02.「別れるつもりはない」と言ってくれたのに
屋敷に戻ったエルネストは、着替えることもせず、そのまま父の執務室へ向かった。
扉の前で足を止め、ノックする。
「入れ」
聞き慣れた低い声が返ってきた。
扉を開けると、父のアルベルトが執務机の向こうに座っていた。
机には何枚もの書類が広げられ、こちらに目を向ける様子もない。
エルネストは机の前まで進むと、挨拶もそこそこに口を開いた。
「アンナにまで声をかける必要があったんですか」
「お前が平民の娘と交際していると聞いた。事実なのだろう?」
「そうです。ですが、別れるつもりはありません」
「なら、今すぐ別れろ」
アルベルトはそこで初めて書類から顔を上げた。
あまりにあっさりと言い切られ、エルネストは思わず眉を寄せる。
「僕は家を継ぐわけじゃありません。誰と付き合おうと──」
「家を継がなければ、ヴァルデン家の人間ではなくなるのか?」
反論は最後まで言わせてもらえなかった。
「レオンハルトのように軍で功績を挙げることもできない。戦闘魔術師にもなれない。ならば、せめて婚姻くらい家の役に立て」
エルネストは奥歯を噛みしめた。
父が自分をどう評価しているかなど、今さら聞かされるまでもない。
それでも、アンナとの交際まで家の役に立つかどうかで判断されることには、到底納得できなかった。
「……アンナの何が気に入らないんですか。平民だからですか」
「身分だけの話をしているのではない」
「だったら」
「あの娘には何がある?」
問いの意味がわからず、エルネストは眉をひそめた。
「何って……」
「才でも実績でも構わん。お前が家に何ももたらせないというのに、なぜ婚姻相手まで何の利もない相手を選ぶ」
「アンナをそんなふうに言わないでください」
思わず声が強くなった。
父にとっては、家に利益をもたらすかどうかが重要なのだろう。
だが、エルネストがアンナを好きになったのは、そんな理由からではない。
「ならば、お前が示せ」
アルベルトは少しも動じず、冷然と言い放った。
「お前自身に、好きな相手を選んでも誰にも文句を言わせないだけの価値があると」
「僕は研究をしています」
「あの石ころのことか」
「人工魔晶石です」
研究成果を石ころ呼ばわりされ、エルネストはむっとした。
「王立研究所ですら実用化を諦めたものを、まだ研究しているのか」
アルベルトは呆れたように息を吐いた。
「それで、完成したのか」
「まだです。でも、昨日初めて魔力を蓄えることに成功しました」
「実用になるものができたのかと聞いている」
「……それは、まだ」
「なら、何もできていないのと同じだ」
即座に切り捨てられ、エルネストは唇を引き結んだ。
昨日、アンナの手のひらに載せた小さな石が脳裏に浮かぶ。
『これはエルネストが作ったんでしょう?』
あの石を見て、アンナは嬉しそうに笑ってくれた。
天然の魔晶石には遠く及ばない。実用化までには、まだいくつもの課題が残っている。
そんなことは、誰よりも自分がわかっている。
それでも、初めて魔力を蓄えることに成功したのだ。何もできていないわけではない。
だが父にとっては、完成していなければ何の価値もないらしい。
「必ず完成させます。研究で功績を挙げて、家に頼らず生きていけるようになります」
エルネストがきっぱりと言い切ると、アルベルトはわずかに目を細めた。
「それまで、あの娘との関係を続けるつもりか」
「そのつもりです」
「そうか。ならば、あの娘には王都を離れてもらおう」
「……何を言ってるんですか」
予想もしなかった言葉に、エルネストは耳を疑った。
しかし、アルベルトは平然と続ける。
「平民の生徒一人だ。王都から離れた学校への転校先を探すくらい、難しくはない」
「本人が望んでいないのに?」
「本人の希望を聞く必要があるのか?」
「父上!」
思わず声を荒らげても、アルベルトの表情は変わらない。
「あの娘の両親は、雑貨店を営んでいるそうだな」
その一言に、エルネストは嫌な予感を覚えた。
「店は関係ないでしょう」
「王都で商売を続けるなら、仕入れも取引先も必要だ」
「まさか……」
「お前が別れれば、何もする必要はない」
エルネストは愕然とした。
父はアンナを転校させるだけでなく、家族の商売にまで手を出すつもりなのだ。
