誰も、何も悪くねぇよ③
最初は、泣いているのかと思った。
「……ユキ」
在里と別れ、キューちゃんの気配を頼りに追いかけてきた先は、同じ公園内にある墓地。少し小高いこの場所からは、笹沖の街並みが綺麗に見下ろせる。
柔らかな日差しと穏やかな風に守られた静かな空間に、ユキはいた。とある墓石の前でしゃがみこんだ後ろ姿を見た瞬間、俺は全身にどっと冷たい汗をかく。けれど、近づいてみれば、ユキが熱心に手を合わせているのだとわかり、知らず知らず安堵の息を漏らした。
「おかあさんのおかあさんに、ごあいさつしてた」
ユキは振り返ることもなく、肩にキューちゃんを乗せたまま立ち上がる。目線の先を辿った俺は、そこでようやく墓石に刻まれた名前に気づいた。
「……在里の、母親? 十五年前に、ユキが桜の下で見た女性か」
こくりと、小さな頭が前に傾く。在里が、生まれてすぐに片親を亡くしていたことなど全く知らなかった。何となく後ろめたい思いを引き摺りながら、ユキに倣って俺も手を合わせる。家族に愛された、優しい人だったんだろう。供えられたばかりの瑞々しい花が、風に吹かれて可憐に揺れた。
「じゅうごねんまえに、おとうさんがつれてきてくれたおはかが、ここ。おかあさんはしんだっていわれて、ユキなにもかんがえられなくて。でも、おかあさんのにおいはちょっとだけのこっていたから、ああ、ほんとうなんだ、っておもったの」
「……ここに?」
ユキが見た女性本人が間違いなく眠る場所へと、シキさんがユキを案内したことが意外だった。
シキさんは、在里が生きていることを知っている。そのうえで、ユキと在里を会わせたくないと思っている。それならなぜ馬鹿正直に、ここへユキを連れて来たんだ。ユキと在里が、万が一でも接触するかもしれないというリスクを負ってまで。
実際、ユキはこの場所で在里の匂いに気づいてしまっている。
――いや。それこそが、狙いだったのか。
在里は当時、自力ではこんな所まで来られないはずの年齢だから、父親に連れられて墓参りにでも来ていたのだろう。直前まで在里がいたことも知らず、すぐ近くに在里がいることも知らず、それでもユキはその香りを正確に感じ取った。けれど、目の前に佇む墓石と、父親の絶対的な言葉で、今まさに母親の魂がこの世から失われる寸前であるかのように思い込まされた。一縷の望みに、止めを刺された。
「……シキさんは、なんで」
なぜ、そこまでしてユキを母親に会わせないのか。自分だって、会いたいはずなんじゃないのか? それとも、ユキと違って、シキさんは生まれ変わった在里のことを、自分の妻として認識していないのか?
「……おとうさんがね。おかあさんがしんじゃったあと、ひとりでさみしそうにいってたこと、ユキ、きいちゃったんだ」
頬に擦り寄るキューちゃんの頭を優しく撫でながら、ユキが言う。
「あれは、ほんとうにしあわせだったのか、って」
――ああ。そうか。そういう、ことか。
キツネである自分たちと関わってしまったことで、人間であるユキの母親を不幸にしてしまったんじゃないかと。シキさんは、そう思っているから。
だから、生まれ変わった在里には関わらないと決めた。ユキにも、自分自身にも、在里は死んだのだと、嘘をついた。
「……」
俺には、この家族の成り立ちも、別れ方も、何も知らない。わかるのは、ただ、今のシキさんは笑わないし、今のユキは悲しんでいるということだけだ。
「おかあさんね。おかあさんのおかあさんや、おかあさんのおとうさんと、あんまりなかよしじゃなかったんだって」
「……?」
話が少し飛んだように思えて、うまく相槌を打てなかった。けれど、後ろにいる俺の反応など最初から気にしていないのか、独り言のようにユキは続ける。「おとうさんとも、かけ……えっと、かけおち? したんだよ」
駆け落ち。まさかこのタイミングで、そんなドラマティックな単語を聞くことになるとは思わなかった。
「おかあさんは、おとうさんとユキがいてしあわせだっていってたけど……でも、ほんとうは、おかあさんも、おかあさんのかぞくとなかよくしたかったよね」
ユキには、その気持ちが痛いほどよくわかるのだろう。今のユキが、まさに、そうだから――。
「いまのおかあさん、かぞくとなかよしだったね」
不意に、ユキの声が弾む。在里の幸福な家庭環境を喜ぶ気持ちは、確かにあるに違いない。でも、それだけじゃないことを俺は知っている。
こいつが、こんな風に明るく振る舞うときは……。
「あたらしいかぞくと、こんどは、ちゃんといっしょにいられるね」
ああ。やっぱり。
今、こいつは、諦めようとしている。
諦めようと、必死に頑張っている。
「おかあさんは、もうべつのじんせいをおくっているっていう、おとうさんのことば。やっとわかった」
それに気づいているのに、何も言葉が出てこない。
「ユキは、おかあさんがしあわせなら、それでいいよ」
いっそ、泣いてしまえばいいのに。こいつは、そんな簡単なことさえ、できない。
「ユキのとなりじゃなくても、いいよ」
ようやく振り向いたユキが、幸せそうに微笑んでいる。心の中は、きっと土砂降りのくせに、まるで太陽か何かのように見えて、腹が立つ。
馬鹿だな、本当に。お前も、俺も。
「ありさとさん、おしゃれさんだっていってくれた。ユキのこと、かわいいって」
ふふふ、と。上気した頬を両手で抑えながら、ユキが笑った。おめかししてきてよかったでしょ、と俺に同意を求めてくる。
「でも、ユキ、ありがとうっていえなかったから。スーちゃんが、かわりにつたえて?」
自分で言えばいいだろ。
いつもなら、すぐに出てくるはずの、そんな軽口が。
いつまでも、いつまでも、喉元に留まり続けた。




