27.恋人ではなくなった二人が、もう一度手を繋ぐまで
ラグナスを発った翌日の午後、アンナは王都へ戻った。
軍の馬車が門を抜けると、見慣れた街並みが窓の向こうに流れていく。
店先では客と店主が話し込み、大通りには荷車が行き交い、母親と手を繋いだ子どもが歩いていた。
前線へ向かったのは、それほど前のことではない。
それでも、変わらず続く王都の日常を眺めるうちに、ようやく帰ってきたのだと実感が湧いてくる。
王宮に隣接する軍施設へ到着すると、明日は国王との謁見が予定されていること、そのための迎えが朝に来ることを告げられた。
ラグナスでも聞いていた話だが、いよいよ明日となると緊張する。
でも、明日のことを考えるのは、家に帰ってからでいい。
ミモザ雑貨店の扉を開けると、棚を整理していたエレナが振り返った。
「いらっしゃ……アンナ?」
「お母さん。ただい──」
「アンナ!」
最後まで言う前に、駆け寄ってきたエレナに抱きしめられた。
「ちょ、お母さん、苦しい」
「我慢しなさい。どれだけ心配したと思ってるの」
「ごめん」
「謝らなくていいから、ちょっと顔を見せて」
ようやく身体を離したエレナは、アンナの顔から肩、腕へと忙しなく視線を走らせる。
「怪我は?」
「してないよ。魔力を使いすぎて倒れたけど──」
「倒れたの?」
「もう大丈夫だから」
「アンナ?」
奥から聞こえた声に振り返ると、マルセルが立っていた。
「お父さん」
「……おかえり」
「うん。ただいま」
答えた途端、胸の奥が熱くなる。
セレディアの旗が上がったのを見たときも、王都の城門をくぐったときも嬉しかった。
それでも、父と母の顔を見て初めて、本当に戦場から帰ってきたのだと思えた。
「姉ちゃん!」
トーマまで奥から飛び出し、アンナの腰に抱きつく。
「おかえり!」
「ただいま」
今度は笑って、アンナも弟を抱き返した。
少し早い夕食を囲みながら、ラグナスでのことを話した。
危険だった部分はなるべく簡単に済ませたが、王都にはすでに戦場の噂が届いているらしい。
「ラグナスで、敵の大きな魔術を壊した女の戦闘魔術師がいるって話が出てるのよ。やっぱりアンナなの?」
「壊したのは私だけど、私一人でできたことじゃないよ。第一部隊の皆さんが守ってくれてたし、ほかの戦闘魔術師の人たちもいたから」
「そんなに大変な戦いだったのね」
「……うん」
「これ以上聞いたら、今夜眠れなくなりそうだわ」
エレナはそう言って、アンナの皿に料理を追加した。
「戦場でちゃんと食べてたの?」
「食べてたってば」
「姉ちゃん、本当に英雄なの?」
「違うよ」
「でも、すごい魔術を壊したんだろ?」
「そうだけど……」
「じゃあ英雄じゃん」
「どうしてそうなるの」
アンナは苦笑しながら、久しぶりの家の料理を口に運んだ。
「……おいしい」
「いつもと同じよ?」
「うん。だからおいしい」
エレナは嬉しそうに、アンナの皿へもう一度目をやった。
「そういえば、エルネスト君には会ったの?」
「まだ。これから会いに行こうと思ってる」
「そう」
それだけ答えて食事へ戻ったエレナの顔を、アンナはじっと見た。
「……何?」
「何も言ってないでしょう?」
「その顔、何か言いたそうだけど」
「気のせいよ」
どう見ても気のせいではない。それでもアンナは、それ以上聞かずにおいた。
夕方、アンナは王立学園の研究棟へ向かった。
鞄の中には、ラグナスから持ち帰った人工魔晶石が入っている。
大きなひびが入り、もう使うことはできないが、エルネストには直接見せたかった。
ラグナスへ向かう途中で届いた手紙には、帰ったら研究室へ来てほしいと書かれていた。
魔術の相談がなくても待っている、と。
だから、ここへ来ることに迷いはなかった。
それなのに研究室の前まで来ると、扉を叩く手が止まる。
