俺とお前だからできること①
「はー……」
自室に入った途端、疲労が大挙して押し寄せてきた。さっさと部屋着に着替えると、頭からベッドにダイブする。額をシーツに何度も押し付けてから寝返りをうち、見慣れた天井を仰いだ。
ユキの様子は、いつも通りに見えた。
旅館に戻り、出迎えてくれたゲンさんやノルさんと一緒に夕食を囲んでいるときも。帰ろうとする俺を、一人で外まで見送るときも。
気の利いたことを何ひとつ言えない俺の背中を「ありがとう」という小さな声で押すだけで、母親の話は一言も口にしなかった。
これで、よかったんだろうか。
ユキも、シキさんも、在里にはもう二度と会わない。お互い、決して交わることのない別の道を歩んでいく。本人たちがそれを望むのなら、部外者の俺に言えることは何もない。けれど、何かが引っかかった。
――本人たち?
ユキとシキさんの気持ちは、わかる。
だが、在里は。あいつは、そもそも何も知らない。
いや、知らないということが既に答えなのかもしれなかった。キツネに寄り添った人生を送ったことを悔やんでいたとしたら、次の生ではその記憶を持つことさえ拒むのかもしれない。
「わからないことばかりじゃねぇか……」
大きく溜め息をつき、わしわしと髪をかき混ぜた。そのまま腕で目元を覆うと、自分の呼吸音だけが耳につく。
――なにか、探してるのか?
ふと蘇る、在里の声。
あれは確か、入学したての頃。桜を見て大はしゃぎするキューちゃんを追って、高校の中にある武道館まで探しに来たときだった。
***
満開の桜の下が、やけに似合う奴だと思った。
染めているにしては自然すぎる茶色の髪と、白い肌のせいだろうか。なぜかカフェモカを連想させる甘い色彩が眩しくて、必要以上に目を細めてしまう。
「……別に」
無愛想のお手本のような答えを返して、俺はそいつの存在を無視することに決めた。自分に関心がないと解れば、大抵の人間は身を引く。いかにも人に嫌われたことがなさそうなこいつなら、尚更だろう。尻尾を巻いてとっとと退散するに違いないと、そう踏んでいたが――。
「なにを探してるんだ? 俺も手伝うよ」
「…………は?」
言われたことの意味が理解できず、俺は不覚にも間抜けな声を上げてしまう。自分の耳が誤作動を起こした可能性に全てを賭けたかったが、そいつはというと、すっかり探索モードに入ったのか、腕まくりまでしている始末。
「いや、待て。いらねぇから」
「? 一人より、二人のほうが早く見つかるだろ?」
「それはそうだが、そういうことじゃない。そもそも俺は、お前の手を必要としてない」
首を傾げながら、宇宙人を眺めるような目で見てくるのが腹立たしい。俺にとっては、お前のほうがよっぽどユーマだ。未確認動物だ。
「そっか、わかった。人には言えないようなものを探してるんだな?」
「俺は納得がいかないが、お前が納得したならその言い方でもいい。わかったら、どこかに行ってくれ」
はっきりと言葉で拒絶するつもりは流石になかったが、これくらいダイレクトに言わないと、この変な生き物にはきっと通じない。そう結論付けた俺は、しっしっと手で追い払う動作までオマケにつけてしまう。ところが。
「俺もさ、探してるんだよな」
「……は?」
自分の細い顎先を長い指先で摘まみ、舞い散る桜の花びらをぼんやり見つめながら、そいつは言う。
「……なにを?」
「わからない」
「はあ?」
こいつは日本語が喋れないのか。あるいは、単にからかわれているのか。
どちらなのかを見極めようと、睨むように視線をぶつける俺に構わず、そいつは続ける。
「わからないけど、探してる」
その声が、目が。あまりにも真剣で、哀しげだったから。一瞬、自分がどこにいて、何をしているのかすら忘れてしまった。
「ずうっと前から」
風に遊ばれた桜の花びらだけが、何の制約も受けず、自由に宙を飛んでいく。その光景が、妙に鮮烈な印象を残した。
思えば、出会いからして変な奴だった。
あのときは何を言っているのか全くわからなかったが、在里がユキの母親だと知った今なら、ひとつの答えを導き出せる。
あいつが探しているのは、きっと――。
「……よし」
ベッドから跳ね起きて、携帯電話を探す。とにもかくにも、在里と話をするべきだ。公園では、立ち去ったユキのことが気がかりだったのと、面と向かって在里に拒絶されたことが悔しくて、深くは追求できなかったが、今のあいつの周辺はやっぱりおかしい。
狐守という俺の仕事上、可能性として真っ先に挙げたのは、在里はキツネに憑かれているのではないかということ。
野狐という、自然の大気の中に紛れている、目に見えない精霊のような妖精のような存在には、自我がない。けれど稀に、大きな負の感情を抱える人間に接触すると、とある願望を持つようになる。
――この人間を壊して成り代われば、肉体を得ることができる。
――元から形を持って生まれてきた人狐や天狐たちと、同じ存在になれる。
その欲望のまま、野狐は狙いを定めた人間に寄生し、宿主の神経を摩耗させていく。幻覚や幻聴から始まり、果ては自傷、錯乱と。少しずつ、だが確実に宿主を追い詰める。そうして、宿主が生きることを諦め、野狐に肉体の主導権を明け渡してしまった状態……それが、狐憑だ。
俺が狐憑と接触した回数は片手の指だけで事足りてしまうが、その中のどのパターンにも在里は当てはまらない。あいつの精神は、至って健全だ。だから、二の足を踏んでしまう。世界の不思議の全てがキツネを発端としているわけもないので、そうなると狐守としての知識しかない俺にはお手上げだ。
何でも知っているクーちゃんか、色々と知っているゲンさんか。どちらかに相談する必要がありそうだが――。
「……ゲンさんは」
シキさんが、在里の存在を把握していることはわかった。そうなると、シキさんの右腕であるゲンさんが知らないとは思えない。おそらくは今日、俺とユキが、どこで何をしていたのかも、あのひとは知っている。
それでも黙認してくれる理由はなんだ。のこのこと俺が相談を持ちかけることで、ゲンさんの静観によってかろうじて保たれている現状を、みすみすぶち壊してしまうことにならないか。
「んー……」
在里。クーちゃん。ゲンさん。
ベッドの上であぐらをかきながら、携帯の画面を上へ下へとスクロールする。何が最善の選択なのかはわからない。ただ、この中の誰かを選択して先に進まなければならないということはわかっている。
指先が画面から僅かに離れた一瞬。その一瞬で、表示が切り替わった。同時に鳴り響く、着信音。
「!」
まさに今、俺のほうから連絡を取ろうとした相手の名前が大きく映し出されたのを見て、思わず息を呑む。




