17.元恋人の兄に朝から晩まで婚約者候補として接近されています
翌朝、食堂へ向かっていたアンナは、廊下の先に少し見慣れてきた姿を見つけて足を止めた。
「おはよう、アンナ」
「おはようございます。……どうしたんですか?」
壁際に立っていたレオンハルトが、待っていたとばかりに歩み寄ってくる。
「朝食はまだ?」
「これからですけど」
「じゃあ、一緒に食べよう」
「第一部隊の皆さんとですか?」
「俺と」
当然のように返され、アンナはレオンハルトを見上げた。
「どうしてですか?」
「婚約者候補だから」
「……本当にやるんですね」
「叔父上に、口だけじゃなく態度で示せと言われたからね」
昨日のやり取りを思い出し、アンナは返事に困った。
コンラートを止めるために言っただけなのだろうと思っていたのに、どうやら本当に婚約者候補として振る舞うつもりらしい。
「ほら、行こう。朝食の時間がなくなるよ」
促され、仕方なく隣を歩く。
ところが、いざ二人で食事を始めてみると、思っていたほど居心地は悪くなかった。
「昨日は眠れた?」
「はい。初日よりはよく眠れました」
「それならよかった。身体は?」
「大丈夫です。魔力も戻ってます」
「なら、今日は問題なさそうだね」
体調の話が終われば、今度は王都のことや学園のことを聞かれる。
無理に話題を探している様子もないのに会話が途切れず、アンナもいつの間にか普段どおりに答えていた。
「隊長って、こういうことに慣れてますね」
「こういうこと?」
「女性と二人で食事をすることです」
「ああ。それくらいならね」
さらりと言われて、アンナはそれ以上聞けなかった。
考えてみれば、レオンハルトはヴァルデン侯爵家の嫡男だ。
社交の場に出る機会など、平民のアンナには想像もつかないほど多いのだろう。
「隊長、本当にやってる」
横から声がして振り返ると、第一部隊の隊員が呆れたようにこちらを見ていた。
「何が?」
「婚約者候補ですよ。昨日の今日で、もう二人で朝食ですか」
「やると言ったからね」
「律儀なんだか何なんだか……」
レオンハルトは気にした様子もなく食事を続ける。
からかわれている本人よりも、アンナの方が落ち着かない。
その日の戦闘は、ヴァルガ要塞からさほど離れていない場所で起きた。
初陣の日ほど大規模ではないものの、敵味方の魔術が飛び交う光景には、まだ慣れなかった。
「アンナ、前に出すぎないで」
「はい!」
返事をしながら前方へ目を向ける。第一部隊の戦闘魔術師たちは、アンナよりずっと広く周囲を見ていた。
敵の攻撃を防いだ直後には別の敵へ魔術を放ち、必要とあれば通常兵の援護にも回る。
自分もいつか、あんなふうに動けるようになるのだろうか。
そう考えたとき、敵兵の一人がこちらへ向かってくるのが見えた。
アンナは咄嗟に右手を向ける。
撃たなければ。
頭ではわかっているのに、相手が人間だと思った途端、魔術を放てなくなってしまった。
「アンナ!」
別方向から飛んできた魔術が敵兵の足元へ着弾する。
敵が退いた隙に、味方の兵士が前へ出た。
「すみません」
「謝るのはあと。あれが見える?」
レオンハルトが指した先には、敵陣の後方に設置された魔術具があった。
そこから展開された術式が、前方の敵兵たちを薄い障壁で守っている。
「見えます」
「壊せる?」
狙うのが人ではなく魔術具なら、迷う理由はなかった。
「はい」
「じゃあ任せる。中央は左右に展開してアンナの射線を確保! ディートリヒはそのまま前進!」
「了解! 右側、もう少し広がって! 左側は敵の攻撃に備えて!」
右手にいたマルティナが、隊員たちの動きを見ながら指示を飛ばす。
隊員たちは素早く位置を変え、アンナから魔術具までの射線が開いた。
初陣の日ほどの威力はいらない。
周囲の兵士を巻き込まないよう、魔術具だけを狙う。
魔力を調整して放った一撃が命中すると、魔術具が砕け、敵兵を覆っていた障壁も消えた。
「今だ!」
レオンハルトの号令で、第一部隊が攻勢に出る。
