26.ラグナスの英雄になったそうですが、私は早く彼に会いたいです
目を覚ましたとき、アンナが最初に見たのは白い布だった。
何度か瞬きをして、それが天幕の天井だと気づく。
身体を起こそうとすると、すぐそばから声がかかった。
「まだ起きない方がいいですよ」
椅子に座っていた女性が立ち上がる。
胸元にはセレディア軍の徽章があり、どうやら治療師らしい。
「私……」
「昨日の戦闘のあと、こちらへ運ばれてきたんです。怪我はありませんが、魔力をかなり消耗しています」
そこまで聞いて、意識を失う直前に見た光景を思い出した。
「ラグナスは?」
「セレディア軍が押さえていますよ。昨日のうちに主要な鉱山も制圧したそうです」
「本当ですか?」
「ええ」
アンナはゆっくりと息を吐いた。
最後に見たセレディアの旗は、夢ではなかったらしい。
「私、一晩寝ていたんですか?」
「それくらいです。第一部隊から何度も容体の問い合わせがありましたよ。レオンハルト隊長も来ようとなさっていたそうですが、戦後の対応で手が離せないとかで」
「隊長が……」
「ほかにも、あなたが目を覚ましたか聞きに来る方が何人もいました。治療の邪魔になるので、中には入れませんでしたけど」
「どうしてですか?」
治療師は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「外に出ればわかると思います」
答えになっていない。気にはなったものの、それより先に確かめたいことがあった。
「あの、私が持っていた魔晶石は?」
「こちらですね」
治療師が小箱を持ってきてくれた。
中に入っていた人工魔晶石には、大きなひびが入っている。手に取っても、もう魔力は感じられなかった。
あの一撃で、蓄えられていた魔力をすべて使い切ったのだろう。
「それから、こちらも一緒に届いていたそうです」
差し出されたのは、一通の手紙だった。
封に記された差出人の名前を見て、胸が高鳴る。
「エルネスト……」
アンナは封を開き、便箋を取り出した。
そこには、人工魔晶石の生成に初めて成功したこと、けれど成功したのは送った一つだけで、同じものを作ろうとしてもまだ再現できていないことが書かれていた。
性能も十分には調べられていない。
それでも、戦場にいるアンナの役に立つかもしれないと思い、送ってくれたらしい。
アンナは手紙から、ひび割れた人工魔晶石へ目を移した。
昨日は、そんなことを何も知らなかった。
もう打つ手がないと思われたとき、人工魔晶石が届いたのだ。
これならまだ戦えるかもしれない。ただそれだけを考えていた。
何度試しても、成功するとは限らない。
それでも研究を続け、ようやく形になったたった一つが、あのとき自分の手元まで届いた。
以前、レオンハルトと話したことを思い出す。
鍛錬なら、昨日より速くなった、強くなったと成果がわかる。
けれど研究は、続けた先に何かがあるのかさえわからない。
それでも続けられるエルネストはすごいのだと、レオンハルトは話してくれた。
その研究の成果が、遠いラグナスでアンナたちを救ったのだ。
あれがなければ、敵の大規模魔術を破壊することはできなかった。
手紙の最後には、アンナの無事を願う言葉が綴られている。
早くエルネストに会って、伝えたかった。
彼が作ったものが、どれほど大きな力になったのかを。
昼を過ぎる頃には、少し歩く程度なら構わないと許可が出た。
天幕の外へ出ると、昨日まで戦場だった場所にはまだ慌ただしさが残っている。負傷者の治療が続き、物資を積んだ荷車が行き交っていた。
けれど、遠くに見える旗は昨日までと違う。ラグナスの主要拠点に、セレディア王国の旗が翻っていた。
「……本当に取ったんだ」
意識を失う直前に見た旗が、今もそこにはためいている。
しばらく眺めてから歩き出すと、向こうから来た数人の兵士がアンナに気づいた。一人が何かを囁き、ほかの者もこちらを見る。
彼らは揃って道の端へ寄り、アンナが通れるよう場所を空けた。
もともと、すれ違うには十分な広さがある。なぜわざわざ避けられたのかわからず、戸惑いながら横を通り過ぎた。
少し先では、腕を吊った兵士がアンナを見るなり腰を浮かせた。
「待ってください。怪我をしているんですよね?」
「これくらいなら」
「座っていてください」
兵士は素直に座り直し、アンナへ深々と頭を下げる。
「昨日は、ありがとうございました」
「え?」
「あの魔術陣を見たときは、もう助からないと思いました」
その一言で、アンナにも何のことか伝わった。
「でも、私一人の力ではありません。第一部隊の皆さんが守ってくださって、ほかの方たちも──」
「知ってます」
兵士は顔を上げ、まっすぐにアンナを見つめる。
「みんなで戦ったことくらい、俺もわかっています。それでも、あれを壊してくれたのはあなたでしょう」
アンナは言葉に詰まった。
自分一人の手柄ではない。それでも、この人は感謝を伝えようとしてくれている。
これ以上否定するのも違う気がした。
「……どういたしまして」
そう答えると、兵士は嬉しそうに笑った。
その先でも、同じようなことが続く。
すれ違う兵士に頭を下げられ、知らない者から名前を呼ばれる。
やがて、少し離れたところから話し声まで聞こえてきた。
「ほら、あの人だよ」
「ラグナスの英雄?」
アンナは思わず足を止めた。
「……英雄?」
「何してるの?」
聞き慣れた声に振り向く。
「隊長」
レオンハルトがこちらへ歩いてきていた。
いつもと変わらない様子に見えるが、よく見れば目元に疲れが残っている。
「もう歩いて大丈夫なの?」
「少しくらいなら構わないと言われました。それより、何度も様子を聞いてくださったそうですね」
