03.恋人と別れたのに、まだ許してもらえないようです
「別れよう」
アンナは呆然とエルネストを見つめ返した。
三日ぶりにようやく会えたというのに、最初に聞く言葉がこれだとは思ってもいなかった。
冗談だろうか。
そう考えかけたものの、エルネストの表情を見れば、そんなはずがないとわかる。
「……侯爵さまに言われたから?」
「うん」
エルネストは目を逸らさず、静かに頷いた。
「僕たちが付き合い続けるなら、父上は君を王都から離れた学校へ転校させるつもりなんだ」
「転校?」
思いがけない話に、アンナは眉を寄せた。
「それだけじゃない。君の家の店にも手を出すつもりでいる」
その言葉に、思わず息を呑む。
自分だけの問題ではない。
両親が長年営んできたミモザ雑貨店も、父も母も、弟のトーマも巻き込まれるというのだ。
侯爵家の力があれば、本当にそんなことができてしまうのだろう。
「僕が別れれば、何もしないと言ってる」
「……そんなの」
あまりにも勝手だ。
アンナは抗議の言葉を口にしかけたが、昨夜、父に言われたことを思い出して唇を噛んだ。
『相手が侯爵家というだけでも簡単な話ではない。それがヴァルデン家となれば、なおさらだ。何かあっても、うちではどうにもできないことがある』
まさか、こんなにも早く父の心配が現実になるとは思わなかった。
アンナが黙り込んでいると、エルネストが申し訳なさそうに眉を下げた。
「だから別れるの?」
「今は」
「今は?」
「ずっとじゃない」
エルネストはそこで言葉を切り、アンナをまっすぐに見つめた。
「研究を完成させる。ちゃんと結果を出して、家の言う通りにしなくても、自分で生きていけるようになる」
その声には、迷いがなかった。
アンナは机の上に置かれた人工魔晶石へ目を向けた。
中心に残る青白い光は、初めて見たときよりもずっと弱くなっている。
あれを完成させるために、エルネストはこれからも研究を続けるのだろう。
「そうしたら、迎えに行く」
「迎えに?」
「必ず」
「私、どこかに行くの?」
「そういう意味じゃなくて」
エルネストが困ったように眉を寄せる。
「わかってる」
アンナが少しだけ笑うと、彼は何か言いたそうに口を開いたものの、結局黙り込んでしまった。
「待ってて、なんて言う資格がないのはわかってる」
「じゃあ、待たなくていいの?」
「それは嫌だ」
「どっちなの」
「僕だってわからないよ」
「自分から別れようって言ったのに?」
「だから困ってる」
「私のほうが困ってるんだけど」
「……ごめん」
エルネストはすっかり肩を落としてしまった。
そんなふうに謝られると、それ以上責める気にもなれない。
そもそも、エルネストだって好きで別れを切り出したわけではないのだ。
アンナは机に近づき、人工魔晶石へそっと手を伸ばした。
指先で触れると、石はもうほとんど熱を失っていた。
「これ、完成させるの?」
「うん」
「侯爵さまに認めてもらうために?」
「それだけじゃない」
「そうよね。完成したら、すごいことになるんでしょう?」
「そのつもり」
エルネストの返事に、アンナは小さく頷いた。
「だったら、絶対に完成させてね」
「もちろん」
「それを持って迎えに来る?」
「……それはちょっと格好悪くない?」
エルネストが何とも言えない顔をした。
「そう?」
「せめて花とかにするよ」
「花より、こっちのほうがエルネストらしいけど」
「考えておく」
そんなやり取りをしていると、別れることなど嘘のように思えてくる。
明日もここへ来て、エルネストが研究する横で本を読む。
研究が一段落したら一緒に帰り、他愛のない話をしながら王都の道を歩く。
つい昨日まで当たり前だった日々が、明日からも続くような気がしてしまう。
けれど、それでは別れたことにならない。
アンナは人工魔晶石から手を離し、エルネストへ向き直った。
「じゃあ、もう研究室には来ないほうがいいね」
「……うん」
「一緒に帰るのも」
「うん」
「寂しくなるな」
「僕も」
エルネストの手が、こちらへ伸びかけた。
けれど、途中でためらうように止まってしまう。
アンナはその手を見つめ、それから自分からそっと握った。
「まだ今日までは恋人でしょう?」
「……いいの?」
「最後くらい」
エルネストの指が、アンナの手を包み込む。