障壁を失った敵兵たちはその勢いを支えきれず、やがて撤退を始めた。
戦闘が終わっても、アンナの胸には先ほどのことが引っかかっている。
「隊長」
「何?」
「私、まだ人に向けて撃てませんでした」
「ああ」
驚いた様子のないレオンハルトに、アンナは尋ねた。
「気づいてたんですか?」
「見てたからね」
「……戦闘魔術師になるなら、慣れないと駄目ですよね」
「必要なときに撃てるようにはならないといけない」
きっぱりとした声が返ってきた。
慰めのために答えを濁すつもりはないのだろう。
「でも、今日できないことを気にして、できることまでできなくなる必要はないよ。今日はあれを壊した。それで十分」
そう言って、レオンハルトは先を歩いていく。
アンナはその背中を見つめた。
第一部隊の隊員たちが彼を信頼しているのは、強いからだけではないのだろう。
要塞へ戻ってしばらくすると、レオンハルトに呼び止められた。
「アンナ、右手を見せて」
「右手ですか?」
「うん」
言われるまま差し出すと、レオンハルトが手首を取った。
「痛みは?」
「ありません」
「痺れは?」
「それもないですけど……」
「じゃあ、今のところは大丈夫かな」
手を離されても、アンナには理由がわからない。
「どうして急に?」
「今日、魔術を撃ったあとに何度か右手を握ってたでしょう」
言われて初めて思い出した。
少し違和感があって、確かに何度か指を動かしたのだ。
「見てたんですか?」
「俺の指揮下にいるんだから、それくらいは見るよ」
そう言って一度離れたレオンハルトは、しばらくして手首を覆う革製の装具を持って戻ってきた。
「これ、使ってみて」
「私にですか?」
「大きな魔術を使うときの負担を少し減らせる。今の君には合うと思うよ」
受け取りかけて、アンナは手を止めた。
「……これは隊長としてですか?」
「いや」
短い否定に、嫌な予感がする。
「婚約者候補として」
「それなら受け取れません」
「即答だね」
「だって、そういう意味の贈り物なら困ります」
「そっか」
意外にも、レオンハルトはあっさり引いた。
「じゃあ、貸すだけにしよう。返すのは王都に戻ってからでいいよ」
「……結局、使わせようとしてません?」
「ばれた?」
悪びれもせず笑う相手に、アンナはため息をつくしかない。
夕方、食堂へ向かおうと部屋を出たところで、またレオンハルトが待っていた。
「……今度は何ですか?」
「夕食」
「まさか、また一緒に?」
「そのまさか」
今度は手まで差し出され、アンナは戸惑った。
「何ですか、その手」
「エスコート」
「食堂までですよ?」
「距離は関係ないでしょう?」
迷った末、その手に自分の手を重ねる。
レオンハルトは満足そうに笑うと、歩き出した。
途中の扉は先に開け、アンナを通してから自分が続く。
階段では当たり前のように手を差し出され、持っていた荷物までいつの間にかレオンハルトの手に移っていた。
「隊長、私、自分で持てます」
「知ってるよ」
「じゃあ返してください」
「嫌だ」
「どうしてですか」
「婚約者候補だから」
「それ、便利に使ってません?」
「便利だね」
エスコートは驚くほど様になっているのに、本人はいつもの調子だった。
食堂へ入ると、先に来ていた第一部隊の面々から一斉に視線を向けられる。
「……隊長、本当にやってる」
「朝も聞いたよ、それ」
「だって、今度はエスコートまでしてるじゃないですか」
レオンハルトは気にする様子もなく、アンナの椅子を引いてくれる。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
席に着くと、向かいの隊員が笑いながら話しかけてきた。
「でも、隊長にエスコートしてもらいたい令嬢なんて、王都にはいくらでもいるでしょうね」
「そんなに人気があるんですか?」
アンナが尋ねると、隊員たちは顔を見合わせた。
どうやら、わざわざ尋ねるまでもないことらしい。
