28.息子と別れろと言った侯爵さまが、今度は兄弟のどちらを選ぶか尋ねてきました
翌朝、約束の時刻になると、王宮から迎えの馬車がやってきた。
アンナは軍から用意された正装に身を包み、何度目かわからない深呼吸をしてから馬車へ乗り込んだ。
濃紺を基調とした軍服に似た装いだが、正式な軍人ではないため階級を示すものはついていない。
前線で戦った者として国王の前へ出るために、軍が用意してくれたものだった。
今日、国王から直接戦功を労われることになっている。
昨日から何度考えても、それだけで緊張した。
戦場では、敵が何をしようとしているのかを見て、自分にできることを考えればよかった。
けれど、国王を前にして何をどうすれば正解なのかは、教えられた礼儀を守るくらいしかわからない。
失礼なことだけはしないようにしよう。
そう思っているうちに、馬車は王宮へ到着した。
侍従に案内され、長い廊下を進む。
やがて大きな扉が開いたとき、アンナは思わず足を止めそうになった。
正面の玉座には国王。その傍らには王族が並び、左右には軍人や高官、貴族たちが列を作っている。
こんなに大勢がいるとは聞いていなかった。
緊張しながら視線を動かしたところで、一人の男性に目が留まる。
黒い髪に、金色の瞳。
その色だけで誰なのかわかった。
顔立ちはエルネストにも似ているが、特にレオンハルトによく似ている。年齢を重ねれば、レオンハルトもこんな顔になるのかもしれない。
──あの方が、侯爵さま。
アルベルト・ヴァルデン侯爵。
エルネストとレオンハルトの父であり、魔術軍団長でもある。
直接会うのは、これが初めてだった。
エルネストに自分と別れるよう命じた人だと思うと、どうしても身構えてしまう。
ちょうどアルベルトもこちらを見た。
アンナが小さく頭を下げると、アルベルトもわずかに頷く。
それ以上のやり取りをする間もなく、名前を呼ばれた。
教えられた位置まで進み、国王の前に跪く。
やがて、戦功が読み上げられた。
ヴァルガ要塞において、グランベル軍が魔晶石を用いて構築した防御陣を破壊し、王国軍の進撃に大きく貢献したこと。
その後も第一部隊と行動をともにし、複数の戦闘に参加。
そしてラグナス会戦では、敵が放とうとした大規模魔術を破壊し、多数の将兵を救ったこと。
その機を逃さずセレディア軍は攻勢に転じ、ラグナスを奪還した。
どれも、自分が経験したことだった。
それなのに、大勢の前で改めて読み上げられると、自分ではない誰かの話を聞いているような気がする。
ヴァルガでは第一部隊が敵を抑えてくれたから、障壁を狙うことができた。
ラグナスでも、自分一人で戦ったわけではない。大規模魔術を破壊できたのは、第一部隊が高台を守り抜き、エルネストの人工魔晶石が届いたからだ。
「アンナ。顔を上げよ」
「はい」
促されるまま顔を上げると、国王がこちらを見ていた。
「そなたの働きについては、余も報告を受けている。ヴァルガ要塞では敵の守りを打ち破り、ラグナスでは多くの将兵を救った。そして我が軍は、ラグナスを取り戻した」
国王は満足そうだった。
「見事であった」
「ありがたきお言葉にございます」
どうにか練習してきた言葉を返したものの、このままでは自分一人がすべてを成し遂げたように聞こえてしまう。
「恐れながら、陛下」
「何だ。申してみよ」
「ラグナスで大規模魔術を防ぐことができたのは、第一部隊をはじめ、多くの方々が戦ってくださったからです。私一人では、決してできませんでした」
余計なことを言っただろうか。
不安になったが、国王は機嫌を損ねる様子もなかった。
「共に戦った者たちの功を忘れぬか」
「もちろんです」
「己の働きを誇るばかりでなく、仲間への感謝も忘れぬ。その心がけも見事なものだ」
「……ありがとうございます」
第一部隊やほかの兵士たちのことを伝えたかったのに、なぜかまた自分が褒められている。
「そなたは平民の家に生まれ、王立学園で学んでいたと聞く」
「はい」
「それが戦闘魔術の才を見出され、前線へ赴いた。恐ろしくはなかったか?」
怖くなかったと言えば嘘になる。アンナは少し迷ってから、正直に答えた。
「……怖かったです」
広間がわずかにざわめいた。
「それでも行ったのだな」
「はい。私の力が役に立つのであれば、できることをしたいと思いました」
「そして実際に、多くの者を救った」
国王が立ち上がる。
「恐れを知らぬ者だけを、勇敢とは呼ばぬ。恐れを知り、それでも己にできることを果たした者をこそ、人は勇敢と呼ぶのであろう」
何も答えられなかった。
嘘を言ったわけではない。それなのに、自分が答えるたび、少しずつ立派な話になって返ってくる。
「アンナ」
「はい」
「平民の身から立ち上がり、王国の危機に際してその力を尽くしたそなたの働きは、広く称えられるべきものである」
国王の声が、静まり返った広間に響く。
「その功績をもって、余はそなたをセレディア王国の英雄として称えよう」
思わず息を呑んだ。
ラグナスでも、兵士たちから英雄と呼ばれた。
あのときでさえ、自分には大きすぎる呼び名だと思ったのに、今は国王がそれを口にしている。
「……身に余るお言葉でございます」
「受け取っておけ。そなたが何と言おうと、成し遂げたことまで小さくなるわけではない」
