誰も、何も悪くねぇよ④
「そーまにーちゃん、でかけるの?」
ジャージに着替え、玄関で靴を履いていると、パジャマ姿の隆が足音を響かせながら駆け寄ってきた。
「うん。ちょっと、公園に」
「おれも行きたい!」
「もう遅いから、だーめ。きょうはもう寝て、明日また一緒に遊ぼうな?」
「ちぇー、わかった。気をつけてな、そーまにーちゃん。リャクシュされるなよ!」
「はは。難しい言葉を知ってるんだな、隆。ありがとう、気をつけるよ。あ、父さんに、少し帰りが遅くなるかもって伝えてくれる?」
「おう!」
いってらっしゃい、と腕を大きく振りながら元気に送り出されたのがおかしくて、しばらく一人で笑いながら薄暗い道を歩く。いつもの習慣か、自然と公園のほうへ足が向いた。軽く走るつもりで外に出たが、注意力が散漫しているのが自分でもわかる。
少し、頭を冷やしたい気分だった。
足高公園は山の上に位置しているので、なだらかな起伏が多い。展望台へと至る階段を横目に通り過ぎ、人気のない坂を黙々と登っていく。誰もいない自由広場に辿り着いたところで、ようやく足を止め、長い息を吐き出した。
頭上を見上げれば、ほぼ視界いっぱいに薄闇の空が広がる。ひとつ、ふたつ、と明るい星を数えていくうちに、それよりもずっと光の薄い星が数え切れないほど存在していたことに気がついた。優しい風に、ふと、頬を撫でられる。
――お前、なにがあった?
小さな可愛い女の子が、足早に立ち去った後。俺と筒井の二人だけが取り残された展望台でも、こんな柔らかな風が吹いていた。
「なにって、なに?」
「とぼけんな。学校で変な噂を聞いた。お前が、高飛びをめちゃくちゃな高さで飛んだとか、部活の先輩と揉めて怪我をさせたとか」
「……」
噂になっているのかという驚きと、わざわざそんな不確かな噂を確認するために、あの筒井がこんな所にまで来てくれたのかという驚きが、同時に襲ってくる。
「バケモノってなんだ。お前、何かおかしなものに関わってるのか?」
「それは――」
筒井のほうだろ、という言葉を寸前で飲み込む。目の前の友人が、いつも何かを探して学校中を走り回っていることは知っているし、その何かが普通じゃないということも、なんとなくわかっている。
無理に聞き出すつもりはないし、そもそも素直に教えてくれる気はないだろう。意趣返しという訳でもないが、俺の事情だけ全て曝け出すことには少しだけ抵抗がある。――何より。
「なんでもない」
この友人を、巻き込みたくない。当事者の俺でさえ、何が起こっているのかわからない状況に、ひょっとしたら身の危険すら伴いかねない事態に、軽々しく引きずり込むことはできない。
「筒井に気にしてもらえるようなことは、なにもないよ」
「……そうかよ」
筒井が少しだけ目を細めた姿が、まるで傷ついているように見えてしまったのは、俺の勝手な感傷か。それとも。
「……あ」
ふと、思い出したことがあった。回想を中断して、慌ててポケットを探る。取り出した名刺には、少しだけ皺が寄ってしまっていた。
――何かあったら、ここへ。
ちょうど、俺の周りでおかしな現象が起こり始めたころ。ロードワークを終えて帰宅したとき、自宅前で闇に紛れるように立っていた黒いスーツの男性に手渡されたものだ。帽子を目深く被っていて顔は見えなかったが、よく通る低い声は、どこか気遣わしげな優しい響きを帯びていたので、俺は何の疑いもなく、その名刺を受け取ってしまった。
広場の端に沿って僅かに点在しているだけの電灯では、この位置まで光が届かない。じっと目を凝らしながら名刺を傾け続け、ようやくそこに「旅館こしあん」という文字と、電話番号らしき数字の羅列を確認する。
以前、ネットで調べてわかったことは、美観地区にある老舗の旅館のようだということと、もう何年も営業していないということ。まるで狐につままれたような不思議な出来事を、俺は今の今まで、名刺ごとポケットにしまっていた。
