117 暗い音
鐘の音が鳴り響く。
日暮れを知らせる鐘だろう。
少し早いけれど、夕飯にしても良いかな。
「何を食べたい?」
リリーが考え込む。
特に思いつかないなら、パッセの店にでも……。
「パッセさんのお店は?」
思わず笑うと、リリーが不思議そうな顔で俺を見上げる。
「同じことを考えてたから」
そういえば、二人きりで行くのは初めてかもしれない。
ウエストのパッセの店へ。
カウンターの席に着くと、気付いたパッセが、何故か傘を持って来る。
「あっ。その傘……」
「お嬢ちゃんの忘れ物だろ?」
「はい。ありがとうございます」
リリーのだったのか。
「注文は?」
「適当に。リリーに合わせて」
「了解」
パッセが厨房に向かうのを見送って、リリーの方を見る。
「その傘、いつ忘れたんだ?」
「エレインとイレーヌさんの歓迎会の時だよ」
「歓迎会?」
「ほら、エルがご飯を作ってくれた時」
アレクと一緒に料理をした時か。
「薔薇のトマトとか、うさぎのトマトとか素敵だったよ」
そういえば、リリーが来るって言うから、トマトの飾り切りをたくさん作ったんだっけ。
「どうぞ」
パッセが、大皿を持って来る。
皿に乗っているのは、鴨のテリーヌとラディッシュのサラダ、チーズにソーセージ。
リリーの好みを知らないから、色んな種類を乗せて来たらしい。
「乾杯」
「乾杯」
リリーが微笑む。
可愛い。
「今日は、お城に帰らないの?」
「風の大精霊探しをするなら街に居た方が良いからな」
それに、夕暮れの鐘と共に城門は閉まってるから、城に戻るなら前みたいに少し強引な方法を取らなきゃいけない。
「買い物好きな精霊なら、この辺に居そうだよね」
「買い物好き?」
「うん。メリブが知ってたの。噂と買い物が好きだって」
リリーが俺の腕を引いて、耳元でささやく。
「名前はデルファイ。普段はデルフィって呼ばれてるんだって」
精霊の名前まで調査済み?
どれだけ仕事が早いんだ。
「本も借りてあるよ」
そう言って、リリーがトリオット物語の五巻を出す。
忘れてた。
ちゃんとマリーから借りておいてくれたのか。
「面白い?」
「あぁ。物理的な距離と心理的な距離の対比が面白い」
四巻は、起承転結で言うところの転に当たる部分なんだろう。
あの不安を解消できる方法を、主人公の彼は持ってるんだろうか。
「最後まで読んでね」
「読むよ。四巻であんな終わり方をされたら、続きが気になって仕方ない」
リリーが笑う。
「わかるよ。私も五巻が楽しみでしょうがなかった。そうだ。これも、マリーから借りっぱなしの本なんだ」
リリーが出した本を受け取る。
「名もなき王の物語?」
「王様が、身分と名前を隠して旅する物語なんだけど……」
これも物語。
リリーが目次のページを開いて、文字を指でなぞる。
「王様は章ごとに偽名を使っているんだよ。たとえば、真実をおしはかる者の章で使っている偽名は、サンゲタル。炎の眼差しを持つ者の章は、バーレイグ。神の章は、ヴェラチュール」
あいつの名前が、この本にまとめられてる?
「恐ろしき者の章は、ユッグ?」
「うん。隊長さんが、名もなき王もあの人の名前だって言ってたよ」
これ、一体誰が書いたんだ?
本の説明書きのページを開く。
作者は不明。ドラゴン王国時代初期に書かれた書物を現代語訳したものらしい。
「あれ?」
リリーが首を傾げる。
「私が読んだ本には作者が書いてあったよ」
『グラシアルにあった奴?』
「うん」
あの城なら、古い本が当時のまま残っている可能性は高い。
「作者の名前は?」
「ラグナロク」
『……』
ラグナ、ロク。
「知ってるの?」
リリーが視線を宙に向ける。
『答えられない』
『精霊は名前を大切にするのよぅ』
メラニーとユールが知ってる?
