外伝2:第七話「震災、あるいは灯り続ける場所」
二〇一一年、三月。日本中が、未曾有の震災の痛みに喘いでいた。
被災地から遠く離れた福岡・天神の街もまた、連日の報道による重苦しい空気と、過剰な自粛ムードに包まれていた。親不孝通りのネオンは消え、夜の街は、まるでゴーストタウンのように暗く沈んでいた。
「……宮脇さん、今日も店を開けるの? 街のバーは、どこもシャッターを下ろしているわよ」
夕方、仕込みのために店に入った宮脇に、同じビルの老バーテンダー・黒田が声をかけた。かつて宮脇のコンソメスープに兜を脱いだ黒田の顔にも、深い疲労と、言葉にできない不安が張り付いていた。
四十代に差し掛かった宮脇は、黒いシャツの袖を静かに捲り上げ、微笑んだ。
「……ええ。こんな時だからこそ、灯りを消してはいけないのよ、黒田さん。……不安な夜に、一人で暗闇を見つめている人たちがいる。その人たちのための、止まり木を失くしてはいけないわ」
「ふん。……お前らしいな。……だが、無理はするなよ」
黒田は、宮脇の背中を、かつてのトゲを完全に無くした目で見守り、自分の店へと戻っていった。
宮脇は、厨房に入り、コンロの青い炎に火を点けた。
寸胴鍋に張られた水。そこに、鶏ガラと、福岡の地元の市場で仕入れた新鮮な冬野菜を投げ込む。
――パチ、パチ、と。
暗い厨房に、ガスコンロの燃える音が響く。
灰汁を掬い取る宮脇の手つきは、どんな社会の揺らぎの中にあっても、一ミリの狂いもなく、正確だった。
夜八時。
親不孝通りの外れにある雑居ビルの二階。
看板のネオンは消している。けれど、扉の向こうからは、温かな琥珀色の光が、廊下のコンクリートへと漏れ出していた。
カウベルが、静かに鳴った。
入ってきたのは、西新の時代からの馴染みの客たちや、最近ラルクに通うようになった若い女性のカップルたちだった。彼女たちの顔は、一様に青ざめ、目には見えない恐怖と、孤独への渇きが浮かんでいた。
「……宮脇さん。開いてて、よかった。……家で一人でテレビを見ていたら、息ができなくなっちゃって……」
「いらっしゃい。……ここは、安全よ。……まずは、温かいスープを啜って。……世界がどんなに揺れても、このスープの味は、絶対に変わらないから」
宮脇は、漆黒のマグカップに、三日間かけて引いた黄金色のコンソメスープを注ぎ、彼女たちの前に置いた。
一口、スープを啜る。
温かい液体が、強張った喉を通り、冷え切った胃の腑を温めていく。
その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れ、カウンターのあちこちから、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「……おいしい。……宮脇さん、私たち、怖かったの。……もし、このまま世界が終わっちゃったら、私たちは、家族じゃないから、病院にも行けないし、一緒にいられないんじゃないかって……」
当時はまだ、同性カップルの権利など、法的には何も保障されていなかった。有事の際、自分たちの「絆」は、社会のシステムによって、一瞬で引き裂かれてしまう。その恐怖が、彼女たちを押し潰そうとしていたのだ。
宮脇は、カウンターに並ぶ、涙を流す女性たちの手を、自分の温かい掌で、一人ひとり、包み込んでいった。
「……大丈夫よ。……法律が何と言おうと、社会がどう揺れようと、あなたたちがここで結んだ『絆』は、誰にも奪えないわ。……もし、行く場所がなくなったら、いつでもここへいらっしゃい。……私が、この灯りを消さずに、あなたたちを待っているから」
宮脇の言葉は、法律の条文よりも、どんな政治家の演説よりも、彼女たちの心を深く、静かに救い上げていった。
深夜。
ラルクの店内は、キャンドルの小さな炎と、ジャズのレコードの音に包まれていた。
女性たちは、肩を寄せ合い、静かにグラスを傾け、スープを啜っている。
宮脇の灯し続けた「琥珀色の灯り」は、孤独な女性たちの、最後の「精神的な砦」として、中洲・天神の夜を照らし続けていた。
宮脇は、手帳の「親不孝通り・ラルク」のページに、そっと書き加えた。
『第7段階:震災。……世界が揺れる時こそ、変わらない味と、灯りが必要である。……バーテンダーとは、夜の街の、灯台守である。』
親不孝通りの夜空には、街のネオンが消えたことで、皮肉にも、満天の星が、美しく輝いていた。
宮脇の「止まり木」としての人生が、今、孤独な魂たちの「灯台」として、より高く、より確かな光を放ち始めた。




