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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
外伝集

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外伝2:第八話「名前のない家族」

二〇一五年、冬。福岡の街には、パートナーシップ制度の議論や、新しい時代の足音が微かに響き始めていた。

 四十代半ばを迎えた宮脇は、ラルクの仕込みのための買い出しの帰り道、天神の地下街を歩いていた。両手には、新鮮な鶏ガラや香味野菜の入った重いエコバッグ。

 ふと、ガラス張りの向こう側と目が合った。

 ペットショップのケージの隅っこで、短い手足を投げ出し、所在なさげに座り込んでいる一匹のシーズーの子犬。白と茶色のぶち模様、垂れた耳、そして、どこか達観したような、眠たげな黒い瞳。

 宮脇は、足を止めた。

 バブルの狂騒、西新への移転、そして親不孝通りへの凱旋。二十代から四十代まで、彼女は「バーテンダー・宮脇」として、他人の孤独を受け止める器であり続けた。自分のプライベートな時間は、ただ泥のように眠り、次の夜に備えるだけの、無機質な空白だった。

「……可愛いでしょう。シーズーの女の子です。おっとりした性格で、無駄吠えもしないんですよ」

 店員に声をかけられ、宮脇は我に返った。

 いつもなら、愛想笑いを浮かべて立ち去るところだった。だが、その日は違った。ケージの中の子犬が、小さなあくびをして、宮脇をじっと見つめ返してきたのだ。その瞳が、かつてラルクの扉を叩いた、孤独な女性たちの目に重なって見えた。

「……この子を、抱っこさせてもらえますか」

 壊れ物を扱うように、両手で小さな命を受け取る。

 温かい。トク、トク、と、小さな心臓の鼓動が、宮脇の掌にダイレクトに伝わってくる。

 その瞬間、宮脇の胸の奥底に澱のように沈んでいた、張り詰めた緊張の糸が、ふつりと切れた。

「……うちへ、来る?」

 呟きは、ほとんど無意識だった。

 

 その夜。親不孝通りのラルクの仕込みを終えた宮脇は、いつもより少し足早に、自宅のマンションへと帰宅した。

 リビングのサークルの中で、新しい毛布に包まっている小さなシーズー。

 宮脇は、黒いシャツのボタンを少し緩め、床に直接座り込んだ。

「……今日から、ここがあなたの家よ。……名前、どうしようかしらね」

 宮脇は、ウイスキーのグラスを傾けながら、しばらく考えた。

 ラルク(L'Arc)はフランス語で「虹」。虹は、七つの色から成る。

 天神、西新、そして再び天神。孤独な女性たちが集い、それぞれの「色」を輝かせる場所。

「……『なな』。……あなたの名前は、ななよ。……ラルクの、七番目の色になってね」

 ななは、自分の名前を理解したかのように、ふん、と鼻を鳴らし、宮脇の膝の上に、短い顎をちょこんと乗せた。

 

 翌日から、宮脇の生活は一変した。

 朝、ななの短い足の歩幅に合わせて、舞鶴公園を散歩する。

 夕方、仕込みの時間まで、ななの毛並みをブラッシングする。

 ラルクのカウンターに立つ宮脇の佇まいは、これまで以上に、柔らかく、包容力に満ちたものへと変化していった。

「宮脇さん、なんだか最近、雰囲気が優しくなったわね。……あ、もしかして、素敵なパートナーでもできた?」

 馴染みの客が、からかうように言った。

 宮脇は、微笑みながら、琥珀色のコンソメスープを差し出した。

「……ええ。……最高に可愛くて、おっとりした、白い毛並みの女の子よ。……名前は、なな」

 その言葉に、店内の女性たちが沸き立った。

 写真を見せろ、今度店に連れてきてくれ、犬の服をプレゼントする――。

 ななという存在は、宮脇個人の癒しであると同時に、ラルクのコミュニティにとっての、新しい「家族の象徴」となっていった。

 宮脇が、一匹のシーズーの温もりに触れたその夜。

 「与える側」だった彼女が、初めて「受け取る側」の喜びを知った、人生の大きな転換点だった。

 宮脇は、手帳の「ラルク」のページに、そっと書き加えた。

 『第8段階:なな。……命の温もりは、言葉を超えて、心を解きほぐす。……バーテンダーもまた、一羽の鳥として、羽を休める止まり木が必要である。』

 天神の夜空には、ななの黒い瞳のように、優しく、穏やかな星が輝いていた。

 宮脇の「止まり木」としての人生に、今、小さな四本の足跡が、温かく刻まれ始めた。

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