04.元恋人のいる魔術科へ、転科することになりました
アンナはしばらく、自分の両手を見つめていた。
指先にはまだ、じんじんとした熱が残っている。
足元の石畳は砕け、道端の壁には大きな亀裂が走っていた。
少し離れたところでは、二人の男が倒れている。
「……嘘でしょう?」
自分が魔術を使ったなんて、今でも信じられない。
けれど、それ以上に気がかりなのは、男たちがまったく動かないことだった。
まさか、死んでしまったのではないだろうか。
そう考えた途端、背筋が冷たくなった。
「……ねえ」
アンナは恐る恐る近づき、声をかけてみた。
しかし、返事はない。
自分の魔術で二人を殺してしまったのだとしたら。そんな恐ろしい考えが浮かび、アンナは慌てて大通りへ向かって走り出した。
「誰か! 誰か来てください!」
必死に助けを求めていると、一人の男性がこちらへ駆けてきた。
胸元には、学園の教師が身につける徽章がある。
「何があった!」
「あの人たちが……!」
アンナが指差すと、教師はすぐに二人のもとへ駆け寄った。
倒れている男たちのそばに膝をつき、一人ずつ呼吸を確かめていく。
アンナは固唾を呑んで、その様子を見守った。
「大丈夫だ。二人とも息はある」
「……よかった」
安堵した途端、全身から力が抜けた。
男たちに襲われた恐怖も、自分が魔術を使った驚きも消えたわけではない。
それでも、二人が生きているとわかったことに、心底ほっとした。
「君も怪我をしているな」
「え……?」
言われて初めて、膝がずきずきと痛んでいることに気づいた。
見下ろすと、制服が破れ、擦りむいた膝から血が滲んでいる。
男たちから逃げようとして転んだときのものだろう。
教師は怪我の様子を確認すると、今度は周囲へ目を向けた。
砕けた石畳と、壁に走る大きな亀裂。その惨状を前に、教師が眉をひそめる。
「これは?」
「……私だと思います」
「君が?」
驚いたように振り返られ、アンナは戸惑いながら頷いた。
「はい。あの人たちに襲われて、それで、急に手から光が出て……」
説明しようにも、自分自身、何が起きたのかよくわかっていない。
「魔術を使ったということか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私、魔術なんて使ったことがないんです」
教師はアンナの顔をまじまじと見つめたあと、もう一度砕けた石畳へ目を向けた。
しばらく考え込んでいたが、やがて落ち着いた声で告げる。
「……詳しい話は学園で聞こう」
「はい……」
アンナは素直に頷いた。
何を聞かれても、うまく説明できる自信はない。
ただ、あの青白い光が自分の手から溢れ出したことだけは、はっきりと覚えていた。
翌日、アンナは学園長室に呼び出された。
昨日は医務室で手当てを受けたあと、襲われたときの状況を詳しく聞かれた。
エルネストについて話があると声をかけられたこと。
王都から出るよう言われたこと。
そして、短剣を向けられたこと。
思い出すだけでも怖かったが、アンナは覚えている限りのことを話した。
男たちは警備員に拘束されたものの、誰に命じられたのかまでは、まだわかっていないという。
ただ、今日の呼び出しは、その件だけではなかった。
「昨日の魔術について調べさせてもらったよ」
学園長の言葉に、アンナは膝の上で両手を握りしめた。
今朝から、いくつもの検査を受けている。
入学時と同じように魔力量を測り、教師に教わりながら、実際に魔術も使ってみた。
昨日のように突然光が溢れ出すのではなく、自分の意思で魔術を使えたことには驚いた。
もっとも、その結果は予想外のものだったのだが。
「魔力量そのものは、入学時とほとんど変わらない。平均的だ」
「やっぱりそうなんですね」
「ああ。ところが、実際に魔術を使うと話が変わる」
学園長は机の上に置かれた記録へ目を落とした。
「君が放った魔術は、魔力量から考えられるものより、はるかに高い出力を示した」
アンナは思わず自分の右手を見た。
今日の測定では、ほんの少しだけ魔力を出したつもりだった。
それなのに、標的の中央には大きな穴が開いてしまったのだ。
「どうしてなんですか?」
「それはまだわからない」
「わからないんですか?」
「一度調べただけで何でもわかるほど、魔術は単純ではないよ」
学園長はそう言ってから、少し笑った。
「だからこそ、調べる価値がある」
「調べる……」
アンナが小さく繰り返すと、学園長は改めてこちらへ向き直った。
「アンナさん。魔術科へ転科する気はないかね?」
「……私が?」
思いがけない提案に、アンナは目を丸くした。
魔術科といえば、優れた魔術の適性を持つ生徒たちが学ぶ場所だ。