「それを脅しって言うんですよ」
「好きに受け取れ」
あまりにも平然とした態度に、怒りが込み上げてくる。
エルネストは執務机に両手をつき、父を睨みつけた。
「アンナは関係ないでしょう」
「ある。お前が関係を持った」
「だからって、彼女の生活まで好きにしていいわけがない!」
「ならば選べ。あの娘と別れるか。それとも、お前との交際のために、あの娘の家族まで巻き込むか」
エルネストは息を呑んだ。
今日立ち寄ったミモザ雑貨店の光景が浮かぶ。
店に立っていたアンナの母。商品を選んでいた学生たち。
大通りには本店があり、その裏手にはアンナたち家族の家がある。
アンナはあの店で育ち、今も家族と暮らしている。
自分との交際を続けたせいで、彼女たちがそれを失うことになったら。
そう考えると、怒りに任せて反論することもできなかった。
「……卑怯ですよ」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど掠れていた。
「何とでも言え」
アルベルトはそれ以上話すことはないとばかりに、書類へ目を戻した。
「決めるのはお前だ」
エルネストはしばらく父を睨んでいたが、結局、何も言い返せなかった。
机から手を離し、重い足取りで執務室をあとにした。
◇◆◇
「それで、そのエルネスト君と付き合ってるの?」
その日の夜。
夕食の席で母のエレナに尋ねられ、アンナはとうとう観念した。
「……うん」
「やっぱり」
向かいに座る弟のトーマが、納得したように頷いた。
「何がやっぱりなの?」
「姉ちゃん、前からエルネストって名前よく出してたじゃん」
「そんなに出してないわよ」
「出してたわよ」
すかさずエレナまで加わってくる。
「お母さんまで!」
アンナが抗議すると、母と弟は顔を見合わせて笑った。
どうやら、自分が思っていた以上にわかりやすかったらしい。
「まあ、それはいいとして」
父のマルセルが、二人をたしなめるように話を戻した。
「エルネスト君というのは、ヴァルデン侯爵家の?」
「うん」
「ヴァルデンって、あのヴァルデン?」
今度はトーマが勢いよく身を乗り出した。
「ほかにどのヴァルデンがあるのよ」
「だって、ヴァルデン侯爵家だろ? 戦闘魔術師の」
「そうだけど」
「じゃあ、アルベルト・ヴァルデンの息子?」
「それ、侯爵さまの名前? だったら、そうなんじゃないの?」
アンナが答えると、トーマは呆れたように口を開いた。
「……姉ちゃん、よくそんな普通に言えるな」
「何が?」
「いや、いい」
トーマは何か言いかけたものの、諦めたように首を振った。
何なのだろう。
アンナが不思議に思っていると、今度は父が口を開いた。
「アンナは、最初からヴァルデン侯爵家の人間だと知っていたのか?」
「知り合ったときは知らなかった。でも、付き合う前には知ってたよ」
「そうか……」
マルセルは考え込むように目を伏せた。
ヴァルデン侯爵家がどういう家なのかは、アンナにもわかっている。
代々優れた戦闘魔術師を輩出してきた名門で、現当主は魔術軍団長を務めている。
王都で暮らしていれば、その名を耳にする機会はいくらでもあった。
ただ、エルネストと知り合ったときに、そんなことを考えたことはなかった。
アンナにとって彼は、壊れた魔導灯を直していた親切な少年だったのだから。
「向こうの家は?」
父に尋ねられ、アンナは少し言葉に詰まった。
「……今日、知られたみたい」
途端に、両親とトーマの視線が集まった。
アンナは気まずさを覚えながら、学園の前で侯爵家の使いから言われたことを話した。
「二人きりで会うなって、アンナに直接言ったの?」
話を聞き終えたエレナが、露骨に眉を寄せる。
「うん」
「侯爵本人でもない人を寄越して?」
「お母さん」
マルセルがたしなめるように呼びかけた。
「だって、嫌な感じじゃない」
エレナは不満そうに唇を尖らせた。
アンナも否定はできなかった。
あの場でエルネストに伝えるだけならともかく、自分にまで直接言い渡す必要があったのだろうか。
丁寧な言葉遣いだっただけに、かえって拒絶の意思がはっきりと伝わってきた。
「……お父さんも反対?」
恐る恐る尋ねると、マルセルはすぐには答えなかった。
