19.元恋人の兄との婚約話が広まっていますが、私は何も了承していません!
エルネストからの返事が届いたのは、アンナが手紙を出してから数日後のことだった。
前線と王都を行き来する手紙は、毎日決まった時間に届くわけではない。
戦況や輸送の都合で遅れることもあると聞いていたから、すぐに返事が来るとは思っていなかった。
それでも、自分宛ての封筒を受け取ると、早く中を読みたくてたまらなくなる。
差出人は、エルネスト。
アンナは部屋へ戻り、封を切った。
『覚えているよ。
帰ってきたら、研究室に来てください。魔術の相談がなくても、待っています。
無理はしないで。
君が帰ってくるのを待っています。』
短い返事だった。
けれど、一度読んだだけではしまう気になれず、もう一度最初から読み返す。
──帰ってきたら、研究室に来てください。
出発する前、自分から尋ねたことへの返事だ。
『今度は、魔術の相談じゃなくても?』
あのときエルネストは、その方が嬉しいと言ってくれた。
それでも、離れてから改めて手紙で確かめたのは、二人がもう恋人ではないからだった。
以前と同じように研究室を訪ねてもいいのか。エルネストは本当は困るのではないか。
手紙を送ってしまってから、そんな不安まで浮かんできたのだ。
「……よかった」
小さく呟き、便箋を丁寧に折り直す。
まだ帰る日は決まっていないし、戦争も終わっていない。
それでも、帰ったら会いに行っていいのだ。
最後の一文をもう一度確かめてから、アンナは手紙を封筒へ戻した。
その日、第一部隊の詰め所へ向かう途中で、アンナは何度か妙な視線を感じた。
顔を知られていること自体は、もう珍しくない。初陣で敵の防御陣を壊して以来、要塞内では見知らぬ兵士に声をかけられる機会が増えている。
最初はいちいち驚いていたが、最近では「あのときの学生か」と言われても、軽く頷く程度には慣れてきた。
ところが、今日は少し様子が違う。
「……あの子じゃないか?」
「たぶん。第一部隊にいる学生って一人だろ」
すれ違った兵士たちの声が耳に入った。
また防御陣の話だろうか。そう思いながら詰め所へ入ると、ディートリヒがアンナを見るなり笑った。
「来た来た」
「何ですか?」
「アンナ、今日はずいぶん見られただろ」
「どうして知ってるんですか?」
「そりゃ、こっちにも話が回ってきたからな」
何の話かわからずにいると、近くにいたリゼットが教えてくれた。
「隊長の婚約者候補だって話」
「……え?」
思いがけない言葉に、アンナはリゼットを見つめる。
あの話を知っているのは、その場にいた人たちだけだと思っていたのに。
「どうして、その話が広まってるんですか?」
「第三部隊の方からだろうな」
ディートリヒは椅子の背にもたれたまま、話を引き取る。
「コンラート隊長が副隊長を連れてきたことも、そのあとうちの隊長が名乗り出たことも、向こうじゃそれなりに知られてるみたいだぞ」
「そんな……」
あの場にはコンラートとフェリクスだけでなく、第一部隊の隊員たちもいた。
秘密にしてほしいと頼んだ覚えもないが、だからといって、要塞内で噂になるとは思っていなかった。
「それで、さっきから見られてたんですね……」
「防御陣を一撃で壊した学生が、今度はレオンハルト隊長の婚約者候補だっていうんだから、そりゃ話題にはなるだろ」
「私は婚約者じゃありません」
「候補だろ?」
「それも隊長が勝手に──」
「そこは私もアンナに同情するわ」
リゼットが口を挟んだ。
「隊長が勝手に名乗り出たのに、周りから婚約者候補として見られるんだものね」
「そうなんです!」
「でも、昨日は朝も夜も一緒に食べてたけど」
「それは隊長が!」
「知ってる、知ってる」
笑いながら返され、アンナは言葉に詰まった。
「俺が何?」
後ろから声がして振り返ると、レオンハルトが詰め所へ入ってきた。
「隊長!」
「うん?」
「婚約者候補の話が広まってるそうです」
「ああ、その話」
「ああ、じゃありません!」
思わず声が大きくなる。
レオンハルトは少し驚いたようだったが、すぐに笑った。
「でも、俺が婚約者候補に名乗り出たのは本当だよ」
「そうですけど……。コンラート隊長が勝手に結婚相手を探すのを止めるためだったんじゃないんですか?」
「それも理由の一つだね」
「……一つ?」
「うん」
「ほかにもあるんですか?」
「どうだろうね」
「またそれですか」
何度聞いても、肝心なところではぐらかされる。
「とにかく、誤解されるような言い方はやめてください」
「誤解?」
「本当に私と結婚するみたいに思われるじゃないですか」
「まだ婚約者候補としか言ってないよ」
「だから、その候補が問題なんです」
言い返したところで、詰め所の扉が再び開いた。
「レオンハルト隊長、少しよろしいでしょうか」
入ってきたのは、アンナの知らない軍人だった。
第一部隊の面々が軽く姿勢を正すところを見ると、階級の高い人物らしい。
「もちろん。何でしょう」
男はレオンハルトに書類を渡してから、アンナに目を向けた。
「彼女が、例の学生ですか」
「ええ。アンナです」
「ああ、防御陣を破壊した──」
そこで男は何か思い出したように、レオンハルトを見た。