「ラグナロクって、精霊なの?」
『違う』
人間。
そうだろうな。こんな名前。
「エルは知ってる?」
「リリーは、古代語に存在しない言葉を知ってるか?」
「え?存在しない言葉?」
『リリーは古代語は全然だめだよ』
そうだっけ。
「愛」
「正解。わかってるじゃないか。他にも、神って言葉も存在しない。神を呼ぶ時は、神本人の名前を呼べば良いだけだから」
『あたしたちの神は決まってるものぉ』
真空の精霊が呼ぶ神の名は、止まる神。
「だから、神をひとくくりに呼ぶ言葉も存在しない。存在しない言葉は代用品を使うんだ。物事の善悪を決める助言者という意味において、神、あるいは神々を示す言葉がラグナだ」
「じゃあ、ロクは?」
「運命」
『あたしはぁ、ロックって言うけどぉ』
「え?」
「現代語の発音だと、ロク、レク、ロックって所だ」
どれも古代語における意味は同じ。
「エルは?」
それは……。
『神を示す言葉の一つ』
『強くある者』
『はじまりの者』
古代語を知っていれば、嫌でもたどり着く。
自分の名前の意味。
「良い言葉だね」
「どこが?」
強さも、運命も嫌いだ。
「どんな運命でも切り開くって意味だよね?」
「え?」
強くある運命、ではなく?
「すごくエルっぽい。エルは誰にも真似できないような新しいことをいつもやってるよ。決められた運命ではなく、エルが進みたかった道を進んでる」
それが、俺の名前の本当の意味?
―それ、レイリスがつけたのか?
……あぁ。そうだ。
リリーはいつも、真実を見通す。
リリーが俺の肩に頭を乗せる。
「今日は暇だったの?」
「暇だったよ」
リリーの頭に顔を寄せる。
キアラと話せたことも、セリーヌから話しを聞けたことも、良かったんだろうけど。
「一緒に行きたいところがある」
※
まだ少し雨がちらつくウエストストリートを、傘を差しながら歩く。
二人で入るには少し小さい傘だけど、これぐらいの雨なら十分しのげるだろう。
「フローラの店に寄らないの?」
「寄らないよ」
どこに行くのか気づいてるのか。
リリーは、この道を何度通ったんだろう。
俺が知らない間に。
……違う。
俺が知ろうとしなかっただけ。
俺が教えなかっただけ。
リリーはいつも、別の誰かから聞いていた。
俺が伝えなければいけなかったことを。
俺の知らないところで、リリーは俺のことを理解しようとしていた。
俺は、全然リリーのことを知ろうとしていないのに。
花を持って来ないのは初めてだな。
「連れて来るのが遅くなってごめん」
フラーダリーの墓。
「フラーダリー。紹介するのが遅くなってごめん。彼女がリリーシア。俺にとって、一番大切な人だ」
「え?」
なんで、驚くんだ。
目が合うと、リリーが視線を外して俯く。
……キアラの言う通りなのか。
「フラーダリー。一度、愛を誓ったのに、裏切ることになってごめん。あの時の気持ちに偽りはないと思ってる。でも、今は違う」
たとえ、フラーダリーが今ここに現れたとしても。はっきり言える。
「リリーを愛してる。俺が幸せにしたい人はリリーなんだ。だから……」
終わりにしないと。
「リリー。ここに来るのは、これで最後にしよう」
「え?」
もう、忘れないと。
「だめ」
「リリー?」
「どうして、そんなことを言うの?フラーダリーはエルの大切な人なのに」
「違う。俺の大切な人はリリーだ」
「違っ……」
―その言葉は、彼女が信じなければ無意味よ。
『リリー?』
『何言ってるんだよ。エルの大切な人はリリーだろ』
『そうよぉ』
俺のせいだ。
後ずさりして距離を取ろうとするリリーの腕を掴んで、抱きしめる。
「不安にさせるようなことをしてごめん。もう、ここには来ないから」
だから……。
「違うよ、エル。私、お墓参りをやめてほしいなんて思ってない。フラーダリーを忘れて欲しいなんて思ってない。私……」
―自分の本当の気持ちを殺してでも、あなたが大切にしている気持ちを守ってあげたいのよ。
「俺が、もっと早く忘れるべきだった」
「ちがう……」
―エルが納得していても、リリーが納得していないなら意味がないのよ。
「だめだよ、忘れるなんて。エルにとって大切な思い出だって、前に進む為に必要なことだって……。たくさん……」
失いたくない。
「一番大切な人を失うぐらいなら、何も要らない」
もう、俺から離れる理由を探さないで。
「わかんない、よ」
リリーが項垂れる。
震える声。
顔を見なくてもわかる。
また、泣かせた。
いつも泣かせてばかり。
だめだ。
俺はリリーを笑わせる方法を知らない。
好きな花も知らない。
楽しいことも。
今考えていることも。
何一つ知らない。
……今だって。どうすれば良いかわからない。
俺のことが嫌いで離れたいと思うのなら仕方ない。
でも、誤解で離れていって欲しくない。
愛してるなら望んで一緒に居て欲しい。
その為に必要なことなら。
―忘れて。
「エル。思い出して」
思い出す?
