あいつだったら、いいと思う④
「ちょっと前の話なんだけどな。あいつ、なぜか木の上にいてさ。何してんだって聞いたら、子猫が降りられずに鳴いてたから、って言うのな。いや、回収したならとっとと降りろよ、って俺でなくても突っ込むだろ? そしたらあいつ、何て言ったと思う?」
今、思い出しても笑えてくる。あいつの奇行ぶりは、間違いなく俺以上だ。
質問形式で投げ掛けてみたものの、正解があまりにも突飛なため、はなからユキに当てられるとは思っていない。それほど間を置かず、すぐに答えを教えようと口を開く。
「こわくなくなるまで」
――この子が、高い場所を怖いと思わなくなるまで。
「ずっといっしょにいる」
――ここで、ずっと一緒にいるよ。
現実にいるユキの声と、記憶の中の在里の声が、重なる。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。間抜けにも、ぽかんと口を開けたまま、首を斜め後ろに捻る。
「……なんで」
「おかあさんは、そういったの」
ちいさいユキが、きのうえからおりられなくなったとき。
おとうさん、おかあさんって、ひとりでないてたとき。
おかあさん、あしがわるいのにのぼってきてくれて。
ユキがこわくなくなるまで、ずっといっしょにいてくれた。
ユキが語るそんな昔話を、思考がおぼつかない頭の、更に端のほうで聞く。
なんだ。なんなんだ、それは。そんなのは、まるで――。
「ねえ、スーちゃん」
緊張をはらんだ、固い声。
「ありさとさんって、おかあさんみたいだね」
抑揚の少ないユキの呟きに――思考が、止まった。
「……それは」
ただの偶然だろ、とか。お前のお母さんって、ちょっと変わった人だったんな、とか。普通なら、そんな言葉で流せるような話だ。
でも、今は違う。魚の骨が喉に刺さったような、痛みを伴うような違和感が付きまとって離れない。
「……いや、だって、そんなはずないだろ」
ユキが何を考えているのかがわかってしまい、俺は先手を打つ。だっておかしいだろ、どう考えても。
「在里は俺と同い年だし、そもそも男だ」
ユキが十五年前に見た母親は、大人の女性だ。間違っても、高校生男子の在里とはイコールで結びつかない。――なのに。
「いまのおかあさんは、おんなのひとかおとこのひとかわからないよ?」
なぜか。
なぜか、物凄く不思議そうな声音で。
ユキが、とんでもないことを言ってくる。
完全に機能が停止した頭の代わりに、かろうじて口だけが動いてくれた。万感の思いを込めた一音を、渾身の力で外に押し出す。
「――――は?」
「ん?」
どうしたの? と言いたげに、ユキが小首を傾げながら、つぶらな瞳でこっちを見上げる。いやいや、待て。ちょっと待て。落ち着け俺。
「って、落ち着けるかあああ! おい、ユキ!! お前が前に見たお母さんは、きれいな女の人だって言ってたよな!?」
「き、きれいなおんなのひとはみたよ。でも、そのひとはおかあさんじゃないよ」
「はあっ!?」
「ふぇっ」
俺の権幕に押し戻されるようにして、ユキがデイパックの中に引っ込む。勢いの止まらない俺は、担いでいたそれを床に置くと、勢いよくジッパーをおろしてやった。前脚で頭をぎゅっと抱え込んだ白い小さなキツネが、おそるおそるといった様子でこちらを見上げてくる。
「す、スーちゃん、おこってる……?」
「怒ってねぇよ!」
「うわぁん」
ごめんねごめんね、と。もさもさの尻尾をぶんぶん振りながら謝ってくる小さな生き物に対して、変わらず怒りのメーターを持続させることのできる人間が果たしているだろうか。いや、いない。
即座に罪悪感に苛まれた俺は、肩に乗るキューちゃんから抗議の頭突きを頬に受けつつ、その場にしゃがみこんだ。
「……悪かった、ユキ。急に大声出したらびっくりするよな、ごめん」
「う、う、ユキわるいことしてたら、ちゃんとスーちゃんにごめんなさいするから、おしえて?」
「悪くない悪くない。お前は何も悪くないから、な? しいていうなら俺の聞き方が悪かったし、お前にあたったのが悪かった」
「スーちゃんは、わるくないよ」
ぐすんと鼻を鳴らした白いキツネが、潤んだ瞳でこちらを見上げながら、再度はっきりと断言する。
「スーちゃんは、なんにもわるくない」
「……」
俺は、もう何も言えなくなってしまったので、ただ、その柔らかな頭をそっと撫でた。
「お前が見た女性は、お前のお母さんじゃない」
「うん」
「でも、お前のお母さんも一緒にいたんだろ? だから、匂いを感じた」
「そう」
「――どこにいた?」
「ここ」
ユキの前脚が、ユキ自身の腹を押さえる。
ああ、そうか。
そういうことか。
「……なあ、ユキ」
魂って、なんなんだ。俺には、やっぱりよくわからない。
でも在里は、在里って奴は、たとえ百回生まれ変わっても、百回木に登るだろうということだけは、わかる。
「俺、在里だと思う」
驚きに目を見開くユキ以上に、きっと俺が驚いている。そんな、おかしなことがあるのか。そんな、ふざけたことがあるのか。それでも。
「ユキのお母さんが――あいつだったら、いいと思う」
根拠も理由も何もかもが薄い、ただの願望でしかない塊でも、ユキは正面から受け止めてくれる。そうして、俺をまっすぐに見つめながら、静かに言葉を紡いだ。
「……スーちゃん、ユキね」
「おう」
「ユキ、ありさとさんに……」
昨夜のアイビースクエアでの光景が、脳裏に蘇った。
あのとき言えなかった言葉を、聞けなかった言葉を、今のユキなら言うことができるし、今の俺なら聞くことができる。
「おかあさんに、あいたい」
三号館を飛び出す。多目的会館のラウンジを横切る。
部室棟を目指して走る。走る。走る。そんな必要もないのに。
陸上競技部らしきジャージ姿の二人組の背中が見えた。速度を上げる。
激突さながら、背後からひとりの肩を掴む。ぎゃっと上がる悲鳴。
鬼のような形相でもしていたのだろうが、意に介している余裕はない。
喉が痛い。息が荒い。
「在里颯真にっ、伝えてくれ……!」