恋人だった頃なら、会いに来るだけでこんなに緊張することはなかった。
今はまだ別れたままで、以前と同じように振る舞っていいのかわからない。
それでも会いたかった。
アンナは扉を叩いた。
「はい」
聞き慣れた声がして、ほどなく扉が開く。
「アンナ……」
エルネストが驚いた顔で立っていた。
無事に帰還したことは伝わっているはずなのに、彼はアンナを見つめたまま、しばらく動かなかった。
帰る途中では何を話そうか、いろいろ考えていたはずなのに。
実際に顔を見ると、最初に出てきたのは別の言葉だった。
「……ただいま」
エルネストの表情が和らいだ。
「おかえり」
その声を聞いた途端、また一つ、帰ってきたのだと思えた。
エルネストの腕がわずかに動く。
アンナも一歩近づきそうになったが、結局どちらも途中で止まってしまった。
以前なら、久しぶりに会った恋人を抱きしめることに理由などいらなかった。
今は、その距離を越えていいのかわからない。
短い沈黙のあと、エルネストが少し困ったように口元を緩める。
「……中に入る?」
「うん」
アンナも頷き、研究室へ入った。
「エルネストに見せたいものがあるの」
椅子に座ると、アンナは鞄から人工魔晶石を取り出した。
机の上へ置かれたそれを見て、エルネストが身を乗り出す。
「これ……」
「ラグナスまで届けてくれたの。戦ってる最中に」
エルネストは魔晶石を手に取り、大きく入ったひびを確かめた。
「もう使えないと思う」
「うん。これだけひびが入っていたら、魔力は溜められない」
「でも、ちゃんと使えたよ」
アンナはエルネストの顔を見つめる。
「ありがとう。これがなかったら、あの魔術を壊せなかった」
エルネストは手の中の魔晶石へ目を落とした。
「……役に立ったんだ」
「うん」
「まだ、ちょっと信じられないな」
「何が?」
「ちゃんと使えるものができたことも、それがラグナスまで行って、アンナの役に立ったことも」
「壊れちゃったけど」
「それはいいよ。また作るから」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないよ。でも、一度できたんだから、次は今回より先に進める」
エルネストはそう言って、ひび割れた魔晶石を机へ戻す。
アンナは思わず頬を緩めた。
「エルネストらしい」
「そう?」
「うん」
何度失敗しても研究を続けていた人だ。
一つ壊れたくらいで止まるはずがない。
「これを見せるために来てくれたの?」
「それもあるけど」
アンナは少しだけ迷ってから、エルネストを見つめる。
「それだけじゃないよ」
「え?」
「エルネストに会いに来たの」
エルネストはすぐには何も言わなかった。
「手紙に書いてくれたでしょう? 魔術の相談がなくても来ていいって」
「……うん」
「だから来た」
口にしてしまえば、思っていたほど恥ずかしくはない。
「何を話そうか、帰る途中で考えてたんだけどね」
「考えなくてよかったのに」
「何も用事がないと、何を話せばいいのかわからなくて」
「何でもいいよ」
「じゃあ、本当にどうでもいい話をしてもいい?」
「もちろん」
アンナはラグナスでの食事のことや、第一部隊の人たちのことを話した。
王国でも指折りの戦闘魔術師ばかりが集まっているから、もっと近寄りがたい人たちだと思っていたのに、詰め所では隊長をからかったり、報告書を早く書けと催促したりしていたこと。
「隊長には、私もよくからかわれたけど」
「兄上らしいね」
エルネストは可笑しそうに相槌を打った。
そういえば、レオンハルトが自分の婚約者候補に名乗り出たことを、エルネストは知っているのだろうか。
ラグナスでも一度気になって、レオンハルト本人に尋ねたことがある。
そのときは「知ってるんじゃないかな」と曖昧な答えしか返ってこなかった。
