あいつだったら、いいと思う③
美術室で予想外のタイムロスをしてしまった俺は、後れを取り戻すべく早足で校内を巡る。在里の写真のことは、退室間際に他の美術部員からこっそり貰った「あいつは前科があるから真に受けないほうがいいよ」という忠告を加味したうえで、ひとまず保留とした。一体、何をしでかしたんだ、あの人。部活内での信頼度が底値だぞ。
第一体育館を経由し、武道場の前を突っ切り、三号館へ辿り着く。三号館は一号館と隣り合っているので、要は四角く一周してきた形になる。その間にいくつもの部活の練習を覗いてきたが、相変わらずユキの鼻は何の反応も示さない。そうなると、残りは校舎から少し離れた場所……第二体育館、サイエンス館、弓道場――そして、陸上競技部が使っているグラウンド。
在里は、学校に来ているんだろうか。
ふと気が緩むと、ついつい思考がそっちのほうへ傾いてしまう。
あの写真は、どう考えても異常だった。もし、あのストーカー盗撮魔のでっちあげじゃなかったとしたら? 本当に、飛んでいたとしたら?
――在里の身に、何が起こっている?
「えっ! 在里くん、また部活来てないの!?」
「っ」
たまに、自分が頭の中で考えている言葉が、全く同じタイミングでテレビや雑踏から聞こえて驚くことがあるが、今がまさにそれだ。
弾かれたように顔を上げた先、三人の女子生徒がこちらに向かって歩いてくる姿が目に入った。全員が制服であるという点と、食堂のある方角へ向かっている点。そして昼時の時間帯であることから、文化部の生徒がランチ休憩をするために移動している途中だと推測する。
「在里くんがいないんじゃ、それを楽しみに来てる私は何をすればいいの!?」
「いや、部活しなよ。ホントに何しに学校来てんの、あんた」
「わーん! やだやだ! 爽やか天然王子系イケメンで目の保養をしないとやだーむりーしぬー!」
「……在里くん、最近ずっと部活休んでるって聞いたけど、本当なの?」
「みたいだよ。なんか、大会に出る出ないで先輩と揉めて、相手に怪我をさせたとかで……まあ、謹慎だったらもっと大事になってると思うから、たぶん自粛とかだと思うけど」
「そんなの嘘に決まってるから! あたしの在里くんはそんなことしないから!!」
「いつからあんたのになった。……まあ、でも確かに、怪我をさせたってのは正確じゃないらしいよ。これは、あくまでも噂なんだけどさ」
「なに?」
「その先輩、在里くんと揉み合ってる最中に、バケモノ、って叫んだらしい」
「えっ?」
「はぁ!?」
「でもって急に怯えだして、腰が抜けるみたいに座り込んだときに、どこかにぶつけて怪我をしたってのが真相らしいんだよね。でもさぁ……」
「あたしの在里くんはバケモノじゃないから!」
「いや、だから……まあ、いいや」
女三人寄れば姦しい、を体現した女子生徒三人組は、廊下の端によって窓の外を見ている俺のことなど全く気にしていないのだろう。会話に夢中になったまま、嵐のように後ろを通り過ぎていく。
「……なんなんだ」
大会。怪我。自粛。そして――バケモノ。
どれも、在里本人から聞いた覚えがない。それはそうだ。別に友達でもなんでもない。偶然どこかで鉢合わせたときに、ほんの少しだけ言葉を交わす程度の、ただの知り合いだ。
――筒井って、レインしてる?
今になって、その言葉の真意が気になった。あれは、俺に何かを伝えようとしていたのか?
そうなると、あの突風に過剰に反応していたことも引っ掛かる。あんなに焦ったのはなぜだ? 俺を、誰かを、傷つけることが怖かった? 先輩と揉み合うなんて、平和の象徴のようなあいつがするわけがない。バケモノとは何のことだ? ずっと部活を休んで、あいつは今、どこで何を――
「スーちゃん」
頭の後ろから聞こえてきた声に、はっと息を呑んだ。ユキのことを忘れていた訳では決してなかったが、急にデイパックの重さが背中に蘇ってくる。
「ありさとさんのこと、おしえて」
「……なんで」
思いもかけない言葉に、いよいよ何と答えていいのかわからなくなる。
「スーちゃん、ずっとそのひとのこと、きにしてるから」
「ああ、悪い。ユキの母親探しに集中しないと――」
「ううん、ちがうの。そうじゃないの。ユキが、ありさとさんのこと、ききたいの」
「……なんで」
「スーちゃんの、おともだちなんでしょ?」
窓に映った白いキツネの好奇心に輝く目が、同じ窓に映った俺をじっと見つめてくる。そのまましばらくガラス越しに視線を交わしてから、違う、と一言だけ呟いた。
「……友達だったら、もっとちゃんと相手のことわかってるはずだろ。俺は、あいつのことを何も知らない」
「ほんとうに? なーんにも? ぜーんぜん?」
デイパックの中に潜り込んだユキが、内側から俺の背中を「えいえい」と押してくる。背骨に当たる肉球っぽいものの感覚がくすぐったくて、思わず笑いの形の息が漏れた。
「在里は――」
僅かに白く曇った目の前のガラスを、親指の腹で拭う。長いわけでも深いわけでもない付き合いの中で自然と蓄積された情報を、頭の中の引き出しから少しずつ取り出していく。
「一年三組の陸上競技部。走り高跳びをやっていて、毎日毎日、飽きもせず熱心に部活に励んでいる。成績もいいらしいし、顔も性格もいいから、男女問わずモテる。何回か告白現場に遭遇したことがあるが、判を押したような台詞でみんな断ってた」
――ごめんなさい。よく、わからないんです。
そう言って、相手よりもよっぽど傷ついた顔をしていた。どこまでも馬鹿正直で、律儀な奴。
「もてるって、なあに?」
「あー……人間的魅力があって、周囲に好かれるってことだ」
「ほえー」
すてきなひとなんだね、となぜかユキが嬉しそうに笑う。おそらく、あいつと正面から向き合った人間の百人が百人とも、ユキと同じ感想を持つだろう。
だが、少しでも内面を知ってしまえば、別の認識が付随されるに違いない。ユキの反応が知りたくて、ついつい余計な思い出話が口をついた。