「アンナ、本当に知らないんだな」
「知りませんけど……」
「夜会に出れば、ダンスの相手には困らないですよね」
「困ったことはないかな」
本人まであっさり認めるのだから、相当なものなのだろう。
「隊長が出席するってわかると、娘を連れてくる家もあるくらいですから」
「それは俺のせいじゃないだろ」
「次期ヴァルデン侯爵ですからね。それだけでも十分なのに、第一部隊の隊長で、本人もこれですし」
「これって何?」
「顔ですよ」
「そこはちゃんと言ってくれるんだ」
「そういえば、前に王都へ戻ったときなんて、隊長宛ての招待状が詰め所にまで来てませんでした?」
「あったね」
「何通くらいでしたっけ」
「覚えてないな」
「俺たちが数えたでしょう。十通を超えたところまでは覚えてますよ」
「暇だったんだね、君たち」
「……そんなに?」
思わず聞き返すと、レオンハルトが肩をすくめた。
「社交辞令も入ってるよ」
「隊長、それで誤魔化すのは無理がありますって」
「そう?」
「結婚してないのが不思議なくらいなんだから」
「俺にも都合があるんだよ」
人気があること自体は否定しなかった。
侯爵家の嫡男で、いずれは侯爵となる。
第一部隊を率いるほど強く、戦場では部下から絶大な信頼を寄せられている。
容姿にも恵まれ、女性をエスコートすることにも慣れていた。
今日一日で、それ以外のこともわかった。
話していて気まずくならない。
周囲をよく見ていて、自分でも気づかなかった変化に気づいてくれる。
装具の件では少し強引だったが、贈り物として受け取れないと言えば、無理に押しつけることはしなかった。
結婚相手として考えるなら、本当に何が悪いのだろう。
そこまで考えて、アンナは心の中で首を振った。
悪いところがないことと、自分が結婚したいことは別の話だ。
「どう?」
「何がですか?」
「俺の評価、上がった?」
「自分で聞きます?」
「せっかく部下がこれだけ宣伝してくれたからね」
「宣伝したつもりはありませんよ」
隊員からすぐに否定され、アンナは思わず笑った。
夕食を終えて廊下を歩きながら、アンナは隣のレオンハルトを見上げる。
「隊長」
「何?」
「これ、いつまで続けるんですか?」
「これって?」
「婚約者候補です」
「ああ」
レオンハルトは少し考えるような顔をした。
「叔父上が納得するまでかな」
「それだけですか?」
「さあね」
「またそれですか」
本気なのか、コンラートを止めるためだけなのか。
結局、今日一日付き合ってもわからなかった。
「言っておきますけど、私は隊長と結婚するつもりはありませんからね」
「うん」
「……それだけですか?」
「嫌だって言ってる相手に無理強いしても仕方ないでしょう」
その言葉に、アンナは足を止めた。
「どうしたの?」
「……似てますね」
「何が?」
「エルネストとです」
「俺とあいつが?」
「はい。最初は全然似てないと思ってましたけど」
エルネストも、自分の考えははっきり口にする。
アンナが前線へ行くと決めたときには、行ってほしくないとも言われた。
それでも最後には、アンナ自身の選択を尊重してくれたのだ。
「自分の意見は言うけど、最後は私に決めさせてくれるところ。そういうところは同じです」
「……そう?」
「はい。やっぱり兄弟なんですね」
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「今日一日、婚約者候補として頑張った結果が、弟と似てる、か」
「駄目なんですか?」
「いや」
レオンハルトが再び歩き出す。
「思ったより手強いなと思って」
「何がですか?」
「こっちの話」
尋ねても、それ以上は教えてくれなかった。
昨日まで、レオンハルトとエルネストは顔こそ似ていても、まったく違う兄弟だと思っていたのに。
けれど、どうやらそうでもないらしい。
少なくとも今日、アンナは二人が確かに兄弟なのだと思えるところを、一つ見つけていた。




