black cat.
「着いたけど。」
数時間前に着信があって以来、何の連絡も寄越さなかった番号へ俺は電話をかけ直して、
相手が通話ボタンを押してすぐに一言告げた。
「は、来たん、だ。」どことなく息の上がったように聞こえるレイの声に眉を潜めつつ
「行くって言ったし。」とだけ言う。
これで“本気じゃなかった”とか言われても困る、というか、ブチギレる。
「じゃ、じゃあ今、駅?わたし、すぐ、行く、から。」
全力疾走しながら喋ってるみたいなレイの苦し気な呼吸音。
ん?これは、本当に何か起こっていることを暗示させるんじゃないか?
電話口の向こうの相手は相当焦っているように聞こえる。
「ちょ、しんどそうだけど……大丈夫?」
「大丈夫、じゃ、ないかも……」
レイは泣きそうな声で答えた。
「あー、場所教えてくれたら、俺がそっち行くけど。」
「いいの、すぐ行く、待ってて。」
通話は強制的に終了されてしまった。
余程の事態を思わせる雰囲気に、俺は少し安心してしまう。
この三時間弱の間に片が付いたわけではなさそうで、まあこれが
“ゴキブリ退治しろ”とかいう命令だったら計画通りにブチ切れ一択なわけだけど、ちゃんとした理由がありそうなことに安堵の溜息を吐いた。
少し心に余裕が持てた俺は、駅から少し離れて久しぶりに降り立った街並みを見渡しながら歩みを進める。
十代半ばから被服が趣味で、教室なんかにも通っていた咲乃はこの繊維街へ度々訪れていて、俺もボディがードという名目の荷物持ち(布は嵩張ると滅茶苦茶重いんだよなー)として、よく此処へ連れてこられたものだった。
だけどその帰り際に駅前の洋菓子店で何か一つ奢ってもらえるのが恒例で、それを寝る前の風呂上がりに楽しみに取っておいて、食べてたのは良い思い出だ。
俺が甘党なのはその頃からだな。
「イトちゃん!!」
知らず知らずの内に、足がその洋菓子店に伸びそうになっているのを引き留めたのは、レイの呼び声だった。
あ、意外に早く来たんだな、と思い振り返った途端、俺はのけ反りそうになるくらいギョッとして硬直した。
「お、お前…ナニ、それ……」
レイは全身ドロドロだった。
黒い髪と服は汗なのか水なのかで濡れているし、
側道のドブにでも入ってきたのかと思うくらい両手足は黒く汚れて、しかも裸足だった。
駅周辺にいる殆どの人間が、レイの事を突如現れたゾンビか何かの様に遠巻きに見ていて、
今呼ばれたことで俺もその注目の対象になった。
「真っ黒、じゃん……」
この乱雑ながらも田舎ではない街のど真ん中が一瞬静まり返って、俺の間抜けな一言がやけに響く。
それに気付いて羞恥が一気に全身を駆け巡り、俺は自分の手が汚れるのも無視してレイの手を取って走り出した。
この近所に、ほんの小さな公園が隠れたようにあるのを知っていた。
まだ残っていれば………
「あった。」
俺は助けを求めるようにその場所を探しあてる。
誰もいない、しんとした空間に入り込んで、稼働するのかどうか怪しげな立水洗の蛇口を捻った。
あの頃、荷物持ちで疲れたおれはよく、この公園でビニル袋の痕が付いた真っ赤な腕をヒィヒィ言いながら擦って休めていたのだ。
そして、乾いた喉をこれで潤していた。
咲乃に「そんな水、キッタナイんじゃないのー?」と言われながら。
「あーちゃんと動くわ、相変わらずチョロチョロだなー。」
それでも出てくる水に笑いながら、俺はレイを促す。
「顔だけでも、洗ったら。」
「っつーか、どうした。」
俺は息を整えるレイの背中を叩きながら聞いた。
「ピクシーが、いなくなった。」
「何?」
レイの困り顔に理解が追いつかずに俺は聞き返す。
「猫。」
「ああ、猫……。」
猫が、居なくなったのか………
「すぐに追いかけたけど、走って、どっかいっちゃって。」
「うん。」
「家の中から出したときないのに、どうしよ…」
「他の家族は?」
「わたし、一人だよ。」
「ご両親や、セオくんは?」
「親はいないし、セオくんは土曜だから…女の子と遊んでる、と思う。」
女の子と遊んでる?この非常事態に、飼い猫が脱走したのに?
ご両親は仕事かな?
何だか腑に落ちない感覚に胃がもやもやしつつ、取り敢えず猫を探そうと言うより他ない。
「あ、家に戻ってる可能性って、ないかな?」
「ドアは鉄製で空けられないし、窓は閉めてある。何度か廊下に確認しに行ってるけど、いなかったよ。」
レイは焦って今にも倒れそうだった。
「じゃあ、別れて探そう。見つかったら連絡するから。」
「うん、うん。」
レイは何度も頷いて俺の方を見る。
「で、何色?」
「黒、で、黒い首輪して、名前を呼ぶと答えたり、近寄って、くる。」
「名前?」
「ピクシー。」
ピクシー……か…それを叫びながら探すのね、
でもまあ背に腹は変えられねーか、今さら改名も出来ねーし。
不安気に揺れる目で、そわそわしているレイを慰めるように肩を叩いた。
「大丈夫だから。」
根拠も自信もなかったけど、そう言わないといけない場面が今だった。
そして俺は走り出した。
日暮里界隈は野良猫の数が結構多くて、そんな猫たちのたまり場になっている場所が
“プチ観光地”としてローカル人気なのも知っていた。
もしかしたら、猫の本能でそこへ行っているのかも知れないという予感が沸いたのだ。
もしかしたら、力の弱い家猫ならナメられて喧嘩に巻き込まれているかも知れない。
早く見付けてやらないと…と気が逸る。
「ピクシー…」
生け垣や、草原を掻きわけながら俺はちゃんと名前を呼んで、猫を探す努力をする。
「どこだー、ピクシー、」
そうこうしている間にも、何匹もの猫を見つけた。
小さいのから、大きいの、色も毛並みもさまざまで、黒っぽいのを見るにつけドキッと心臓が高鳴ったが、呼んでも反応しなかった。
っていうか、初対面の俺だから駄目なんじゃないの?
と思い至り、捕まえる勢いで走って追いかけたがそのどれもが黒い首輪などしていなかった。
「次は大通りか。」
体力を消耗して汗だくになった俺は、数年前母親と歩いているときに道路で死んでいた猫を見つけたのを思い出した。
「かわいそう」と呟いた俺に、母は「どこかのお家で飼われている猫だわ」と呟いた。
視線の先には確かに、赤い首輪が嵌っている。
「野良猫は車に慣れているから、事故に遭うことは少ないのよ。
お家にいた猫が、慣れてない車にひかれるのね。」
そう言って、母はハンドバッグからレースの縁取りがついたハンカチを出して、猫の赤い傷口にふわりと被せた。
もう息なんてしてないのに。
寒くもないはずなのに。
「あんまり可哀想がると、猫の幽霊をつれてきちゃうからね。」
母は言いながら、もう行くわよ、と俺の手を引っ張った。
進みながら、名残惜しくて振り返った猫は、灰色だった。
――――灰色だった、だから大丈夫。
俺は嫌な妄想を振り切るように走り、車通りの多い通りへ走る。
「ピクシー、ピクシー!」
「…………にゃあ。」




