11.戦場への派遣を要請されました。しかも隊長は元恋人の兄です
戦争が始まってから、王立学園の空気は大きく変わった。
授業そのものは以前と変わらず続けられているが、廊下を歩けば国境の話が聞こえてくる。
軍に所属する教師の一部は学園を離れ、魔術科では卒業を間近に控えた優秀な学生たちが前線へ派遣されたという話も耳にするようになった。
グランベル王国軍の攻撃を受けたヴァルガ要塞は、まだ持ちこたえているらしい。
しかし戦闘は今も続いており、新聞を開けば連日のように国境の記事が載っている。
そんな中、アンナは再びガイゼルに呼び出された。
「急に呼び出してすまないね」
「いえ」
前回と同じ応接室だったが、今日は記録係の軍人もおらず、ガイゼルと二人きりだった。
机の上には、一通の書類が置かれている。
「先日の結果について、軍でも検討させてもらった。結論から言うと、君にヴァルガ要塞へ来てもらえないかと考えている」
「……私が、ですか?」
卒業間近の優秀な学生たちが前線へ派遣されたという話は聞いていた。
けれど、アンナはまだ一年生だ。それも、魔術科へ転科して間もない。まさか自分にまで声がかかるとは思っていなかった。
「もちろん、正式な戦闘魔術師として配属するわけではない。君はまだ学生だし、実戦経験もない。ただ、今のヴァルガ要塞では一人でも多くの戦闘魔術師を必要としている」
ガイゼルはアンナの反応を確かめてから、説明を続けた。
「本来なら、転科したばかりの一年生を前線へ呼ぶことなど考えられない。だが、君の瞬間出力は、これまで確認された中でも例がないほど突出している。あれほどの威力を持つ魔術師を、今の状況で見過ごすことはできないという判断だ」
「……そんなに、ですか」
「ああ。もちろん、威力だけで戦えるわけではない。だからこそ、現地では精鋭第一部隊の指揮下に入り、経験のある戦闘魔術師と一緒に動いてもらうことになる」
「第一部隊……」
「ああ。隊長はレオンハルト・ヴァルデンだ」
「……ヴァルデン?」
思いがけない姓を耳にして、アンナは聞き返した。
「もしかして、エルネストのお兄さまですか?」
「エルネスト? ……ああ、団長の次男のことか」
「はい。お会いしたことはありませんけど、エルネストからお兄さんが戦闘魔術師だとは聞いています」
「なるほど。エルネスト君と知り合いだったのか」
ガイゼルは納得した様子で話を続ける。
「レオンハルト隊長は、第一部隊を率いる優秀な戦闘魔術師だ。現地では彼の指示に従ってもらうことになる」
まさかエルネストの兄と、こんな形で会うことになるとは思わなかった。
もっとも、今はそれよりも考えなければならないことがある。
ガイゼルは机の書類をアンナのほうへ向けた。
「ただし、先に言っておかなければならない。これは訓練ではない。前線へ行けば、相手も本気で君を殺そうとする。第一部隊と行動するからといって、安全を保証できるわけではない」
「……はい」
「君は軍人でもない。だから、これは命令ではなく要請だ。断っても構わないし、それで今後の評価が下がることもない」
アンナは書類に目を落とした。
ヴァルガ要塞。
そこでは今も、本当に人が戦っている。自分がそこへ行くことになるかもしれないなんて、まだ現実のこととは思えなかった。
「あの、すぐにお返事しなければいけませんか?」
「いや。明日まで待とう」
「ありがとうございます。家族とも話してから決めたいです」
「それがいい。よく考えて決めなさい」
「戦場へ行く!?」
夕食後、アンナから話を聞いたエレナの声が店の奥まで響いた。
「まだ行くって決めたわけじゃないよ。軍から、来てもらえないかって言われただけ」
「同じようなものでしょう。アンナ、あなたはまだ学生なのよ」
エレナの向かいでは、マルセルも難しい顔をしていた。