「私、エルと出会ってからまだ全然経ってないし、まだまだ知らないこともたくさんある」
俺の方が、リリーのことを全然知らないのに。
「でも、知ってることもあるよ。エルは、砂漠のクロライーナで生まれて、精霊たちと育って……」
それは……。
―過去は戻らない。失ったものは二度と戻らないんだ。
「フラーダリーと一緒にラングリオンに来て……」
―お前がすべて捨てるなら、私は希望をやる。
全部、捨てて。
「アレクさんと会って、カミーユさん、シャルロさん、マリーたちと一緒に学生として過ごして……」
―さぁ、全部忘れて。
だから、忘れないと。
「メラニーと会って、ユール、エイダ、バニラ、ジオ、ナターシャ、アンジュと仲良くなって。ルイスとキャロルと家族になって……」
―忘れて。
そうしないと……。
「私とイリスに会って……」
今を、失う。
「全部、繋がってるの」
繋がってる……?
「私が聞いた話しは、どれもエルだった。ちゃんと、エルだった。過去のエルも全部、私の好きなエルだった」
捨ててきた過去。
「大丈夫だよ、エル」
リリーが、拾って来るから。
「私は、エルの全部が欲しい」
リリーが俺の頬に触れて。
輝く瞳に囚われる。
「だから……」
もう、失わないためにやるべきなのは……。
「もう、何も忘れなくて良いよ」
……突然。
何かが壊れたように、頭の中にある映像と音が暴れ出す。
暑い日差し、砂埃の舞う街、水源、待ち合わせの木……。
整理された道、高い建物、花で溢れた家、温かいスープ、甘いお菓子……。
教室、黒板、実験、窓から見える虹、バイオリン、鮮やかに舞う桜、花火……。
異国、紫のドラゴン、船、広い世界、冒険、新しい家族……。
出会った人、精霊たちの、姿、顔、表情、仕草、声、言葉……。
そして……。
「リリー」
ここが、今、在る場所。
「エル」
目の前のリリーを抱きしめる。
……繋がる。
好きだった。
あの街も。精霊も。とめどなく人が行きかう道も。新しいもので溢れる露店も。本で埋め尽くされた部屋も。特別な時にだけ出される甘いものも。
苦手だった。
一人だけの食事も。しつけに厳しい乳母も。精霊も人間も誰も居ない空間も。後ろ姿しか思い出せない父親の、シガレットの煙る部屋も。
ただ、覚えてる。
本の部屋で寝てしまった夜。次の日の朝は必ず自分の部屋のベッドに居て、何故かシガレットの匂いが残っていたこと。
「ありがとう」
「え?」
「愛してる」
もう失くさない。
「私も。愛してる」
もう、大丈夫。
一人じゃないから。
「一緒に帰ろう」
「うん」
腕を放すと、リリーが落ちていた傘を拾う。
雨、止んだのか。
空は相変わらず曇ったままだけど。
なんだか、とてもすっきりした気分だ。
夢から醒めたような気分。
悪魔になりかけた時、あの泥沼から外に出られた時みたいな……。
「エルが来ないなら、私は一人でも来るよ」
一人で来る?
なんで?
―いつまでも死んだ恋人の墓に女々しく通っているような人間の言葉を誰が信じると言うの。
……何も解決していない。
リリーは真っ直ぐフラーダリーの墓を見たまま。
この感じは、何を言っても無駄だろう。
リリーの意志は曲げられない。
「なら、一緒に来よう」
どうして来たいのかわからないけど。
「そうだね」
笑ってくれた。
これが、正解?
「でも、これだけは忘れないで。俺が一番大切なのはリリーだって」
「それは……」
俯いたリリーの顔を無理やり上げる。
「信じて」
「そんなこと、急に言われても……」
赤く染まった頬で、リリーが少し困ったように視線だけ下げる。
「どうしたら信じてくれる?」
「だから、あの……。信じてないわけじゃなくって……」
「え?」
信じてないわけじゃない?
じゃあ、なんで?