入学時の検査で魔力量が平均的だったアンナには、縁のないところだと思っていた。
「これだけの出力がある以上、まず制御を覚える必要がある。それに、君自身の適性についても、魔術科で学びながら詳しく調べたほうがいい」
学園長の説明を聞きながら、アンナは考え込んだ。
魔術科という言葉を聞いて真っ先に浮かんだのは、授業のことでも、魔術のことでもなかった。
エルネストだ。
アンナは思わず口をつぐんだ。
「どうしたのかな?」
「いえ……」
魔術科へ移れば、校舎も同じになる。
今までは放課後に自分から研究棟へ行かなければ、エルネストと会うことはほとんどなかった。
けれど、転科すれば廊下ですれ違うかもしれない。
授業によっては、顔を合わせることだってあるだろう。
別れたばかりなのに。
『じゃあ、もう研究室には来ないほうがいいね』
『……うん』
あの日、自分からそう言ったのだ。
それなのに、数日後にはエルネストのいる魔術科へ移ることになる。
そんなことをして、いいのだろうか。
「すぐに返事をする必要はないよ」
学園長の声に、アンナははっと顔を上げた。
「ご家族とも相談するといい」
「……はい」
すぐには決められそうにない。
アンナは小さく頷き、学園長室をあとにした。
普通科の校舎へ戻る途中、アンナは渡り廊下で足を止めた。
ここから先へ進めば普通科。反対側へ進めば、魔術科の校舎へ続いている。
これまで、そちらへ行くのは放課後だけだった。エルネストに会うために。
今はもう、会いに行ってはいけない。
そうわかっているのに、魔術科へ通う自分を想像すると、少しだけ嬉しくなってしまう。
「……何、喜んでるのよ」
アンナは自分自身に呆れてしまった。
別れたのだ。それも、エルネストの父親から家族の生活まで盾に取られて。
魔術科へ行けば、またエルネストと会うことになる。
そのとき、何を話せばいいのだろう。
『久しぶり』では変だ。まだ数日しか経っていない。
かといって、『元気?』と尋ねるのも、何だかおかしい気がする。
そもそも、普通に話しかけていいのだろうか。
侯爵は、二人きりで会うなと言った。
魔術科の廊下ですれ違うことまで禁じられているわけではないだろうが、だからといって以前と同じようにはできない。
考えれば考えるほど、気まずくなってくる。
それなのに、会えるかもしれないと思うと、やっぱり嬉しいのだ。
「……最悪」
思わず声に出してしまった。
嫌いになって別れたのなら、もっと簡単だったのかもしれない。
けれど、今だって好きなのだ。
エルネストも、必ず迎えに行くと言ってくれた。
だからこそ、会ったら離れたくなくなりそうで困る。
アンナは魔術科へ続く廊下をしばらく眺めたあと、ようやく背を向けた。
転科するかどうかは、それとは別に考えなければならない。
昨日、自分が魔術を使ったこと。
今日、初めて自分の意思で手のひらに光を灯せたこと。
ほんの少しのつもりだったのに、標的に大きな穴を開けてしまったこと。
昨日のことを思い出すと、今でも怖い。
けれど、今日の検査では、それだけではなかった。
手のひらに青白い光が灯った瞬間、思わず嬉しくなったのだ。
自分にも魔術が使える。
それも、普通では考えられないほど強い魔術らしい。
どうしてそんな力があるのかは、まだわからない。
けれど、だからこそ知りたかった。
もっとやってみたい。
自分には何ができるのか、確かめてみたい。
その気持ちまで、エルネストのことで諦める必要はないはずだ。
アンナはそう考えながら、普通科の校舎へ向かって歩き出した。
「魔術科?」
その日の夕食で、母のエレナが目を丸くした。
「うん。転科してみないかって言われたの」
「昨日まで魔術なんて使ったこともなかったのに?」
「私だってびっくりしてる」
「俺も魔術、出ないかな」
トーマが興味津々といった様子で、自分の手のひらを見つめ始めた。
「出ないわよ。たぶん」
「姉ちゃんだって昨日までそう思ってたじゃん」
「それを言われると……」
アンナが返事に困っていると、父のマルセルが口を挟んだ。
「トーマ、今はお前の話じゃない」
「わかってるよ」
トーマは少し不満そうにしながらも、おとなしく手を下ろした。
昨日、襲われたことを家族に話したときは大変だった。
母には何度も怪我を確認され、父は普段よりずっと口数が少なくなった。
トーマまで、しばらくアンナのそばから離れようとしなかったのだ。
それだけに、今こうしていつもの調子で話せることが、アンナには嬉しかった。
「それで、アンナはどうしたいんだ?」
マルセルが穏やかに尋ねてきた。
アンナは少し考えてから、正直な気持ちを口にした。
「……行ってみたいと思ってる」
「魔術科に?」
「うん」
「エルネスト君もいるんでしょう?」