「ああ。見に来たかったんだけど、昨日からずっと戦後処理に捕まっててね。今やっと解放されたところ」
「お疲れさまです」
「本当にね。戦ってる方が楽だった」
冗談めかした言い方に、アンナも思わず笑ってしまう。
「それより隊長。さっき、英雄って聞こえたんですけど」
「ああ」
「知っていたんですか?」
「朝から何度も聞いたよ」
「……私のことなんですか?」
「ほかに誰かいる?」
「大げさです」
「俺に言われても困るな。俺が呼ばせてるわけじゃないし」
「やめてもらうことはできませんか?」
「一人ずつ捕まえて頼んでみる?」
「……やめておきます」
「賢明だね」
レオンハルトが笑いながら歩き出し、アンナも隣に並んだ。
ところが、しばらく進んだところで足元がふらつく。
「……っ」
身体が傾いた瞬間、レオンハルトの腕が背中へ回り、そのまま抱きとめられた。
「アンナ?」
「大丈夫です。少し立ちくらみがしただけで」
「昨日倒れた人の『だけ』は信用しないことにした」
「もう治まりました」
身体を起こしたものの、レオンハルトは背中に回した腕を離さない。
それどころか、支えたまま歩き出そうとする。
「隊長、もう一人で歩けます」
「知ってる」
「では、離してください」
「またふらつくかもしれないでしょ」
「大丈夫です」
「それ、さっきも聞いたな」
まったく離す気がないらしい。
「本当に大丈夫ですから」
「……わかったよ」
重ねて言うと、レオンハルトはようやく腕を離してくれた。
けれど、歩き出してからも距離は近いままだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「俺がそうしたいからいいの」
さらりと言われ、アンナは隣を見た。
「そういう言い方をされたら、何も言えないじゃないですか」
「じゃあ成功だね」
楽しそうに笑っている。
アンナは何か言い返そうとしたものの、結局諦めた。
「そういえば、君に話があるんだった」
「何ですか?」
「昨日の戦闘について、もう王都へ報告が届いてる」
「侯爵さまにもですか?」
「父上にも。その上にも」
「その上?」
「陛下」
アンナは足を止めた。
「……国王陛下ですか?」
「そう。昨日のことは当然報告されるよ」
王国軍の勝利に関わることなのだから、考えてみれば当然なのかもしれない。
それでも、急に落ち着かなくなる。
「それで、陛下から君を王都へ戻すように命令が来てる」
「私だけですか?」
「第一部隊は残る。ラグナスを取ったからって、戦争が終わったわけじゃないからね」
「隊長も残るんですね」
「うん」
わかっていたことなのに、胸に寂しさが広がる。
ここへ来てから、第一部隊とはずっと一緒だった。
戦場では守ってもらい、食事や休憩のときには他愛ない話もした。
最初は自分だけが場違いに思えた場所が、いつの間にか居心地のよい場所になっている。
「……皆さんと離れるのは、少し寂しいです」
「俺も王都まで送っていきたかったんだけどね」
思いがけない言葉に、アンナはレオンハルトを見た。
「無理でしょう。隊長なんですから」
「そうなんだよね。だから残念」
あっさり言って、レオンハルトは前を向く。
冗談なのか本気なのか、相変わらずよくわからない。
「王都に戻ったら、まずは陛下への報告かな。褒賞についても話が出てるみたいだけど、詳しいことは俺も知らない」
「褒賞……」
国王に会うだけでも緊張するのに、さらに話が大きくなっている。
「……帰りたくなくなってきました」
「でも、王都にはエルネストがいるよ」
その名前を聞いて、アンナは顔を上げた。
「……それは、帰りたいです」
「即答だね」
「隊長が言ったんじゃないですか」
「そうだけど。そんなに会いたい?」
「はい」
答えてから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど、今さら誤魔化すようなことでもない。
「会いたいです」
隣から返事がない。
アンナがそちらを見ると、レオンハルトもこちらを見ていた。
「……隊長?」
「何でもないよ」
レオンハルトの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「帰ったら、すぐ会いに行く?」
「そのつもりです」
「そっか」
それ以上は何も言わなかった。
やがて治療所が見えてくる。
「出発は明日の朝。護衛も決まってるから、今日はちゃんと休んで」
「はい。隊長もお気をつけて」
「うん」
「第一部隊の皆さんには、出発前にご挨拶します」
「その方がいいね。みんな喜ぶよ」
アンナが頭を下げ、治療所へ戻ろうとしたところで、後ろから名前を呼ばれた。
「アンナ」
「はい?」
「王都に帰っても、俺が婚約者候補から降りたわけじゃないからね」
アンナは驚いて振り返る。
「……まだ続けるんですか、それ」
「もちろん」
「そうですか……」
「嫌そうだね」
「だって、隊長が本気なのかどうかもわかりません」
「それは秘密」
レオンハルトは笑うばかりで、それ以上は何も教えてくれない。
治療所へ戻り、アンナは荷物を整理した。
以前エルネストから届いた手紙と、今日読んだ新しい手紙。その隣には、ひび割れた人工魔晶石がある。
以前の手紙を開けば、何度も読んだ文章が目に入った。
『帰ってきたら、研究室に来てください。魔術の相談がなくても、待っています。』
今なら、話したいことはいくらでもある。
人工魔晶石が本当に使えたことも、あれがなければ敵の大規模魔術を止められなかったことも、その結果、ラグナスを奪還できたことも。
けれど、そんな話がなくても会いに行くつもりだった。
アンナは二通の手紙と、ひび割れた人工魔晶石を荷物へしまう。
明日、王都へ帰る。
エルネストに会えることが、素直に嬉しかった。




