01.侯爵家に、私たちの交際が知られました
アンナには、恋人がいる。
エルネスト・ヴァルデン。
王立学園の魔術科に通う、ヴァルデン侯爵家の次男だ。
平民で、普通科に通うアンナとは、本来ならあまり接点のない相手だった。
けれど付き合い始めて三か月。放課後に彼の研究室を訪ねるのは、すっかりアンナの日課になっている。
「エルネスト?」
今日も研究室へ入ると、恋人は机に向かったまま顔も上げなかった。
「ちょっと待って。今、いいところだから」
返事とともに、さらりとした黒髪が揺れる。
伏せられた金色の瞳は、机の上に置かれた器具へ向けられたままだ。
「わかった」
こういうときのエルネストは、何を言っても耳に入らない。
邪魔をしないよう扉を閉め、アンナはいつもの椅子に腰を下ろした。
肩にかかった栗色の髪を払い、緑の瞳を机の上へ向ける。
金属製の台座に細い管。その先には、親指ほどの灰色の石が固定されていた。
ここしばらく、エルネストが毎日のように向き合っているものだ。
アンナもすっかり見慣れてしまったが、今日は何かが違うらしい。
エルネストの手元を眺めながら待っていると、やがて石の中心に淡い光が灯った。
「……できた」
小さく呟いたきり、エルネストは動かない。
アンナは思わず椅子から立ち上がった。
「できたの?」
「一応」
ようやく振り返ったエルネストの顔には、喜びよりも疲れのほうが濃かった。黒い前髪も少し乱れている。
そんな様子が気になりながらも、アンナは机のそばまで歩み寄り、光っている石を覗き込んだ。
「これが人工魔晶石?」
「そう」
「ちゃんと光ってる」
「光るだけならね」
エルネストは器具から石を外すと、アンナの手のひらに載せた。
ほんのりと温かい。
灰色だった石の中心に、青白い光が宿っている。
「三日かけて、これだけ」
「三日?」
「ほとんど研究室にいた」
「……昨日も?」
「昨日も」
「一昨日も?」
「一昨日も」
「ちゃんと寝た?」
「寝たよ」
妙に返事が早い。
アンナが疑わしげに見つめると、エルネストの金色の目がわずかに逸れた。
「……少しは」
「やっぱり」
「でも、寝ていたら魔力の流れが変わるかもしれなかったし」
「変わったの?」
「変わらなかった」
「じゃあ寝ればよかったじゃない」
「結果が出るまではわからないだろ」
もっともらしく言っているが、単に途中で切り上げられなかっただけではないだろうか。
呆れ半分、心配半分でエルネストを見ていたアンナは、手のひらの石へ視線を戻した。
「でも、できたのね」
「できたと言っていいのかな」
「どうして?」
「これじゃ使い物にならないから」
エルネストは棚から別の魔晶石を取り出した。
こちらはアンナの手にあるものより一回り小さい。それなのに、放つ光はずっと強い。
「こっちが天然の魔晶石。同じくらいの大きさでも、蓄えられる魔力量は何十倍も違う」
「そんなに?」
「しかも僕のは三日かけてこれだ」
エルネストがアンナの手のひらを指差す。
「今のままじゃ、天然の魔晶石を使ったほうがいい」
「でも、それは掘ってきたものでしょう?」
「そうだけど」
「これはエルネストが作ったんでしょう?」
「……そうだけど」
「だったら、すごいじゃない」
エルネストは意表を突かれたように口を開きかけた。
けれど、何も言わずにアンナを見つめる。
「何?」
「いや」
「変なこと言った?」
「言ってない」
エルネストはそう言うと、ふっと表情を緩めた。
「君、最初からそればっかりだなと思って」
「最初?」
「覚えてない?」
もちろん、覚えている。
入学して間もない頃、校舎の廊下で壊れた魔導灯を直していた少年がいた。
制服をろくに確認しなかったアンナは、てっきり修理に来た人だと思って声をかけたのだ。
直った魔導灯を見て「すごいですね」と言ったあとで、彼が魔術科の制服を着ていることに気づいた。
けれど彼は、「切れた魔力回路をつないだだけだから」と大したことではないように答えた。
魔術科なら誰にでもできることなのかと尋ねれば、そういうわけでもないという。
なら、やっぱりすごいではないか。
そう返したことまで、はっきり覚えていた。
「あのとき、エルネストが侯爵家の人だって知ってたら、声をかけなかったかも」
「それは困る」
「どうして?」
「君と知り合えなくなる」
あまりにもあっさり言われて、アンナは返事に詰まった。
「……そういうこと、急に言うのやめて」
「どうして?」
「どうしてって……」
エルネストは本当に不思議そうな顔をしている。
こちらがどれほど照れているか、少しもわかっていないらしい。
わざとではないから、余計に困るのだ。
アンナは誤魔化すように、手のひらの人工魔晶石を彼に差し出した。
