05.別れたばかりの恋人と、また手をつないでしまいました
魔術科へ転科する朝、アンナはいつもより少し早く家を出た。
新しく揃えた教科書のせいで、鞄がいつもより重い。
魔術理論に術式基礎、魔力制御。聞き慣れない科目ばかりで、授業についていけるのか不安だった。
けれど、それ以上に気になっていることがある。
エルネストには、どこかで会うだろうか。
同じ魔術科とはいえ、彼は二年生だ。校舎は同じでも、授業まで一緒になることはないだろう。
顔を合わせれば、きっと気まずい。
それでも会いたくないわけではなく、同じ校舎へ通うのだと思うと、少し嬉しくなってしまう。
そんな自分に呆れながら、アンナは新しい教室へ向かった。
扉の前で一度だけ深呼吸をしてから、そっと中へ入った。
「今日から、基礎課程に新しい仲間が加わる」
担当教師に呼ばれ、アンナは教壇の横へ立った。
「普通科から転科してきました、アンナです。魔術についてはまだわからないことばかりですが、よろしくお願いします」
少し緊張しながら頭を下げる。
顔を上げ、何気なく教室を見渡したところで、アンナは息を呑んだ。
窓際に、エルネストがいる。
どうしてここにいるのだろう。
そう考えるより先に、目が合った。
エルネストも驚いたように目を見開いている。どうやら、彼もアンナがここにいるとは思っていなかったらしい。
けれど、その表情はすぐに和らいだ。
ほんの少し口元が緩み、嬉しそうに微笑む。
それを見ただけで、アンナの緊張も少しほぐれた。
「あちらの席を使ってくれ」
「はい」
教師に指定された席へ向かうと、隣の女子生徒が声をかけてきた。
「よろしく。私、シャロン」
「アンナです。よろしくね」
「魔術科の授業は初めてなんでしょう? わからないことがあったら、遠慮なく聞いてね」
「ありがとう。実は、新しい教科書を見ただけで不安になってたの」
「最初は難しく感じるかもしれないけど、少しずつ慣れていけば大丈夫よ」
「そうだといいんだけど……たぶん、いっぱい質問しちゃうと思う」
「もちろん。私にもわからなかったら、一緒に考えましょう」
シャロンがにこりと笑う。
初めての授業を前に緊張していたアンナも、つられて笑顔になった。
隣の席が話しやすそうな相手で、少しほっとする。
新しい教室でうまくやっていけるだろうかと心配していたが、少なくとも隣の席には、頼りになりそうな相手がいる。
そのあと、教師から今日の授業について簡単な説明があった。
基礎課程では、魔力制御や術式に優れた上級生が、実習や演習の補助に入ることがあるらしい。
今日は二年生が数人、その役目を任されているという。
そこでようやく、アンナはエルネストがこの教室にいる理由を知った。
戦闘魔術は苦手でも、魔術理論や魔力制御ならエルネストは優秀だ。
研究室でも何度となく教えてもらったことがある。
彼が補助役に選ばれているのは、アンナにとって少しも不思議なことではなかった。
もっとも、理由がわかったところで、気にならなくなるわけではない。
授業が始まってからも、ときどきエルネストの姿を目で追いそうになり、そのたびに慌てて教科書へ視線を戻した。
ただでさえ初めて学ぶことばかりなのだ。余計なことを考えている場合ではない。
それでも、実際に授業を受けてみると、普通科との違いを思い知らされた。
教師の説明を必死に書き留めたものの、途中から術式の意味がわからなくなってしまったのだ。
休み時間になっても、アンナはノートとにらみ合っていた。
「だから、ここで魔力の流れを分けるの」
「それはわかるんだけど、そのあとの式が……」
隣からシャロンが丁寧に説明してくれるものの、どうにも理解が追いつかない。
「ごめんね。せっかく教えてくれてるのに」
「気にしないで。私も説明するのはあまり得意じゃないから」
シャロンがもう一度ノートに目を落としたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「そこは、一つ前の式から考えるとわかりやすいよ」
アンナが振り返ると、そこにはエルネストが立っていた。
「エルネスト先輩。よかったら、教えていただけませんか?」
シャロンが顔を上げる。
「もちろん」
エルネストはそう答えてから、アンナへ視線を向けた。
「びっくりしたよ。アンナが転科したなんて知らなかったから」
「言ってないもの」
「いつ決まったの?」
「それは……あとで話す」
教室で話すようなことではない。
エルネストも察してくれたらしく、それ以上は尋ねなかった。
「わかった。じゃあ、今はこっちだね」
そう言って、アンナのノートを覗き込む。
「ここまでは?」
「わかる」
「じゃあ、これは?」
「そこからわからない」
「だったら、一つ前から考えた方がいい」
エルネストは途中の式を指差しながら、順を追って説明してくれた。
その声を聞いているうちに、アンナは研究室で過ごした日々を思い出す。
人工魔晶石の研究を手伝っていた頃も、わからないことがあるたびに、こうして教えてもらっていた。
