誰も、何も悪くねぇよ①
バスを降りてからずっと、俺たちは無言だった。
少女の姿になったユキの手を引いて歩く俺は、端から見たらどう思われるのだろう。優しいお兄ちゃんか、はたまた小学生誘拐中の変質者か。
自分への評価には関心が薄い。それが、こちらが欠片も興味を持たない、名前も知らないような相手の評価なら尚更。誰になんと思われてもいい。逆に、誰になんとも思われなくてもいい。そのはずなのに。
じゃあ、なんで。俺は今、こんな所にいるんだ。
「……スーちゃん」
ユキの指先に、ほんの少しだけ力がこもる。繋がれた俺の指の隙間が、きゅっと詰まるだけの。些細な力。
「ひとつ気になってたんだけどな」
「うん?」
もうそろそろ夏と公言してもいい時期であるはずなのに、氷のように冷たい手だ。俺がこのまま触れていれば、少しくらいは温かくなるのだろうか。
「お母さん、足が悪かったって言っただろ? ユキと一緒に、ちゃんと木から降りられたのか?」
ぴんと張り詰めた、こんな状況で振るような話題ではなかったかもしれない。ただ、単純に気になってしまっていた。登るだけでも大変そうなのに、どうやって降りたんだ。あいつは。
「おとうさんが、さがしにきてくれたから」
妻と娘が揃って木の上でじっとしている姿を見て、シキさんはどう思ったんだ。家族三人の、そのときは当たり前だった穏やかな日常を空想した俺は、そっか、とだけ呟く。小さな手を、握り返しながら。
***
足高公園は、想像以上に広かった。絶妙なタイミングで送られてきた『展望台にいる』という在里からのレインがなければ、しばらく迷っていたかもしれない。俺一人だけ、だったなら。
ユキは、もうだいぶ前から母親の存在を知覚していた。キツネの姿のときよりも幾分か性能が劣るはずの嗅覚でも感じられるほどに、その魂の匂いとやらは濃いのだろう。
艶やかに輝く緑の森を割って入るように進んでいく。展望台に近づけば近づくほど、ユキの視線が下がっていくことには気づいていた。呑気に景色を楽しむ余裕は、俺にもない。そういえばこの公園は桜で有名だったなと、ぼんやり思うくらいだ。ポスターか何かで、見たような気がした。
ともすればすぐに地面と接着しようとする足を強引に引き剥がしながら、石の階段を一歩一歩。上へと。前へと。
会って、何を言えばいいんだ。
ここに来て、今更な疑問が浮かぶ。けれど、その答えが見つからないうちに、無情にも世界が切り替わった。
最後の一段を登った瞬間、果てのない青に視界が覆われる。
――雲一つない空の下に、そいつだけがいた。
暖かみのある木のベンチに座り、長い足に野良猫をじゃれつかせて。色素の薄い細い髪先と白いシャツの襟を、涼やかな風に遊ばせて。そいつは笑っている。いつものように。
そう、いつも通りだ。単なる知り合いの在里颯真という、おかしな同級生だ。それなのに何かが違って見えるのは、俺が知ってしまったからか。ユキの母親だというフィルターが、在里を違うものに見せているのか。
猫に注がれていた柔らかい眼差しが、やがてゆっくりと持ち上がり、そうして真正面から俺を捉える。筒井、と更に一段階、在里が笑みを深めた瞬間、ユキと繋がったままの手が、びくりと大きく震えた。
「お疲れ。どうしたんだ、わざわざこんな所まで」
突然の闖入者に驚いて逃げ出す猫の後ろ姿をしばらく目で追ってから、在里がこちらへ近づく。一歩一歩、ユキの顔がはっきりと認識できる位置まで。
心臓が、唐突に跳ねた。
忙しさに甘えて、ずっと忘れたふりをしていた不安が、急に喉元までせり上がる。
――在里は、ユキを覚えているのか?
自分がユキの母親だということはわかっているのか? シキさんの妻だったことは? そもそも、生まれ変わりってなんだよ。魂って、本当になんなんだ? そんな、目に見えない不確かな存在を信じてもいいのか? 信じられるのか?
今までも散々、考えてきたことだった。けれど、なにひとつとしてわかっていない。そんな状況で、ユキを会わせていいのか?
「あれ。筒井、その子は……」
戸惑ったような在里の声だけが、俺の耳にはっきり届く。焦点は合っているはずなのに、まるで霧でもかかっているかのように、在里の表情がわからない。
なあ。ユキを見て、どんな顔をした? この沈黙の理由はなんだ? 思い出してるんだろ?
思い出せ、思い出せ、おもい――
「はじめまして」
そう言って、在里が笑う顔が、見えた。
ユキに向かって――いつもどおりに。