「断ることはできるんだな?」
「うん。命令じゃないから、断っても何も問題はないって」
「だったら──」
「エレナ」
言いかけた妻を、マルセルが静かに制した。
「だって、あなた。少し前にはあんな怖い目に遭ったばかりなのよ。魔術が使えるようになって、自分の身を守れるようになったのはよかったと思ってる。でも、だからって戦争に行ってほしいなんて思ってないわ」
「わかってるよ、お母さん」
「本当にわかってる? 怪我だけじゃ済まないかもしれないのよ」
「うん」
怖くないわけではない。
ガイゼルから話を聞いて以来、考えれば考えるほど怖くなっていた。
「私も、死にたくないよ」
そう答えると、エレナは泣きそうな顔になった。
「だったら行かなくていいじゃない」
「そうなんだけど……それだけで決めていいのか、わからないの」
少し前まで、アンナは自分に戦闘魔術の才能があることさえ知らなかった。
それが今では、軍から前線へ来てほしいと言われている。
「私、自分の魔術がどこまで使えるのか知りたい。もっと練習したいって思ってた。でも、学園で標的に魔術を撃つのと、本当に必要としてる人がいるのとでは違うでしょう?」
「だからって、あなたが行かなければならないわけじゃないわ」
「うん。それもわかってる」
母の言うことは、もっともだった。
アンナが行かなかったとしても、誰かに責められるわけではない。軍も断って構わないと言ってくれている。
それでも、何も考えずに断ってしまっていいのだろうか。
「だから、ちゃんと考えたいの。行くのも、行かないのも、誰かに言われたからじゃなくて、自分で決めたい」
エレナはなおも何か言おうとしたが、先にマルセルが口を開いた。
「俺も行ってほしくはない」
「お父さん……」
「できることなら王都にいてほしい。戦争が終わるまで、店で今までどおり働いていてくれたほうがいいに決まってる」
そこで一度言葉を切り、マルセルは娘に向き直った。
「だが、最後に決めるのはお前だ」
「あなた」
「俺たちが反対したから残るというのも違うだろう。行ったほうがいいとも、行かなくていいとも言わん。自分で考えて決めなさい」
アンナは父の言葉をしばらく噛みしめてから、頷いた。
「うん」
その夜は、なかなか眠れなかった。
死ぬのは怖い。怪我だってしたくないし、自分が帰ってこなかったときの両親のことを考えれば、このまま王都に残るほうがいいのかもしれない。
それでも、自分の中にある力を必要としている人がいると知ってしまった。
アンナは長い時間をかけて考え、翌朝、両親に自分の答えを伝えた。
「私、行ってくる」
エレナはすぐには何も言わず、娘の顔を見つめていた。
やがて、大きく息を吐く。
「……絶対に帰ってきなさい」
「うん」
「立派なことをしようなんて考えなくていいから。危なくなったら逃げるのよ」
「わかった」
「本当に?」
「本当」
何度も念を押す母に答えていると、マルセルが苦笑した。
「帰ってきたら、また店を手伝ってもらうからな」
「もちろん」
アンナは笑って頷いた。
「ヴァルガ要塞へ行きます」
アンナの返事を聞いたガイゼルは、その決意を確かめるように尋ねた。
「決めたんだね」
「はい」
「出発は三日後だ。必要なものはこちらでも用意するが、詳しいことは明日説明しよう」
「よろしくお願いします」
三日後。
そう聞いた途端、それまで遠くにあった戦場が急に近づいた気がした。
応接室を出たアンナは、その足で研究室へ向かった。
扉を叩くと、すぐに返事がある。
「はい」
「アンナです」
扉が開き、エルネストが顔を出した。
「アンナ」
「少し話してもいい?」
「もちろん。入って」
研究室へ入ると、いつも使っていた椅子には何も置かれていなかった。
前に来たときは資料が積まれていたのに、今日はすぐに座れるようになっている。