「はい」
「もう見なくていいの?」
「十分見たわ」
「もう少し褒めてもいいけど」
「さっき、まだ使い物にならないって自分で言ってたじゃない」
「君が褒めるのは別」
「何それ」
思わず吹き出すと、エルネストもつられたように笑った。
研究室を出た頃には、外はもう夕暮れだった。
「エルネスト、このあと時間ある?」
「あるけど、どうしたの?」
「二号店に寄ってもいい? お母さんに頼まれてるものがあるの」
「いいよ」
普通科と魔術科では校舎が離れている。
それでも付き合い始めてからは、アンナが研究棟まで来て、一緒に帰ることが増えた。
王立学園を出て少し歩けば、ミモザ雑貨店の二号店がある。
アンナの両親が営む生活雑貨店で、本店は大通りにあり、家族の住まいもその裏手にある。
二号店は学園に近いため、紙やペン、インクなどの筆記具が充実している。
放課後の今も、店内には何人かの学生がいて、商品棚の前で品物を選んでいた。
「いらっしゃいませ──あら、アンナ」
商品棚を整えていた母エレナが、二人に気づいて顔を上げた。
「お母さん。頼まれてたものを取りに来たんだけど」
「奥に置いてあるわよ」
「ありがとう」
エレナの視線が、アンナの隣に立つエルネストへ移る。
「そちらは?」
「あ……」
アンナは一瞬、どう紹介するべきか迷った。
「同じ学園のエルネスト」
「初めまして。エルネストです」
「まあ、初めまして」
エレナはにこやかに挨拶を返した。
ところが次の瞬間、何かを確かめるようにアンナを見つめてくる。
「……何?」
「何も?」
「何か言いたそう」
「そうかしら」
とぼけているつもりだろうが、明らかに何か思っている。
そういえば最近、母にはよく「放課後はどこへ行っているの」と聞かれていた。
そのたびに研究室だの友人のところだのと答えてきたが、どうやらまったく誤魔化せていなかったらしい。
「アンナ?」
エルネストが不思議そうにこちらを見る。
「何でもない」
「そう?」
そこへ、会計を終えた男子生徒が近くを通りかかった。
魔術科の制服を着た彼は、エルネストに気づくと軽く頭を下げた。
「ヴァルデンさま。こんにちは」
「こんにちは」
男子生徒はそのまま店を出ていった。
途端に、母の視線が気になった。
今、どんな顔をしているのだろう。
確かめる勇気が出ないまま、アンナはじっと立ち尽くす。
「……アンナ」
「何?」
「ヴァルデン?」
「…………」
「もしかして、ヴァルデン侯爵家の?」
「はい」
答えたのはエルネストだった。
「次男のエルネスト・ヴァルデンです」
「あらまあ」
エレナが改めてアンナを見る。
先ほどまでの意味ありげな笑みは、すっかり消えていた。
「アンナ」
「……はい」
「帰ったら、話があるわ」
「うん……」
「お父さんにもね」
「それは……」
「話すわよ?」
「……はい」
有無を言わせない口調に、アンナは小さく肩を落とした。
エルネストが二人を交互に見比べる。
「僕もいたほうがいいですか?」
「え?」
「僕の話ですよね?」
思いがけない申し出に、アンナは慌てて首を横に振った。
「いい。今日はいいから」
「でも」
「本当にいいから!」
「そう?」
エルネストはまだ納得していない様子だったが、エレナはそんな彼を見て小さく笑った。
「今日はアンナから聞くわ。ありがとう、エルネスト君」
「はい」
「それと、これ」
奥から持ってきた包みを、エレナが差し出す。
「ありがとう」
「遅くならないうちに帰ってきなさい」
「わかってる」
包みを受け取ったアンナは、これ以上何か言われないうちにと、エルネストを促して店を出た。
「……お母さん、絶対気づいてた」
二号店から少し離れたところで、アンナは呟いた。
「何に?」
「私たちのこと」
「そうなの?」
「たぶん。前から怪しまれてたから」
「じゃあ、今日わかってよかったんじゃない?」
「エルネストが侯爵家の人だってことまで一緒に知られたのが問題なの」
「どうして?」
「心配するに決まってるでしょう」
「僕のことが嫌なのかな」
「そうじゃなくて」
どう説明すれば伝わるのだろう。
アンナは小さく息を吐いてから、エルネストを見上げた。
「侯爵家と平民じゃ、簡単な話じゃないってこと」
「ああ」
「……本当にわかってる?」
「わかってるよ」
大通りへ向かう道は、まだ人通りが少ない。
周囲に誰もいないことを確かめたエルネストが、そっとアンナの手を取った。
指を絡めるようなつなぎ方ではない。
ただ手のひらを重ねただけだ。
こうして手をつなぐのも、人目のない場所だけだった。
「ねえ、エルネスト」
「うん?」
「このままずっと、隠しておけるのかな」
口にしてから、アンナは自分でも少し驚いた。
ずっと隠していたいわけではない。