何度も帰り道でつないだ手だった。
初めの頃は、こうして触れるだけでも緊張していたのに、いつの間にか当たり前になっていた。
それも今日で最後になるのだと思うと、急に離しがたくなる。
アンナはつないだ手を、もう一度ぎゅっと握り直した。
「待ってる。研究が完成するのを」
「そっち?」
「ほかに何があるの?」
「……いや」
エルネストは苦笑したが、握った手を離そうとはしなかった。
「頑張ってね」
「うん」
返事とともに、彼の手に力がこもる。
「必ず迎えに行く」
アンナはその言葉を聞きながら、もう少しだけ、このままでいたいと思った。
それから数日、アンナは研究棟へ行かなかった。
以前だって、一人で帰ることはあった。
それなのに、放課後になると、つい研究棟へ続く道へ足が向いてしまう。
今日も途中で気づいて立ち止まり、見慣れた道をしばらく眺めてしまった。
「……こっちじゃない」
誰に言うでもなく呟き、正門へ向かって歩き出す。
エルネストとは別れた。
けれど、嫌いになったわけでも、喧嘩をしたわけでもない。
むしろ、別れる前よりも彼のことを考える時間が増えた気さえする。
研究は進んでいるだろうか。
また寝る間も惜しんで、机に向かっているのではないだろうか。
そんなことばかり気になってしまうせいか、まだ別れたという実感が薄かった。
正門を出て、大通りへ向かう。
今日は二号店に寄っていこうか。
学園帰りの学生が多い時間だから、店も忙しいかもしれない。母の手伝いをしていれば、少しは気も紛れるだろう。
そう考えながら歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「アンナだな?」
振り返ると、見覚えのない男が二人立っていた。
どちらも学園の関係者には見えない。
突然名前を呼ばれたことを不審に思い、アンナは少し身構えた。
「……どなたですか?」
「ヴァルデン侯爵家のご子息について、少し話がある」
その言葉に、思わず足が止まった。
「エルネストのことですか?」
「ああ。お前には王都を出てもらう」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
──王都を出る?
そんな話は、もう終わったはずだ。
「ちょっと待ってください。私たちはもう別れました」
慌てて説明すると、男たちは顔を見合わせた。
「そんな話は聞いてねえな」
「本当です。何日も会っていません。だから侯爵さまにも、もう一度確認してください」
アンナは必死に訴えた。
エルネストは、別れれば何もしないと言われたはずだ。
それなのに、どうしてこんな話になっているのだろう。
「こっちは、お前を王都から出せと言われてるんだよ」
「だったら、確認してから──」
「面倒くせえな。いいから来い」
男の一人が乱暴に手を伸ばしてきた。
腕を掴まれそうになり、アンナは咄嗟に後ずさる。
「やめてください。人を呼びますよ!」
「おい、さっさとしろ。誰か来るぞ」
もう一人の男が苛立たしげに周囲を見回した。
その隙を逃さず、アンナは踵を返して走り出した。
「待て!」
すぐに背後から足音が追ってくる。
大通りまでは、もう少しだ。
あそこまで出れば人がいる。二号店も近い。母や店の従業員に助けを求めることだってできる。
アンナは懸命に足を動かした。
けれど、あと少しというところで、突然肩を掴まれた。
「きゃっ!」
勢いよく引き戻され、足がもつれる。
踏ん張ることもできず、石畳に膝を打ちつけた。
鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「手間かけさせやがって!」
「離してください!」
腕を掴まれ、アンナは必死に振りほどこうとした。
男の手に爪を立てると、ようやく拘束が緩む。
「痛っ! この野郎!」
男が怒鳴り、手を離した。
今のうちに逃げなければ。
アンナは痛む膝を庇いながら立ち上がったが、走り出すより早く、背中を強く突き飛ばされた。
倒れそうになったところを、もう一人の男に背後から捕まえられる。
「暴れるな!」
「離して!」
両腕を押さえ込まれ、アンナは必死に身体をよじった。
けれど、大人の男の力には敵わない。
どれほど力を込めても、腕はびくともしなかった。