それを合図にしたように拍手が広がった。
軍人たちが敬礼し、貴族たちも称賛を示している。
アンナはどうしていいかわからず、深く頭を下げることしかできなかった。
戦功に対する褒賞として、アンナには勲章と褒賞金が与えられることになった。
さらに今後は、王国の功労者として相応の礼遇を受けるという。
これでようやく終わった。
そう思っていたアンナは、広間を出てすぐに呼び止められた。
「アンナ殿。改めて、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「実に見事なご活躍でした。ぜひ今度、我が家にもお越しください」
返事をしている間に、別の貴族まで近づいてくる。
「娘があなたと年が近いのですよ。ぜひ一度、茶会にも」
「は、はい」
晩餐に茶会、ラグナスでの話を聞きたいという誘いまで続き、アンナは返事をするだけで精一杯になった。
そのうち、一人の貴族が尋ねてくる。
「アンナ殿は、まだ婚約されていないのでしょう?」
「はい」
「そうですか。実は我が家にも年頃の息子がおりまして──」
「あなたは気が早い」
別の貴族が口を挟んだ。
「ですが、皆いずれ同じことを考えるでしょう」
何の話だろう。
アンナが戸惑っていると、低い声が割って入った。
「そのくらいにしていただきたい。本人は昨日、前線から帰還したばかりです」
貴族たちが振り返る。
そこにいたのは、先ほど広間で見た黒髪に金の瞳の男性だ。
「ヴァルデン侯爵」
「お話なら、また日を改めていただければ」
魔術軍団長でもあるアルベルトに言われ、貴族たちはようやく引き下がる。
「……ありがとうございます」
礼を述べると、アルベルトがこちらへ向き直る。
「直接会うのは初めてだな」
「はい。侯爵さま」
「少し時間はあるか。今日のことについて、説明しておいた方がいい」
案内された控室で向かい合うと、アルベルトが単刀直入に切り出した。
「今日の扱いに驚いたか」
「……はい」
「王家は、今回の戦争における英雄として、君を広く国民に知らしめるつもりだ」
アンナはぎょっとした。
今日の謁見だけでも大変だったのに、これからさらに大勢の人に知られることになるのだろうか。
「今日、陛下から称えていただいたことで終わりではないんですか?」
「むしろ、これからだ」
アルベルトは淡々と続ける。
「戦争が続けば、兵だけでなく民も疲弊する。物資は軍へ回され、家族を前線へ送り出す者もいる。当然、戦死者も出る。その中で我が軍はラグナスを奪還した。王国としては、この勝利を民に強く印象づけたい」
「そのために、私を?」
「勝利には、それを象徴する存在がいた方がいい。平民の学生が戦闘魔術の才を見出されて前線へ赴き、ヴァルガ要塞で敵の防御陣を破壊した。さらにラグナスでは敵の大規模魔術を阻止し、多数の兵を救った。その直後にラグナスを奪還している。民にとっては非常にわかりやすい」
アルベルトはそこで、わずかに皮肉めいた笑みを浮かべた。
「平民の少女が王国を救った英雄となった。民に希望を与え、『自分たちも王国のために』と思わせるには、これ以上ない話だろう」
アンナは返事に迷った。
戦場で自分にできることをしただけなのに、その戦いが、今度は人々を奮い立たせるための物語になるという。
喜んでいいのか、困ればいいのかもわからない。
「つまり私は……利用されるということですか?」
「そういう言い方が気に入らないなら、期待されていると言い換えてもいい」
「意味は同じではありませんか?」
「同じだな」
あまりにあっさり認められ、アンナは返す言葉を失った。
「でも、ラグナスは私一人で勝ったわけではありません」
「知っている。私は魔術軍団長だぞ」
アルベルトの答えには迷いがなかった。
「ラグナスの勝利は、そこにいた全将兵の戦果だ。だが、その働きを一人ずつ国民へ説明することはできない。だから象徴となる者が必要になる」
確かに、ラグナスで戦った人たちのことを一人ずつ伝えるのは難しいだろう。
だからといって、自分がその代表になるとは、まだうまく考えられなかった。
「無論、存在しない戦功を君に背負わせるという話ではない。今日読み上げられたことは、すべて君が実際に成し遂げたものだ」
「……はい」
すべて納得できたわけではない。
それでも、今日なぜあれほど大勢の前で「英雄」と称えられたのかは、ようやく理解できた気がする。
「それと、先ほどのようなことは今後も増えるだろう」
「先ほどのようなこと?」
「縁談だ」
「……縁談?」
「国王陛下から英雄として称えられた、若い未婚の女性だ。戦闘魔術師としても優秀となれば、縁を結びたいと考える家はいくらでもある」
そこでようやく、先ほど息子の話を始めた貴族の意図に気づく。
「……あれ、そういう意味だったんですか」
「気づいていなかったのか」
「はい……」
アルベルトは呆れたようにアンナを見た。
「その点では、レオンハルトが先に名乗り出ていたのは悪くなかったかもしれんな」
「隊長がですか?」
「ああ」
少しの間、アルベルトは考え込む。
そして、何でもないことのように尋ねた。
「で、君はレオンハルトとエルネスト、どちらを選ぶ?」
「…………はい?」