「一緒に居るのが私なんかで良いのかなって……」
何、言ってるんだ。
こんなに俺のことを考えてくれてるのに。
「一緒に居て」
「でも……」
どうしたら、納得させられるんだ。
言葉が偽りじゃないと信じていても、それを受け入れてくれる気がなさそうだ。
こんな時……。
そうだ。あれがある。
「一緒に居るのに理由を探す必要なんてない。俺はリリーと一緒に居たい。今までも、これからも、ずっと。だから……」
マントの中から薔薇を出す。
「リリー。俺の一番大切な人になって」
受け取って。
「赤い薔薇は嫌いじゃないだろ?」
リリーが頷いて、優しく微笑んで。
深紅の薔薇を受け取る。
「ありがとう。エル」
良かった。喜んでくれたみたいだ。
「俺の一番大切な人になってくれる?」
リリーがゆっくりと瞼を閉じて、開く。
「はい」
ようやく、言ってくれた。
「ありがとう。リリー」
その言葉が聞きたかった。
でも、それだけじゃ足りない。
「リリー。リリーのことを、もっと教えて」
「え?」
※
ウエストにある宿。
「好きなものを教えて」
「好きなものって?」
たとえば……。
「好きな花は?」
「何でも好きだよ」
「具体的に」
喜んでくれるものを知りたい。
「エルは?」
「俺?」
思い浮かぶのは、鮮やかなピンク。
「桜かな」
「あ。私も桜、好きだよ」
好きな人と見る花。
「でも、桜じゃプレゼントできない。他には?」
リリーが小さな声で唸る。
特別、気に入っている花はないのかな。
「今までエルがくれたのは全部好きだよ。薔薇も、アヤメも、サンザシも」
サンザシ?
「いつ、気づいたんだ?」
リリーが俺の左手に自分の指を絡ませる。
「秘密」
「なんで?」
「エルも教えてくれないことがたくさんあるから」
それは……。
「薔薇が七本だとどんな意味なの?」
あれか。
「秘密」
リリーの頬をつつく。
やっぱり、膨らんでた。
「それぐらい教えてくれても良いのに」
教えてるんだけどな。
「ジョージのことを教えてくれたら教えても良いよ」
「えっ?」
「いいかげん、教えて」
リリーがそっぽを向く。
「だめ」
はっきり断られたな。
まぁ、俺にも言えないことがあるんだから仕方ない。
「エルの好きな食べ物を教えて」
そうだな……。
最近食べて美味かったのはあれだ。
「タルトタタン」
「え?甘いもの?」
「リリーが作ったやつ。美味しかったから、また食べたい」
アップルパイも美味かったけど。
「うん。良いよ」
「リリーも教えて。苺とメロンパン以外で」
「どうして?」
「知ってることを聞いてもつまらないだろ?」
また膨らんだ。
可愛い。
あぁ、でも、甘いものを答えられたんじゃ意味がないな。
もう少し選択の幅を狭めれば良かった。
「ロールキャベツ」
「ロールキャベツ?意外だな」
「エルと作ったの、美味しかったから」
そういえば、一緒にトマトソースのを作ったっけ。
「あれは、フラーダリーから教えて貰ったんだ」
ロールキャベツばかり作ってた頃があったな。
「嫉妬する?」
「少し」
「じゃあ、レシピを変えよう」
「え?変えちゃうの?」
「これから寒くなるから、クリームソースをかけても美味そうだろ?」
「あ。美味しそう」
「今度、一緒に作ろう」
「上手に出来るかな」
「色々試して、好きな味に仕上げれば良い」
「そっか。そうだね」
リリーが微笑む。
楽しみだ。
「次は……」
「待って。エルの好きな食べ物を教えて」
「さっき言っただろ?」
「甘いもの以外で。コーヒーも駄目。それから……」
返されたな。
更に増やされる前に何か答えないと……。
そうだ。あれ。
「カレーパン」
「カレーパン?」
「揚げたパンの中に、具だくさんのペースト状のカレーが入ってるんだ」
あの、良い香り。
「美味しそう」
「最近出来た店らしい。明日、探しに行こう」
「探せるかな」
カレーパンしか置いていない特別な店なら、すぐに見つかるだろう。
「風の大精霊探しよりは楽だ」
「そっか。珍しいものなら、風の大精霊も探しに来るかも」
「精霊は食事をしないだろ」
リリーが落ち込む。
本当に、見ていて飽きないな。
リリーと目が合う。
綺麗な色。
「リリーの好きな色は?」
「赤」
リリーが俺の頬に触れる。
「宝石のように綺麗な紅。燃えるような炎の色」
「ルビーのことか?」
「違うよ。太陽のような色なの。エルが好きな色は?」
「リリーの瞳」
輝く瞳。
「色を聞いてるのに」
「特別な色だから。当てはまる色の名前がない」
「私の瞳は黒だよ」
「黒だけど、いつも宝石のように輝いてるから」
見つめれば見つめるほど魅了される、不思議な輝き。
「綺麗だよ」
リリーが俯く。
「俺が一番好きな言葉を言っても良い?」
愛してる。
「リリーシア」
繋いで。
「私も、言いたい」
求めてる。
「エルロック」