そのことが少し嬉しくて、アンナは勧められる前に椅子へ腰を下ろした。エルネストも向かいに座る。
「話って、前線のこと?」
「……知ってたの?」
「兄上から、派遣が検討されてるって聞いたんだ。でも、アンナがどうするかは知らない」
アンナは一度息を吸った。
「行くことにしたの」
エルネストはすぐには答えなかった。
「いつ?」
「三日後」
「そんなに早いんだ」
「うん。第一部隊と一緒に行くことになったの。隊長がお兄さんだって聞いた」
「兄上なら、戦場では頼りになるよ」
「戦場では?」
「普段は余計なことばかり言うから」
思いがけない返事に、アンナは笑ってしまった。
「そうなの?」
「会えばわかるよ」
エルネストもつられるように笑ったものの、すぐに真剣な顔に戻った。
「……怖くない?」
「怖いよ」
両親に話したときと同じ答えだった。
「死ぬかもしれないって考えたし、お父さんとお母さんにも反対された。私も、行かないほうがいいのかなって何度も考えた」
「だったら……」
エルネストは何か言いかけて、口を閉じた。
アンナは急かさず、彼が次の言葉を口にするのを待った。
「僕は、行ってほしくない」
「うん」
「危険なところになんて行ってほしくないし、王都にいてほしい」
胸が痛んだ。
エルネストがそう思ってくれていることは嬉しい。けれど、彼に行かないでほしいと言われると、自分の決意が揺らいでしまいそうだった。
「でも、アンナが考えて決めたことなら、僕がやめろとは言わない」
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。僕が勝手に行ってほしくないと思ってるだけだから」
「それでも、ありがとうって言いたかったの」
エルネストは少し困ったように笑った。
「絶対に大丈夫なんて、僕には言えないけど」
「うん」
「帰ってきて」
アンナは迷わず頷いた。
「帰ってくる」
「約束して」
「約束する」
それからしばらく、二人はヴァルガ要塞へ持っていくものや、第一部隊について話した。
エルネストは兄から聞いた話を教えてくれたし、アンナも準備について気になっていることを尋ねた。
そうして話しているうちに、少しずつ気持ちも落ち着いてくる。
「そろそろ帰るね。準備もしないと」
アンナが立ち上がると、エルネストも席を立った。
「何か必要なものがあったら言って。僕にできることなら手伝うから」
「ありがとう」
扉まで歩いたところで、アンナは振り返った。
「エルネスト」
「何?」
「帰ってきたら、またここに来てもいい?」
エルネストは少し驚いたようだったが、すぐに答えてくれた。
「もちろん」
「今度は、魔術の相談じゃなくても?」
「……そのほうが嬉しい」
その言葉が嬉しくて、アンナも笑った。
「じゃあ、そうする」
扉に手をかけようとして、やめた。
三日後には王都を離れる。無事に帰ってくるつもりだけれど、必ず帰れるとは誰にも言えない。
恋人だった頃なら、こんなときにどうしたいか迷わなかった。
今はもう別れている。
それでも、このまま何もせずに帰りたくなかった。
アンナはエルネストのそばへ戻ると、少し迷ってから彼の手に自分の手を重ねた。
「……これくらいなら、いいよね」
口にした途端、恥ずかしくなった。
それでも手を離さずにいると、エルネストがそっと握り返してくれる。
以前は何度もつないだ手だ。その温もりは今も変わらず、もう少しだけこうしていたい。
しばらくそのままでいてから、アンナは自分から指をほどいた。
「行ってくるね」
「うん」
「ちゃんと帰ってくるから」
「待ってる」
研究室を出たアンナは、廊下を歩きながら一度だけ右手を握った。
三日後、自分は王都を離れる。
この手に宿る力が、本当の戦場でどこまで通用するのか。
それを確かめる日が、もうすぐやってくる。