「この人に相談すれば、ひょっとして……」
何かを教えてくれるのかもしれないと、ほのかな期待を抱く。
けれど結局、俺はその名刺を、元の場所に戻してしまった。
***
ここに来て、何度目かの溜息が落ちた。
気持ちを切り替えようと大きく伸びをすれば、すぐに清涼な空気が体の中を循環する。人心地ついた頭で考えることは、やはり昼間の出来事だ。
ユキちゃんという幼い少女を、筒井が連れてきたときには驚いた。親戚でもなく、友達だという。なんとなく、筒井のバイト先に関係する子だろうかと当たりはつけたが、真相はわからない。筒井は基本的に、自分のことをあまり話さないから。
しっかりと手を繋いでいる様子から、仲良しなことは伝わった。けれど、二人ともなぜかひどく緊張していたし、俺にもそれが伝播したのかもしれない。いつも以上に過剰に、初対面の女の子に話しかけている自分に、驚いた。
怖がらせてしまったかもと気づいたときは、心臓がきゅっと縮んだ。背を向けて立ち去る姿を見送ったときは、どうしようもなく胸が震えた。悲しませたいわけじゃない。傷つけたいわけじゃない。ただ、ずっと幸せであってくれればいいと、それだけを願っていた。人間のわたしは必ず先に逝ってしまうけれど、それでも、あのひとと一緒に、どうか、どうか幸せにと……――
「――え?」
思考を、止める。全身が、震える。
なんだ、今のは。今のは――誰だ?
「……っ!」
ぐにゃりと、視界が歪んだ。
脳内で、写真のように四角く切り取られた知らない映像たちが、一枚、二枚、何十枚、何百枚と寄り集まり、ひとつの大きな奔流となって渦を巻く。
頭を抱えて蹲ってみたところで、その流れは止められない。固く目を閉じ、奥歯を強く噛みしめて、ただただ必死にやり過ごす。
黒い、大きなキツネが、見えた。
白い、小さなキツネが、見えた。
黒髪の青年の、優しい眼差し。
白髪の少女の、眩しい微笑み。
ああ。そうだ。
わたしは。俺は。
あのとき、確かに幸せだった。
それなのに。どうして。
泣きたくなるほどの、愛おしい日々を。
俺は。わたしは。
忘れてしまうことが、できたんだ。
たかが一度、死んだくらいで――!
「シキ……っ、ユキ……!」
音にすらなれない小さな呟きと一緒に、頬を何かが伝い、落ちていく。いつの間にか両膝をつき、地面を抉るように指を突き立てていた。そうでなければ耐えられないほどの激情が、腹の底から湧き上がってくる。小刻みに震え続ける身体は、今にも裏返ってしまいそうだ。嗚咽とも嘔吐きとも判別できない音が、口元からとめどなく零れ出る。
「っい……ユキ、に」
ユキに会わなければ。
その思考に行き着いたことで、全身の硬直が僅かに緩んだ。まだ思い通りには動いてくれない手で何とか携帯電話を取り出すと、泥と血で塗れた指先で友人の名前を追う。通話のボタンを押し、画面を耳に近づけたところで――
「え……?」
風に、もぎ取られた。
そうとしか、言い様がない。見えない手に携帯電話を奪い取られて、目の前で遠くに投げ捨てられた。
真っ白になった頭の中で、急速に記憶が巻き戻っていく。そうだ。あのときも。
高飛びの自主練習中。
先輩に胸倉を掴まれて。
そして、昨日の筒井の前。
最近の不可思議な現象に共通して起きていた事象は――風。
ごう、と。まるで俺の答えに応えるかのように、突風が吹き荒んだ。けれど、通りすぎていってはくれない。気流と、音が、俺を中心として幾重にも取り囲み、その場に留まり続ける。
透明な檻が、組まれていく。動けない。逃げられない。ただ見上げることしかできない空に輝く下弦の月が、まるで誰かの目のようで――。
誰か。そう、ずっと誰かがいた。見えない誰かが、すぐ近くに。
「……きみは……誰だ……?」
ああ。
風が、わらった。