しばらく考えてから、慎重に言葉を選ぶ。
「心配はしている。相手が侯爵家というだけでも簡単な話ではない。それがヴァルデン家となれば、なおさらだ。何かあっても、うちではどうにもできないことがある」
「うん……」
父の心配はもっともだった。
アンナだって、侯爵家と平民の身分差を軽く考えているわけではない。
けれど、だからといってエルネストと別れたいとは思えなかった。
「だが、付き合う相手を父さんが決める話じゃない」
思いがけない言葉に、アンナははっとして顔を上げた。
マルセルは穏やかな表情で娘を見つめている。
「エルネスト君は何と言っている?」
「侯爵さまにも認めてもらうって。別れるつもりはないって言ってた」
「じゃあ、いいんじゃない?」
それまで黙っていたトーマが、あっさりと口を挟んだ。
「トーマ」
「だって、姉ちゃんも別れたくないんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、二人とも同じじゃん」
あまりに単純な結論に、マルセルが小さく息を吐いた。
「お前は簡単に言うな」
「難しく言っても同じでしょ」
「それはそうだけど」
エレナが思わず笑い出した。
父はまだ難しい顔をしているものの、トーマはまったく気にしていない。
そんな家族の様子を見ているうちに、アンナの頬も自然と緩んだ。
「ただし、アンナ。何かあったら、すぐに話しなさい」
マルセルが改めて真剣な顔を向けてくる。
「うん」
「一人で何とかしようとするな」
「わかった」
アンナは素直に頷いた。
父も母も、エルネストとの交際を頭ごなしに反対するつもりはないらしい。
そのことが嬉しい一方で、今日のエルネストの様子が気にかかった。
『認めてもらう』
あれだけ迷いなく言い切ったのだから、きっと大丈夫。
けれど、侯爵家からの伝言を受けたあと、彼は父親とどんな話をしたのだろう。
今すぐにでも確かめたかったが、もう遅い時間だ。
アンナは胸に残る不安を振り払い、明日会ったら聞いてみようと決めた。
◇◆◇
翌日の放課後、アンナはいつものように研究室へ向かった。
昨日、別れ際にエルネストは「また明日」と言っていた。
侯爵家からあんな伝言を受けたあとだ。父親と何を話したのか、気になって仕方がない。
研究室の前まで来ると、アンナはいつものように扉を開けた。
「エルネスト?」
返事はなかった。
室内を覗いてみても、エルネストの姿はない。
机の上には研究器具が並んでいたが、いつもならそこにいるはずの恋人がいないだけで、妙にがらんとして見えた。
少し待ってみたものの、結局エルネストは戻ってこなかった。
何か用事でもできたのだろうか。
そう考えて、その日は諦めて帰ることにした。
ところが、翌日も同じだった。
放課後になって研究室を訪ねても、エルネストはいない。
気になって魔術科の生徒に尋ねてみると、授業には出ていたものの、終わるとすぐに帰ったらしい。
研究に夢中になって帰るのが遅くなることはあっても、こんなふうに研究室へ寄らずに帰るのは珍しい。
しかも二日続けてとなると、さすがに気になった。
侯爵家で何かあったのだろうか。
それとも、父親から研究を禁じられてしまったのだろうか。
考えても答えは出ず、アンナは重い気持ちのまま帰宅した。
そして三日目。
今日こそ会えるだろうかと、アンナは研究室へ向かった。
扉の前で一度足を止め、それからそっと開ける。
すると、ようやく見慣れた黒髪が目に入った。
「エルネスト」
机に向かっていたエルネストが顔を上げる。
その姿を見た途端、アンナはほっとして声を弾ませた。
「よかった。今日は──」
「アンナ。話がある」
いつもとは違う、硬い声だった。
エルネストは椅子から立ち上がったものの、アンナに近づこうとはしない。
いつもの椅子を勧められることもなかった。
何かがおかしい。
アンナは研究室に入ったところで足を止めた。
「……何?」
エルネストはすぐには答えなかった。
何かを言いかけては口を閉ざし、苦しげに眉を寄せる。
その様子を見ているうちに、アンナの胸に嫌な予感が広がっていった。
「エルネスト……?」
もう一度呼びかけると、彼はようやく顔を上げた。
金色の瞳が、まっすぐにアンナを見つめる。
「別れよう」




