いついてきた。
「ゲンさんは……」
「あたしも入りやす。今回は、そちらのほうがいい」
結界を張った本人は外側にいたほうが、結界自体の強度が安定する。けれど、それよりもゲンさん自身に傍にいてもらったほうが望ましい俺は、その答えに安堵の息を吐いた。
「じゃあ、行きます。……ユキも、いいな?」
「だいじょうぶ」
「あ~、よかった!! やっと追いついたッス! あれ、ゲンさんが何でここにいるんスか? 三人とも真面目な顔で横並びになっちゃって、どうし……あれ、結界? ひょっとして中に入るッス? これから? 今すぐ? あ、待ってくださいッス! 俺っちも行くッスよ~!!」
「え、うわっ」
「きゅ!」
ノルさんのゆるゆるな声と、ノルさん自身のタックルを背後からどーんと受けて、俺たち四人と一匹は、ひとかたまりになって結界の中へなだれ込んだ。
シャボン玉を全身で突き破ったような感覚は、一瞬で通り過ぎていく。まるでコントのような突入のせいで、うっかり緩んでしまったメンタルの立て直しを図る俺を歓迎してくれたのは――恐ろしいまでの、暴風だった。