あの頃は、彼の隣にいることが当たり前だった。
「アンナ?」
「え?」
「聞いてた?」
「……途中までは」
「ほとんど聞いてないじゃないか」
「仕方ないでしょう」
思わず言い返すと、エルネストが笑った。
アンナもつられて笑ってしまう。
ほんの一瞬、別れたことさえ忘れそうになるほど、以前と変わらないやり取りだった。
「二人って、仲いいのね」
シャロンが微笑ましそうに言った。
アンナははっとして、エルネストと顔を見合わせる。
「……知り合いだから」
少し迷ってからそう答えると、シャロンは「そうなのね」と微笑み、それ以上は尋ねなかった。
知り合いというのは、間違っていない。
けれど、数日前まで恋人だった相手をそう呼ぶのは、何とも落ち着かなかった。
放課後、帰り支度をしていると、教室の入口から名前を呼ばれた。
「アンナ」
顔を上げると、エルネストが立っていた。
「少し話せる?」
休み時間にも顔を合わせたが、エルネストは転科の理由について、それ以上尋ねてこなかった。
あのとき「あとで話す」と言ったから、待っていてくれたのだろう。
「いいよ」
鞄を持ち、二人で教室を出た。
エルネストが向かったのは、研究棟へ続く渡り廊下だった。
そこへ足を踏み入れたところで、アンナは少しだけ後悔する。
ここは以前、何度も二人で歩いた場所だ。
隣を歩くエルネストとの距離も、あの頃とほとんど変わらない。
手を伸ばせばすぐに届くところに彼の手があるのに、今日はどちらからも触れようとはしなかった。
「……転科したんだね」
「うん」
「驚いたよ」
「顔を見たらわかった。すごく驚いてたもの」
「そんなに?」
「うん。でも、そのあとちょっと嬉しそうだった」
少しからかうつもりで言ったのに、エルネストは否定しなかった。
「嬉しかったから」
あまりにも素直に返され、アンナは言葉に詰まった。
「僕が喜んだら駄目なんだろうけど」
「どうして?」
「だって、別れたのに」
昨日から何度も自分が考えていたのと同じことを言われ、アンナは思わず苦笑した。
「……私も嬉しかったよ」
「え?」
「魔術科に来たら、エルネストに会うんだろうなって思ってたから」
「嫌じゃなかった?」
「気まずいとは思った」
「僕も」
「でも、会いたくないわけじゃなかったから」
そこまで言ってから、急に恥ずかしくなった。
エルネストも黙ってしまい、二人の間に沈黙が落ちる。
数日前に別れたばかりだというのに、何を言い合っているのだろう。
アンナは気恥ずかしさをごまかすように、話題を変えた。
「それで、転科した理由なんだけど」
「うん。聞いてもいい?」
「そのつもりで来たんでしょう?」
「まあ……」
エルネストが少し困ったように笑う。
アンナは一度息を吐いてから、数日前の出来事を話し始めた。
「帰り道で、男の人たちに襲われたの」
隣を歩いていたエルネストが、ぴたりと足を止めた。
「……何?」
その声が急に低くなり、アンナも立ち止まる。
「二人いてね。エルネストについて話があるって声をかけられたの」
「僕について?」
「うん。それで、王都から出ろって」
先ほどまでの柔らかな表情が、エルネストの顔から消えた。
「誰に言われた?」
「わからない。誰に命じられたのかは言わなかったの。ただ、『ヴァルデン侯爵家のご子息について話がある』って。それから、『お前を王都から出せと言われてる』って」
「父上の名前は?」
「出てないよ。私も侯爵さまと関係があるのかなとは思ったけど、本当のところはわからない」
エルネストは険しい表情のまま、しばらく考え込んでいた。
「それで、襲われたっていうのは?」
「もう別れたって言ったんだけど、聞いてくれなくて。連れていかれそうになったから逃げたの」
「アンナ」
「大丈夫。今は何ともないから」
「今はって……怪我したの?」
「膝を擦りむいたくらい」
「見せて」
「え?」
「怪我」
「もうほとんど治ってるよ」
そう答えても、エルネストの表情は晴れなかった。
心配そうにアンナを見つめ、やがて手を伸ばしてくる。
けれど、その手はアンナの腕に触れる寸前で止まった。
二人とも、思わずその手を見つめた。
以前なら、こんなところで止まらなかった。
エルネストが心配して手を取ることも、アンナがそれを受け入れることも、ごく普通のことだったのに。
「……ごめん」
エルネストが手を引こうとする。
その瞬間、アンナは反射的に彼の手を掴んでいた。
「アンナ?」
「怪我したのは膝だから、手を触ってもわからないけど」
「……うん」
「でも、心配してくれてるんでしょう?」
「するよ。別れたからって、しなくなるわけないだろ」
即座に返ってきた言葉に、アンナは何も言えなくなった。
握った手から、エルネストの体温が伝わってくる。
ほんの数日前まで、帰り道ではいつもこうして手をつないでいた。
それほど時間が経ったわけでもないのに、ひどく懐かしく感じる。
離したほうがいいのだろう。
