誰も、何も悪くねぇよ②
呼吸が、止まった。
体が、動かない。
――ただ、繋いだ手の先だけを、想う。
この展開を、予想していなかったわけじゃない。
むしろ、こうなることはずっと前からわかっていたような気さえする。
けど。それでも。
視線を真正面に向けたまま立ち尽くす俺の視界から、在里がゆっくりと消えていく。小さなユキに目線を合わせたのだろう。そういう奴だ。その優しさが、これ以上、ユキを傷つけないことを、祈る。
「筒井の親戚の子、かな? それとも、お友達?」
ユキの顔が、見られない。けれど、今は動かなければ。一番つらくて、一番くるしくて、一番かなしいのは、絶対に俺じゃない。
乾いた喉を僅かな唾液で湿らせてから、固く引き結んでいた唇を強引にこじ開ける。
「っいや、」
「――はじめまして、ユキです。スーちゃんが、おせわになってます」
一瞬。誰の声か、わからなかった。
何を言っているのか、理解できない。
錆び付いた機械のように、ぎこちなく、ゆっくりと首を巡らせた先で。
――ユキが、笑っていた。
「はは。しっかりしてるね。こんにちは、ユキちゃん。在里颯真です。今日は、このお兄ちゃんとお出かけしてたの?」
「そう、です。えっと、スーちゃんとは、おともだちで、ユキが、おそとにあそびにいきたいっていったら、つれてきて、くれました」
繋いだ手が、痛い。
「それで、おめかししてるのかな。お洒落さんだね。とってもかわいいよ」
「っ、あの、えとっ」
薄っぺらな虚勢が、在里の一言であっという間に剥がれ落ちていってしまう。動揺をはっきりと見せつつも、繋いだ手はそのままに、ユキは俺の後ろへそっと身を隠した。
「ごめんね、びっくりさせちゃったかな」
ユキが黙り込んだことを拒絶と受け止めたのか、在里が申し訳なさそうに眉を下げる。
そうじゃない、照れてるだけだと。嬉しくて嬉しくて堪らないのに、胸がいっぱいで言葉にできないのだと。俺が言えば、何かが変わるのだろうか。
赤の他人を挟まなければ向かい合えない母子の距離が、こんなにも近いのに――ひどく遠い。
「そーまにーちゃん!」
背後から勢いよく飛んできた子どもの声に、思わずびくりと背が震えた。三者を取り囲んで硬直していた空気が、一瞬にして破裂する。
振り返れば、俺たちが重い足取りで登ってきた石段を元気に駆け上がってきたのだろう、いがぐり頭の少年が一人。こちらに向かって、大きく手を振っていた。
「そーまにーちゃん! おれたち、先に帰ってるから!」
「ちょ、もー、だめだって! おにいちゃん、お友達と大事なお話があるんだから、邪魔しちゃ」
「してねーし! うるせーなー、そういうのコジュートっていうんだぞっ」
更にもう一人、少年とも少女とも判別しがたい、おかっぱの子どもが姿を現せば、先に帰ると告げに来た少年の手を引いて、再び石段の下へ沈んでいく。
入れ替わりに現れたのは、細面の男性。休日の公園に相応しいラフな格好であるにも関わらず、その背筋の良さや柔らかな笑みから、優美さと上品さが容易に窺えてしまう。
軽く頭を下げる男性に、俺も慌てて会釈を返す。ユキが、あ、と小さく声を上げたことで、俺の予想は確信に変わった。おそらく、あの男性は在里の――。
「父なんだ。さっきの子どもたちは親戚で、週末によく遊びに来てくれる」
きょうは朝からずっと公園にいたんだ、と父親を軽く手を振って見送りながら、在里は笑う。仲のいい家族だと、一目でわかってしまうような、嬉しそうな笑顔で。
「……スーちゃん。ユキ、さきにしたでまってるね」
何が切っ掛けになったのか。突然のユキの離脱宣言に驚いた俺は、弾かれたように視線を投げた。ユキは完全に俯いてしまっているため、その表情はわからない。俺が何か言うよりも先に、ここまでずっと繋げていた手を離し、さっさと石段のほうへ歩き出してしまう。
「っ、キューちゃん」
「きゅ!」
咄嗟にデイパックの中の水筒へ呼びかければ、迷いのない動きでキューちゃんが飛び出してくる。俺が細かい指示を出すまでもなく、まっしぐらにユキを追いかけていく背中が、このときばかりはとてつもなく頼もしい。
「……俺、何か悪いことしたかな」
あっという間に消えていったユキの後ろ姿を、俺と同様に為す術もなく見守っていた在里が、力のない言葉を落とす。
なんで、思い出さないんだ。
ユキは百年以上も、ずっとお前を覚えているのに。
大切で、大事で、大好きなままなのに。
なんで、お前は。
一度、死んだくらいで。
生まれ変わったくらいで。
そんなに簡単に、忘れられるんだ。
そんな、誰にも向けられない、誰にも向けてはいけない怒りにも似た何かを、自分の裡で必死に抑える。ユキの手が離れてから、いつの間にか、その手を惜しむように握り締めていた拳をゆっくりと開き、しばらくしてから長く息を吐いた。
「――誰も、何も悪くねぇよ」




