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【完結】おこもり奇譚  作者: 小浪来さゆこ(森原ヘキイ)


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俺とお前だからできること②


「在里……?」


 うっかり怯んでしまった自分が情けない。なぜだが急に、雑然とした自室や、くたびれた部屋着が気になった。一呼吸置くことで動揺を払拭してから、ようやく通話ボタンを押す。


 何も、聞こえない。



「……もしもし?」



 回線の問題かと、しばらく待ってみるが、呼びかけてみても反応はない。一体どういう嫌がらせなんだ、と反射的に言いかけて、やめる。

 ――在里は、そういうことはしない。



「なんだってんだ……っ、在里! おい!」



 逸る気持ちを抑えて、ぐっと声と呼吸を飲み込む。だが、どんなに耳を凝らしても、応える声はない。ただ遠くで、風が吹いているだけだ。



「風……?」



 自宅にいるんじゃないのか。しかもこの風は、何かがおかしい。渦を巻いたような音が、徐々に勢いを増して近付いてくる。

 慌てて窓辺に寄り、カーテンを開いて外を覗く。嵐でも来たのかと思ったが、向かいの住宅の庭に溢れる樹木の葉が揺れている様子はない。それにも関わらず、携帯の向こうの声は、いよいよ大きくなっていく。

 悲鳴のような、嘲笑のような、ひどく不快なそれに耐えられず、思わず携帯を耳から離した。その過程で、ひとつの光景が目に飛び込んでくる。



「キューちゃん……?」



 いつものように水筒から抜け出した気狐が、床に座り込んだまま、じっとこちらを見上げていた。けれど、いつもとは決定的に違うことがある。


 ――黒い目が、青く輝いている。

 それは、自我を持つ野狐に触れたときの反応。

 狐憑がいるのだと、確信するに値する反応。



「嘘だろ、おい……っ」



 在里が、狐憑? そんな兆候は、なかったはずだ。

 キツネを落とした経験が殆どない俺でも、浸食の進んだ宿主に近付けば、憑いている野狐の気配には気が付く。

 なんだ。なにがあった。俺は一体、どこで間違った。

 在里は。あいつは、どこまで知っていた。自分の異変に、自分の異常に。



 ――筒井に気にしてもらえるようなことは、なにもないよ。



「大ありじゃねぇか、馬鹿野郎!」



 思わず吐き出した俺の言葉に被さるように、再びレインの通知音が響く。風の声を運んできた電話は、いつの間にか切れていたらしい。次の発信者を確認する余裕もなく、俺は携帯の画面を耳に叩き付けた。



『スーちゃん! スーちゃん、いま、おうちにいる!?』

「ユキ!?」



 在里からの不穏な着信の直後。そして、ユキのこの剣幕。どう考えても別件では有り得ない。



『クーちゃんが、おかあさ……ありさとさんがたいへんだって! はやくいってたすけてあげて、って! だから、だから……っ』

「ああ、そうだな。わかってる。とりあえず落ち着け、ユキ。今、どこにいる? ゲンさんやノルさんは?」



 予想通り。ユキのほうへは空狐が連絡を入れてくれたらしい。他の誰かが慌てていると自分は冷静になれるという話を、どこかで聞いたことがあるが、たった今、身をもって経験した。ユキの声で、すっと頭の熱が冷めたのがわかる。



『ゲンさんはおでかけしちゃっていないから、ノルさんに、えっと、ばいく……? ノルさん、こればいくであってる? うん、ばいくでスーちゃんのおうちにむかってるよ! スーちゃんもいっしょにきて!』

「行き先はわかってるのか? 在里はどこにいる?」

『さっきのこうえん!』



 足高公園か。バイクで行くなら、そこまで時間はかからない。今なら、狐憑に……キツネに憑かれた在里に、どこか遠くへ逃げられてしまう前に確保することができる。まだ、間に合う。



「わかった、すぐ来い。家の前にいる」

『うん!』



 通話を切る動作すらもどかしく、俺は慌ただしく準備を始める。動きやすさを最重視した、汚れても破けても構わない服に着替え、片付けたばかりのデイパックを取り出す。――あとは。



「キューちゃん」



 さっきから一部始終を黙って見守っている気狐に、マイペースでフリーダムなオコジョの姿はない。いつもの色を取り戻した瞳が、ただただ静かに俺を見つめている。


 気狐は、狐守の裡から生まれる。

 狐守の一部であり、魂であり、心である。


 そんなフレーズを、幼いころから聞かされ続けていた俺は、思わず小さく吹き出した。



「怖いのかよ、キューちゃん」



 気狐は答えない。

 そうか。怖いのか、()は。



「在里を助けられなかったら、どうしようって思ってんだろ」



 自分の手が震えていることに、ようやく気づいた。武者震いだ、なんて格好つけたことも言えない。――俺は、怖い。



「勝手だよな。今までだって狐憑とは何度も対峙してきた。なのに、一度だって怖いと思ったことはない」



 こんなのは、ただの独り言だ。だからこそ、意味があるような気もした。



「それは相手が、どうでもいい他人だったから。俺とは縁もゆかりもない奴が、勝手に狐憑になろうが、侵食が進んだ挙げ句、勝手に人間をやめてしまおうが、俺には何の関係もないから」