エレナに言われ、アンナは思わず母を見た。
「……いるけど」
「大丈夫なの?」
「それは……」
昼間から散々考えていたことを、あっさり指摘されてしまった。
アンナが返事に困っていると、トーマが不思議そうに首を傾げた。
「別れたら同じ学校にいたら駄目なの?」
「そういう話じゃないの」
「じゃあ何?」
「気まずいの!」
「ああ」
トーマはようやく納得したらしい。
ところが、すぐに余計なことを尋ねてきた。
「でも姉ちゃん、会いたいんでしょ?」
「トーマ!」
「違うの?」
「……違わないけど」
つい本音が出てしまい、アンナは気恥ずかしくなって顔を伏せた。
エレナが小さく笑う。
「だったら、それはそれでいいんじゃない?」
「よくないよ。別れたばっかりなのに」
「好きじゃなくなって別れたわけじゃないんでしょう?」
「そうだけど……」
母の言うことはもっともだ。
けれど、好きだからこそ、会ったらどうなるかわからない。
そんなことを考えていると、父に名前を呼ばれた。
「アンナ」
「……何?」
「エルネスト君がいるから魔術科へ行きたいのか?」
「それは違う」
そこだけは、迷わず答えられた。
「今日、初めて自分で魔術を使ったの。まだ全然うまくできなくて、少しだけ出したつもりなのに、すごい威力になっちゃったけど」
アンナは自分の手のひらを見つめた。
あのとき、ほんの少し魔力を出そうとしただけだった。
それなのに標的を壊してしまい、教師を驚かせてしまった。
このままでは、自分の力をまともに扱うこともできない。
「怖いから、ちゃんと使えるようになりたい。それに……楽しかったの」
「楽しかった?」
「うん。もっとやってみたいって思った。自分に何ができるのかも知りたい」
話しているうちに、昼間感じた気持ちがはっきりしてきた。
魔術科へ行きたい。
エルネストに会えるかもしれないからではなく、自分自身のために。
マルセルはしばらく娘を見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「なら、行けばいい」
「いいの?」
「エルネスト君がいるかどうかと、お前が何を勉強したいかは別の話だ」
昼間、自分でも同じことを考えた。
それでも父に言われると、迷っていた気持ちが少し軽くなった。
「ただし、無茶はしないこと」
「うん」
「それから、しばらく一人で帰るのは禁止」
「えっ」
思いがけない条件に、アンナは目を瞬かせた。
「それは私も賛成」
エレナまで即座に頷く。
「でも──」
「昨日、刃物を持った男に襲われたばかりでしょう?」
母の厳しい声に、アンナは言葉を詰まらせた。
確かに、昨日のことを考えれば、両親が心配するのも無理はない。
「じゃあ俺、迎えに行くよ」
「トーマが?」
「学園まで。俺が行けない日は父さんか母さんに頼めばいいだろ」
弟が当然のように言い出したので、アンナは少し驚いた。
「そこまでしなくても……」
「するわよ」
エレナがきっぱりと言い切った。
「昨日、刃物を持った男に襲われたばかりでしょう?」
同じことを繰り返され、アンナはとうとう口をつぐんだ。
どうやら、こちらについては何を言っても聞いてもらえそうにない。
家族の心配もわかるだけに、これ以上反対する気にはなれなかった。
翌日、アンナは再び学園長室を訪れた。
昨日は迷いながら帰った場所だが、今日はもう答えを決めている。
「決まったのかな?」
学園長が穏やかに尋ねてきた。
「はい。家族とも話しました」
「それで?」
「魔術科に行きたいです」
口にしてみると、思っていた以上にすっきりした。
昨日までは、自分とは縁のない場所だった。
けれど、今は違う。
魔術を勉強したい。
自分の力について、もっと詳しく知りたい。
きちんと制御して、自分の身を守れるようにもなりたい。
そして、そこにはエルネストがいる。
顔を合わせることを考えるだけで気まずいのに、ほんの少し嬉しい自分もいる。
けれど、それも含めて、自分で選んだことだ。
アンナは学園長をまっすぐに見つめ、改めて告げた。
「転科させてください」
「わかった。手続きを進めよう」
「ありがとうございます」
アンナは丁寧に頭を下げ、学園長室をあとにした。
廊下へ出ると、自然と魔術科のある方角へ目が向いた。
今度は、あちらへ通うことになる。
エルネストは、どんな顔をするだろう。
驚くだろうか。それとも、困るだろうか。
──少しくらい、喜んでくれたらいいのに。
そんなことを考えてしまい、アンナは思わず頬を押さえた。
「……だから、別れたんだってば」
小さく呟いて自分に言い聞かせる。
それでも、またエルネストに会えるかもしれないと思うと、どうしても期待してしまうのだった。