けれど、誰かに知られれば、今まで通りにはいかなくなるかもしれない。
そんな不安が、以前から心のどこかにあった。
エルネストがアンナに顔を向ける。
「隠しておくつもりはないよ」
「でも……」
アンナはつないだ手に目を落とした。
「侯爵さまが、私のことを認めてくださるとは思えないわ」
「認めてもらう」
迷いのない返事だった。
あまりにきっぱりと言い切るものだから、思わず顔を上げてしまう。
「そんな簡単に言うけど」
「簡単じゃないのはわかってる」
「だったら──」
「父上は厳格な人だから。それに、僕が戦闘魔術を使えないことも、ずっと気にしてる」
「使えないって言っても、魔術そのものは使えるんでしょう?」
「父上にとっては同じだよ。ヴァルデン家の人間なのに戦えない。それが全てなんだ」
エルネストの手に、わずかに力がこもった。
「兄上は、父上が望む通りの魔術師になった。僕はなれなかった」
「だから研究を?」
「最初はね」
「最初?」
「何か一つくらい、兄上にできなくて僕にできることが欲しかった」
エルネストは苦笑した。
けれど、その表情に以前ほどの苦しさは感じられない。
「でも、今は違うよ」
「どう違うの?」
「面白いからやってる」
その答えに、アンナはほっとした。
父親や兄に認めてもらうためだけに、三日も研究室にこもっていたのだとしたら、あまりにも苦しい。
けれど、今のエルネストは自分の研究を楽しんでいる。
それなら、アンナも素直に応援できる。
「研究は、ちゃんと形にする」
エルネストが真剣な顔で続けた。
「父上にも、僕がやっていることを認めさせる」
「それと私のことは別でしょう?」
「別じゃないよ」
「別よ」
アンナはすぐさま言い返した。
「研究が成功したからって、侯爵家の息子が平民と付き合っていいことにはならないでしょう?」
「……そうだけど」
「ほら」
「でも、どっちも諦めるつもりはない」
エルネストはそう言って、つないだ手を少し持ち上げた。
「研究も、君も」
「……そういうことを平気で言うの、やめてくれない?」
「どうして?」
「困るから」
「何が?」
「いろいろ」
これ以上聞かれても、うまく説明できる気がしない。
アンナが困り果てているのを見て、エルネストもようやく追及をやめてくれた。
大通りが近づくにつれて、人通りが増えていく。
つないでいた手を離したのは、ほとんど同時だった。
ミモザ雑貨店の本店は、この先にある。
いつもエルネストが送ってくれるのは、その少し手前までだ。
本店まで来れば、父や弟だけでなく、店の従業員や顔馴染みの客にまで見られる可能性がある。
けれど、今日はもう母に知られてしまった。
「……明日には、お父さんも知ってるんだろうな」
気が重くなり、アンナはぽつりと漏らした。
「僕から挨拶したほうがいい?」
「今はいい」
「でも、付き合ってるなら挨拶はしたほうが──」
「待って。まず私が話すから」
「わかった」
こういうところは、妙に律儀なのだから困る。
エルネストに悪気がないのはわかっているが、いきなり父の前に連れていく勇気は、まだなかった。
そんなことを話しながら大通りへ出たところで、不意にエルネストが足を止めた。
「……どうして」
低く漏れた声に、アンナも顔を上げる。
「え?」
エルネストの視線を追うと、道の脇に一台の馬車が停まっていた。
黒塗りの車体。扉には、銀色の紋章がある。
アンナにも見覚えがあった。
以前、エルネストを迎えに来た馬車と同じものだ。
「お家の馬車?」
「今日は頼んでない」
訝しげに眉を寄せるエルネスト。
すると、馬車のそばに控えていた男が、二人に気づいて歩み寄ってきた。
きっちりとした服装の、四十代ほどの男性だった。
「エルネストさま」
「……何かあった?」
「侯爵閣下がお呼びです」
「父上が?」
「はい」
「理由は?」
男はすぐには答えなかった。
その視線が、エルネストの隣にいるアンナへ移る。
「こちらの方が、アンナさんですね」
突然名前を呼ばれ、アンナは戸惑った。
初めて会う相手だ。名前を教えた覚えもない。
「どうして、彼女の名前を知ってる?」
エルネストの声が低くなった。
先ほどまでとは明らかに違う、警戒を含んだ声だった。
しかし男はその問いには答えず、アンナへ向き直る。
「侯爵閣下より、アンナさんにも伝言を預かっております」
「……私に?」
思わず聞き返すと、男は表情を変えずに頷いた。
「はい」
そして、丁寧に一礼する。
「今後、エルネストさまと二人きりでお会いになることは、お控えくださいとのことです」
新作を始めました。
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