「それに、あなたの婚約者候補だとか」
「はい」
「隊長!」
間髪入れずに肯定され、アンナは思わず声を上げる。
男は目を丸くしたあと、笑った。
「これは失礼。まだ決まった話ではないようですね」
「ええ。これからです」
「何も始まってません!」
慌てて訂正したものの、男は楽しそうに笑いながら出ていってしまった。
扉が閉まるなり、アンナはレオンハルトに向き直る。
「どうして否定しないんですか?」
「事実だから」
「どこがですか?」
「俺は候補に名乗り出た。アンナはまだ誰とも婚約していない。何も間違ってないだろ?」
確かに、言葉だけを拾えば間違ってはいない。
だから余計に困るのだ。
「隊長、本当はどういうつもりなんですか?」
「どういうつもりだと思う?」
「質問に質問で返さないでください」
「困ったな」
「コンラート隊長を止めるためですか?」
「それもある」
「エルネストをからかいたいんですか?」
「それも少しあるかな」
アンナは眉を寄せた。冗談半分で巻き込むのは、やめてほしい。
「じゃあ、本当に私を婚約者にするつもりもあるんですか?」
今度こそ答えてくれるかと思ったが、レオンハルトは笑っただけだった。
「さあね」
「……もういいです」
これ以上聞いても無駄だろう。
アンナが諦めると、レオンハルトはますます楽しそうにしている。
ふと、別のことが気になった。
「この話、エルネストも知ってるんでしょうか」
「知ってるんじゃないかな」
「そうなんですか?」
「父上の耳にも入ってるだろうしね。そこから聞いていてもおかしくない」
今日届いた手紙には、レオンハルトのことなど何も書かれていなかった。
知らないのかもしれないし、知っていて触れなかったのかもしれない。
「気になる?」
少し迷った末、アンナは頷いた。
「……気になります」
「別れたのに?」
「別れたら、何も気にならなくなるわけじゃありません」
そう答えると、レオンハルトはしばらくアンナを見ていた。
いつものようにからかわれるかと思ったが、何も言わない。
「帰ったら、自分で聞いてみたら?」
「このことをですか?」
「気になるんだろ?」
「……そうですね」
帰ったら。その言葉に、先ほど読んだ手紙が浮かんだ。
『君が帰ってくるのを待っています』
研究室へ行ったとき、本当に聞くかどうかはわからない。
それでも、帰れば会える。
そう考えたところで、詰め所の扉が勢いよく開いた。
「隊長!」
駆け込んできた隊員の表情は険しく、レオンハルトからも笑みが消える。
「どうした?」
「司令部から招集です。至急来るようにと」
「わかった」
レオンハルトはすぐに詰め所を出ていった。
レオンハルトが戻ってきたのは、それからしばらく経ってからだった。
第一部隊の面々が集められ、机の上に地図が広げられる。
「グランベル軍が動いた」
レオンハルトが地図の一点を指した。
「ラグナス方面へ、大規模な兵力を移動させている」
「ラグナス……」
アンナも地図に目を向けた。授業で習ったことがある。
セレディアとグランベルが長く争ってきた地域で、天然魔晶石の鉱床が多い。
現在はグランベル側が主要な地域を押さえていたはずだ。
「こちらも戦力を集めることが決まった。第一部隊も移動する」
先ほどまでとは違い、誰も余計なことを口にしない。
「出発は明朝。それまでに準備を済ませて」
隊員たちから次々と返事が上がった。
「マルティナ、移動準備をまとめて。必要な物資は司令部に回して」
「了解しました。各班にも私から伝えます」
「頼む」
マルティナはすぐに書類を手元へ引き寄せ、必要事項を書き始めた。
アンナはもう一度地図を見てから、レオンハルトに尋ねる。
「何時に出発ですか?」
「もう『私もですか』とは聞かないんだね」
「第一部隊が行くなら、私も行くんでしょう?」
「うん。そのつもりだよ」
「なら、準備します」
レオンハルトは満足そうに頷いた。
「日の出前に集合。遅れないでね」
「はい」
「アンナ、必要なものがわからなかったら聞いて」
書類を確認していたマルティナから声がかかる。
「ヴァルガまでとは違って、今度は途中で簡単に補充できない可能性もあるから」
「わかりました。ありがとうございます」
「準備ができたら、一度確認するわ」
マルティナは部隊全体の準備を進めながらも、アンナのことを気にかけてくれている。
礼を言ってから、アンナも自分の荷物を確認するために詰め所を出た。
その夜、荷物をまとめていたアンナは、エルネストから届いた手紙を手に取った。
ヴァルガ要塞へ来てから、まだそれほど日が経っていない。
それでも、王都を出たときには想像もしていなかったことがいくつも起きている。
初めて戦場に立ち、敵の防御陣を壊した。
レオンハルトの婚約者候補になったという話まで広まってしまった。
そして明日には、ここを離れることになる。
便箋を開き、最後の一文を読む。
『君が帰ってくるのを待っています。』
アンナは手紙を封筒へ戻し、荷物の中へ大切にしまった。
帰ったら、エルネストに聞いてみたいことができた。けれど、その前に行かなければならない場所がある。
翌朝、第一部隊はヴァルガ要塞を発つ。
向かう先は、ラグナスだった。




