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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
外伝集

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外伝2:第九話「老犬と、氷の盾」

二〇二五年、春。親不孝通りの喧騒から離れた路地裏にある雑居ビルの二階。

 ラルクの重厚な木製のカウンターの下では、白と茶色のぶち模様がすっかり淡くなった老シーズーの「なな」が、宮脇の足元で静かに丸くなっていた。

 十年前、天神の地下街で運命的に出会ったあの日から、ななは宮脇の唯一無二の家族だった。短い手足で舞鶴公園を散歩し、ラルクの開店準備に付き添い、深夜の帰宅を玄関で迎えてくれた。

 今や十歳を過ぎ、耳も少し遠くなり、寝ている時間が増えたけれど、そのトク、トク、と刻む心臓の鼓動は、宮脇にとって何よりも確かな「生活の錨」だった。

 深夜二時。

 カウベルが、どこか鋭く、冷たい音を立てて鳴った。

 

 入ってきたのは、仕立ての良いスーツに身を包み、銀縁の眼鏡をかけた一人の女性だった。

 その目は、世界中の不条理を一人で背負い、誰にも心を開かないと決意したかのように、凍りついていた。

 山田多江。当時、まだ独立する前の、組織の論理と数字の檻に閉じ込められていた頃の、弁護士だ。

「……まだ、やっているかしら。どこもかしこも、騒がしすぎて」

 ハスキーで、どこか刺々しい声。

 宮脇は、黒いシャツの袖を静かに捲り上げ、穏やかに微笑んだ。三十五年の歳月が、かつて十九歳で尖っていた宮脇の角を、琥珀色のウイスキーのように丸く、深く、豊かに熟成させていた。

「……いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ。……今夜は、冷えますね」

 多江は、カウンターの端の席に腰を下ろし、深く息を吐いた。

 彼女の視線が、ふと、カウンターの下へと落ちる。

 そこには、物音に気づいて顔を上げたななが、眠たげな黒い瞳で、律子をじっと見つめ返していた。

「……犬、ですか」

「ええ。名前は、なな。……うちの、一番偉いオーナーです」

 宮脇が冗談めかして言うと、ななは、ふん、と鼻を鳴らし、のそのそと律子の足元へと歩み寄った。そして、温かい毛並みを、多江の高級なパンプスに、ちょこんと押し付けた。

 多江の肩が、一瞬、びくりと跳ねた。

 けれど、ななの無垢な温もりが、足元からじわりと伝わってくるのを感じた瞬間、彼女の眼鏡の奥の氷のような瞳が、微かに揺らいだ。

「……可愛い、ですね。……無駄吠えも、しない」

「ええ。おっとりした性格なんです。……お疲れですね。お酒の前に、温かいスープはいかがですか? 当店自慢の、コンソメです」

 宮脇は、厨房に入り、三日間かけて引いた琥珀色のブイヨンを小鍋で温めた。

 

 ――パチ、パチ、と。

 コンロの燃える音が、静寂な店内に響く。

 灰汁を掬い取る宮脇の手つきは、一九九〇年から三十五年余り、一ミリの狂いもなく、正確だった。

 漆黒のマグカップに注がれた、透き通ったスープ。

 多江は、両手でカップを包み込み、一口、啜った。

 

 ――多江の目が、見開かれた。

 

「……美味しい。……どうして、こんなに、透き通っているのに、奥深い味がするの」

「時間をかけて、灰汁を掬い続けたからです。……法律の世界も、同じではないですか? 複雑な事象から、余計なものを削ぎ落として、真実の一滴を導き出す。……でも、削ぎ落としすぎると、心まで冷えてしまう。……だから、温かいスープが必要なんです」

 宮脇の言葉に、律子はしばらく言葉を失い、スープを見つめていた。

 やがて、彼女の瞳から、一滴の涙が、静かに琥珀色の液体へと落ちた。

 数字の計算、勝訴判決への重圧、孤独な戦い。そのすべてが、ななの温もりと、宮脇のスープによって、ゆっくりと溶かされていく。

「……私、疲れていたのかもしれない。……誰も、信じられなくて」

「ここにいる間は、信じる必要も、疑う必要もありませんよ。……ただ、ななを撫でて、スープを啜って。……ここは、あなたが本当の自分でいられる『止まり木』ですから」

 足元では、ななが、くぅ、と喉を鳴らして眠りについている。

 カウンターの上では、温かいスープの湯気が揺れている。

 


 

 宮脇は、手帳の「ラルク」のページに、そっと書き加えた。

 『第9段階:多江。……氷の盾を持つ者こそ、最も温かいスープを必要としている。……ななが、新しい家族を導いてくれた。』

 天神の夜空には、孤独な夜をそっと包み込むような、優しい月が昇っていた。

 宮脇の「止まり木」としての人生が、今、次の世代の「救済」へと、静かに手を伸ばし始めていた。

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