「誰か! 誰か来て──!」
「黙れ!」
怒鳴り声とともに、目の前の男が懐へ手を入れた。
何をするつもりなのだろう。
そう思った次の瞬間、取り出されたものを見て、アンナは凍りついた。
短剣だった。
「……何をするつもりですか」
声が震える。
男は短剣を手にしたまま、苛立たしげに顔を歪めた。
「これ以上、手間をかけさせるなってことだよ」
「待ってください。私、もうエルネストとは別れたんです。だから──」
「知るかよ」
男が短剣を近づけてくる。
アンナは反射的に身を引いたが、背後から押さえ込まれていて逃げられない。
「やめてください!」
「動くんじゃねえ!」
何とか逃れようと身体をよじると、男が舌打ちした。
そして、短剣を振り上げる。
刺される。
そう悟った瞬間、恐怖で頭の中が真っ白になった。
嫌だ。
こんなところで死にたくない。
父も母も、トーマもいる。
昨夜、何かあったらすぐに話せと言われたばかりなのに。
家族の顔が次々に浮かび、アンナは必死に逃れようともがいた。
それに、エルネストだって。
『必ず迎えに行く』
そう言ってくれた。
アンナだって待つと約束したのだ。
また会えると思っていた。いつか研究が完成したら、今度こそ誰にも反対されずに一緒にいられるのだと。
それなのに、こんなところで死ぬなんて。
絶対に嫌だった。
必死にもがくうちに、恐怖とは別の感情が込み上げてきた。
そもそも、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。
エルネストとは別れた。
本当は別れたくなかった。それでも家族まで巻き込みたくなくて、侯爵の望んだとおりにしたのだ。
なのに、今度は王都から出ていけという。
それにも従わなければならないのか。
王都を出たら、次は何を言われるのだろう。
どこまで言うことを聞けばいい。
どこまで奪われれば、放っておいてもらえるのだ。
理不尽な仕打ちへの怒りが、恐怖を押しのけていく。
「……いい加減にして!」
アンナは声の限りに叫んだ。
その瞬間、胸の奥がかっと熱くなった。
「……っ」
何かが身体の中を駆け抜けた。
これまで一度も感じたことのない、強烈な熱だった。
しかも、一つではない。
いくつもの熱い流れが、腕から指先へ向かって別々の道を走っていく。
身体の内側で何が起きているのか、まるでわからない。
ただ、両腕へ集まってくる熱が、凄まじい勢いで膨れ上がっていることだけは感じられた。
そして、それらが一つに重なった瞬間。
身体の奥で、何かが弾けた。
視界いっぱいに、青白い光が溢れる。
「な──」
男の驚愕した声が、凄まじい轟音にかき消された。
背後からアンナを押さえつけていた男が、突然吹き飛んだ。
両腕が自由になる。
同時に、目の前の男も短剣を取り落とし、そのまま後方へ弾き飛ばされた。
足元では石畳が砕け、飛び散った破片が激しく地面を跳ねる。
その向こうでは、道端の壁に大きな亀裂が走っていた。
何が起きたのか、アンナにはまるでわからなかった。
つい先ほどまで男たちに押さえ込まれていたはずなのに、今は誰も自分に触れていない。
少し離れた場所には、二人の男が倒れていた。
短剣も地面に転がっている。
アンナは荒い息を繰り返しながら、呆然とその光景を見つめた。
つい先ほどまで自分を押さえつけていた男たちが、どうしてあんなところに倒れているのだろう。
何が起きたのか理解できずにいると、ふと指先に奇妙な感覚が残っていることに気づいた。
じんじんと熱い。
痛みとは違う、身体の内側から伝わってくるような熱だった。
アンナは恐る恐る、自分の両手を持ち上げた。
先ほどの青白い光。
あれは間違いなく、自分の手から溢れ出したものだった。
「……魔術?」
信じられなかった。
入学時に測った魔力量は、ごく普通だった。
魔術科を勧められもしなかったし、自分から行こうと思ったこともない。
これまで一度だって、魔術を使ったことはなかった。
それなのに、目の前には砕けた石畳がある。
壁には亀裂が入り、二人の男が吹き飛ばされている。
ほかの誰かが助けてくれたわけではない。
あの光が自分の手から放たれたことだけは、はっきりと覚えていた。
「……私が、やったの?」
アンナは呆然と、まだ熱の残る両手を見つめた。