手紙にも、そのことは何も書かれていない。
「……エルネスト、一つ聞いてもいい?」
「何?」
「隊長が、私の婚約者候補に名乗り出たことって……知ってる?」
エルネストの表情がわずかに変わった。
「知ってるよ」
「やっぱり知ってたんだ」
「うん。父上から聞いた」
レオンハルトが言っていた通りだったらしい。
「手紙には何も書いてなかったから、知らないのかと思ってた」
「書こうか迷ったんだけど……前線にいるアンナに、わざわざ僕から聞くことじゃないと思って」
「そうだったんだ」
「兄上からは何か言われた?」
「聞いたよ。本当に私を婚約者にするつもりなのかって」
「それで?」
「答えてくれなかった」
「……兄上らしいな」
エルネストは困ったように眉を下げた。
「コンラート隊長を止めるためなのか、エルネストをからかいたいのか、それとも本気なのか聞いたんだけど、どれもはっきりしなくて」
「僕をからかいたいのはあるんだ」
「少しはあるって」
「そこは認めたんだ……」
アンナもそのときのやり取りを思い出したが、エルネストは少し考えるように黙った。
「……兄上、本気なのかな」
「私にもわからない。昨日も、まだ婚約者候補から降りたわけじゃないって言われたけど」
「そっか」
エルネストの声が少し沈んだ。
その顔を見ていると、アンナも落ち着かなくなった。
レオンハルトのことで、エルネストに余計な心配をしてほしくない。
「でも、私は王都に帰ったらエルネストに会いたいって、ずっと思ってたよ」
「アンナ……」
「昨日も隊長に、帰ったら会うって話したの」
エルネストは驚いたようにアンナを見た。
改めて本人に言うのは少し恥ずかしかったが、伝えずにはいられなかった。
「会いたかった」
エルネストはすぐには答えない。
「僕も」
やがて返ってきた声は静かだった。
「ずっと会いたかった」
エルネストの手がアンナへ伸びかけ、途中で止まる。
研究室の入口でも同じだった。
アンナはその手を見てから、自分から手を伸ばした。指先が触れ、そのまま手を重ねる。
「アンナ?」
アンナは触れた手をそのままに、彼を見上げた。
「これくらいなら、いいでしょう?」
「……うん」
エルネストが手を握り返す。
恋人だった頃なら、何も考えずにしていたことだった。
それなのに今は、触れた手の温かさがひどく嬉しい。
しばらくそのままでいるうちに、アンナは明日のことを思い出した。
「明日、国王陛下にお会いするの」
「聞いたよ」
「考えたら緊張してきた」
「ラグナスへ行くって決めたときより?」
「それとこれとは別だよ。国王陛下なんて、今まで遠くからしか見たことないもの」
「そっか」
「何を話せばいいんだろう」
「聞かれたことに答えればいいんじゃない?」
「それはそうなんだけど……」
エルネストの口元に、ようやくいつもの穏やかな笑みが戻る。
「大丈夫。明日になったら、ちゃんと話せるよ」
「そうだといいけど」
窓の外へ目を向けると、すでに日が傾いていた。
家へ帰ったばかりなのに、あまり遅くなれば両親に心配をかける。
「そろそろ帰らないと」
「うん」
そう答えたエルネストも、すぐには手を離さなかった。
アンナも離さずにいたが、このままではいつまでも帰れない。
「……エルネスト」
「何?」
「手」
「あ……ごめん」
「謝らなくていいよ」
ようやく離れた手が、少しだけ名残惜しい。
アンナは立ち上がり、鞄を手に取った。
「明日が終わったら、また来てもいい?」
「もちろん」
「今度も、用事がなくても?」
「うん。その方が嬉しい」
その答えが嬉しくて、アンナは自然と笑顔になった。
「じゃあ、また来るね」
「待ってる」
明日、国王と会って何を言われるのかはわからない。
けれど、そのあとにはまたここへ来る。
そう思うと、明日を迎えることが少しだけ楽しみになった。