そう思いながらも、アンナは手を離せなかった。
「……それでね。その人たちの一人が、短剣を出したの」
握っていたエルネストの手が、ぴくりと動いた。
「短剣?」
「うん」
「君に?」
「そう。でも、そのときに魔術が出たから」
「待って。魔術が出なかったら?」
エルネストの表情が、いっそう険しくなる。
アンナは少し迷ったものの、ここまで話した以上、ごまかしても仕方がない。
「……たぶん、刺されてた」
途端に、握られていた手に強い力がこもった。
「痛い」
「あ、ごめん」
エルネストは慌てて力を緩めたが、手そのものは離さなかった。
アンナも、そのまま話を続ける。
「それで、二人を吹き飛ばしちゃったの。調べてもらったら、魔力量は普通なのに、魔術の威力だけすごく高いみたいで」
「だから魔術科に?」
「うん。ちゃんと制御できるようになったほうがいいって。それに私も、勉強してみたいと思ったから」
エルネストはしばらく黙っていた。
アンナの話を聞きながら、何かを考えているようだった。
「……ごめん」
やがて、絞り出すように謝られ、アンナは驚いて顔を上げた。
「どうしてエルネストが謝るの?」
「僕と付き合ってなかったら、君は襲われなかった」
「それは──」
「別れたのだって、君や家族に何かされないためだった。それなのに、結局君がこんな目に遭ったら、何のために別れたんだよ」
エルネストが俯く。
その苦しそうな様子を見ていると、アンナまで胸が痛くなった。
彼だって、別れたかったわけではない。
それでも、自分や家族を守るために別れを選んでくれたのだ。
だからこそ、アンナは彼を責める気にはなれなかった。
「まだ、侯爵さまがやったって決まったわけじゃないよ」
「わかってる」
「だったら、エルネストが謝ることでもないでしょう?」
「でも、僕のことを理由に近づいてきたんだろ」
「それはそうだけど……」
「父上には確認するよ」
エルネストが顔を上げた。
「君を王都から出すよう、誰かに命じたのか聞いてみる。もし父上じゃないなら、誰が君を狙ったのか調べないといけない」
その表情は真剣だった。
アンナとしても、誰が男たちを差し向けたのかは気になっている。
ただ、エルネストが父親と再び対立することを考えると、素直には喜べなかった。
「……うん。でも、喧嘩しないでね」
「それは約束できない」
「エルネスト……」
「父上が関係してたら無理だよ」
あまりにもきっぱりと言い切るので、アンナは思わず笑ってしまった。
「笑うところ?」
「だって、最初から喧嘩する気みたいに言うから」
「する気はないよ。結果的にそうなるかもしれないだけで」
「それを喧嘩する気っていうんじゃない?」
エルネストも、ようやく少し笑った。
その顔を見ていると、数日前までと何も変わっていないような気がしてくる。
そこでアンナは、二人がまだ手をつないでいることに気づいた。
「あの……手」
エルネストも視線を落とす。
「あ」
二人はほとんど同時に手を離した。
急に冷たくなった手のひらを握りながら、アンナは鞄を持ち直した。
「私、そろそろ帰るね。今日はトーマが学園まで迎えに来てくれることになってるから」
「弟の?」
「そう。しばらく一人で帰るのは禁止だって」
「それがいいよ」
「エルネストまで」
「当然だろ。あんなことがあったばかりなんだから」
以前なら、自分が一緒に帰ると言ってくれただろうか。
そんなことを考えてしまい、アンナは慌てて打ち消した。
今はもう、以前とは違うのだ。
「じゃあ、また明日」
「……うん。また明日」
アンナは歩き出した。
数歩進んだところで、どうしても気になって振り返ると、エルネストはまだ同じ場所に立っていた。
「エルネスト」
「何?」
「今日、会えて嬉しかった」
口にした途端、恥ずかしさが込み上げてきた。
アンナは返事も待たず、今度こそ背を向ける。
やっぱり言わなければよかったかもしれない。
そう思い始めたところで、背後から声が届いた。
「……僕も」
少し遅れて返ってきた言葉に、頬が熱くなる。
アンナは振り返らず、そのまま歩き続けた。
◇◆◇
屋敷へ戻ったエルネストは、まっすぐ父の執務室へ向かった。
アンナと手をつないだ感触が、まだ残っている気がする。
けれど、それ以上に頭から離れないのは、彼女が何気ないことのように口にした言葉だった。
『……たぶん、刺されてた』
思い出すたびに、背筋が冷たくなる。
もし、あのときアンナの魔術が発動していなかったら。
彼女は今頃、どうなっていたのだろう。
自分が別れれば、アンナにも家族にも何もしない。父はそう言った。
それを信じたからこそ、あれほど大切にしていた恋人に別れを告げたのだ。
だが、アンナを襲った男たちが父の命令で動いたという証拠はない。
父が関与しているのか、それとも別の誰かが命じたのか。
今の段階では、何もわかっていない。
だからこそ、まずは確かめなければならなかった。
エルネストは執務室の前で足を止め、扉を叩いた。
「父上。話があります」




