スタッフミーティング ~女帝の気配~
6月3日 10時9分 埼玉県秩父市 JHEL1F 中央棟連絡通路
「所長、最終稿です。」
「ああ、ありがと…これで大丈夫かね?」
疲労感満載の表情で歩く久慈屋とジル。その後ろから、古湊が数枚の書類を渡してくる。
東方領の騒動により元来からの多忙さが数次元引き上げられ、この1週間はあらゆる業務をこなしていた。
特に東方領から戻った直後は、政府との協議に省庁の報告会に王国との調整と文字通りの分刻みだった。睡眠時間はほぼ無い。研究所に戻ってからの睡眠時間は、”合計”5時間といったところだろう。
もちろん、寝床などという贅沢品を使用することもままならない。
この状況にほとほと嫌気が差した二人は、以前から後回しにしていたある仕事に腰を据えて取り掛かった。”組織改変”だ。
一応は世界最先端を走る技術を生み出してた同研究所だが、現在行っていることはそれまでとは全く勝手が異なる。従来の組織体系では対応の限界をすでに超えていた。
久慈屋が”特異的事象”への対応の合間に、運営元に出し続けていた要請がやっと通り、世界中から人材を集めることが出来た。
先程久慈屋に渡された書類は、新しい研究所の最終形態だ。
古湊は改めてそれをくまなくチェックする。
「ええ……あれ?ジルの署名が…」
「…おい?」
傍らで書類をのぞき見ていたジル。久慈屋は彼女に少し呆れた表情を向ける。
ジルはそれに正直に疑問を浮かべた表情を返した。
「うそぉ?私見たよ?」
「で、サインは?」
「……あっ。」
「…今すぐ書いて…」
ため息混じりの久慈屋。ジルが書類を流し見て必要な処理を行わないというのは見慣れた光景だ。
そして、それに久慈屋が指導を加える景色もお馴染みと言える。
ジルは古湊からペンを、そして久慈屋に背中を借りて書類にサインを書く。
これで”正式に”この組織変更通達は研究所内で効力を持てた。
久慈屋は改めて確認をして、古湊に書類を渡す。
「…はい、これで大丈夫。上級スタッフ全員に回して。」
「わかりました。では、予定通り13時開始で。あ、あと今日ですね…」
「え?何かあった?」
「あっ!」
久慈屋と古湊が予定を確認していると、突然ジルが声を上げる。
そして叫びながら正面のホールへと走り出した。
「ルコさあああああああん!!」
その先には一人の女性が居た。緩くウェーブしたロングヘアで、身長はやや高めで女性らしい丸みをさらに強調したようなスタイル。そして、顔は慈愛に満ちていて微笑みを崩さないその人。
彼女は久慈屋とジルにとって旧知の人だ。
「あー…あれのこと?」
「…ええ。」
久慈屋は彼女を指しながら古湊に確認する。
そして、二人も後を追って…ただし歩いて…彼女の元へと歩き出す。
一方、ジルは一足先に彼女の元へとたどり着き、興奮を隠せない様子だった。
そんな彼女に、慈愛のある顔を浮かべて女性は挨拶をする。
「お久しぶりです、ジルちゃん。」
「ねぇねぇ!何時日本に!?」
「一昨日ですよ。昨日は関係各所への挨拶回りを。」
「…挨拶回り?」
ジルと話す女性。口調は丁寧で優しさに溢れる。
人が好きすぎて暴れまわる飼い犬のような様子で落ち着かないジルにも、眉一つ動かさず対応を続ける。
他愛もない会話の中でジルは気になる言葉を聞くが、興奮しすぎてそれに付随する想像がうまく出てこない。故に、少し間抜けな表情を浮かべて止まってしまった。
丁度、久慈屋たちも二人の元に着いた。ジルが大騒ぎしてくれたおかげで、話の流れは理解出来ている。よって、久慈屋はジルに再び小言をいいつつある情報を告げた。
それに彼女は驚きの混じった喜びを表す。
「…まーたこの小娘は書類に目通してないな?」
「えっ?何かあったっけ?」
「…新代表理事選任の通達が先月中旬にあったはずだけど…」
「えっ!?」
「…相変わらずですね。ジルちゃんは。」
「そうっすね…あ、ルコさんご無沙汰。」
「はい。久慈屋さんも美香ちゃんもお元気そうでなによりです。」
「まあ、色々ありすぎて大変ですけど…」
久慈屋の素っ気ない挨拶にも、非常に朗らかな笑みで返す女性。その名は海鳴薫子。久慈屋やジルとは大学時代からの付き合い。”ベイエリアの北と南”にあるそれぞれの”学び舎”で好き勝手やっていた彼らが、ジルの紹介により夏の終わりのパブで顔を合わせたときのまま十数年続いている。
久慈屋は薫子と話を続けた。その内容は、彼女が日本に来ることになった状況に対してだ。
なにせ、彼女は”大ボス”の右腕だったのだから。
「しかし、”あいつ”が良く許可したなぁ。」
「まあ、極東地域に割り振れる人材は、そこまで多くないというのが正直な事情ですからね…」
「あれまぁ…」
研究所はその設立に関わる”雑務”を円滑にするために、日本国内の有力者をその運営に取り込んだ。当初その目論見は順調に推移していたものの、次第に綻びが出始めた。なにせ、この研究所と親組織の財団は、世界を変えるであろうその技術を看板にして、世界でも類を見ないほどの資金を集めてしまっていたのだ。