 まるで懺悔か何かのようだが、俺は別に自分が間違ってるとは思わない。いたって普通の、当たり前のことだ。名前も知らない初対面の人間の不運を、あたかも身内の不幸のように受け止めていたら、生きていくのがつらすぎる。そういうことは、在里やユキみたいな、心の強いお人好しに任せればいい。



「狐憑は狐守にしか落とせない。だからといって、俺が特別に何かをする必要があったわけじゃない。キツネたちがお膳立てを済ませてくれた舞台に、ひとり遅れて悠々と上がり、ただ立ち尽くしているだけの狐憑に触る。そんな、簡単すぎる仕事だ。俺は特別な鍛練も、特別な決意も、したことがない」



 気狐は、まだ動かない。



「それが――怖いんだよな」



 狐守になって初めて、後悔というものをした。

 もっと深刻に考えていたら。もっと真剣に向き合っていたら。

 少なくとも今、こんな風に無様に震えてなんていなかっただろう。



「在里を助けられなかったら、全部終わる」



 水面に映った光景が、波紋の広がりで呆気なく歪むように。在里という一滴の雫が落ちるだけで、間違いなく周囲の全てが変わってしまう。

 


「狐守なんて続けられない。キツネたちに……ユキに、合わせる顔がない」



 こんな役目は、最初からいらなかったはずなのに。

 その枷から解き放たれた自由な未来を想像して、ほんの少しの寂しさを感じてしまった自分が、おかしかった。



「俺が狐守の家系に生まれたことは、やっぱり間違いだと思う。覚悟だとか信念だとか、そんな大層なものは、この期に及んでもやっぱりわからない」



 だけど。



「だけど、在里は――俺たちにしか助けられない」



 その事実だけで、今はいい。



「怖いし、面倒だし、マジでなんで俺なんだとは一生思うけどな。俺とお前だからできることがあるんなら、それはもうやるしかねぇんだよ」



 気狐に向けて差し出した掌は、まだ震えていた。

 けれど、それを見るキツネの黒い瞳に、揺らぎはない。



「とっとと行くぞ、相棒!」

「きゅ!」



 いつもの鳴き声が、まるで鬨の声のようだ。その短い脚からは想像もできない跳躍力で俺の掌に飛び乗り、更に肩へ飛び移ってきたキューちゃんと、軽く目を合わせる。


 もう、言葉は必要なかった。

 ――水筒も、置いていく。




***




「スーちゃん!」


 玄関を飛び出してすぐ、黒のマジェスティが目の前に横付けする。フルフェイスのノルさんの後ろから、ユキが飛び降りてきた。着替える余裕もなかったのだろう、部屋着にしている浴衣姿のままだ。いつもは結んでいる長い髪も解かれ、緩くうねるように空中を泳いでいる――と思ったのも一瞬のこと。

 あっという間に白いキツネの姿に変わると、キューちゃんとは逆の肩に飛び乗り、そのまま俺が担いでいたデイパックの中へするりと潜り込んだ。



「お願いします、ノルさん! あくまでも安全運転かつ限りなく全開で飛ばしてください!」

「スーくんは、ホント無茶ばっかり言うッス!」



 今までユキがいた場所に、今度は自前のヘルメットをつけた俺が座る。ぶつぶつ文句を言いながらも、ノルさんは即座にバイクを滑らせた。



「というか、オレっちマジでなんにもわかんないスけど! アリサトさんって誰なんスか!?」

「ユキの母親です!」

「スーちゃんのおともだちだよ!」

「いや、だからわかんないッス! なんなんスか、その複雑な相関図!」



 走行中の会話は、必然的に大声になる。閑静な住宅街を走っているうちは大人しかったノルさんも、大通りに出た途端、一気に爆発した。

 考えてみれば俺たちの中で一人だけ事情を知らないのだから、無理もない。



「――ただ」



 いつもスーパーボールのように弾むノルさんの声が、急に地を這う。

 意外にも状況の把握が早く、意外にも大局を見るこのひとに、これ以上の説明は不要だ。



「ふたりの大事なひとだってことだけは、わかったッス」



 ぐんと姿勢を低くしたノルさんが、バイクの速度を一気に上げる。

 振り落とされないようしがみつく俺の耳には、もうエンジンが風を切る音しか入ってこなかった。

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