一生目にすることはないだろう数字が蠢く財務諸表を目にしたお山の大将な彼らは、それを自らの手中に収めたいという欲望に飲み込まれていった。そして、かつては研究所の設立に用いたノウハウを総動員した権力闘争により、その主導権を奪い取った。
だが、”事故”により、彼らの計画は全て文字通り吹き飛んだ。
縄張り争いに明け暮れた彼らは責任から逃れようと、研究所の運営から脱兎のごとく逃げ出していった。
不穏因子が自ら居なくなってくれたのは怪我の功名と言えるが、人が居なければ組織が成り立たない。副作用と言えるその要素は、大幅な体制転換の必要があった久慈屋たちにも重くのしかかった。
関係各所への打診の嵐によりある程度の人間は集ったものの、代表格となる人員はそうそう捕まらない。そういうエリート層は、自身の経歴に致命傷を残すような行動をするわけがないからだ。結果、苦慮を重ねた”大ボス”は、懐刀を差し出してきたというわけだ。
これは、”我々”は事態の収拾に全力を尽くすという極めて強い意思表示だ。それも、”内外”の双方に向けて。
久慈屋は異常な業務の合間にこれらのメモに全て目を通しては居たので流れは理解していた。そしてその意味も。
だが、その重い意図を真正面から真面目に受けると血反吐を吐かずにいられなくなるので、彼は現実逃避として軟派な態度を崩さなかった。これくらいの自己防衛は許されると思いたいと、彼は考えていた。
「ま、所長と理事長と調査責任者とか言う肩書きの乱舞から解放されるだけでも良しとしよう…」
「ええ、私もがんばりますので、よろしくお願い致します。」
一方で薫子は相変わらず微笑みを崩さない。久慈屋への返答と軽いお辞儀も素晴らしく綺麗だ。
だが、彼女の慈愛に満ちた風貌を侮ってはいけない。なにせ、”大ボス”の右腕を10年以上続けているのだ。双方をよく知る久慈屋たちは、その意味を嫌という程理解している。
誰かが彼女を、”死地で微笑む女神”と言ったのは的確だと、久慈屋は考えていた。
ここで、お辞儀をしていた薫子がふと思い出したように、自身のバッグを開く。
取り出したのは封筒だ。それを久慈屋の前に差し出す。
薫子のこれらの動作も淡麗で奥ゆかしさを感じる。
耐性のない殿方が見れば、ころっと堕ちること請け合いだ。
もちろん、久慈屋はその”実情”をよく知るからそうはならない。
それに、彼女が取り出した便箋から、なぜか”禍々しい”雰囲気を感じ取ったのもある。
「ああ、そうそう。こちら”お手紙”です。」
「…へ?」
「今すぐ目を通されたほうがいいですよ?」
久慈屋は少しだけ寒気がした。
鬼も逃げ出す胆力を持つ女神が、”忠告”と共に何かを差し出す。警戒心を抱かないほうがおかしい。
純白でダイアモンド貼りと言われる洋形封筒。宛名もなにもないということは、手渡ししか考えられていない。
封筒を手にとった久慈屋は恐る恐る封を開く。そこには小さな便箋に、達筆の”日本語”と、英文筆記体の署名”が記されていた。その内容は端的にまとめるとこうだ。
”博くんとジルへ。 お元気ですか?”
”今月中旬より1ヶ月ほど日本に滞在します。”
”欧州支部との連携環境を構築するので、機能の完全復旧を完了させてください。”
”あと、日本支部及び研究所の監査も行うので、準備をするように。”
”正式な連絡は今週中に行います。よろしく。”
”エリーゼ・ローゼンハイム”
久慈屋の額からじわりと汗がにじみ出る。いつか来るだろうと思っていたそれが、いよいよやって来る。久慈屋の口からは、魂の抜けた呟きが漏れ出ていた。
「…うそやん…」
「え?なになに?」
ジルはまだその内容を知らないから呑気なものだ。しかし、彼女も研究所の幹部だ。よって、この手紙の内容はすぐに目を通すべきである。久慈屋はジルに手紙を力なく渡す。
「…読め。」
「…はいはい…えーと…」
久慈屋から手紙を受け取ったジル。最初はいつものおちゃらけた表情を浮かべていたが、その文章の意味を理解するごとに感情を失っていった。
そして、彼女も魂の抜けた表情で一言呟いた。
「…嘘でしょ…」
ジルが状況を把握したことを理解した久慈屋は、ふと薫子に顔を向ける。
そして、彼女がここにいる理由を改めて理解した。
彼女が理事に就任するのは6月下旬の理事会と総会での承認を経た7月1日からの予定だ。
その日程感で言えば、彼女が日本に来るのは来週でもいい。
つまり、少し”早い”のだ。
「先行して日本入りですか…」
「ええ、そういうことです!」
全てを悟った久慈屋の呟きに、薫子は陽気な笑顔を携えつつ、両拳を握り、肩の高さに上げて元気に答える。非常に可愛らしいガッツポーズだが、久慈屋たちにはそれを楽しむ余裕は一切ない。
「…と、とりあえず…スタッフミーティングを片付けようか…」
「そ、そうね…じゃないとな、何も始められないもの…ね…」
「…厳しいのは理解していますが、そこまで狼狽しますか…」
二人は心ここにあらずという感じでではあったが、まずは目の前の仕事を片付けることにした。




